151~170

レッスン170-神に残酷さはなく、私にもない。

2018-01-12

ワークとダイアリーブログの意味

新年のワークは元旦のレッスン169からスタートした。実家でのワークだったので、瞑想中母から声をかけられ、イラッとしてしまったことをダイアリーに書いた。

途切れつつも去年一年になんとか90個やったワーク。

ワークをしてダイアリーを書くことは、だれに向けたものでもなく中途半端なことをしていると自分でも思うけれど、私にとっては旅の小さな塚のようなもの、あるいはスタンプラリーのハンコみたいなものだし、ACIMと私を繋ぐものとして、役にたっているんじゃないかなと思う。

ワークの内容を復習することにもなるから。

レッスン170-神に残酷さはなく、私にもない。

レッスン170は実家で原文の読解をして、3日からワークしたもの。その後、東京に戻って気が抜けて呆けていたが、また9日から再開した。

「正当防衛で攻撃していると考えるとき、あなたは残酷になることが保護であり、残酷さのおかげで自分は安全だと思っているのである。それは、他者を傷つけることが自分に自由をもたらすと信じる、と言っているのである。(L170-1-3)」

「恐れから身を守ることと攻撃することが同じだという考え方は、徹頭徹尾、狂っている!そこでは恐れが生み出され、血をすすりながら大きく育ち、膨れ上がって猛威を振るうようになる。(L170-2-1)」

恐れと攻撃、残酷さについて書かれたレッスン170の冒頭を読んで、真っ先に、北朝鮮の最高指導者、金正恩氏が浮かんできた。

アメリカに攻撃されてしまう前に、何とか「正当防衛力」をつけようと去年ミサイル発射と核兵器の実験を繰り返している、その人。兄・金正男氏が暗殺されたのが遠いことのようだけど去年2月のこと。やはり関与があったのか。

その心は、恐怖と疑心暗鬼でいっぱいなのだろうと想像できる。

恐怖を前提とすると、周りがみんな敵に見える。そうして攻撃してくるように見えるから、防衛する。その防衛が過剰になると「やられる前にやってしまえ」が正しく見えてくる。

だれの心の中にも、「小さな金正恩」がいる。

空想上の正当防衛が展開されるための前提

レッスン170では私たちの「空想上の正当防衛が展開されるための前提」として、次のような考えが挙げられている。

1つは、「想念はその源を離れる」という誤った前提だ。

神は攻撃しない。正当防衛と名付けつつ攻撃を正当化したこの考えは、「想念はその源を離れない、ゆえに私たちは今も神とともにある」とするACIMとまったく異なっている。

2つめは、私たちは「愛ではなく、恐れに向かって慰めを求めているのだ」ということ。そして逆に愛が敵となる。そして愛が敵となる一方で、恐れから来る残酷さが自分の拠りどころ、神となる。

レッスン170では、私たちが崇めてしまっている残酷さを手放す訓練をする。近年は昔より「やられる方がバカなんだ、やられるよりやってしまえ、残酷が勝つ」といった風潮が強くなってきている気がしているが、それは私だけだろうか。

北朝鮮の最高指導者ほどではなくでも、私たちには恐怖と防衛心がある。だから、残酷さも防衛も捨てることは、荒野にひとり丸裸で取り残されるかのような、怖さがある。

レッスン170は、怖さの本質についても記述されている。

「恐ろしくて乗り越えることなどできないかに見えるその妨げとは、神ご自身に対する恐れである。」

私たちは残酷さを崇めており、神にその属性を被せて、恐れの象徴として神を見ている。これが私たちの無意識に在って私たちを支配する「ボスキャラ」なのだ。

心の奥底の神への恐れはすさまじく、レッスン170のような、自分の残酷さを捨てて代わりに愛を見るワークは、数回やったくらいでは全然効かないんじゃないかと思う。

イライラ…因果は逆

実家でワークをしている時は、ひとりになれる安全なワーク空間が守られないとイライラしていたけれど、ワークをしていて、イライラする状況は、私が「怒りたい」「溜まった攻撃エネルギーを発散させたい」がために、その状況を創り出しているのだと気づいた。因果は逆なのだ。

今はいらいらしたり、腹立たしく思った時は、これを思い出して、なるたけ早く手放すようにしようと思っている。

レッスン169-恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。

2018-01-10

恩寵とは

昨年末12月27日に英語と日本語版でレッスン169の本文を読み終え、帰省後の29日~31日にかけてワークをした。

本文が長かったのと、「恩寵」という言葉にいまいち馴染みがなく恩寵とはどういうものかが引っかかり、難しく感じた。

「恩寵」は原文ではgrace。辞書では、恩寵、神の愛、恩恵とある。

大畑学さんの『A Course in Miracles Workbook精読』では、「神の恵み」と訳され、主題概念は「私は神の恵みによって生きる。私は神の恵みによって解放される」となっている。こちらの方が言葉としては易しい。

レッスン169本文では冒頭「恩寵(grace)とは、神の愛の一側面であり、真理の単一性の中に充溢している状態に似ている。」と説明があり、続いて「それは完全にこの世を超えたところまで導くものなので、恩寵を目指すことは世界で最も崇高な志である。」と加えられている。

