51~60(復習Ⅰ)

復習Ⅰおわり-レッスン1~50

2016-09-21

ようやくレッスン1~50を復習する「復習Ⅰ」が修了した ♪

ワークブックの最初のこの部分は、「自分の現在の世界観の解体」に着手する部分だという。これまで自分が「世界」だと思ってきたものに揺さぶりをかける。

畑でいうと種をまく前の土壌を耕す段階―真実を受け入れやすくするための準備と言ってもいいのかな。

復習Ⅰのレッスン1~50の主題概念は下記のとおり(『奇跡講座ワークブック編より』。英語もシンプルだから、主題概念だけでも覚えたいと思っている。

 日本語 英語
1私の見ているものには 何の意味もない。1Nothing I see means anything. 
2私に見えて いるあらゆるものに、 私にとってそれがもつすべての意味を与えたのは私自身である。 2I have given what I see all the meaning that it has for me. 
3私に見えているどんなものも、 私は理解していない。 3I do not understand anything I see.
4これらの考えには何の意味もない。 4These thoughts do not mean anything. 
5私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。 5I am never upset for the reason I think.
6私が動揺しているのは、存在しない何かをみているからである。6I am upset because I see something that is not there.
7私は過去だけを見ている。 7I see only the past.
8私の心は過去の考えにとらわれている。 8My mind is preoccupied with past thoughts.
9私は、何も今あるままに見ていない。 9I see nothing as it is now.
10私の考えには何の意味もない。10My thoughts do not mean anything.
11私の無意味な考えが、意味の無い世界を私に見せている。 11My meaningless thoughts are showing me a meaningless world.
12私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである。 12I am upset because I see a meaningless world.
13意味のない世界は恐れを生み出す13A meaningless world engenders fear.
14神は意味のない世界を創造しなかった。 14God did not create a meaningless world.
15私の考えは、私が作り出した形象である。15My thoughts are images that I have made.
16私に中庸な考えはない。 16I have no neutral thoughts.
17私は中庸なものを見ていない。 17I see no neutral things.
18私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。18I am not alone in experiencing the effects of my seeing.
19私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。19I am not alone in experiencing the effects of my thoughts.
20私はぜひとも真に見たい。 20I am determined to see.
21私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。 21I am determined to see things differently.
22私が見ているのは、復讐の一形態である。 22What I see is a form of vengeance.
23攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる。 23I can escape from the world I see by giving up attack thoughts.
24私は自分の最善の利益を知覚していない。 24I do not perceive my own best interests.
25私は私が何のためにあるのかを知らない。 25I do not know what anything is for.
26私の攻撃的な考えが、決して傷つくことのない私の強さを攻撃している。 26My attack thoughts are attacking my invulnerability.
27私は何にもまして、私は真に見たい。 27Above all else I want to see.
28何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方で見たい。 28Above all else I want to see things differently.
29私が見ているあらゆるものの中に、神がいる。 29God is in everything I see.
30私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである。 30God is in everything I see because God is in my mind.
31私は自分が見ている世界の被害者ではない。 31I am not the victim of the world I see.
32私が、自分の見ている世界を作り上げた。 32I have invented the world I see.
33世界について別の見方がある。 33There is another way of looking at the world.
34私はこれを見るかわりに、平安を見ることもできる。34I could see peace instead of this.
35私の心は神の心の一部である。 私はとても神聖だ。 35My mind is part of God's. I am very holy.
36私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる。 36My holiness envelops everything I see.
37私の聖性が世界を祝福する。 37My holiness blesses the world.
38私の聖性にできないことは何もない。 38There is nothing my holiness cannot do.
39私の聖性が私の救済である。 39My holiness is my salvation.
40私は神の子として祝福されている。 40I am blessed as a Son of God.
41私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。 41God goes with me wherever I go.
42神が私の強さである。 ヴィジョンは神からの贈り物である。 42God is my strength. Vision is His gift.
43神が私の源である。 私は神から離れて見ることはできない。 43God is my Source. I cannot see apart from Him.  
44神は光であり、その光の中で、私は見る。44God is the light in which I see.
45神は心であり、その心と共に私は思考する。 45God is the Mind with which I think.
46神は愛であり、その愛の中で私は赦す。 46God is the Love in which I forgive.
47神や強さであり、その強さを私は信頼する。 47God is the strength in which I trust.
48恐れるべきものは何もない。 48There is nothing to fear.
49神の声は、一日中、私に語りかける。 49God's Voice speaks to me all through the day.
50私は神の愛によって支えられている。 50I am sustained by the Love of God.

