91~110

レッスン100-私の役割は救済計画に不可欠である。

2017-04-19

レッスン100-私の役割は救済計画に不可欠である。

レッスン100で「私の役割」とされ望まれているのは、「完璧な幸せ」=「私が完璧に幸せでいること」だ。

神の子が幸せであることが強いメッセージなのだ。

世界は私自身を投影したもの。私というカケラを通して幻想を見たもの。

だとすれば、私が笑顔でいて幸せでいることが、こだまして、それが世界だ。

だから、自分の中の最も神に近い部分(キリスト、真の自己)に共鳴し、今日一日、喜びに満ちて幸せでいよう、というのが(かなりざっくりだけど)レッスン100のワークだ。

ワークをして

思えば、くりかえし言っている気がするけど、自分に幸せをゆるすことにはすごく大きな抵抗があった。

幼い頃から厳しく暴力をふるう母親が怖くて、いつか見返してやりたいと憎しみを抱いて育った。一方で、親の期待に応えられないことに、自分はダメな子だと罪悪感も感じていた。

そして表面的には親に従ういい子でいながら、成長するにつれ反抗心から行動することで心は葛藤してますます瞑想し、自分の反抗心や怒りを社会や周りの他者に投影していたように思う。一頃流行った言葉でいえばアダルトチルドレン。意外とよくある話なのかもしれない。

そのすべての根っこは自己嫌悪であり、それは「神との分離」が実際起ったこと、自ら引き起こしたことだという誤解だ。

今やその誤解は解けた。

おっちょこちょいで思いこみが強いんだから~、という笑い話にすぎない。

私は幸せであってもいい。

いや、そうではなくて、

幸せであることが私のはたらきだ。

この世が私の心が投影された世界であるならば、幸せな世界は私の幸せにかかっている。

これは、ひきこもっている私の妄想だろうか。

世界のことはさておき、まず、今日の私は幸せでいよう。

いいことがあれば   ○  ⇒ 幸せ

よくないことがあれば ×  ⇒ 不幸せ

このループから私が抜け出せることはあるかな?

いいことがあろうと         ○ ⇒

よくない(不都合な)ことがあろうと × ⇒ 常に幸せ

よくない(不都合な)ことは実際に在ることではない、赦すべきことだ。

これを、かなりリアルなこのゲンジツワールドで、それだけいつも覚えていられるかな?

身体も脳もエゴの支配下で作られたものだというのに、私たちがそこから脱して、神と聖霊の考え方に完全に移行することができるのだろうか。

それにはこの幻想の世の一生があと何回必要だろうか。

でも、その旅は始まっている。その道すがら必要なものはすべて与えられている。

そしてナビゲーターは聖霊だ。

だから、今この与えられたチャンスを活かそう、と思う。

レッスン99-救済が、ここにいる私の唯一の機能である。

2017-04-18

もう4月18日。春だ。

先週は慌ただしかったこともあってまったくワークをしなかった。ワークの方は先週土曜のレッスン103で止まっている。

レッスン93からの「起きている間、1時間の最初の5分をワークに用いる」というのが、私にはなかなか負担できびしくワークから逃げていたというのが本当かな。再開したら、やらなきゃなんないから…。

そういう意味では十分羽根を伸ばせた気がする(エゴが?)。そろそろワークに戻ろう。

…ダイアリーブログの方は、レッスン99から。

って、レッスン99ってどんな内容だったか…。ノートを見たら4月3日にワークをしている。

レッスン99-救済が、ここにいる私の唯一の機能である。

レッスン99では、「救済が、ここにいる私の唯一の機能(はたらき)である。」と言い、「救済と赦しは同じものである。」と言っている。

「救済とは」を私はよくわかっていないけれど、要は日々の暮らしの中で赦しを実践することだと思う。それがすなわち救済になるのだと理解している。

私たちのゲンジツの世界では、本来ありえないものが「在る」とされていて、真理と幻想が対等になっている。それを真理だけを「在る」と認識すること。それが赦しだ。赦しがなされれば同時に幻想から救われる。