それからずっと恩寵の説明が続くけれど、わかったような、わからないような…。いややっぱり、わからない…。

読みすすめるにつれ、禅問答ってこんな感じかな?という気分になってくる。

第2パラグラフには、「恩寵とは、憎しみと恐れに満たされているかに見えるこの世の中で、神の愛を受け入れることである。」とある。恩寵とは「神の愛を受け入れること」、そうすれば「もはや恐れの世界の実在性を信じることはできない。」(L169-2-2)

「恩寵とは学べるものではない。(L169-3-1)」とも書かれているが、学んだ結果の最終段階を超えた、その結果として気づいたり感じとれたりりするものなのかもしれない。

「神、在り」そして、この世はない

ACIMの学びは最終的には「神、在り」という一点に行きつく。「そして、神の実存のうちに、神はあらゆるものを包含する。心の中には神以外に何もない。私たちは『神、在り』とだけ言って、その後は口をつむぐ。(L169-5-1)」

この「神、在り(それ以外には何もない)」、概念としては受け入れているけれど、実感としてはわからない。恩寵とはこれが実感として感じられるようになることだろうか。

「世界は一度も存在したことはなかった。永遠が、恒常の状態であり続ける。(L170-6-6)」

「私たちは以前から何度も繰り返してきたが、あなたはすでに終わっている旅をしているにすぎない。(L170-8-3)」

今の私にはわからなくても、旅はすでに終わっている。神という恒常だけがある。私たちは、すでに撮影済みの映像をくりかえしくりかえし見ているにすぎない。それが実感としてわかる時がある。

そのために今は、(わからずとも)自分に割り当てられている配役を果たすだけ。そう言われているようだ。

「だから、あなたには自分の役割を果たすために為すべきことがあるということだけで、充分としよう。(L170-11-1)」とある。

恩寵を感じられるようになるためには、これまたくりかえされていることだけれど、聖霊の導きにしたがって、赦しを実践すること。ここに行きつくようだ。

恩寵―私の考え

ワークブックの文章は抽象的で、読んでいるうちに意識が上滑りしていて、腑落ち感もイマイチない。

ワークをして、恩寵とはわかりやすくいうと、感謝なんだ、と思った。

神の恩寵、恵みが感じられるようになった状態はおそらく感謝に溢れた状態ではないだろうか。この世の醜いところ、残酷さ、怖れ、罪深さ…といったものが意識から離れ、ただただありがたい、そういう状態が恩寵を受けた状態ではないだろうか。

感謝ということばは、どこかしら下から上へ、施された者から施した者へと向かう印象があるが、そうではない。上下なくすべてに在るものであり、この世で表れうる最高のものではないだろうか。

言葉の「ありがとう」だけじゃなくて、心から感謝を感じること。感謝を感じられることが恩寵なんじゃないかな、と思う。

私は元々愚痴っぽくて、感謝が足りない。今は「ありがとう」と口にするよう意識しているけれど、心から言っているかといえば、そうじゃないことも多い。

今年は感謝できる能力をアップしたい。

レッスン168-あなたの恩寵が私に与えられています。私は今、それを自分のものとします。

2017-12-29

冬の北陸に帰省

今年はいつもの年より早く27日の夜に帰省した。着いた日の夜は吹雪いていて、街頭に照らされたところだけ降りしきる雪が光ってみえた。しんしんと静かにずっと雪が降り続いていた。雪を踏みながら歩く感触で子どもの頃を思い出した。

11月に上京した際、杖をついてやっと歩いてきた母。その後どうかと気になっていたけれど、MRIの結果、疑いがあった脊柱管狭窄症ではないとのこと。今は家の中は杖も必要なくしゃかしゃかと歩いていて、前のような強い痛みは引いたらしくほっとした。

ただ今年はとくに雪が多くて外を歩くのは大儀そう。生協に加入して日常の食品調達には困りはしないみたいだけれど、自分の気持ちと体にギャップがあってそれにいらいらしてしまうみたいだった。

私は翌朝久しぶりに家の前の雪かきをして、「ああ、自分は元々雪国の子だったんだ」と改めて思い出した。東京の冬は晴天つづきで明るい。けど、私は山の向こうの雪国に根っこがあった。忘れていても心の芯は変わらないのかもしれない。

冬の北陸で母と二人でいると、そのリアリティがすごくて、『奇跡講座』の世界は遠のいてしまう。『奇跡講座』だけじゃなくて、東京生活や東京の自分もぼんやりしてくる。

ただ母の要請やニーズを聞いて、それを実行するだけ。そのために来たのだから。

今日は、母が近所の接骨院に行っている間にACIMワークをしたが、途中3度も電話がかかってその都度中断した。社交的な母には電話をかけてくれる人がたくさんいて、そのことだけでも安心できた。

レッスン168-あなたの恩寵が私に与えられています。私は今、それを自分のものとします。

レッスン168は、帰省の前一週間くらいやった(ちゃんとはできていないかもしれない)。

いつもメモをしているノートも、切り替わり時期で新しいノートを持ってきたから、何をメモしたかわからない(どうせたいしたことは書いてない)。

「神はわが子を愛している。この世界が消えてなくなるための手段を与えてほしいと、今、神に頼みなさい(L168-4-2)」とあるけれど、この故郷の家の世界はやっぱりリアルで、私は母から朝からずっと近所の知らない人の噂話や、その人のこれまでの人生を聞いたりしている。