レッスン60-レッスン46~50の復習

2016-09-19

敬老の日

今朝は母の電話で起きた。

朝刊を取りにポストを見たら、私が送った「敬老の日」ギフトがあったと。

ユニクロでベージュの薄手のセーターを買い、それにオレンジピールチョコを足してゆうメールをポストに入れたのが、土曜日の夕方。もう着いたんだ。

喜んでくれている。よかった♪

洋服はだれでもそうだけど、好き好きがある。とくに母はこだわりがいろいろ細かい。

過去も何度も“失敗”し、無駄遣いだと言われ、「もう服を買って送るなかれ」指令を受け取っていたから、止めようかなと思っていたけど、食べ物というのも同じくむずかしい。お菓子はひとり暮らしの私がもらってうれしい一方つい食べ過ぎて困るものだし…と迷っていたのだ。

ユニクロだったら、安いしシンプルだし、気に入らない場合は、私が引き取ればいいんだ、とそれにした。

小言を言われるの覚悟で送ってたから、「ありがとう、ちょうどよかった」と言われ、ほっとした。

幼い頃は「こわい」母が大きらいだった。早くから心のシャッターを下ろし自閉的に生きてきた気がする。

50代になった今。家族を作ってこなかった分自由で楽な一方、やはりさみしくもある。今は母がいてくれることがとってもありがたいのだ。

レッスン60-レッスン46~50の復習

ここ数日はレッスン60の復習をしていた。

主題概念は以下のとおり。レッスン46~50の復習。

46)神は愛であり、その愛の中で私は赦す。

47)神は強さであり、その強さを私は信頼する。

48)恐れるべきものは何もない。

49)神の声は、一日中、私に語りかける。

50)私は神の愛に支えられている。

               *   *   *

ワークブックのl60の説明文でとくに好きというか響いたのは、

「赦しは、私が自らの無垢性を認識するための手段である。それは神の愛が地上に反映されたものである。」(l46)

「私は、私自身の強さによって赦すのではない。私の中の神の強さによって赦すのであり、赦すとき私はその力を思い出している。」(l47)

「私が赦し、私を赦した世界の中に、恐れるべき何があるというのだろう。」(l48)

「私が赦すとき、神の子は無罪であることを、神の愛が私に思い出させてくれる」(l50)

気づいたらとくに「赦し」について書かれたところばかりだ。中でも「自分の強さによって赦すのではなく、神の強さによって赦す」という文言が響く。

なんでかな?

頑張って強くならなくていい、と思えるからかな。自分の中に「神」に通じるものを、ふっと、感じることができるからかな。

やさしくなった?

「赦し」という概念がどういうものかわかっているか、実行できているのかわからないけど、ワークを重ねてきて、

周りの人がやさしくなった、と感じることがある。それは、コンビニのやスーパーの店員さんが丁寧に接してくれる、とか、横断歩道で車がちゃんと止まってくれるようになった、とか、とってもささいな事。

そして親戚から、たまちゃんは「やさしくなった」と言われることが増えた。

自分が赦しによって自分を責めることが少なくなって肩の力が前より少し抜けたから、そう見えるのかな?

前にふと何かで見たのに、

「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」みたいな文があった。あれは…『なまけ者のさとり方』だっけ??

これを赦しで言うと

「赦すことがわからなければ、そのわからない自分を赦しなさい」となる。

わからない。

わからないけど希求している。それはわかる。

だから、ゆっくり導かれるままにやろう、と思う。

レッスン59-レッスン41~46の復習

2016-09-14

昨日、おとといはレッスン59をやってきた。主題概念は以下のとおり。レッスン41~46の復習。

41)私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。

42)神が私の強さである。心眼(ヴィジョン)は神からの贈り物である。

43)神が私の源である。私は神から離れて見ることはできない。

44)神は光であり、その光の中で、私は見ている。

45)神は心であり、その心とともに私は思考している。

               *   *   *

「神がいつでもともに行くというのに、どうして私がひとりになったりするだろう。神の中に完璧な確かさがあるというのに、どうして私が自分を疑ったり、自分に不安に思ったりするだろう… …自分についての幻想を大切にすることはやめよう」(l59)

主題概念のそれぞれの説明文が、いちいち私の心を揺さぶる。だから、とくに気になったところをもう一回書きたいと思うと、結局ぜんぶになってしまいそうだ。

ワークの内容はワークブックに書かれているのだから、私がそれを中途半端に抜粋したり言い換えたりしても、私には復習にはなるけどブログとしては意味ないな、と思っている。まあ、でも成り行きまかせにしよう。

上記のレッスンの主題概念の中で、もっとも好きなのが、l42の「神が私の強さである」というフレーズだ。

God is my strength.

God is my strength.

神が私の根拠だった…

この短い言葉を何度も心で唱えるだけで、なんとも言えない安らぎとなつかしさのようなものを感じる。なんとありがたいことよ!