そこで頼るべきは聖霊だ。

聖霊はこの神の計画を、神から受け取ったそのままに、神の心とあなたの心の内に保持している。

聖霊は、依然として1つのことが間違いなく真実だと知っている。すなわち、神は今でも愛であり、今あなたが見ていることは、神の意志ではない、ということである。

レッスン99では、聖霊の導きを得て、起きている間以下の毎時5分のワークをする。

救済が、ここにいる私の唯一の機能である。

今でも神は愛であり、これ(私たちが見ている罪、苦痛、死、悲嘆など)は神の意志ではない。」

そして、聖霊から、「真の自己を知るために、何を学ぶことが必要か教えてもらいなさい」とある。

ワークをして

レッスン99をやって感じたのは、とにかく必要なのは1つずつ細かいことも含めて、赦すべきことを赦すことだな」ということだ。

その日はマンションの上階の方が亡くなられたばかりで悲しかった。赦すべきこととして、まずそのことが浮かんだ。

私たちが「神から分離した」と誤解しエゴに拠って生きるようになって、本来ならばありえない恐怖を感じている。

その最たるものが、神への恐怖と死への恐怖ではないかと思う。

私は昔から自分の体への執着が強く、死も人一倍恐れている気がする。それもあって、ご近所さんが亡くなったことに気持ちががたがたしてしまったのかもしれない。

私の人生の目標は、もしかしたら、自分の死に面して、死に怯えずに心穏やかでいられることかもしれない、と思った。真剣に訓練したら、そういう怖さも消えるものなのかな。

でも、怖いから、それを克服したいと思っているとしたら、それこそエゴの発想だ。そういう感覚とは別物なんだろう。気づいたらそういう恐怖はなくなっているというようなものではないか…。

死をリアルにしてしまっている自分の在り方を変えたい。

聖霊のメッセージを受け取る

レッスン99をやった夕方6時のメモには、「(私に必要なのは)、聖霊のメッセージをもっと心をオープンにして受け取ること。エゴの垣根で閉ざすのではなく」と書いている。

そして、次の7時のメモには「なぜ、聖霊のメッセージを聴けていないのか」と自問して、その答えに「聴いてしまって自分(と自分が思っているもの)を変えたくないんだ。」とあった。聖霊からの何らかのメッセージを受け取ったら、それに呼応して自分や自分の環境を変えなくてはならなくなる。それを恐れているのだ。

私…と思っているものは、この瞬間にもどんどん変わっているというのに、私は私という幻想に執着していたいんだ、と改めて気がついた。

エゴの執着を溶かして、聖霊の声を聴くというのが、ここ当面の課題かな。これ何回も書いているような気もする。

レッスン98-私は、神の救済計画における自分の役割を引き受ける。

2017-04-07

ちょこっと間が空くと、自分のブログながらブログを開くのが怖くなる。ワークをする日とそれをブログに文章にする日に一週間の差ができてしまっていて、誰に見せているわけでもないのだけど「たまったレッスン、ブログに書かなきゃ」とちょっとしたプレッシャーを感じる。

そして、ワークの方は自分のための勉強で先を急がねばならないものではないのだけど、365という数が目の前にあると先を急ぎたくなる。

あー、そうだ、レッスン98からだ。レッスン98は英語が私には難しく大畑学さんの「A Course in Miracles Workbook精読」の解説を脇に置きながらでも、時間がかかった。

そして、なかなか理解できず先に進みづらいことに、(こんなことしていていいのか)といった焦りやいらだちも感じた(日本語だけで読んで進めてもいいのだけど、一回始めたやり方を変えたくないし、やはり原文で読みたいという気持ちがある)。

レッスン98:私は、神の救済計画における自分の役割を引き受ける。

レッスン98で気になったところは、

まず主題概念そのものの「神の救済計画における自分の役割を引き受ける」。

私の役割とはなんぞや。

私たちには果たすべき大いなる目的があり、そのゴールの達成に必要なものはすべて与えられている。

また「罪悪感のない者に恐れはない。…(中略)…為すべく定められていることを為すという静かな確信の中で、彼らは休らう。

大畑学さんの解説には「あなたが自分の無辜性に気付き、スピリットとして生き始めると、確実に救いの道を進むことになる。あなたがいつどこで、その役割をどう果たして行けばいいのか。それは、神の計画の中で既に決められている。完璧なタイミングと場面が与えられ、あなたは自分の役割を果たすことになる。そこに疑いはない。」とある。