この世をリアルに感じるというより、母の存在が圧倒的にリアルだ。それはACIMがちゃんと身についてないということなんだろう。けれど、それがダメだとかイヤだと感じているのではない。

ここにいる間、なるたけ感情的にはならず、できるだけ母にやさしくしたいと思う。あえて言うと「ビジネスライク」にそう思う。

神さまと自分との関係は、この世では親との関係が近いかもしれない。

その親との関係が昔より私の心の中でよくなっていることが、うれしい。

だから本来のACIMの学びとはずれているかもしれないけれど、今私に授けられている「恩寵」は、「母との水入らずの時間」であり、それを「今、自分のものとしている」のだと思う。

それがとてもありがたい。

自分の親にだけ固着するのはまちがっていると思う。

だけどやっぱりお母さんには幸せでいてほしいし、「よかった」「うれしい」「おいしい」「あしがとう」と言ってほしい。

これもまた(いくらリアルに見えても)幻影だと知りながらも、そのつかの間のときを愛おしみたいと思っている。

レッスン167-一なる生命があり、それを私は神と共有している。

2017-12-20

レッスン167-一なる生命があり、それを私は神と共有している。

このレッスンは、生命いのちについて述べられていることから、改めて「死」についても言及されている。

この世では生命があることの対極は死だが、実相では、

生命…神が創造したすべてのものが共有する一なる状態。いのち

で、その対極はない。だから、死もない。

私たちが死を通常肉体に関することだと思っているのに対し、ここでは死は「一つの概念」であり、心の中にあるものだという。

そして死には、「至高の幸福」以外のすべての感情が含まれる。すなわち、悲しみ、損失、不安、苦しみや痛み、不快感…。これらすべてが「死」という概念を根っこに持つのだという。

また死の概念を感じられることは、神との分離を真実としているからだという。

神と一体であれば、死という概念はリアリティがないはずなのだ。

「死が生命いのちから生じることはありえない。」(L167-5-1)

心が眠っているだけ、だから目覚めよ

そして、私たちにとって死がリアルなのは、たんに「心が眠っているから」だと説明されている。

「心は自分が眠っていると考えることができるが、それだけである。心は自分が目覚めている時の状態を変化させることはできない。」(L167-6-1,2)

ワークブックを通した根幹の考え「想念はその源を離れない。(L167-3-6)」が、ここでも強調されている。

心が眠っているから、寝とぼけた想念が出て私たちをかき乱しているだけ。心が目覚めさえすれば、想念は真っ当になり、至高の幸福だけがある。

だから、目覚めよ。

「時間という夢(L167-9-3)」から覚めよ。

…というのが、このレッスンのテーマだ。

やっぱりいつもと同じ、「神との分離」の幻想をあっちからこっちからとりなし、それは起ってはいないのだから、夢から覚めよ、と私たちを揺さぶっている。

こういうことは一度聞いたからといって、あたかも怖くてトラウマになっているかのような恐怖心を取り去ることはできない。だから、くりかえしくりかえし言い含めて再教育していくしかないんだろう。

何かの理由で水が怖くなってしまった人が、パシャと顔に水をつけるところからその恐怖心を克服するように、また何かの事情で高い所が怖くなってしまった人が大丈夫と思える安全な場所から少しずつ挑戦してまちがった条件付けを取り払うように、神との分離というすさまじい恐怖も、その恐怖感が出てきたたびに、「そうではない、思いこみにすぎない、それはリアルではない」と言い聞かせて恐怖の薄皮を一枚ずつ剥いでいくしかない。

それがゆっくりでも早道なんだろうと思う。

「死に対する恐怖」が少し減った気がする

9月にワークの流れとして、追加的にやっていることとして「自分の中の絶対に死なない部分」を感じ、その性質を感じるということをやっていると書いた(2017年9月7日)。

そして、そういうことをやっているのは、人以上に死(肉体の死)を怖れているからだとも書いた(2017年11月29日)。

最近前よりは死というものが怖くなくなった気がする。私は体であるという執着が薄くなり、そもそも私は霊的な時を超えた存在であるように、徐々にだけれど感じられるようになっている。

それも、肉体に新たな不具合が発見されたら、まったくそうは思えなくなってしまうのかもしれないけれど。でも、前よりは怖くなくなった。

そして、心の磁石の真北をいつも「感謝と豊かさと喜び」の方に向けていられたら、ちゃんと行くべきところに導かれるのではないか、とも思った。

まあ、言うは易く行うは難し…なんだけど(^_^;)

目に見えない恐怖を自分で培養してでかくしてそれにがんじがらめになっていた以前の自分。それよりは、言うだけ、思っているだけ…でもよしとしよう。

レッスン166-私には、神の贈り物がゆだねられている。

2017-12-13

日本海側は大雪警報、本格的な冬がきた

今日も東京は快晴だけれど、母が暮らす日本海側は大雪や猛吹雪に警戒だということで、朝母に電話してみたけど、まださほどではないらしい。これから本格的な冬が始まる。

日本列島は縦に長いし山脈も多いし海岸も多いから、同じ季節の日本といってもその気候はまったくちがうなあ、と今さらだけれど思う。もっと日本の地理のこと、地理だけじゃなくて観光や産業など知ってもいいかもしれない。半世紀以上生きてきて基本的なことを知らないことを、よく感じる。

