151~170

レッスン160-私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

2017-11-06

レッスン160-私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

I am at home. Fear is the stranger here.

このレッスン160の原文の「stranger」という語を、中央アート出版社版は「異邦人」と訳していたが、異邦人という言葉は若かりし頃ヒットした久保田早紀さんの歌のイメージしかなく(素敵な歌だった)、私には少し違和感があった。大畑学さんの訳のほうは「よそ者」となっていて、こちらの方がすんなり受け入れられた。

このレッスンが言いたいことは、ざっくり次のようなことだと思う。

神なるものと恐れは共存できない。

だけど、今は神の子である私たちの心の中に、恐れという「よそ者」がいる。

それは、私たちが自ら招き入れてしまった者だ。

私たちは本来の自分自身を否定してしまい、よそ者を住まわせ自分を明け渡し、今やそのよそ者に乗っ取られていることすら意識していない。幽霊に憑依されているようなものだ。

その状態では、自分が何者かを認識したくともできない。私たちは迷子になったままだ。

しかし、私たちの心の奥には真の自己がある。この自己は神とつながっている。よそ者を追い出して本来の自分を取り戻すには、この神を確信するだけで充分だ。

私は神の子であり、その私こそがここにいる。この私は恐れとは共存できない。

神の子を幻想から目覚めさせるホーリースピリットに感謝しよう。そして私も同じように見よう。

ワークをして

26、27、29、30日と足踏みしつつワークした。

夜はリサイクルセンターの抽選でゲットしたS字チェアで瞑想ワークをしていたけれど、いよいよ寒くなってきて長いこと座っていられなくなってきた。

最近感じるのは、やはり「感謝」が大事だということだ。神の愛とは、一般的に使われる愛というよりは感謝ではないか。神自体が感謝なんだろうと思う。

私は幼い頃から暴力的な母親に反抗心を持って育ち、感謝ということをしなかった。

表立って反抗することはできず心と裏腹に行動は従順に、という今から思うと可愛げのない内向的な子どもだった。心に反抗心を抱くばかりで育ててもらって、あたりまえと思っていたのだ。

だから、感謝ということばと形は知っているけれど、その実、よくわかっていないのかもしれない。

「ありがとう」と口に出すことが感謝ではないだろう。それは挨拶のようなものかもしれない。私は、感謝をしようと思ってはいるけれど、できていないのかも。ワークをしながら、そんなことを思った。

そうしたら、自分に感謝してごらん、と言われた気がした。

わからなくてもいい、ありがとうを、ここにこうしている自分に言うのだと。

それでそうしてみた。

なにかほころんでいく気がする。

普段は、知らず知らずのうちに体や心に力が入り緊張し(=不安)、劣等感や申し訳なさでコチコチなのかもしれない。

要するに、この世はプロジェクターで映されたスクリーンにすぎないのだから、いつ、だれにありがとうといっても、それは自分自身に言っているのと同じなのだ。

もちろん、自分に言うよりは目の前の同胞に言った方が自然でたやすい。

でも、わからなくなったら、なぜ「ありがとう」なのかもわからなくても、「ありがとう、私」と言ってみてもいい。そう思った。

くりかえし、いつもおんなじこと、言っているけれど。

浮かんだことば

ありがとう、わたし。ありがとう、ホーリースピリット。ありがとう、かみさま。

レッスン159-私は自分が受け取った奇跡を与える。

2017-10-31

もうひとつのライフワーク候補『源氏物語』

10月ももう最後の日。1ヶ月が早いなぁ。

日曜日、友人に声をかけてもらって『源氏物語』の講座に参加した。前に、私が源氏物語に興味を持っていて「源氏物語を原文で読んでみたい、ライフワークにできたらいいな」と言っていたことを覚えていてくれたのだ。

源氏物語は、約100万文字、400字詰め原稿用紙で約2400字の大作。以前にマンガや現代語訳で読んで、すばらしい、と思った。1000年前に書かれたとは思えない。恋愛、親子の情愛、栄枯盛衰、嫉妬、裏切り、因縁、人間の営みのすべてが入っている。レディ・ムラサキこと紫式部は日本より海外で著名らしい。あの時代に女性がそのような長編文学を書いていたなんて…、すごい。

友人はその時「いいね、いっしょに源氏物語をライフワークにしよう」と言ってくれた。けれど、その後、私は急速にトーンダウンしていた。

これを原文で読むのはなかなかハードだ、ましてや私には優先すべき『奇跡講座』がある!テキスト、ワークブック、マニュアルもまだまだ途上だ…。そう思いかえし源氏物語のほうは頭の片隅に追いやられていたのだ。