なすべきこと。定められていること。

自分に必要な赦しと救済の機会。

私は、未だに救済とは何なのかがわかっていないのかもしれない。

おもしろいなと思ったのは、ワークブック中のイエスの“営業トーク”。

自分の機能(はたらき)を認識することに毎時間5分かけることの“お得感”が強調されている。

計り知れない大きな報償が得られることを思えば、5分というのは小さな要請ではないだろうか。」とか、「ここで提供されているのは、あらゆる苦痛からの完全な開放とこの世の世界にはない喜びを、あなたに保証するものである。」とか。

さらに「時間には意味がないのだから、あなたはすべてを手に入れる代償として、何も要求されていないということになる。これはあなたが決して損をしない取引である。そしてあなたが得るものは、まさしく無限である!」と。

「えらい得するんだよ」というお勧めの仕方に、くすっと一人で笑ってしまった。

それで、1時間に5分というワークを、ともかくやった。

ワークをして

3月から4月への切り替え時で、いつも心にある将来への不安をまた感じ出していた。ワーク時も不安が出てきて、レッスン98の内容というより、それを手放すということをした。

何度目かの5分ワークの時に、神における救済計画における自分の役割を果たす…とは、やはり聖霊に身をゆだねることだと感じた。

私は、未だに聖霊の声やメッセージというものがよくわからない。エゴの支配下にあって聖霊からのメッセージに耳をふさいでいるような気もするし、無意識ながらメッセージを受け取れているのかもしれないと思う時もある。

ACIMと出会うきっかけとなった『神の使者』に出会えたことだって、その後すぐにブックオフで続編の『不死というあなたの現実』を見つけたことだって、聖霊の導きがあってこそだと感じている。

一方で私のエゴは、「ここまで」と聖霊が動いていい領域を決め、そこからはみ出さないように、と聖霊の動きを監視しようとしているようにも思う(あくまで私の心の中のことで、妄想にすぎないのかもしれないけど)。

エゴは聖霊を脅威に感じているのだ。

エゴの縛りが強い今の私は聖霊さんが何を私に指示してくるのか、何かを犠牲にするよう迫るのではないかと、耳をふさいでいるようなところもある(気がする)。

その日の最後の、夜11時からのワークの時のメモには、

「聖霊さま、いつもありがとうございます。

私は神の救済計画における私の役割を喜んでお受けします。」とある。

一日を通したワークで、そういう心境になったということだろう。

エゴはすべてを見通せないし、幻想しか作り出せない。

聖霊はすべてを見通し、実在する喜び・平安に導いてくれる。

だから、もっと聖霊の声を意識的に聴く、その決意をしよう。したい。

レッスン97-私は霊である。

2017-04-04

昨日は急な雷雨にびっくりしたけど、今日は春らしいよいお天気だった。

久しぶりに友だちと桜を見がてら神社に行き、ランチしておしゃべりした。人と一緒にいておしゃべりする、ということが、今の私には非日常的。ひとりで行動する独特の気の張りがなく、お店でもくつろいでいられた。それが私には恵みと癒しだった。

花見をしようと大勢の人出があった。風もここちよかった。なんでもないことをぐだぐだとおしゃべりできるありがたさ。

「今年の春の日」と取っておきたいような、なごんだやさしい風の日だった。感謝。

レッスン97:私は霊である。

レッスン97の主題概念は、「私は霊である。」

真の自己を、シンプルに自分に思い出させる。

毎時間に5分を、このために用いる。

私は霊であり、神聖な神の子である。あらゆる制限から自由であり、安全で、癒されていて、全一である。赦す自由と、世界を救う自由を持った神聖な神の子である。

この言葉を自分と世界に宣言する。

ワークをして

このワークをやったのは3月30日だったけど、毎時0分を意識して、目をつむり「自分は霊である。」と唱える。自分の心深く、霊である自分を感じようとする。

この世界から浮いたような、このワークを、今、実践できる環境にあること、実際にワークをしていられることが、恵みというか豊かさなんじゃないかな、と感じた。じゃまが入らず、内向できる空間と時間があってこそできることだ。