教養というまでもいかないことだけれど、中学生くらいのレベルの知識がちゃんとあったら、もっとわかって楽しいことや感じることがたくさんあるんじゃないか、と思う。

それでも「この世は幻想」というACIMの教えで、途中からどうでもよくなってしまうのだけど。それでも、せっかくこの世に生きているのだから、この世のことももっといろいろ知りたいと思う、最近。

レッスン166-私には、神の贈り物がゆだねられている。

レッスン166本文の概要―

私たちにはすべてのものが与えられている。

だけど、私たちの意志が神とひとつでなければ、そのギフトは受け取られない。

私たちはこの世が神の意志によって創造されたものだと思っているが、この世は神の意志は無関係で、実は存在すらしていない。

ただ、神とは無関係な偽りの信念によって作りだして、幻想を見ているにすぎないが、幻想を見るものはその幻想を守ることに必死で、神のギフトを受け取ることは、自分自身への裏切りを強いられることだと信じる。

そして、私たちが恐怖におびえているのは、まさにこの幻想の世にしがみついているから。それを手放して神からのギフトに気づいて自分のものとしさえすれば、すべての悩み、悲しみ、苦しみが終わるというのに。

上記のようなことは、ACIMワークブックの中で、手を変え品を変え、何度も何度も説明されている。

レッスン166中の「(この世を実在すると思う者が)さまよい続け、彼の周りのどこにでも見える虚しさを意識しつつ、あてどもなく歩み続けながら、自分のわずかばかりの取り分が減っていくのを知覚している。」という表現は、人生の後半に入った者の多くが感じているだろう心境をうまく表現していると思う。

私たちは、神のギフトが与えられており私たちを導く聖霊(ホーリースピリット)が耳元でその開き方を教えてくれているのに、「今、映画を見ている最中だから。」と耳を貸さないでいる。もちろんそれはホラー映画だ。

「彼は自分で選んだ道を進んでいるのであり、自由になりたければただ、誰が自分とともに歩んでいるかを認識し、自分の宝庫を開きさえすればよいのである。(L166-6-3)」

それを認めるのは、気づいた今だ。「惨めな自分こそ自分だと思ってきたが、それは自分の真のアイデンティティーではないのかもしれないとすら思えてくる。(L166-9-3)」

神からのギフトを次の誰かにつなげる役割

そして、後半にはこんな文章がある。

「あなたがどんなに恐れを抱こうとも、ただ一言「そうではない」と慈悲深く、やさしく答える存在が、あなたとともに歩いている。(L166-11-3)」

この文がレッスン166の中で最も私に響いた。

さらにレッスン166は、自分一人が神からのギフトに気づいてそれを受け入れるだけではなく、次にそれを他の誰かにつなげる役割を担うべきことが書かれている。

「しかしその存在は、さらにもう一つ、あなたが忘れていたことを思い出させる。(L166-12-1)」

「彼がやってきてあなたに差し出したものを、今度はあなたが与えることを学ばなければならない。これこそ彼が与えることを通して教えている学びである。(L166-12-3)」

次の誰かに与えてこそ、本当に受け取ることになる。

ハッピーでいることと感謝

そして、これを実践するには、受け取った者はハッピーでいること。

「もしあなたが病気であれば、あなたが彼らに癒しを与えずにおくことになる。あなたが何かを恐れるなら、それが彼かに自分たちの恐れは当然だと教えることになる。(L166-14-3,4)」

つい、復習もかねて、自分が響いたところを書きだすかたちになってしまった。

自分も身近な家族や友人も含め、この世は「問題」に溢れている。年齢のせいか、とくに「健康問題」が多い。

昨日「近くまで来たから会わない?」と電話があり夕ご飯をご一緒した年上の友人は、不整脈の治療でカテーテルアブレーションという手術を三度して、もう大丈夫と気持ちが前向きになった矢先の先月末に、また症状が出て救急車を呼んだという話だった。

同じひとり暮らし。しかも私より10こ上。不安な気持ちが伝わってきた。

でも、ACIMの教えは不安をやり過ごし(その幻想性を見てリアルにせずなるべく流すこと)、常にハッピーでいること、を教えている。

むずかしいことはできないけれど、シンプルに常にハッピーでいることは心がけられる。

いや、実はこれが一番むずかしいのだけれど…、

常にハッピーでいることを心がけよう。

ワークをして感じたこと(聖霊さんのメッセージ?)は、「感謝、感謝、感謝!」だった。

感謝を表すことと、感謝のきもちを受け取ること。これもまたこれまでの人生で苦手なことだけど、覚えている間は心がけようと思う。

 

レッスン165-私の心が、神の想念を拒否しませんように。

2017-12-11

東京のそらと故郷のそら

とてもよい冬晴れだ。寒いけど澄んだ青空がさわやかで気持ちがいい。

私が育った北陸は日本海側だから、冬は雪や雨が多い。また降らない時でも晴天というのはめったにない。いつも冬はどんよりした空だった。

帰省の列車ではいつも川端康成の『雪国』そのまんま、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」。トンネルの入り口と出口での、青空から銀世界への変化をすごく不思議に思ったものだ。