おととい50年も源氏物語を研究なさっている造詣が深い先生のおはなしを伺って、また興味をそそられた。

源氏物語も読んでみたいな、古文で。そう思った。

源氏物語と奇跡講座。

両方を学ぶのはとても私の持ちじかんでは足りない。いや、そのひとつでも足りないだろう。でも、いいな。すてきだな。

どっちも時間はかかるけれど、おカネはかからない。こつこつ学んでいくのが好きな私には、ぜいたくな時間じゃないかな。もちろん、生活が安定してこそのライフワークと思うけれど。

思えば、源氏物語のほうは二元論の映し絵の世界の代表、奇跡講座は一元論の真実を描いたもの。今、私がいるのは二元論の世界だけれど、この2つを通して、今も昔も変わらない二元論の世界と真実の世界を知るのはおもしろいんじゃ、と思う(こじつけかな?)。

レッスン159-私は自分が受け取った奇跡を与える。

この世では人に何かをあげることと受け取ることは別個のこととされているけれども、実相ではあげることと受け取ることは同じ。他者に差しだすことによって、自分自身のものとして認識される。

赦してこそ、赦される、癒してこそ、癒される。わかちあわなければ、まだ自分のものにはならないのだ。

レッスン159で、わかちあうのは「奇跡」だ。

「奇跡」という言葉も、『奇跡講座』のキーワードの一つ。「奇跡」とは真実が顕在化すること。何かミラクルなことを起こすことをさすのではなく、すでに在る真実が私たちの物ごとの見方が変わることによって見えてくる。もの物ごとの見方の変革を差す。

奇跡によって見えてくる光景がヴィジョンだ。

私たちはヴィジョンをわかちあうことによって、奇跡をわかちあう。

キリストの 心眼ヴィジョンは奇跡であり、その中ですべての奇跡が誕生する。キリストの心眼はすべての奇跡の源であり、あなたが与えるどの奇跡にもとどまり、かつあなたのものでもあり続ける。(L159-4-1,2)

このヴィジョンの下では、罪のある者も罰せられる者もいない。病も欠乏もない。

奇跡はすでに私たちの心の「キリストの宝庫」に与えられている。それを他者に与え、わかちあうこと。それが私たちがその宝を手にする方法である。

あなたが与えることができるように蓄えられているキリストの奇跡を見なさい。それは神があなたに与えると約束した贈り物である。その贈り物に、あなたはふさわしくないだろうか。神の子を裁いてはならない。それよりも、神が定めた道を進みなさい。(L159-10-1,2,3)

ワークをして

このワークをしたのが、10月24日、25日だ。

いつもワークといいつつ、いろんな雑念が頭をよぎっていく。

またワーク中に生前の父のイメージが出てきた。

私の関心が父に向かったのは父が病気になってからだけど、もっと元気なうちに話したり時間をともにしたりすればよかった。いろいろと期待を裏切ることばかりで、申し訳なかった、と思った。

お父さん、ごめんなさい。そして、ありがとう。お父さんが大好きだよ。

こういった思いを抱くのは、私がヴィジョンを身につけておらず、幻想を見ているという“証拠”なのかもしれない。ACIMから見たら、神との分離を投影したまったく見当違いのイメージなんだろう。

でも、そう思っている、そう見えている自分のことを赦した。

そして、父のイメージに、ありがとうと言った。

気持ちが少し和む。やっぱり元気な時に言いいたいことばだなと思う。

他にもいろいろ思ったけれど、今日はこれで。

浮かんだことば

自分が与えなければ、自分に与えられていることがわからない。

レッスン158-今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。

2017-10-24

レッスン158-今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。

レッスン158では「智識(knowledge)」「啓示(revelation)」「心眼(vision)」といった抽象概念を説明しているけれど、それらはもちろん形があるものではないし経験もしていないので、わかったようなわからないような…。むずかしく感じる。

その私がこれを説明しようとしても、ますます「?」だけど。

智識… 私たちが「神の心の中にある」という、そのことを知っていること。それゆえに本来、罪も恐れもない。

啓示… 神と一つだという、神との直接的体験。

心眼ヴィジョン… 心の眼でみる真実の光景。

…かな?