だけど、一方で、ACIMに沿って生きられているかといえば、それはまた別のこと…になる。私の場合。

とくに誕生日月の今月、そして晩秋の11月あたりは、過去に思いが引きずられ、魂が旅をしたがる。

あの頃はああだった…

あの時ああしていたら…

ACIMには過去という概念はない。過去は幻であり後悔はエゴが仕掛けるトリック、心眼にはほど遠い。

そして5年に一度の免許証の書き換えのお知らせ…誕生日が過ぎたのにまた行けてない。

免許証に映る写真を気にしているのだ。更新手続きは誕生日後の一ヶ月ある。それまでに頬をちょこっと引き締めたいのだ(具体的にはフェイスストレッチ…今は顔ヨガというのか、をする、効果のほどは経験済み)。

姿かたちにこだわるとは、これもまた幻想への執着であってACIMの教えに反しているのでは…と思うけど、一方、少しでも若くと思うのも本音。

ワークを続けていたら、いずれ、私のこういう“煩悩”も薄れていくのだろうか。

何年後かにこのダイアリーを見て、「あの頃はまだ若く未熟だった」と振り返ることがあるか。それだったら、ダイアリーは軌跡として役にたつかのもしれないなぁ、と思う。

レッスン58-レッスン36~40の復習

2016-09-12

気温27℃。湿度が高く蒸し暑い。先週は一日の終わりの夜のワークがなかなかできず、レッスン58で足踏みしていた。

レッスン58の主題概念は以下のとおり。レッスン36~40の復習。

36)私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる。

37)私の聖性が世界を祝福する。

38)私の聖性にできないことは何もない。

39)私の聖性が私の救済である。

40)私は神の子として祝福されている。

               *   *   *

聖性とは、聖なる質を持った存在であるということ。私たちはもともと罪ある存在ではなく、無辜(むこ)であり無垢であるということ。

私たちは神から延長した神の子であり神と同じく聖なる存在である。それが私たちの聖性の根拠である。

このゲンジツの世では聖なるものとは対極なものばかりが目につくが、それは私たちが幻想を見ているからにすぎない。

自分の聖性を認め正しい見方を身につければ、「私に見えるのは世界の聖性だけである。なぜなら、私は自分自身について抱いている考えしか映像化することができないからである」(l36)

私たちが聖なるまなざしで見る時、私たちが目にする世界は祝福されたものとなる。

私たちの聖性を共有していないものはない。

「聖性の光の中で私が見るあらゆる人、あらゆるものが、聖性が私にもたらす喜びを共有する」(l37)

また「聖性は、その癒しの力において無限である」(l38)

そして、「私の聖性が私をすべての罪悪感から救うのだから、私の聖性を認識することは、私の救済を認識することである」(l39)

そして、ここがおもしろいというか気になるところなのだけど、「そして、私が恐れないからこそ、私の理解するところを誰もが必ず共有することになる」(l39)

「私が恐れないからこそ」なのだ。恐れなき状態でみんなの中にいること自体に大きな意義があるのだ。

そして、レッスン40では「私は神の子として祝福されている」と、一巡して締める感じ。神の子だから⇒聖性、聖性だから⇒世界を祝福する、私は神の子=祝福されている。

何より勇気づけてくれることばは、「すべてのよきものは私のものである」「私は神の子であるからこそ、何かを失ったり奪われたり、苦痛を被ったりすることはありえない」(l40)根拠は神の子たる私たちが幻想以外で神以外の特質を持ちえないから。

だから、必要なことは、ただこの世の幻想性を手放し、あらゆるものを聖なるまなざしで見ること。

はっきり理解はできないし正しい見方が身についているわけでもないけれど、私は、私たちがそもそも「何かを失ったり奪われたり、苦痛を被ったりすることはありえない(それは神の意図ではない)」と言われたことで、大いに気が楽になった。

漠然とだけれど、「こんな私が幸せになってはいけない」みたいな思いでずっと生きてきたから。ACIMから無辜だと言われたことで体から力が抜けて許されていくのだ。

だから私も赦す。

罪なき心に痛みはありえない。欠乏し痛んでいるとしたらそれは幻想を見ている証拠だ。それを赦す(手放す)よう努めるだけだ。

レッスン57-レッスン31~35の復習

2016-09-06

初秋に思うこと

2013年の6月からスタートしたACIMのワーク。2015年12月にようやく365のワークを終えた。そしてその後今年5月から2巡目を始めた。

昔のノートを見て返してみたら、3年前の9月3日にレッスン57をやっていた。この頃は仕事がとても忙しく、その忙しさのなか必死にワークを進めていた様子が見える。途切れながらも頑張っていたが、秋半ばレッスン80あたりでとうとう中断、翌年3月にレッスン30から再スタートしている。

この3年と数ヶ月、私は成長しているんだろうか。

自分ではわからない。仕事が徐々に減り、とにかくワークを終わらせたいからむしろいいんだ、と思ってきたけど、気づくと元々ビジネス向けでない性格がさらに隠遁者のようになっており、むしろ社会的には後退というか、大問題になっている気もする。

父の介護が必要になってきたあたりから、故郷の富山に頻繁に帰省していたこともあって、忙しくなりすぎることを恐れていた。その頃から「東京にがっしり根付きたい」という意識が持ちにくくなり、故郷にいる両親のことが気になるようになってきた。

昨年父が亡くなり、この夏、一人で住まう母の姿を見て、ますます故郷が気になってきている。

でも、潔癖症の母と一つ屋根の下に暮らす自信はないし、東京での一人暮らしに慣れた身にとってご近所の目を気にする田舎は窮屈な気がして、決意ならず。宙ぶらりんな感じ。

もしいずれ母の介護が必要になったら、住まわざるをえないとも思う。だったら早めに舵を切ったらいいのではないか。でも、仕事はどうする?向こうで勤めるなんてこと、集団や組織が苦手な私には想像しにくい。

できたら、ノマド生活というか、どこでも働けるネットビジネス的なことができないかな~というのが、今の私の思うことだ。要するにワガママで選択肢があって恵まれている、ということなんだろうけど。

こういうぐるぐるした考えは、いかにもACIM的ではない。

ホーリースピリットからの導きは…?