最初に東京の冬晴れに驚いたのは、18歳で父と東京に大学受験に来た時だった、と空を見てふと思い出す。その父も今はもういない。

あれからずいぶん遠くに来たんだな。窓から青空を見上げ、一瞬感慨にふける。

けど、生きているかぎり変化はある。

歳を重ねるにつれ平穏になるとわけではなく、変化は常にあって、年齢が上にいけばいくほど、ところてんのように押し出されていくから、世の中が馴染みのない新しいものになるのだと、最近知った。

レッスン165-私の心が、神の想念を拒否しませんように。

レッスン165は、「この世が実在するように見えているとすれば、それには、あなた自身が世界を超えたところにある真理を否定しているということ以外にそんな理由があるだろうか。(L165-1-1)」で始まる。

今、私には、かなりリアルに見えている。

田舎でひとり暮らしをする高齢の母が歩行困難になっていたのは脊柱狭窄症になっていたからだと知ったことや、理事長を務めるマンションの大型修繕工事とそれに伴う借入のこと、自分が月々の生活費をちゃんと稼げておらず預金から引き下ろして生活していること、これからどうやって稼いでいったらいいか見当もついていないこと…

どれもかなりリアルに見えている。

自分のことだけではなく、すもうで貴乃花部屋の貴ノ岩関が横綱・日馬富士に暴行された一連の騒動や、富岡八幡宮の宮司の富岡長子さんが弟に殺害された事件、さらにトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と正式に認め、大使館を当地に移転させるとして国際問題になっていることなど最近のニュースも、けっこうリアルに見えている。

レッスン165によれば、この世が実在するように見えている⇒ということは、すなわち、私が神の想念を拒否しているから、ということになる。

自分の意志で拒否しているから、本当は命の源であり自分とひとつてある、神の想念を感じることができず、神のヴィジョンが見えない。

ACIMを学ぶ一方で、強いエゴへの執着

細々とだけれどワークを続けてきて、「この世はリアルではない」「私たちは自分の想念をスクリーンに映し出して、4D映画をはるかに超えた完璧なバーチャルリアリティの世界を体験しているだけ」と、頭ではわかっているつもりだけど、その世界に何かしらのイベントが起こった時には、いつしかそれが幻想だということを忘れて、すっかり巻き込まれてしまっている。

神の想念をエゴのそれと取り換えたい。

だけど、神を頼り切るのは怖いと思う。

そして、自分が自分だと思ってきたもの(=エゴ)を手放すのも、怖いんだと思う。

ACIMの考えには惹かれる。そしてワークもやる。

でも、それはエゴが許可した柵のなかでだけ…というのが、今の私の状態なのかもしれない。ある一定のところまでワークが進むと、聖霊からのアドバイスを求めつつも、「それを聴きたくない」「聴いてしまって何かを変えなければならなくなるのがいやだ」と思っている自分がいる。と気づく。

これじゃあ、だめだよな~

エゴが傷つかない範囲で、ワークの上っ面をなでているだけだ、たぶん。

それでも、玉ねぎの皮をむくように、少しずつでも、エゴが小さくなっていっていたらいいけど。

レッスン165は次の言葉で締めくくられている。

「確信を得るためには、私たちは自分に頼らず、神を頼りにする。そして神の名において、私たちは神の言葉が指示する通りに練習をする。神の確かさは、私たちのあらゆる疑いを超えている。神の愛は、私たちのあらゆる恐れを超えたところにあり続ける。神の想念は、今もすべての夢を超えて、神の意志の通りに私たちの心の中にある。」

私は、ACIMの素晴らしさに惹かれた一方、エゴへの執着も人一倍強い。だから学習に時間がかかるのだと思う。

ゆっくりでいいから、離れず続けよう。

レッスン164-私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

2017-12-08

お赤飯ときんぴら

昨日、マンションの理事会と修繕委員会(大型修繕工事のための会)があり、いろいろと紛糾したいへんだった。

…がそれとは別に、ちょっとしたサプライズが…!

それは役員でもある私の階下に住むおばあちゃまが、手づくりの赤飯ときんぴらごぼうを下さったこと。

理事会でもまったく発言することなく、私とも、10数年前引っ越してきてからほとんど話したことがない。一昨年、私のユニットバス下の配管からの水漏れで大迷惑をかけたし、目が合うと逸らされるからてっきり嫌われているのだろうと思っていた。

だから、理事会終了後に「赤飯炊いたから、あげる」と、パックが入った袋を差し出された時は、びっくり。

え、私に?

嫌われてたわけじゃ、なかったんだ…

そして、そのお赤飯はほのかに塩味が効いてとってもおいしかった。

冷蔵庫には、先日他の年上の友人にいただいた栗ご飯ときんぴらがまだ、ある。そして、お赤飯と新たなきんぴら…と、手づくりがいっぱい。

なんだか、寒夜にまた、ほっこりした。Thanks!