ワーク中は聖霊(さん?)を身近に感じた。なにか自分を見守ってくれている存在があるように感じた。それは思いのほか力強かった。

赦すことと、感謝と愛

そして必要なこと、求められていることは非常にシンプルなのだ、と確認した。

赦すことと、感謝と愛だ。

赦すことは文字どおり、ACIMでくりかえし説かれている赦し。そして、愛―これを感謝と愛と表現した。(私から見ると、この世でいう「愛」という言葉は、恋愛の愛や相手に求める条件付きの愛という意味合いを示すことも多い、今「感謝」という言葉で表すような感情が、本来の愛に近いんじゃないかなと)

だから、赦すことと、感謝と愛。

ACIMで求められていることはうーんと煮つめればこれじゃないのかな。私にはこの三語がわかりやすい。

それをなるたけ覚えていようと思う。

だけどこのシンプルなことがなかなか覚えていられない。

実践で大事なのは、この幻想のゲンジツの世で、何かがあって感情が乱れた時、「これは現実じゃない」と思い出して乱れた自分をいかにとりなすか、だ。

いくらACIMを読んでわかったつもりになっても、心が訓練されていないと、つい幻想の出来事と自分の感情に巻き込まれ、自分の心が投影して見せていることだとは思えず、全部がわからなくなってしまう。

小さなネガティブな感情にも気をつけて、なるたけ上機嫌でいることを実践したい。

それと、聖霊の声、メッセージに耳をかたむけること。

気づけば忘れているけど、心を鎮め聖霊に耳をかたむける。これも心に留めておきたい。

レッスン96-救済は私の一なる自己から訪れる。

2017-04-03

私のウォーキングコースでは川沿いに桜並木があるけれど、今朝けっこうほころんでいた。木にもよるけど1~8分咲き。

今年もこの季節がやってきた。

桜はとても繊細で美しく、その開花時期が短い。完璧といえる満開は3日から一週間位。その後は新葉が出るのだから成長に向かっているのだろうけど、散り際の寂しさはなんともいえない。

日本人は桜が大好きけど、それは桜がこの世の無常を象徴しているからではないのかしらん。この世を無常と心得たうえで、その最高の姿を愛で祝福する。日本人にはそういうメンタリズムがあるように感じる。どうだろう。

他の国の方々も、桜のつぼみからその潔い散り姿に特別な思いを感じたりするのだろうか。

レッスン96:救済は私の一なる自己から訪れる。

レッスンの説明文がむずかしく感じる。抽象的で日本語でもなかなかすっきりとはわからない。

くりかえし、少し単純化してみよう。

自己… 善… 愛…   霊…(真理)

エゴ… 悪… 憎・怖… 体…(幻想)

私たちは自己とエゴ(偽自己)に分かれているように感じていてその両者の間に葛藤を感じている。

この両者間のバランスを取ろうとするのは無意味である。エゴは幻想の中にしか存在しないのだから。

そうではなくエゴの幻想性を見抜いて、実在するものに拠りどころを持たなければ、永続的に救われることはない。エゴの論理では何事もなしえない。それは砂上の楼閣である。

実在するものを拠りどころとすることこそ救済である。

そして神と一なる自己こそが実在するもの。

ただ、私たちは今エゴを拠りどころとしているから、それがわからない。心は二分され、葛藤があるばかりだ。

そこで頼みにするのが、神と私たちをつなぐ聖霊だ。聖霊は私たちの心に住んでいる。聖霊は救済のアイディアを持っている。

レッスン96では、自分の中の聖霊とつながりそのアイディア(想念)を分かち合うこと。それを自分のものと宣言することがテーマとなっている(ように思う)。

ワークをして

たしかにこの幻想の世で葛藤する自分に折り合いをつけて「うまく」生きようとしても、たとえ一時はうまくいったかのように思えても、必ずほころびが出る。

「何か」で状況は変わるはず。

そうやって「新しい何か」を探し、今まで何度となくトライしてきた。

でも、欠落感がない安らいだ気持ちは得られないばかりか、いずれは滅ぶ肉体という夢がクリアに見えてきて、怖ろしさは増すばかりだ。

50も半ばを過ぎるとこの世のカラクリが垣間見え、

何か他のもの、新しい何か…にも期待できなくなってくる。

この世の常識からみれば、ばかげているようにも思うし、私がACIMの考えを支持していることが周りの人にわかれば「頭がおかしいのではないか」と思われそうで怖くもあるけど、