智識は、すでに生きるものそれぞれに与えられている。

啓示は、直接個々に体験されるもので、分かち合うものではない。

心眼こそ分かち合うことができる。与えることで受け取れるし受け取ることで与えられる。…ということが書いてある(気がする)。

そして、真理においては受け取ることと与えることはひとつだから、心眼は与えることによってこそ自ら達成される。

そして、そのためワークで行うこととは、「誰のことも肉体とは見ない」ということだ。

誰のことも神の子として認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。(L158-8-4)

自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンを習得するのは難しくない。(L158-10-3)

日本のことわざでは「人の振り見てわが振り直せ」というけれど、ACIMでは、同胞のなかに罪を見て咎めれば、自分が咎められるし、逆に同胞のなかに光だけを見て赦せば、すなわち自分が赦される。

すごくむずかしいことが書かれているようけれど、要はその見方の練習をしようということだ。

今日、私たちはキリストの目で見ることを練習する。そして、私たちが与える神聖な贈り物により、キリストの心眼が私たちの上にも注がれる。(L158-1-3,4)

過去ノートを見てみた

20、21、23日らへんにこのワークをやった。

むずかしいと思う。第一巡目にこのワークをやった時にははたしてどんな感想をもったのかな、と昔のノートを見てみたら、2014年9月の23日にレッスン158をやっていた。

ノートには「とてもむずかしく感じる。今の私には心眼とか…わからないから、ワークをしていても、何か聖霊の声を聴くとか、そういう体験ないから、これでよいかわからない。」と書いてある。

…、今もかわらん…(・・;) 変化なし!?

でも、メモの最後に、「やはりACIMのブログを作ることが大事だと思った」とあり、今ふりかえって「これが聖霊さんのメッセージだったのかな、わからないなりに進んでいるのかな?」と思った。

ワークをして

今回ワークをやって感じたことは(このレッスンとは直接関係ないかもしれないけれど)、

「神は私たちがありのままでいることに感謝する、

この神からの感謝を受け取りなさい」

ということ。

神のように見たら、幻想の遮蔽物が溶けて、神を受け取れる。「神のように見る」とはすなわち、同胞を体ではなく、同じ聖なる神の子と見ること。

神からの感謝を受け取りなさい。

なぜなら、神は感謝そのものだから。

そんなことを感じた。

それと、もっとゆっくり&しばしば瞑想する習慣をもちなさい、と。それは自分の中にしっかりと聖性の基盤となるものを備えるため、だ。

私はすごい道楽者だと思う。自分でも理解しきれず、人にも説明できないものを、これが正しいやり方かどうかもわからず、えらい時間をかけて学んでいる(つもり)から。

でも他に何ができるだろう。無意味な自己満足かと思うけど、続けてみよう。進んでいけば、またちがう思いや考えが出るかもしれない…。

浮かんだことば

神に感謝するとは、眼の前のその人に感謝すること。

レッスン157-今、私はキリストの臨在の中へ入っていく。

2017-10-21

レッスン157-今、私はキリストの臨在の中へ入っていく。

ますますさむい。腰全体を膝かけでくるんでパソコンに向かっている。今からこれじゃあ、先が思いやられるな。今年の冬は寒いかな。

明日衆議院選の投票日。お天気がよくないみたい。おととい初めて期日前投票というのに行ってきた。楽だな、これ。投票日に縛られなくていいし、だれに入れようかと直前まで考えなくてすむから。今回から選挙区の区割りが変わって、ますます馴染みのない人に投票した。

ACIMを学んでいると「政治より自分自身のものの見方なんだよな、まず変えるべきは…」という気分になり、政治に関わらずすべての物事に対して熱くなれない自分がいる。

さて、レッスン157。

今、キリストの臨在の中へ入っていく

原文では、Into His Presence would I enter now.

となっている。「キリストの」と訳されているこのHisは「神の」「神性の」そのものだろう。「キリスト」はイエス・キリスト個人を指すのではなく、私たちの心の中にある聖なる部分を指す。私たちは神の計画にしたがって聖霊とともに救済を実践するキリストとなるよう導かれている。

これはこのカリキュラムにおけるもう1つの決定的な転換点である。今、私たちは新しい次元を加える。(L157-2-1,2)

と、このワークの意義が書かれている。その内容は…

それは学びが終わる扉の前まで私たちを連れていく。そして、私たちは学びが達成できる最高峰を超えたところに何があるかを垣間見る。(L157-2-3)

今日、あなたは一瞬の天国の感触を味わうことができるだろう。(L157-3-1)