レッスン164-私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

ワークの日記がなかなか更新できなかった。もともと未だに何を書いていいかわからなくて、気合いがいる。

レッスン164をやったのが、母が上京する前の11月16、17日と、ちょっと飛んで帰った後の11月28~30日。どんなワークだったっけ、とワークブックとメモを見て思い出すところから。

私たちの源である神とひとつになり、私たちの五感に頼るものの見方ではなくて、キリストの見方を習得するのが、このレッスンの目標であり、ワークブック全体を通しての目標でもある。

このレッスンには「キリスト」という文言が何度も出てくるが、これはイエスキリスト個人ではなく、聖霊と一体化したわたしたち自身の神性をさしている。

この世界をキリストのまなざしで見ることによって、この世界の無意味な騒音をスルーすることができる。その神性、聖性はすでに自分の自分の中にある。この世の雑事、雑音に囚われず、静かに心を開くことによって、自らの内なるキリストを開きさえすれば、この世で感じている悲嘆や苦しみは天国と交換できる…というようなことが書いてある(と思う)。

キリストの四角の前では、この世界はたやすく消えていく。(L164-2-1)

この日、悲嘆は捨て去られる。なぜなら、キリストが与える時間を今日、受け入れるあなたには、外の世界よりもはるかに身近な内界から生じる光景や物音が明確になるからである。(L164-3-4)

あなたの中には、罪の想念が一度も触れたことのない聖性の感覚がある。このすべてを、あなたは今日思い出す。(L164-4-3)

私たちは、この世には辛く悲しく厳しいことが多いと思っているけれど、それは単に私たちが内なるキリストを開いていないからだという。それさえしっかり身につけれれば、この世の辛く悲しく厳しいことはかすかに聞こえる雑音のように感じられるのだろう。

私たちが見るもののすべては、その聖性の内に私たち自身の聖性を反映するので、ただ私たちの喜びを増すばかりである。(L164-7-4)

練習の間、自分が欲していると思っているものをすべて手放すことによって、カーテンを開きなさい。あなたのとるに足らない宝物を片づけ、清浄で開かれた空間を、心の中に空けておきなさい。そうすれば、キリストが訪れて、救済という宝を差し出してくれる場所となる。(L164-8-1,2,3)

ワークをして

大事なのは、自分の今の見方を一回捨てて心に清浄な空間を作ることだ。

だけど、ちょうどこのワークをやっていた前後は、母を迎える準備と滞在中母に合わせることで、いっぱいいっぱいでまったく心の空きスペースが持てなかった。また、帰省後もあることで心がざわついていた。

そういう特別なタイミングでなくとも、一般の大人にとってこの世は「目標(やりたいこと)」や「問題(解決すべきこと)」で溢れていて、何もないスペースを作る余裕はほとんどないだろう。「本当の我に返る」ということなく、目先のお題に追われてあっという間に一年過ぎてしまう気がする。

むしろ、逆で自分を麻痺させて大事なことに気づかないために、あれやこれや「問題」と「目標」を創り出しているのかもしれない。

本当に大事なことに気づいたら、自分を変えなくてはいけない。それに抵抗があるから。

毎日の地道なワークは急速な変革というわけではなく、薄皮を剥ぐように自分を変えてくれるといいと思う。それにしても、もっと毎日まじめにワークしないと。

このワーク時のメモ(感想)には、

「神さまの正体は感謝である。」

とある。神さまに対して「正体」とは失礼な書き方だけれど、本質やエッセンスという書くより真に迫っている気もする。

「神さまの正体は感謝である。

だから、神とつながるには感謝すること。

神に。そして神を映すすべてのものに。

記絵とは、すべてのものの中に神を見ること。

その目をやしなう。」とある。

また別の日には

「自分の好きなことと仕事を一致させてもいい。

好きなことではたらき、おカネを得てもいい。

神の子は、そのままで愛されて、満たされていい。

神が私に感謝している。

私がここにいることに。

私が神に思いを巡らして、神と通じたことに。

神さまは誤解されている。

その誤解を解くというのもしごとだ。」

とある。

神さまと感謝との関係?にこのところずっと関心がある。

いいことがあった時に感謝するのはたやすい。

自分にとって良くないことがあって、そこでも感謝するのが大事なんだと思う。「良くないこと」=幻想、であり、そこを見破りスル―して、感謝することこそ神さまと通じることだと思うから。

レッスン163-死は存在しない。神の子は自由である。

2017-11-29

ワークについて最後に書いたのは、いつだっけ?

もともと時々しか更新できていないACIMブログだけど、最後にワークについ書いたのはいつで、レッスン何?と思い、見たら、11月10日のレッスン162だった。

じゃあ、レッスン163からだ。

そして、このワークはいつやったのか、とノートを見てみたら、11月9、10、13~15日だった。ずいぶん時間をかけたみたいだけど、あまり「ちゃんとできた感」がないから、何日もやったものか。朝だけはできても、夜はできなかったり、その逆だったり…もあったみたいだ。

自分が大事に思っていると言っているわりには、「瑣末なこの世のこと」に時間を使ったり、夜は疲れたりして、できないまま日を過ごすことがけっこうある。そして、そんな日も楽しかったりする。