やはり一なる自己を「本気で」拠りどころにすべきではないか。

ワークをしてそう感じた。

2層の自分

ワークでは私たちの心が2つに分裂していると書かれているけれど、

今は自分が別の意味でも2つ…2層になっている気がする。

① ACIMの世界観を学び、そこになじもうとする私、と

② 世間でなるたけ普通に生きようとする私、だ。

たとえば、テロや傷害事件のような残忍なことがあれば犯人を憎む会話をするし、身内が亡くなられたと聞けば、普通にさぞかし辛く寂しいことだろうと思う。それが私も知っている人であれば、やはりショックを受けるし悲しい。

一方で、これは幻想なのだ、赦せと言い聞かせる私がいる。

そういう意味で2つ、2層の自分を生きている気がしている。

そしてここで生きる上ではこの2層は必要であり、これはこれでいい、とも思っている。

レッスン95-私は創造主と一体の一なる自己である。

2017-04-01

春めいたと思ったのは一時で、一転4月に入ったというのに底冷えする寒さだ。昨日はレッスン98をやったけど、レッスン93から続いている「起きている間一時間のうちの最初の5分をワークに捧げる」というのがなかなかハードで、耐えきれない。今日はワークはお休みにしよう…。したい。

1時間に5分なのだけど、内容を振り返ったりしていると7~10分位かかる。そうなると残り50分位ずつの刻みでしか物事ができなくなって、それが寝るまで続くのがしんどい。ひとりで何やってるんだろう、という気にもなってくる。そしてできないことに罪悪感ももつ。これもエゴのなせる技なのか。

レッスン95:私は創造主と一体の一なる自己である。

レッスン95には、起きている毎時間、最初の5分をワークに充てることについて2つの利点が書かれている。

①5分以上の長いワークでは集中力が続かないから。

②何度も頻繁にくりかえさないと、つい忘れてしまうから。

エゴの誘惑に対して自動的に正しい対応を身につけるためには、とくに毎時最初の5分という強い枠組みが有効なのだと書かれている。いわば武道の「型」のようなものだろうか。

でも、外出時とかはきちんとできないし、家にいる時も、何十分後かに控えているワークが気になりおちおち他のことに集中できず、それがストレスになる。他のやるべきことがあるし「ちゃんと」できないだろうから、今日はいいことにして明日にしよう、と思ってしまうけど、レッスン95はそうした思いに対しても言及している。

おそらくもはや要求されたことに応えられなかったという理由で、その日の練習は失敗したと見なしたい誘惑にかれるだろう。だがこれも、ただその正体を認識することが必要なだけである。

すなわち、それは自分の誤りが正されることに対する拒否反応であり、再び練習に取り組みたくはないという気持ちである。

まさにそのとおり、おっしゃるとおりだ。

そして、そういう自分の弱さに寛容になることにも触れられている。

それは「単に間違いを犯しただけである。

これには訂正が必要であり、必要なのはそれだけである。」とも。

さらに「間違いが存続するままにしておくことは、最初の間違いに基づいてそれを補強し、さらなる間違いを犯すことである。

これはACIM以外についても通るすごい正論だ。

…ということで、今日のワークは以下の言葉から始まる。

私は創造主と一体の一なる自己である。創造主とも、被造物のあらゆる側面ともひとつである自己、無限なる平安と力がみなぎる一なる自己である。

そしてこの「私は一なる自己である」という感じを感じ取ろうとする。

ワークをして

この毎時間5分という枠組みのワーク、私はどうも日中よりも夕方から晩の方が落ち着いてできるようだ。

感じたのは、最近はしばしばそう感じているのだけど、ACIMの教えを、ここではないどこかの理想郷や空絵ごとのようなイメージではなく、本当にこれこそが現実なのだとリアルに感じてみよう、ということだった。