私たちは、学びが連れていってくれるところとその先を垣間見る。それはワークブックで智識と書かれているものだ。そして学びへの信念をさらにゆるぎないものにして学びを加速するように背中を押されている。

それは学んだことを同胞に伝え分かち合うためだ。これが、学びを自分のものとする唯一の手段でもある。

今日から、あなたの司牧の職務は真の献身となって熱意を帯び、それがあなたの指先が触れる人々へと伝わり、あなたが見る人々を祝福する。(L157-5-1)

あなたの肉体は今日、聖別される。今はその唯一の目的は、世界を照らすために、この日にあなたが体験するものを見る心眼(ヴィジョン)を運んでいくことだけとなる。(L157-6-1)

かなり壮大なワークだ

ワークをして

ワークの一部を抜粋して書き移すだけじゃ何の意味もないなぁ、と思いながら書きだしている。

10月17,18,19日にこのワークをやった。やったといっても、日中のワークはほとんどできず、朝と夜の瞑想ワークが中心だけど。

「キリストの臨在の中へ入っていく」ができているかどうかはわからない(おそらくできてない)けれど、目をつぶって静かにしていると、何かが自分の頭上でくるくる回っているような感覚、そして身体の中の組織をつないでいたものがほぐれて波打って突き上げてくるような感覚をもった。ほんとに体組織が崩れたら怖いけど(^_^;)体が解きほぐされているような感じ。

こうした感覚は、このワークでなくても時々ある。

「神の臨在」「キリストの臨在」がどんなものかは見当もつかないけれど、ワークをしていると瞑想音楽とも相まって安らかな気持ちになる。今はそれでいいかな、と思っている。もともとそうした感覚がある方でもない。

「自分を忘れろ」「体を忘れろ」と言われている気がした。それが、自分をゆるめる→自分をゆるす、心を自分という囚われから解放するのかな、と。そう思ったけれど、そこまで自由にはなれず、逆にプレッシャーも感じてきた。

日常いつも、自分、自分…で生きているけれど、自分は囚われの枠にすぎない。それから解放することが大事らしい。

そして、三日目のワークでは「感謝って神さまそのものだったんだ」と思っていた。だから、心をこめて感謝するたびに神さまを思い出し、神につながっていたんだ、と。だから感謝がだいじなんだ、と。

ワークをしていて、そもそもワークができているのか、前進できているのか否か、皆目わからない。けれど、こうした安らかな気持ちになれること、それだけでもすごくいいかな、と思う。

浮かんだことば

感謝は私たちを正気にする。

 

レッスン156-私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。

2017-10-19

レッスン156-私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。

このテーマは、ワークブックの中でくりかえしくりかえし練習している、このコースそのものの宣言だ。

「想念はその源を離れない」のだから、私たちは今も神とともにある。

神は聖性と分かつことができず、私たちは神と分かつことができない。だから、私たちは元より聖らかな存在であり、罪はありえない。

罪がないなら、罪悪感には根拠がなく私たちが内心怯えている罰もあるはずがない。

私たちに必要なのは、それを思い出しただ受け入れることだけだ。そうすれば存在が輝きだす。

あなたの中には、消えることなき光がある。(L156-4-1)

その光は、この世のすべてのものを照らす。

生けるもの一切があなたの前で静かになる。なぜなら、彼らは誰があなたとともに歩いているのかを認識するからである。あなたが運ぶ光は彼ら自身の光である。そのようにして彼らはあなたの中に彼らの聖性を見て、救済者であり神であるあなたに挨拶する。(L156-5-2,3,4)

ACIMは、私たちは誰でもひとりで天国に入るわけではないという。与えて初めて得られる。与えるときが受け取るとき。だから、ACIMを学ぶことは同胞の先導役となることも自ずと含まれているようだ。

このレッスン156で最も心に響いたのが、次のフレーズだ。

「誰が私とともに歩むのか?」この問いが、問われなければならない。(L156-8-1,2)

幻想との世と学びつつ、ちょっとした出来事にいつも反応してしまう。その時に、"Who walks with me?(誰が私とともに歩むのか?)" ―力強い言葉だ。

どんな状況でも覚えていられたらいい。それはたぶんムリだろうから、ちょいちょいこれを思い出せたらいい。

ワークをして

主題概念をテーマに朝晩短い瞑想ワークをしていると、いろんな雑念というか思いが出てくる。

このワークでは晩年の父のイメージが出てきた。認知症を患って最後は寝てばかりいた。ある時父の手相を観ながら「思ったような老後じゃなかった、こんな老後を思ってなかった…って書いてある」と私が言ったら、父は「そう…」と答えた。