ちゃんと受け取れているわけではなくなんとなくだけど、

ずっと前から故郷で住まうことを勧められているような気がする。

でも、じゃあどうやって?

気がするというけど気がするのは本物?

と、また考えは廻る。

レッスン57―レッスン31~35の復習

レッスン57の主題概念は以下のとおり。レッスン31~35の復習。

31)私は自分が見ている世界の被害者ではない。

32)私が、自分の見ている世界を作り上げた。

33)この世界について別な見方がある。

34)私はこのかわりに平安を見ることもできる。

35)私の心は神の心の一部である。私はとても神聖だ。

               *   *   *

私たちが住むこの世界は、自然災害がありテロへの恐怖があり、貧困があり、仕事で理不尽なことがあったり、病気になったり、思うにまかせない世界だ。もちろん夢がかなったり成功したり…もあるけど、それは一時的なことにすぎない。ACIMはこの世を自分が自分を囚われの身としている「牢獄」だと言っている。

ただ「この牢獄は私自身が作り上げたものだ」(l32)

「私を縛る鎖はゆるんでいる。私はそうしたいと望むだけで、鎖をはずすことができる。牢獄の扉は開いている」(l31)

「ここにとどまりたいという私の願望だけが、私を囚人としている」(l31) のだ。

この世を牢獄にしているのは私たちがエゴの見方でものごとを見ているからだ。エゴの見方の根底には、恐れと罪悪感があり、それが私たちを見えない牢獄に縛りつけ罰を与えている。

でも私たちは「すべてを逆さまに見ていて、私の考えは真理とは正反対になっている」(l33)

「私はこのかわりに平安を見ることもできる」(l34)

つまりエゴの見方を捨て、心眼(ヴィジョン)でものごとを見ることができれば、艱難辛苦のベールの向こうにある自由を感じ取れる。

そこにあるのはたしかに神の法則だ。

神の法則を見るためには、赦すこと。この世の幻想性を受け入れ、自分の心の奥にある神の世界のリアリティに立つ。

赦せば赦される。

私の偽りの罪が購われて、「自分を含めた生きとし生けるものの聖性、それらのものと自分との一体性を理解し始める。」(l35)

               *   *   *

私はACIMの美しい世界に憧れを感じるけど、それはまだ憧れレベルなんだな。それをこのゲンジツの世でどう生きたらいいのかは、まだわかっていない。

わかろうとするのを自分で邪魔しているのか。扉の外から「おいで」と声をかけられて牢獄の片隅で身を固くしているのだろうか。とも、ふと思う。

レッスン56-レッスン26~30の復習

2016-09-02

9月か…。まだ蒸し暑い。けど真夏の攻撃的な暑さじゃない。9月、10月はものごとを進めるのにいい季節だと思う。読書の秋、芸術の秋…こころに染みる秋の始まりだ。

ワークを進めながらダイアリー・ブログには何書いたらいいんだろう、と未だ迷走中だ。でも、どんなかたちでもアウトプットをすると、学んだことが定着する気がする。書くことで気づいたり理解できたりすることもある。

レッスン56は次の5つの主題概念を復習した。

26)私の攻撃的な考えが、決して傷つくことのない私の強さを攻撃している。

27)何にもまして、私は真に見たい。

28)何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方でみたい。

29)私が見ているあらゆるものの中に、神がいる。

30)私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである。

レッスン26~28

神を自分の意志で離れた、と勘違いしている私たちは、神はひどく怒っており報復があるにちがいないと死ぬほど恐れている。その罪悪感と恐怖はあまりにも大きいため自分で意識することすらできない。だけど常に私たちの根っこにある。

だから私たちは「自分自身を常に攻撃にさらされている者」と感じ、「苦痛、病気、損失、老齢、死などが私たちを脅かしているように見える」(l26)

これがエゴの見方であり、まさに私たちが日々見ているのがこれだ。人生の前半は夢や希望や野心とともにポジティブに人生に挑んでいける。しかし中年期以降になると、夢を実現していようといまいと、おカネがあろうとなかろうと、自分の人生は自分ではコントロールできない何かに翻弄され脅かされ続けている、と感じることが多くなるのではないだろうか。

でも、ACIMは、まったくちがうという。私たちは真に神の延長であり、神の「完璧な安全と完璧な充足感」こそが私たちが神から賜ったものだという。「私自身の真の想念が、それが何であるかを教えてくれる」(l26)

だからこそ、「何にもまして、私は真に見たい」(l27)と思うことが第一歩だ。正しい見方、心眼(ヴィジョン)を得ることによって、真実を見ることができるようになりたいと自分を方向づけするのだ。

