『コンビニ人間』

2016-12-04

でろりんとした週末

母が帰り、金曜の夜、仕事の納品を何とか終えて、でろりんと気が抜けていた。後で気がついたけど、新しいパンプスで長い距離歩いたためか、腰痛になっていたみたいだ。

なんか動けてないな~とごろごろしていたけど、よくよくわが身を振り返ってみたら、腰と右足に圧迫されたような鈍痛があった。身体の歪んみが原因なのか、痛みは一枚皮の身体のあちこちに動いていく。

母に整体院を紹介して治療を受けさせたけど、整体院に行って体を整えるべきは、私の方かもしれない。

やっと土曜の夕方少し動けそうと思い、外に出て、ブックオフに行って、本を買った。

『コンビニ人間』。第155回芥川賞の本らしい。

文芸作品には疎いけど、先月『アメトーーク』の「読書芸人」の回で紹介されていて、又吉、若林、光浦さんの3人がお勧め本として挙げていた。まったりを過ごしたい晩秋の週末(もう冬?)に読むのはいいんじゃないか、と思ったのだ。

『コンビニ人間』を読んだ

主人公古倉恵子は大学1年の18歳の頃から、ずーっと18年間同じコンビニでバイトをしている30代半ばの独身女性。子どもの頃からいわゆる「空気が読めない子」というか、もっと「変わった子」で、両親をハラハラさせている。

幼稚園の頃、公園で死んでいた小鳥を「焼き鳥にして食べよう」と言って、周りの目を気にした母親に強引にお墓を作って埋められ花を供えられた。その時の心情描写が、おもしろい。

「皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。『綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ』などと言っている光景が頭がおかしいように見えた」とある。こんなんじゃ、周りはやっぱり困ったかもしれない。

こうした類のことが何度もあって、親が学校に呼び出され、カウンセリングを受けさせられたりした。親を心配させまいとした主人公は、周りの人としゃべることを止めてしまった。

それはそれで人とまったく接しないわけだから、親を心配させることとなり、自分を「治さねば」と思っていた恵子が18歳で初めてバイトを試みた先が、コンビニ。

コンビニには、挨拶の仕方から身だしなみ、仕事の段取りなど数多くの細かいマニュアルがある。そのとおりにふるまうことによって、初めて「普通」の人間になれた、周りにおかしく思われずに済んだと感じる主人公。その後、その生き方を18年も続ける。お話は彼女が勤務しているコンビニを舞台に進んでいく。

狩りができる男と、男の子どもを産める女!?

私が反応したのは、お話の本筋とはずれるのかもしれないけど、コンビニの店長の「人間はさー、仕事か、家庭か、どちらかで社会に属するのが義務なんだよ」という言葉だ。

また35歳のダメ新人店員の白羽さんの「若くて可愛い村一番の娘は、力が強くて狩りが上手い男のものになっていく。強い遺伝子が残っていって、残り物は残り物同士で慰め合う道しか残されていない。現代社会なんてものは幻想で、僕たちは縄文時代と大して変わらない世界に生きているんだ。」というセリフ。

現代社会とは言いながら所詮は縄文時代のムラと同じ。狩りができる男とその男の子どもが産める女だけに価値があり、それ以外はムラのお荷物、という考えに、そっか~、確かに表面的には口に出さなくても、そういうのが本音での社会通念なのかもしれない、と感じた。

もちろん賛成しているわけではないしそれが正しいと思っているわけでもないけど、いろんなものを取っ払った根っこの社会通念はそうかもしれない。稼ぐか、繁殖するか…究極はムラの存続と繁栄なのだから。。。

結婚していれば、それに対して貢献意欲があると見なされ、まぁ子どもがいなくても「可」にはなる。年老いて貢献できなくとも子どもを育てた「実績」があれば「可」。小池都知事みたく女性で結婚もしておらず子どももいなくても、あれだけの仕事をして社会的立場があれば、それも「可」、というか「優」か…。

そうやっていくと、私は…。

このモノサシに自分を当てはめていわけではないけど…。

ダメ店員、白羽氏はまた主人公に対して、こうも言っている。

「古倉さんも、もう少し自覚したほうがいいですよ。あんたなんて、はっきりいって底辺中の底辺で、もう子宮だって老化しているだろうし、性欲処理に使えるような風貌でもなく、かといって男並みに稼いでいるわけでもなく、それどころか社員でもない、アルバイト。はっきりいて、ムラからしたらお荷物でしかない、人間の屑ですよ」

この言葉が私をある種「正気」にさせた。本の中で36歳の主人公がそうなら50半ばの私はもっともっとそう?しかも、毎日きちんと職場に通っている恵子はえらい。私には職場すらない。私が、「フリーランス」といいつつ、専門性もなく隙間家具のように社会にいられたのは、いくつか幸運もあって経済的に困窮しつつもかろうじて最終的な破たんをしなかったからだけ。それは正直、奇跡だ、と思えたのだ。

この世のゲンジツの社会通念とACIMの世界観とはまったくちがう。そして、ACIMの世界観から見た自分とこの世のゲンジツの社会通念から見た自分もまったくちがって見える。

私は人との交流も極めて少なくて人目を気にするということもなかったけど、『コンビニ人間』を読んで、一般社会通念から見た自分のポジションを教えられた気がした。こんなことは誰もわざわざ教えてくれない。無自覚で、まったり本でも読もうかと思ったけど、まったりするどころか目覚めさせられたのだった。

「免罪符」としてACIMを必要としたのか

そして、ACIMの世界観が必要だったのは、こうしたゲンジツからの逃避の意味もあったのかもしれない、と思った。この世が幻想ならば、「真っ当」であろうとそうでなかろうと、「可」だろうが「不可」だろうが、意味はないのだから。

本当のところは、どう世界を捉えていいのかわからない。

母が来るしばらく前から、またACIMから離れてしまっていて、少し離れると自分がいる世界と自分の立ち位置がわからなくなってしまう。

ACIMはこの世のゲンジツのムラのルールから外れてしまっている私の、「免罪符」のようなものなんだろうか。

そうしてはいけない、とも思う。

単なる「免罪符」だったら、3年以上もコツコツやらなかったのでは?でも最近はやれてないじゃない?。。。

などと、心の声がぐるぐるする。

ただ、結婚もせず勤めもせず、生きてこられたこと自体が「奇跡」のように思うのも本当だ。ダメ、あるいは社会的に屑だとしても、それを今さら容易に修正できるとも思えない。

なので、この「奇跡」をもうしばらく様子見しようかと思っている。