父は何を思って最晩年の時を過ごしていただろう、とせつなく思い出した。病気になる前は照れくさくて、面と向かって「ありがとう」も言えなかった。心の中で「ありがとうございます」と言った。

浮かんだことば

今、目の前にいない人にも、ありがとうと言ってみる。

レッスン155-私は一歩退いて、神に導いてもらう。

2017-10-17

46年ぶりの寒さ

昨日は、東京の最高気温が15度に達しなかった。これは、平年より7度以上も低く、46年ぶりの寒さだったのだそう。どうりで寒かったわけだ。今日も昨日ほどではないけど、寒い。

着るものがない。去年、なに着てたんだっけ?

服は最近半分以上はリサイクルのお店で買う。最初はちょっと抵抗あったけれど、新品だと何千円もするものが数百円というのが魅力的。中には売れ残りだろうか、メーカーの札が付いた新品もあるし、素材がよいものも紛れているから、宝探し的な楽しみも。

で、さっそく覗いて、840円の毛糸のカーディガンだかコートだかみたいなのを買ってきた。すごくおしゃれだとは思わないけど、ウール100%でほっこりあったかい。

昔、服は概してもっと高かった。正規の価格で買った服は、なぜか服に対してキンチョーして気軽に着たりできなかった。そのうち型が古臭くなったり自分に合わなくなったり虫に食われてしまったり(管理が悪い)。安い服はそうした気張りがないからいいな。消耗品としてどんどん着て、その使命をまっとうさせるのだ。

レッスン155-私は一歩退いて、神に導いてもらう。

先週の12、13日レッスン155をやった。

レッスン155には、私たちのあり方がシンプルに書かれている。

「一歩退いて、神に導いてもらう」というあり方だ。実際には聖霊(ホーリースピリット)に導いてもらうということだろう。

これが、自分のためだけではなく、同胞にとっても役に立つ生き方だと書かれている。

聖霊に先導してもらいながら、自らは同胞のガイドとなり、神に向かって歩む。その意志を静かに見つめる。それがレッスン155だ。

印象に残ったのは、「世界は幻想である。」とはっきり明記されていること。

世界は幻想である。そこにくることを選ぶ者たちは、彼ら自身が幻想となり、自分の実相を回避できる場所を求めている。(L155-2-1,2)

しかし、幻想を真理の後ろに退け、あるがままの真理を前面に立たせることは、単に正気であるにすぎない。(L155-2-6)

この世の幻想性を受け入れないままで、真理(この世で成功や、豊かさ、幸福)を求めても結局はなにも手にすることができず損失感にさいなまれる。

ACIMに出会いACIMからその幻想性を学んだ者は、幻想をやりすごし真理に向かうことができる。その姿を同胞に見せることで、同胞を導き、天と地をつなぐ者となることができる。

このようにして、あなたは自分自身のためになることをしながら彼からの役に立つこともでき、神があなたに開いた道、そしてあなたを通して彼らにも開いた道を、彼らは歩み始めることになる。(L155-5-4)

彼らの苦しみは幻想にすぎない。それでも彼らは幻想を真理と誤解しているので、そこから連れ出してくれる導き手を必要としている。(L155--7-4,5)

これは、この世で、芸術やスポーツといった何かの講座をビギナーコースから受けて、それがわりと続いたので学校側から、「インストラクターコースの初級に進んでみてもいいんじゃない?」と言われているみたいだ。

これからは、この道を安全に、しかし慎重に歩きなさい。あなたはまだこの道では初心者だからである。(L155--9-1)

…と、クギも差されている。

あなたは行き先を知らない。けれどもそれを知っている存在があなたとともに行く。これより先は神に導いてもらいなさい。(L155--10-4,5,6)

私たちは神に向かって歩む。立ち止まって、これについてよく考えてみなさい。これ以上に神聖な道があるだろうか。あなたの努力と愛と熱意を傾けるに値するような道があるだろうか。(L155--12-1,2,3)

このメッセージは私の心に響く。この世であたりまえに生活していながら、神への道を歩む。これができたらいいと思う。

ワークをして

ワークをやった13日は、前夜に、お笑いタレントの清水アキラさんの三男が覚せい剤使用の疑いで逮捕され、父である清水さんが謝罪会見を行ったこともあってか、ワーク中もその会見を思い出していた。芸能界で成功を収めた父が、自分を裏切った息子のことで泣き崩れるのを見て、心が揺れた。