今、私たちが見ている世界は、エゴの自己像の投影だ。たとえ病気の世界が見えていても、借金だらけの世界が見えていても、いじめの世界が見えていても、それらはすべて自己イメージをこの世というスクリーンに自己像を映し出しているにすぎない。

今いるこの世界は、映し出された結果の世界だ。私たちはこれを「嫌だ」「困った」「ひどい」「許されない」などとみんなで言い会う。それによって幻想を支えあってリアルにしている。もちろん、一人ひとりの私たちにはそんな意識はないけれど。

罪悪感と恐怖に満ちた自己イメージを手放すことこそが、私たちを真理に導く。真理は失われたわけではなく私たちの心の奥底に息づいて、今もあるのだから。

ただまやかしの自分を幸せにしてくれる種をいくつ手に入れても、効果は一時的で心に奥底にある恐怖と罪悪感が返ってくる。

その間違った見方は、私たちを常にストレスにさらし不安にする。

だから、その見方を矯正したい、「何にもまして、わたしはものごとをこれまでとは違った見方で見たい」(l28)と心から願うのだ。

「今見ているように、世界を見ている限り、私は真理を自覚できるようにはならない。この世界の背後にある扉を、私のために開いてもらおう」」(l28)

「そうすれば、そこを通り越して、神の愛を映し出す別の世界を見ることができるようになる」(l28)それが、実相的な世界を見る心眼(ヴィジョン)だ。

レッスン29、30

私たちが住むこのゲンジツ世界は、真理を覆いかくすベールがかけられた幻影だが、「すべてのベールの背後で、愛の光は今も翳(かげ)ることなく輝いている」(l29)

私が見ているあらゆるものの中に、神がいる(l29)。

私たちが見ているこの世は、神が作られたのではない。これは勘違いした私たちが神の報復を恐れて作った間違った自分=エゴが作った偽りの仮想世界だ。

私たちが恐怖の自己像を手放し、心の奥に持っている神を呼び起こしさえすれば、私たちが目にするものは変わる。そして世の中は変わる。

私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである(l30)。私たちが自分の恐怖や怒り、罪悪感に気づいて赦すと私たちの心の奥にある神の存在に気づくことができる。そして、この仮初めの世に内なる神を投影できた時、目にするすべてのものは神を表すものとなりうる。

               *   *   *

結局、復習しつつ解釈して書き映しになってしまった。

エゴの見方から、実相を見る見方へ、日々訓練。

これって筋トレみたいだな。

最初は負荷が小さい、守られた静かな空間で。理屈が浸透してきたら、負荷をかけて人との関わりの中で。

秋…からだを動かすにもいい季節だな。

レッスン55-レッスン21~25の復習

2016-08-29

8月最終週。けっこう涼しくなって暑さは一息。

台風10号がリターンして戻ってくるらしい。あさってあたり東北が大荒れだとか。農家の方は気が気ではないだろう。お天気、なんかやっぱり極端だ。私は、ぎっくり腰が長引いて思うように動けずイラつき気味だった。

レッスン55。下の5つの主題概念を復習。

21)私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。

22)私が見ているのは復讐の一形態である。

23)攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる。

24)私は自分の最善の利益を知覚していない。

25)私は、何が何のためにあるかを知らない。

レッスン21~23

私たちが見ている世界は、「あらゆる者があらゆるものを攻撃する図を描いた映像」(l22)だ。そして「こうした映像を生じさせているのは、私自身の攻撃的な考えである」(l22)

したがって「攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる」(l23)

すなわち、攻撃的な考えがあるからこそ、それがゲンジツ世界に投影されているわけで、それがなければ、こうした世界が見えているはずはない。だからこそ、攻撃的な考えを手放すことによってのみ、私たちはリアルな愛の世界を見ることができる。

ここでいう攻撃的な考えは、人に対する攻撃や怒り、侮蔑といったものもそうだし、自分に向けられた過度の自責や自己嫌悪、さらに広くは過去への後悔の思いや未来への心配といったものも含まれるのだろう。

自分が攻撃的な考えを持っている時には、逆に周りに攻撃されている、と知覚してしまう。だから正当防衛せねば…とやっていると、それをどんどんゲンジツ化してしまって、ますます攻撃的な世界に住まうようになってしまう。

それが、今私たちが向かっている世の中なんだろうか。

先週はサマーランドで女性客9人が何者かに刃物でお尻を切りつけられる事件があったり、二世俳優の強姦致傷事件があったり…と、強い攻撃性が見ず知らずの女性に唐突に向かられたかのようなショッキングなニュースが続いた。