…できの悪い学習者だ。

でも、他に行くべきところも、もっと頑張ってやるべきこともない気がする。

だからできれば、この世に生きている間ずっとACIMから離れずに学び続けたいと思っている。

レッスン163-死は存在しない。神の子は自由である。

死は存在しない。神の子は自由である。

この主題概念は、私にとって最も響くものだ。

なぜなら、私は子どもの頃からずっと「死」が怖いと思ってきたから。

小さい頃母に「死ぬってどんなこと?」と聞いたのを覚えている。母の答えは「寝て明日がないこと!」。

「お母さん、怖くない?」と聞いたら「そんな馬鹿なことを考えている暇ない!」だった。

成長し死の概念を理解するにつれ、死への恐怖は大きくなった。「死」に人生の根っこを抑えられており、常に「死」を背負って生きていて、生は「死刑宣告」までのつかの間の猶予、だから楽しめ、試せ、どうせ朽ちるのだから。そう言われているような気がしていた。

それは今思うと、まさにエゴの主張そのままで、エゴの罠にきれいに嵌っていた。

最初に『神の使者』と『奇跡講座』に惹かれたのも、意識はしていなかったものの、もしかしたら、死の恐怖から救いあげてくれるのではないかと感じたからだろうか。

レッスン163の冒頭には、「死とは一つの概念であるが、しばしばそうとは認識されない多くの形をとる。(L163-1-1)」とある。そして、悲しみ、恐れ、不安、疑い、そして怒り、不信、信頼の欠如、さらには肉体にまつわる心配や羨望といったものまで、その概念に含めている。

つまり、神の子にとって本来身にありえないことのすべてが「死」という概念だと言う。そしてその概念を象徴するものが、やはりこの世での「肉体の死」だ。

レッスン163にもあるように「死はその人質となっているすべての生命を間違いなく奪いにやってくる。(L163-3-4)」とある。

しかし、後半では、死は全的ものだから、神も含めてすべての者が死ぬか、あるいは命あるものはけっして死なないか、どちから一つであると言う。死が存在するならば神の死もありうる、それが誤りならば死はありえない、と説く。

「神の死という概念はあまりにもばかげていて、狂人ですらそれを信じるのは難しい。なぜなら、それは神がかつて生きていたが、どういうわけか今は死滅してしまい、おそらくは神の存在を望まない者たちによって殺された、ということを示唆するからである。」(L163-7-1,2)

こうした概念や理屈がちゃんとわかったわけではないけれど、ACIMの立場、「神は死を作らなかった。だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。」(L163-8-6,7,8)は心強い。

死の恐怖から逃れるためにACIMを学ぶというのは本末転倒、原因と結果を逆にしてしまっているけれど、人間が本質的に持つ死の恐怖がなくなったら、それだけでこの世は平和でハッピーな場になるような気がする。

ワークをして

私はなぜそうも死が怖いのか。

死の何がもっとも怖いのだろう。

改めて感じてみたら、

「自分が無になるように思えるから」という答えが浮かんできた。

「自分」への執着…

その執着している「自分」だと思っているものが、エゴなのだ。

私は人一倍、「私」というエゴへの執着が強い。だから、怖いのだ。

エゴが自分が消えてしまう恐怖で大暴れしているのだ。

エゴへの執着を解き放とうとするのが、ACIMの学びだ。

私のACIM学習の目標は、「私」という檻から本当の私を自由にすることでもあるのだと思った。

レッスン162-私は、神が創造したままの私である。

2017-11-10

レッスン162-私は、神が創造したままの私である。

たしか同じ主題概念があった…と思って、ワークブックの目次を見たら、レッスン110に同じのがあった。レッスン162の冒頭でも、次のようにある。

この一つの考えをしっかりと心に抱くだけで、世界を救うことができる。今後、学びの新たな段階に入る折々に、私たちはこの概念を繰り返すことになる。進歩するにつれて、この概念はあなたにとって、今よりもはるかに多くの意味をもつようになるだろう。(L162-1-1,2,3)