これも、私の「父なる神との分離」を投影したものだろうか。

息子に「バカヤロウ」と言いつつ、「突き離したいけど、家族ですから」と話す清水さんに、「家族ってなんだろう」「すごい結びつきだ」と改めて思った。

この世で、「家族」は信仰だ。その他の強い信仰である「おカネ」、そして最近では「健康」などとともに、この世のしくみを支えている。

でも、レッスン155では、この世は幻想だと改めてはっきり書かれている。

身体をもった一次的存在であり、実は神聖な神の子である私たちがこの世でどう生きるか。

この世で常識とされているものと、ACIMの教えと…どう塩梅をみながら、このかりそめのリアルな世界を、かりそめの個性をもった私という存在を生きていくか…

それはやっぱり目前に現れたことに、一歩退いて聖霊に導いてもらってひとつずつ対峙するっていうことか…。

アファメーション

私が、私が、とがんばらなくてもいい。姿勢を整えることこそ。

レッスン154-私は神の司牧者のひとりである。

2017-10-12

レッスン154-私は神の司牧者のひとりである。

レッスン151からのレッスンでは、自分が気づきを深めていくことと同時に、同胞へのメッセンジャーとなることを期待し要請されているような内容が増えている(気がする)。

I am among the ministers of God.

レッスン154の主題概念は、中央アート出版社版では「私は神の司牧者のひとりである」と訳されている。

ん?司牧者って…?

と思い辞書で「 minister」を調べたら、「聖職者」とあった。大畑学さん著の精読版では「神の神聖な役割を担う者たち」と訳されていた。こちらの方がキリスト教になじみがない日本人にはわかりやすい気がする。

その期待された「神聖な役割」がどんなものかは、今ここにいる自分自身にはわからない。私たちより視座が高く、いろんな物事が見えている聖霊が選択する。もちろん、その役割は深いところで、私たち自身も承知しているという。

神の子である私たちは、聖霊の導きによって、自らの聖性に目を開き、「自らと神の一致を伝える神の使者となる」。

私たちが「これが自分だ」と認識している今の自分と聖霊は、まったく別物で両者のギャップが大きいように思えるけれども、私たちの幻想が落とされていくにつれ、ギャップは小さくなり、ついには私たちは内なる聖霊そのものになる。

ここではこの地上のメッセンジャーと、神のメッセンジャーとの違いが書かれている。これがACIMの学びのエッセンスでもある。それは、

彼らが運ぶメッセージは、まず最初に彼ら自身に宛てられている。(L154-6-2)

というもの。したがって、

そのメッセージを自分に受け入れることができたときにのみ、彼らは自分にとどまらず、もっと先にまでそれを運んでいき、意図されたあらゆる場所に届けることができるようになる。(L154-6-3)

そして、受け入れたのち、

彼らはそれを与えることにより自分がその内容を理解し受け入れたことを証明する。(L154-7-2の一部)

つまり、メッセージを自分のものとして受け入れ、プラス、伝えるべき誰かに伝えることで、やっと自分のものとすることができ、メッセンジャーとしてのひとつの任務も完了できるということだ。

あなたは神からのメッセージを受け取りたいだろうか。それらを受け取ることによってあなたは神の使者となる。あなたは今すでに任命されている。それなのにあなたは、受け取ったメッセージをまだ与えずにいる。だから、そのメッセージが自分のものだと知らず、メッセージを認識していない。(L154-8-1~5)

この部分に、ドキッとした。「あなたは今すでに任命されている」というところ。そして、メッセージを受け取っているにもかかわらず、まだ与えていないから、自分のものにもできていないというところ。まさにそのとおりだと思った。

あなたは今では神の使者なのだから、神のメッセージを受け取りなさい。(L154-9-1)

なんて、力強いメッセージなのだろうと思う。

私たちが真に受け取るためには、聖霊に耳を傾け、聖霊が遣わすところに行き、伝えるべき人に伝えるべきことを伝えることだ。

だから、レッスン154では

私たちはただ、「受け取ったものを与えない限り、自分が何を受け取ったかが認識されない」という今日のレッスンを学ぼう。(L154-12-1)

そして、そのためには私たちの心に住まう聖霊に静かに耳を傾け、聖霊を信頼し一つになろうと努めることだ。

ワークをして

聖霊の声は五感の聴覚として聴こえるわけではないから(通常)、心を鎮めて自然の流れに乗ることが大事なのかなと思う。

ワーク中は雑念も含めていろんなことを思い出したり感じたりするけれど、ワークを終えると忘れてしまっていることも多い。

今、思い出せることは、ある企業さんの仕事に不安を持っているのだけれど、それは自分が能力的にできるのかという不安より、得られる収入が見合わなくともどれだけ献身できるのか、ということに対する不安なのだと感じた。