これも私の攻撃的な考えの投影なんだろうか。私が持っている攻撃性が、こうして世の中に投影されているんだろうか。

私がニュースをつい見てしまって反応しているということは、私ともちろん関係あるんだろう。

『神の使者』だったか、その次の本だったか、ゲイリー・R・レナードさんの著書で、アサンディッド・マスターのパーサが、

「これまでの前世で人を殺したことのない人なんていないのよ」と言っていたのを思い出した。

私たちは、加害者になったり被害者になったり、役どころを変えながら、いわゆるカルマをくりかえしていくという。そしてその二元性のダンスは永遠に形を変えながら続く。

もちろん、この世界でのルールに従って罪を償うことは必要だけど、この現実と呼ばれる世界が実は幻想だと認めて、それを赦すこと。それだけが、幻想に力を与えず、攻撃の世界から愛の世界へ移る道なんだ。

ただ、当事者にとって、それは計り知れないむずかしい道だろうとも思う。そして、何かしらの当事者でない人は、この世に生きていない。

レッスン24,25

私たちはいつも目標を立て頑張る。自分にとって「最善の利益」(l24)を求めて。それは仕事の成功だったりおカネだったり社会的名声だったり、受験や資格の合格だったり、恋愛だったり結婚だったり、子宝を授かることだったり…。

だけど、ACIMはそもそも「自分が誰であるかを知らないというのに、どうして自分の最善の利益が認識できるだろう」(l24)と言う。私たちが最善の利益だと思っていものは、私たちをこのゲンジツの世界につなぎとめるだけのものだと。

「私にとっては、あらゆるものの目的は、私が自分自身について抱いている幻想が実在のものだと証明することである」(l25)

つまり、私たちは、ただこの幻想のゲンジツの世を、お互いに支えあっているだけ、ということ?

「世界の真の目的」(l25)とは、この世のすべてを幻想だと認めて赦すこと、それによって実相世界へ戻るためのもの。そのための仕掛けだと認識して用いること。

それはエゴに支配され、幻想を現実と信じ込み、暗闇で手探りで歩いているかのような私たちにとっては非常にむずかしいことだ。自分だけじゃできないと認めて、「それを見つけられるよう神が私に与えてくれた導き手に喜んで」(l24)従うことが、今できる最善のことだと言う。

この「神が私に与えてくれた導き手」こそ、ホーリースピリットだ。勇気を出して、ホーリースピリットの内なる静かな声を聴き分け、それを生きること…なんだな。

気づくと、長々と解釈ともいえないワークブックの書き映しになってしまった。私には「復習」になっているけど、とてもダイアリーとは言えないなぁ。ACIMを学習していてわからない点を掘り下げたいとも思うけど、何がどうわからないのか文章化するところまでできていない。

ホーリースピリットは私に何を求めているのか。

私はちゃんと聴けているのか。

レッスン54-レッスン16~20の復習

2016-08-25

レッスン54をやりました。

主題概念は以下のとおり。

16)私に中庸な考えはない。

17)私は中庸なものを見ていない。

18)私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

19)私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

20)私はぜひとも真の見方で見たい。

私たちが考えることにはパワーがあり、それぞれの考えは偽りの世界を強めるか、真実=実相の世界を強めるか、そのどちらかで、中間はない。

そもそも、私たちは自分の考えを投影してこの世のゲンジツを見ているのだから、いわば色メガネを通して世界を見ているようなもので、見えているものはニュートラルではない。私たちがその色メガネを変えたならば、見えてくる世界も当然変化する。

そして、私たち神の子は神から分離した後、さらに個々の肉体に分裂しているけど、実際には、ひとつだ。だから、私の見方が変われば、それは伝播して他の人も変わるし、私の考えが変われば当然他の人も、周りも変わる。大きなひとつの世界だから、誰かだけが忘れられていたり、誰かが出しぬくなんてことはありえない世界なのだ。

そして、見方・考え方が変われば、当然見えてくる世界も変わる。それを体験すべく真の見方で、私は見たい。

上記5つの主題概念は、私が自分に対して平たく言うと、こんな感じか。

今は、ひとり暮らしのいわば“隠れ家”でワークをして学んでいる時は、「ACIMのごくごく基本的な考え方、見方は身についたかな~」と思っている。でも、ひとたび家族や友だちと話したり仕事関係の方とやりとりしたりするだけで、気づくと幻想世界ですったもんだしている。

これまで私がACIMについてやってきたことは、畳の上で水泳教本を片手に足をバタバタさせてみたり、顔をあげて息継ぎの練習をしてみたり…、といったことかもしれない。

そろそろ水着に着替えて、水に入らなきゃ(おそいけど)

もっと人と積極的に関わり、その中でACIM的に見る、話す、それが必要かなと思う。

レッスン53ーレッスン11~15の復習

2016-08-22

節目を越えた!?

日本には今3つの台風が来ているらしい。ここでも台風9号の影響で、外は猛烈な雨と風だ。土砂崩れや川の氾濫などの災害がないといいけど。

明日は処暑。暑かった夏も一区切り、秋に向けてまた一歩季節が進む。

天皇陛下の生前退位への「お気持ち」表明、SMAPの解散報道、オリンピックのメダルラッシュとそれぞれの感想ドラマ… 、暑くて濃かった。後々、こうしたことがごちゃまぜになって「2016年 夏」を思い出すのかな~。

何かしら大きなターニングポイントというか節目を迎えた、いや、超えたのだ…と感じるのは、私だけだろうか。

それは時代なのか、価値観なのか。これまでに潜在的に育っていたものがまだまだ表面に出てくるのだろう。新しいうねりに合わないものは存在しえないから、私たちを含めそれぞれが変化を余儀なくされるだろう。

今年55歳になる私のところには、区の「節目検診」なるものの案内が来た。通常の検診に加え、いくつが追加項目があるらしい。お盆前その中のまず骨密度測定に行ってみたら、5年前より骨密度が20%も減少していた!