意外とこれまでそうはしていないのだ。

この諸々(問題や理不尽さが)ある現実社会や人生からの精神的なよすがみたいなものだった。

精神的な頼みであって、それだけが在る、との実感が薄かった気がする。

まったくなかったわけではないにせよ、「私のこころ」には玉ねぎのように幾層も層があって、それが剥けるたびに実感に近づくというしくみなのかもしれない。

ただ神だけがある。

そして私は神と一なる自己である。

それをこれからの人生時間、現実として感じてみよう、と思う。一時だけでも感じ、その一時を少しずつ何回もにしていきたい。

レッスン94-私は神が創造したままの私である。

2017-03-30

春めいて

ようやく春らしくぽかぽかとした陽気になってきた。街を歩く人の服装も、スプリングコートになってきた。

3月までのプロジェクトが終わり、少し気持ちに余裕がある。子どもの頃から入学や進級が4月だったから、50代半ばの今でも4月には何か一新され仕切り直す雰囲気がある。また、今ここから、いいはじまりにしたい。

昨日、ふと思ったのは、ワークの際英語の原文で読んで進めたいと思っているのも、もしかしたらエゴから来るこだわりなのかな、と。

素晴らしい日本語訳があるのにもかかわらず原文の“読解”に時間がかかり、まるで英語の勉強のようになっていて、日本語だけならば一日で済むものを数日かかったりしている。それがACIMそのものから意識をそらすことになっているかもしれない。

かといって、そのやり方を変えられるかといえば、変えにくいけど。そういえば「目的の手段化」というのは、ズボラなくせに完璧主義なところがある私が陥りがちな“症状”ではある。

レッスン94:私は神が創造したままの私である。

レッスン91からは、真の自己の本質を思い出させるワークが続いているように思うけど、レッスン94のテーマは「私は神が創造したままの私である。」だ。

真の光は強さそのものであり、強さとは無罪性である、とも書かれている。もしこの事実を受け入れるなら、私たちは強いはずであり、光が自らの内にあるはずなのだ。

また朝起きてから夜の就寝まで1時間ごとに初めの5分をワークに用いる。

自分が作り上げた自己像を手放し、

私は神が創造したままの私である。

私は永遠に神の子である。」と唱え、自分の中の神の子に到達しようとする。

ワークをして

I am as God created me. 私は神が創造したままの私である。

この言葉は強くシンプルで、好きだ。

5分のワークは初め、時間の圧迫(落ち着かない気忙しい感じ)を感じたが、午後には少し落ち着いてきた。

そして、ACIMを、ここではないどこかの精神的な理想のものがたり、ではなく、

これこそが事実・現実として捉えなおそう、と考えた。

ずっとずっと昔、故郷の畳の部屋に赤ん坊として寝かされ、まどろんでいた頃、

まだ神が近かった。神とつながっていた感じがする。

今や…その記憶ははてしなく遠い…。けど、

実はそれこそが現実に近く、

一度も神から離れてはいない。

私は、今ここに神が創造したままの私である。

そう、感じたいと思う。

レッスン93-光と喜びと平安が私の中に宿っている。

2017-03-29

レッスン93をやったのは先週21日。ワークをした日とそれをダイアリーに書く日のライムラグを縮めたいと思っているけど、まだ縮まらず、ダイアリーブログがなんとなく億劫になっている。ワークはしたいけど、ブログにするのがむずかしい。

改めて、ワークのダイアリーに何を書いたらいいのかわからないことや、

さらにレッスン91からは文章が長く理解しきれていない、というのと、

こんなこと(中途半端にダイアリーを書くこと)して何になる、という気持ちがある。

でも、ブログがなければワーク自体緩く続けることもできていない気がするし、多少なりとも復習になっているのでは?とも思っている。

レッスン93:光と喜びと平安が私の中に宿っている。

レッスン91からのワークは、くりかえし私たちに闇ではなく光に目を向けるよう方向づけしている。

ワークは冒頭、「あなたは自分の中に悪と闇と罪が住みついていると思っている。もし誰かがあなたの真の姿を見たなら、毒蛇を見たときのように飛びのき後ずさりするだろうと思っている。」から始まる。