私はその会社に対して献身したいのだ。それに対して見合う報酬もいただきたいと思っているけれど、その交渉力がないことで不安に思っている。でも報酬はさておき献身したいんだと感じた(とっても幼稚なことを言っている気がするけど)。

また、まったく別のことでは、昔子どもの頃実家では店をやっていたのだが、そこで働いていた「川ちゃん」というおばちゃんのことを思い出していた。

母親がとても厳しく怖かった私にとって、川ちゃんはふつうのおばちゃんでむくもりがあって、安心感があった。大人になってからは、自分から会うこともなかった。早くに病気で亡くなったことを、後に聞いた。

幼い頃、どれだけ川ちゃんの存在に慰められ癒されたか…。本当に感謝している。それなのにそのお礼も言わずに、今生の別れを迎えてしまったと、申し訳なく感じ、心の中で感謝を伝えた。

アファメーション

ひとつ感謝を伝えられたら、ひとつ豊かになれる。

レッスン153-防衛しないことの中に、私の安全がある。

2017-10-07

「半額でどうですか?」

Amazonで安い長袖の白ブラウスを買ったら、サイズまちがいで届いた。

返品か交換をお願いしたら、「このたびは大変なご迷惑をおかけしました。心よりお詫び申し上げます。」といたく低姿勢、…の一方、「(証拠となる)商品の写真を送ってください」。

どうも中国の会社が販売しているらしく、日本語にはまちがいはないのだけど使い方がちょっとヘンなのだ。

指示どおり写真を送ったら、再び「大変申し訳ありません」。

それから、「では、半額でどうですか?」

これには笑ってしまった。想定外の対応だ。

でも、返すのも手間だし、相手の会社にしたら、送料の方が高くつくのだろう。それで、OKの返事をした。

さて、この小さめの半額ブラウス、どうしよう。

レッスン153-防衛しないことの中に、私の安全がある。

レッスン153は、ワークブックの中でも長い、ワークをするまでにけっこうな時間がかかった(英語で読む必要はないのだけれど、まだ原文と日本語訳を見比べながら頑張っている。)。

レッスン153のテーマは主題概念のまま。

防衛しないことの中に、私の安全がある。だから防衛を解こう、というもの。

この世の原理は攻撃に根ざしており、私たちはこれに脅威を感じている。だから私たちは自分を守らねばと思う。

しかし防衛の姿勢は二重の意味で脅威である。(L153-2-3)

一つは、それは自分自身を自ら弱者と捉えていることだから。そしてもう一つは、効果のない防衛体系を作るだけから。

攻撃されるから防衛するという姿勢が新たな攻撃を生み、防衛→攻撃→防衛→攻撃…という脅威の無限ループにはまりこむのだという。

今週、アメリカ、ラスベガスのコンサート会場で、銃乱射事件が起った。59名の方が亡くなり500名を超える方が負傷。犯人はホテルの32階の部屋から、コンサートに集まった人に無差別に発砲、自らをも銃で撃ち殺した。

この史上最悪の銃乱射事件が起こっても、アメリカ国内では「銃の所持は正当な自己防衛の権利」だという意見が多数で、銃規制に向けての積極的な動きが見られないのだという。これこそが、レッスン153のいう防衛→攻撃→防衛…の脅威の無限ループというものだろう。北朝鮮が核武装を急ぐのも同じ理屈からだ。

この考えに救いはなく、過剰な防衛はより大きな攻撃を生むだけだ。

銃に関しては当てはまらなくとも、私もおそらく別のことでは同じくエンドレスのループの中にいる。

防衛しないことは強さである。(L153-6-1)

選択は常に、キリストの強さか、キリストから離れているときのあなた自身の弱さか、この二者択一である。(L153-6-3の一部)

また、そもそも、の話だけれど…。私たちは神から自ら離れたと思いこみ、その罪悪感と神の怒りと罰への恐怖を無意識に抱え込んでいる。それがこの世を動かしている隠れた主たる動機だ。