骨粗鬆症なんて骨太の私には関係ないと思っていたけど、大事なのは太さではなく密度だった、このまま減り続けたらまずい。帰京後、ぎっくり腰になってしまった。これは骨密度と関係あるのか?

世の中だけでなく私もやはり節目…を越えたのだ。来月は誕生日月。55歳を車でいうところの「車検時期」と捉えて、メインテナンスや生活習慣の改善をしていこうと思うにいたった。やがて来たる高齢期に向けての準備でもある。

お盆帰省は、お墓参りの他、親戚と会ったり母と日帰り温泉に行ったり、金沢在住の友人と会ったり…と、私にしては賑やかな時間だった。母がいる故郷がある、ということがありがたい。文字どおり 有難いこと。

レッスン53-レッスン11~15の復習

さて、帰京してから、レッスン53をやった。

11)私の無意味な考えが、私に意味のない世界を見せている。

12)私が動揺しているのは、私が無意味な世界を見ているからである。

13)無意味な世界は恐れを生み出す。

14)神は無意味な世界を創造しなかった。

15)私の考えは、私が作り出した形象である。

これらの主題概念は、お盆で母と故郷での思い出にガタついた私の心に刺さるものがあった。

特にレッスン15の一人称で語られた説明文が、心の奥を揺さぶった。

「私に見えているものは何でも、私の考えを反映している。」

「苦しみや損失や死の世界が見えているという事実が、自分の狂った考えの表象だけを見ていて、私の真の想念が私の見ているものに優しい光を投げかけるのを、私自身が妨げていることを示している。」

そして、

「神の道は確かである。私が作り出した形象が神よりも優位に立つことはない。そうなることは私の意志ではないからである。私の意志は神の意志であり、私は神の前にほかの神々を置くつもりはない。」

ワーク瞑想をしていて感じたのは、

「実相からの光を、もしかしたら私は拒んでいるのではないか?」ということだった。

その光によって、人生が大きく変わってしまうのを恐れているのではないか…

ふとそう思った。

レッスン52-レッスン6~10の復習

2016-08-16

親離れできていない中高年シングル(バツあり)

まだ富山にいる。明日帰京する。

故郷や家族というのは不思議なものでわずか数日でも、独特のにおいや雰囲気に引き戻される。

早朝4時半、母の罵声で目が覚める。

「この子は本当に頭が悪い子だ。なんで下まで下げるのか」

何のこと?

私は隣の和室に敷いたふとんの中でまどろんだまま状況を推し量る。どうも昨夜居間のルーバー式電動シャッターを下まで下したのが、母の意にそぐわなかったらしい。「電気代はかかるは、風は通さないわ、いいことない」

後で確かめたところ1、2㎝開けておくのが好み(?)らしい。ゴミの捨て方、スリッパのはき方、換気扇を付けるタイミング、戸の開け閉め、実家には母が独自に決めた細かいルールがあり、私はそれがなかなか覚えられず、四六時中叱られるはめになる。

「何細かい事言って」とはいい返したりもするが、たいがいは口答えをすることもなく「はぁ」と気の抜けた返事をする。母は80歳、娘の私はすでに50半ばだというのに、その関係は私が故郷にいた高校生までの頃と大きくは変わらない。

私が自分の主張を表さず「感情のシャッター」を下すのは物心ついた頃からの性分だ。どちらかというと頑固な方で決して納得しているのではない。だが、生まれて初めて出会った人間である、若かりし母が私にとって絶大な力を持っていたから、戦うことなく自分の気持ちを内に秘めたまま黙りこくり自衛するくせがついた。

結婚して母となって母と真っ向からぶつかって覇権を勝ち取った妹とはちがって、中高年シングルの私は実家では子どものまま。下手なことをして叱られるよりは、母の判断を仰ぎその指示を実行しておく。

18歳で首都圏の短大入学のため実家を出て、24歳の時、ここ富山でお婿さんをとる形で結婚した。でもうまくいかず翌年離婚した。

保守的な土地柄、世間体を重んじる母にとって、私の離婚は忸怩たる思いだったと思う。

あれは今から覚えば、母への遅い反抗や仕返しの意味も含まれていたかもしれない。

今、実家に跡継ぎはおらず、私は孫の顔を見せることもできなかった。「あんたの子がいたら、さぞかしかわいかったろうに」と漏らす老いた母に、心のなかで「ごめん」と言う。