ここには私たちの深い自己嫌悪が書かれている。これは私のように意識の上でもそう思っている人と、意識はしていなくても無意識でそう思っている人とに分かれるだろう。

ただ、この自己嫌悪には根拠がない。「虚無に基づく信念」だけど、虚無が作り上げた世界にずっと生きている(と思っている私たち)には、まるで信じがたい。

私たちは神から自分から分離したと思い込んでいる。そして、そのことについて神にあまりに大きな罪の意識と恐怖を感じている。

でも、ACIMはくりかえし、それは誤解だ、と教えてくれる。

自ら離れたと思っている今ここの私は、エゴでありそれこそが虚像。真の自己は一度も神から離れたことがなく今も神の平安とともにある。

それをレッスン93では「あなたが為したと思っているすべての悪は一度も為されたことはないと保証されて、なぜあなたは大喜びしないのだろうか。」と言っている。「あなたの罪がすべて無であることも、あなたが創造されたままに清らかで神聖であることも、光と喜びと平安があなたの中に宿っていることも、たしかに保証されている。」と太鼓判が押されている。

でも、この考えが、虚無の世界になじんで闇の法則で生きている私たちには、ぴんと来ない。

レッスン93では、

光と喜びと平安が私の中に宿っている。

私の無罪性は神により保証されている。」と唱え、神と一なる自己を体験することに主眼が置かれている。

そして、私たちの強固な思い込みに正しい考えを刷り込むべく、起きている間はずっと1時間うち最初の5分をこの練習に使うこと、としている。

ワークをして

毎時最初の5分を使うというのは、なかなか慌ただしい。気づくと時間が過ぎていることもままあり。私はまだフリーランスだから家での作業中はやりやすいけど、勤務している人とかはいったいどうやっているのだろう。こうしたワークができる環境というのは限られているのでは…?

最初のうちは5分とても長く感じられ、何度も目を開けてしまう。落ち着かない。

でも回を重ねるごとにだんだん、やりやすくなってきた。

夕方5時のワークでは「私は幸せになってもいい」と感じた。

未だに心の奥のどこかで、「私は悪い子、悪い人間で、だから幸せである資格がない」という刷り込みがあるのだ。その自己否定は大人になってから気づいて、変えてきたつもりだけど、まだ、ある。

そこで、「私の無罪性は神により保証されている。

そして、「光と喜びと平安が私の中に宿っている。

この本当は正しい事実を、新しい暗示のごとく、何度もくりかえす。

エゴが怯えて身構えてしまわないよう、リラックスしながら、気を抜きながらくりかえした。

晩7時のワークでは、

「罪ある自分が少しましな世界を望むんじゃないんだ、そもそも原罪はないんだ」と感じた。

だから、ずっとHappy&Peacefulでいていい。問題を温存せず、手放していいんだ。

これはぐるっと一周して、元いたところに戻る…みたいだけど、

結局「自分を愛する」ということだ。そしてリアルには他者と自己の区別はない。

だからシンプルに「愛する」こと。

いいことをしたから、許される、認められる、

悪いことをしたから、不十分だから、認められない、罰せられる、というのではなくて、

そもそも無辜(むこ)であり、愛されていい。幸せであってもいい。

夜9時のワークでは、「幸せであってもいい」じゃなくて、

「いや、幸せでなきゃいけないんだ」と思った。

だからこそ、いつも上機嫌であること!

エゴは罪悪感と怖れから必要のないものを創り出している。それは実は起っていない過ちのためだ。

それを取りなすこと。それが祈りの本質なのかもしれない。

レッスン92-奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

2017-03-28

レッスン92:奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

最初にこのワークは前のレッスン91「奇跡は光の中で見える。」の延長だと書かれている。

今、私たちは肉体の目でこの世の様々なものやことを見ていると思っているが、ACIMの中でイエスは実は真に見てはいないのだと言っている。また脳で様々なことを考えていると思っているが、実は真には考えていないのだと言う。