この言葉は強力だから、こう思い唱えるだけで、心に大きな変容をもたらすという。

心からこのことばを受け入れられるようになること、それがワークブックを通した目標といっていいだろう。

このワークではこれ以上の抽象的概念は用いずに、この強力な文言を改めて用いて、心の変容を促す。

ワークをして

「神はこの世を作らなかった。

 そして、私は神が創造したままの私である。」

これが真実。じつにシンプルだ。

私が神が創造したままの私なら、私には罪もその罪から受ける罰もなく、悲しみや悲惨なことも起りうるはずがなく、あるのは愛と喜びに満ちた世界だ。

自分がそう信じ、その信じたまま生きることで、同胞をゆるすことにつながり、贖い、救済できる。それが自らを購う道でもある。

この世では毎日いろんなことがある。大きな事件、身近なこと、いいこと、悪いこと、得すること、損すること、くっついて、離れて…、悲しんだり、喜んだり…

でも、すべては流れ、流れて、回り灯篭みたいに、過ぎていく。

今が、過去になっていき、そして新しいものが現れて、古いものは去って、そして新しいものが、今になり、古くなり、過去になり、新しいものが現れて…

その都度一喜一憂して…

生きているって、そういう時間のことだと思っていた。与えられた持ち時間のなかでなるたけ、「よい」ポジションに得て「よい」暮らしをすること、子孫を残すこと…

けれど、もうそういうやり方からは卒業したい。この世の「よい」は「悪い」と対だ。

「よい」をめざすのではなくて、この世で起きていることは見て、過ぎて、真実が見たい。真に在るものだけを見たい。

常に、私は神が創造したままの私だ。

だから、そんなときでも喜びに満ちており穏やかだ。豊かさで溢れており、光り輝いている。

そんなふうでありたい。

実際には、ほんの小さなできごとにも、いちいちカーッとしてしまうけれど。

ACIMにふれれば、真実を思い出すから、細々とでもワークを続けていきたいし、繰り返し繰り返し学びたい。

浮かんだことば

私は、神が創造したままの私である。あの人も、神が創造したそのままの同胞だ。

レッスン161-聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

2017-11-08

レッスン161-聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

11月に入り都内でも木の葉が色づいてきた。

昨日は立冬。こよみのうえでは冬。はやい。

せっかちな母に頼まれて、母用の年賀状のレイアウト案を作った。来週末母が上京することになって、その時、いくつかの中から選んで印刷したものを持って帰りたいらしい。

干支をイラストに、と来年は何かな、と思ったら「いぬ」だった。戌年、平成三十年かあ。おそらく平成最後の年だ。

急くこともないと思うけれど、ちらっと年末の気分になった。

      *            *            *        

レッスン161は、「怒り」をテーマとしている。怒りのそもそもの原因は、「神からの分離」がもたらす恐れと罪悪感だ(もちろん、これは誤解)。

私たちは、自分の奥底に居座る恐れと罪悪感を認めたくないばかりに、それを他者にかぶせる。心理学でよく言われる「投影」というやつだ。

嫌なことをしたり悪事をはたらいたりする他者がいる。だからその人に怒りを覚える。それは「正当」だと思う。だが、ACIMではそれは、私たちの恐れと罪悪感を他者に投影した結果、見えてくるもので、私たちは実は自分自身に怒っているのだと見る。

ひとりの兄弟はすべての兄弟である。(L161-4-1)

兄弟を肉体と見なす者は、兄弟を恐れの象徴として見ている。そして彼は攻撃する。なぜなら、彼が見ているのは自分自身の恐れであり、それが自分の外側にあって、攻撃の構えをとり、再び自分とひとつになろうとして叫んでいる様だからである。(L161-8-1,2)

このレッスンでは、現実的な一人の人を、他のすべての兄弟の代表として選び、その人に対して救済を求めるということを行う。「救済を求める」とは、すなわち怒りの感情を流しその人をゆるすこと。

その人が鏡となって見せてくれたものを、それは幻想であり、罪はなされていないとキリストの目でその人を見ること。

それこそが、自分の中の恐れと罪悪感から自由になる方法である。

具体的にこの世で私たちが感じている怒りや見ている罪を題材として、それを逆にして取り成すことによって、天国に戻るのだ。

このレッスンのワークの次の文言が普遍的な「怒りや恐れからの安全な脱出法」になる。

聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。私はあなたをキリストのまなざしで見て、あなたの中に私自身の完璧な無罪性を見たいのです。(L161-11-7,8)

ワークをして

怒りのテーマで選ぶ「ひとりの兄弟」とされるのは、親子や配偶者、恋人や友人、ご近所など、距離感や関係が近しい人が多いだろう。

そうでなければ、とっくに離れてそれでおしまいで、感情をこじらすこともそうないから。

私の場合、こういうワークで出てくるのは、元の夫が多い。すでに別れてかなりの年月。別れて20年後にひょんなことから偶然再会してすったもんだして…おカネを貸したり…返済がなかなか進まなかったり。今も強い感情を持っているわけではないのだけれど、今の人間関係が希薄だからか、こうしたワークの際には彼が浮かんでくる。

私がこじらせたのは、彼のことが好きだったけれど結婚という枠が嫌で、こちらから一方的に別れたことに端を発している。もう何十年も前のことなのだけれど…。

今回ワークをして新たに思ったことは、

彼に対して完璧であらねば…、二人の関係は完全なものじゃなくっちゃ、という若さゆえの(?)無意識のプレッシャーがあって、それに耐えられず自分から逃げた…というのも別れた要因のひとつだったんだと。

彼を擬似神として、神との一体性、完全性のイメージを恋愛に重ねたみたいだ。幼稚だけれど、親に甘えてこなかった分、恋愛で甘えを出した。

そして、神としてだけではなく、神との分離のイメージもまた重ねて、分離した「罪」をなすりつけている。

さらに、そのイメージに執着し、手放すことができないでいる。

そう思った(理屈っぽいかな?)。

そうではなく、私が真の心眼で神の世界、神との一体性を感じることができれば、そうした擬似的なものは必要ないはずだ。

代理の偽物のイメージを手放すことこそ、神さまに近づくことだ。

私が神さまを心の内にしっかり持てれば、この世に一時の神のイメージを求め、探しあぐねるのではなく、誰に対しても神を見ることができるようになるのだろうと思う。

浮かんだことば

心の中に神さまを持とう。そして、これも、あれも、その目をとおして見よう。

← 戻る

←古い記事を見る