母と二人でお墓参りをする。このお盆の頃は私の心がもっともざわつく季節である。

でも、ふと我に返ると、ACIMに先祖や子孫という概念あったっけ?、いや先祖や子孫どころか過去や未来も実相にはなかった、と思い出す。

レッスン52-レッスン6~10の復習

13日、14日、レッスン52をやった。レッスン52はレッスン6~10の復習。

6)私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。

7)私は過去だけを見ている。

8)私の心は過去の考えにとらわれている。

9)私は何も今あるがままに見ていない。

10)私の考えには何の意味もない。

レッスン6~10がこのような主題概念だったことをすっかり忘れていた。

そして、以下のようなそれぞれのワークの説明がいちいち心に刺さった。

6)私が動揺しているとき、その理由は常に、私が自分で作り上げた幻想を代替としてしまったからである。

7)過去を理由にすべての人やものを責めて、彼らを私の敵としている。

8)私は自分の心の中に現在が姿を現すのを防ぐために過去を見ているということを、思い出せますように。自分が神に対抗して時間を使おうとしているということを理解できますように。

9)見ることができるものは、今あるものだけである。選択肢は過去を見るか、現在を見るかではなく、見るか見ないかだけである。

10)私には私的な考えというものはない。それなのに、私が自覚しているのは私的な考えだけである。(中略)それらは存在していないのだから、何も意味していない。

私は、自分ひとりのテリトリーである東京の家でワークをしている時は、「うまく」ワークできてたと思っていた。けど、ただ主題概念の表面をさらっていただけだな、と思う。それはそれで、ACIMの考え方を浸透させる上では意味があったと思うけど、私の心は過去という赦すべき幻想でいっぱいだ。

そして強大だった母が老いることに不安も感じていて、未来という幻想にも怯えている。

ACIMの世界と、このゲンジツの世界、二層を行ったり来たりしている感覚がある。

レッスン51ーレッスン1~5の復習

2016-08-14

お墓参り&浄土宗

昨日、朝早くと夜、母とお墓参りに行ってきました。

夕方には市内にある仏舎利塔にもお参りに行ってきました。

仏舎利塔がある丘から市内を見渡すと遠くに海が見えます。

日本海に沈んでいく夕日は、故郷の古い記憶を呼び起こします。

今日は門徒になっているお寺のお坊さんがお経をあげに来られました。

母は、亡父が好きだった栗きんとんを出しながら、友達の骨董屋さんに騙されては偽物ばかり買わされていたという父のことを「本当に見る目のないバカな人だった…」とグチを言います。

「お母さんは、そのお父さんのおおらかな審美眼で妻に選ばれたんだよ」と私。和尚さんはニコニコ笑っておられました。

和尚さんが帰られた後、京都在住で法事に来られなかったいとこ夫妻も、線香をあげにきてくれました。社交的な性格の母は久しぶりの来客に嬉しそうで、一人しゃべりまくっていました。

私はACIMの学習者であり、家は浄土宗。

仏壇が大きく金ぴかなことでも知られる富山。家意識と信仰心が強く先祖供養の慣習もいろいろあります。

私は東京で一人暮らしをしている時は、自分の嗜好を持ち自分で考えているかのように思っているけど、実家に戻ってくると、一気に実家の、というか母の空気に吞まれてしまい、自分が思っていたことのリアリティが薄くなってしまいます。一日中話している母の話を聴いて答えるのに精一杯で、「脳ジャック」されてしまっているのかもしれません。ダイアリーもいつもに増してまとまらない…。

レッスン51

富山に来る前日、レッスン51をしました。

レッスン51~60までは「復習Ⅰ」で、これまでの50のレッスンを、1レッスンに5つずつ復習していく。

レッスン51は以下の5つ。

1)私の見ているものには何の意味もない。

2)私に見えているあらゆるものに、私にとってそれがもつすべての意味を与えたのは私自身である。

3)私に見えているどんなものも、私は理解していない。

4)これらの考えには何の意味もない。

5)私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。

おもしろいなと思ったのは、復習Ⅰの序文に復習全体に対する留意点があり、

「できれば静かな場所でひとりになれるときに目を閉じて演習を行うようにする。今のあなたの学びの段階では、そうした状況下に練習することが重視される。」と書かれている一方で、

「すでに穏やかで静まったかに見える状況よりも、動揺させられるような状況の中でこそ、こうした学びが必要とされる。あなたの学びの目的は、あなたがいつも静けさを携えていられるようにすること、そして苦悩や混乱を癒すことができるようにすることにある。それらを避けて、自分ひとりになれる避難所を求めていたのでは、この目的は達成されない」(ワークブック編P113)とあったこと。

最後の一文に笑ってしまった。

私のフリーランスでの仕事&一人暮らしの家は、まさに「自分ひとりになれる避難所」であり、私がワークブックを一巡させた約2年半はほぼそういう環境下だった気がするから。

もしかしたら、2巡目は「避難所」を出てもっと「動揺させられるような状況」を求めた方がよいのかもしれない。

そういう意味では、この家族の距離感が近くて良くも悪くも一人になれない実家というのは、もうワークのビギナーではない私にふさわしい場なのかもしれない、と思った。

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