肉体の目…真に見ることはできない。

肉体の脳…真に考えることはできない。

肉体の目では闇しか見えない。それはエゴの弱さに拠って立っているから。エゴの闇の世界が見えているのだ。

神の強さの光があってこそ、私たちは真に見ることができ、考えることができるのだという。

光=強さ…自己     …愛し赦す

闇=弱さ…エゴ(偽自己)…裁き咎める

そうであれば、私たちに必要なのは光と強さである。

レッスン92は肉体の目を閉じ、真の自己に出会えるよう聖霊に導きを求める。この20分の練習を2回。

ワークをして

以前は朝晩短い瞑想していたこともあったけど、20分目を閉じて心を鎮めるということが久しぶりだった。

睡眠以外では、ネットやスマホ、テレビなどの音や情報、刺激にさらされ続けている。

そして、たいして忙しくなくても、何かやるべきことに煽られているような感じが常にある。

煽られ感というのはエゴからのものだろう。何にもなくても、アワアワしてしまう(要はビビリ)。

こういう時間のリズムは、故郷に帰省した際には別ものになる。自分の生活圏じゃないためか、時間がゆったり感じられ一日が長く感じられる。1時間という時間の体感がまったく変わって長くなる。「あれ、まだこの時間か」と思うことがしばしば。それがとっても不思議。

「忙しい」は「心を亡くす」と書くとはよく言うけど、実際心を亡くしているのかもしれない。現代人が忙しくするのは、真に見て感じることをしないで済むようにするためかもしれない。

改めて、心を鎮める、というのも、私に必要なことだなと思った。

レッスン91-奇跡は光の中で見える。

2017-03-25

レッスン91からはまた1つの学習の固まりが始まる。

私の今のワーク学習の仕方は、ACIMの学習サイトで英語を聴いて、

大畑学さんのA Course In Miracles Workbook 精読で短いパラグラフごとに英単語や解説を見て

『奇跡講座 ワークブック編で日本語訳を見て、、、と、まるで高校時代の英文読解みたいになっている。

和訳で通しで読んだ方が意味は理解しやすいけど、原文はどうなっているんだろう、と気になるし、2つの日本語訳を見比べると訳し方のちがいもあったりしておもしろい。

そうやっていると、文章読むこと自体にけっこうな時間がかかる。レッスン91からのワークは長文が多く手ごわい。また抽象度が高く、日本語で読んでもよくわからない部分もある。

ちなみに、一回目のワークはいつやってたんだろ、と気になってメモ帳を見たら、2014年の6月だった。6月にレッスン91から113まで仕事と並行しながらけっこう毎日まじめにやってた。少し若い自分が。

レッスン91:奇跡は光の中で見える。

レッスン91は「奇跡には心眼(ヴィジョン)が伴う」というACIMの中心概念から始まる。

奇跡は常にある。それが見えるにはヴィジョンが要る。

光の中では奇跡が見える。

闇の中では奇跡が見えない。

だから光は決定的に重要だけど、私たちの信仰心は今、光ではなく闇に向けられている。それを聖霊(=内なる強さ)のサポートを得て逆転させる必要がある。

レッスン91はその強さを自分の内に感じるワークだ。

どうやってかというと、自分への次の問いかけによって。

「奇跡は光の中で見える。

肉体の目はこの光を知覚しない。

しかし私は肉体ではない。私は何なのだろう?」

この問いに対する答えを心の内に探すことが、自分の強さに気づく方法だという。そして、内なる強さを体験し、神とのつながりの信頼感にくつろぐ。

ワークをして

私の場合は、この「私は何者か」との問いかけに対して、

「神の子」という答えが浮かんだ。

一方で、ACIMの教えどおりの「神の子」を実行することは、命綱なしで高い崖から飛び込むような怖さがある。

ACIMを学べば、安全ネットがあってやさしく受け止められるのだと知っているはずなのに。怖い。。コワイ。こわい。

私は自分の弱さに立つのか。

強さに立つのか。

「私は肉体ではない。」と言う時、それを否定したい気持ちがあった。

今、体のある症状に悩んでいるから、「体ではない」とはやりすごしにくいのだ。困ってはいるけど慣れてもいて医者にも行かず放置している。

その症状は、私の無意識の罪悪感や恐怖の象徴として私がゲンジツ化しているものだ。

だけど、ちゃんとこの世で“手当て”した方がいいかもしれない、とワーク中思った。放置していることが“温存”となっているのかもしれない。

 

私は奇跡が見たいし、ヴィジョンを得たい。

奇跡は真実の顕在化であり、そこにすでにある真実がヴィジョンによって見えてくるのだという。

私は紙の上で学んでこそいるけど、奇跡もヴィジョンも体感できていない。まだまだよくわかってないんだなと改めて思う。

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