私たちが自分を防衛しているのは、実は神の怒りからだ。そしてそれは勘ちがいだ。その勘ちがいを手を変え品を変え、取り成し正すのが、このワークブックだ。

あなたは自分の父から見捨てられて、望みを失ったというゲームをしてきた。罪と罪悪感で気が狂っている恐ろしい世界で、たったひとりで恐怖に震える役を演じてきたあなたは、今、幸せになりなさい。そのゲームは終わっている。今や、静かな時が訪れた。罪悪感という玩具を片づけ、一なる神の子である天国の子どもたちの清らかで神聖な心から、子どもじみたおかしな罪の概念を一掃する時である。(L153-13)

だから、

今日は、夢を超えたところを見て、私たちに防衛は必要ないことを認識する。(L153-9-1)

自らの安全性と救済を静かに確信している私たちは、防衛しない態度の中で安全である。(L153-9-3)

そして、このワークブックを実践する者は、神の神聖な役割を担う者たちだから、自分たちが学んだことを同胞に伝えていく役割があるという。伝えることによって初めて自らの学びが完了するというのだ。

ワークのやり方としては、朝起きてからできるだけ長く、この主題概念に気持ちを集中させ、夜、床につく前にも同様にする。また日中も1時間ごとに思い出すこととされている。

ワークをして

防衛姿勢といえば、私は物ごころついた頃から、母がとても恐ろしく母から自分を防衛してきた。生活のすべてを依存して甘えたいと願う一方で、心はずっと閉ざしてきた。

これは、まさに「恐ろしい神」を母に投影してきたのだと思う。

そして、その生きる姿勢は大人になって久しい今も、そのまんまだ。

防衛を解くというのは私にとって、大きなテーマだ。

人を信じること自体、どこか怖いと思う。私自身は攻撃するつもりはないけれど、あけっぴろげで自分を晒すこともできない。それは、自分にどこか攻撃の余地を残しているからか…。

ワードプレス、ログインせずにダイアリーを書いていて、「更新」したつもりが全部消えちゃった。思い出しつつもう一回似たような内容書いた。あ゛~(>_<)

アファメーション

信じること、行動してこそ、証される。

レッスン152-決断の力は私にある。

2017-10-05

秋が深まり涼しい。昨日は友人と近場の神社にお参りしてランチをした。

一人暮らし、在宅中心のフリーランスの仕事では、スーパーのレジで「ありがとうございます」という以外、一日誰とも話さないなんてこともざら。「たわいのないおしゃべり」が貴重なのだ。

固有名詞が出て来なかったり、レスポンスやリアクションもうまくできず、また少ししゃべるのがヘタになってる、と思った。

「旦那さんが勝手に金魚を買ってきて…それを本人が世話しないから水槽が汚れてしまって…金魚は死にそうになって…、けんかして…、でも結局私が世話するしかなくて…」といった話を聞いて「そりゃたいへんだね」と相づちする。

私も「ヤフオクにいつも履いている会社の新品のウォーキングシューズが出てて、入札して…何日もだれも入札なかったからもう落札したつもりになっていたら、ラスト3分で誰かに落札されてて、くやしかった~」とどうでもいいことを聞いてもらう。そうしているうちに力が抜けて癒されていくのを感じた。

用事があれば話は当然する。けど用事がないのにしゃべっているとしたら、その相手に好意や関心があってこそ。そういう友だちは数人しかいないな(作ってこなかった)とここまでの自分をふりかえる。

私が緊張しいな質でこもちがちな生活を心地よく思うのは深層に人への恐怖感があるだろうと思う。表面的には普通にやっているけれど、かくれ対人恐怖…みたいな。だとしたら、それは大いに赦すべきお題だな。

今からでも、遅くないかな。もっと自分から出ていって友だちを作ったりできるかな。

レッスン152-決断の力は私にある。

レッスン152は力強い言葉で始まる。

「自分の決断に因らない限り、誰も損失を被ることはありえない。苦痛を被ることを自ら選択しない限り、誰も苦痛に苦しむことはない。悲嘆にくれたり、恐れたり、自分が病気だと考えたりするといった成り行きを、自ら欲しない限り、誰にもそうした状況がもたらされることはない。…」(L152-1-1,2,3)

「ここに、細部にわたって完結したあなたの世界がある。」(L152-1-6)

私たちが見ている世界には、不本意なことや辛いこともあるけれど、それはすべて自分が投影して見せているのだと繰り返しACIMは言う。

「神はこの世界を作ってはいない」(L152-6-2)

「救済とは『真理は真実であり、それ以外に真実なるものはない』という認識である。」(L152-3-1)

災害、病気、貧乏、差別、暴力、テロ…こうしたことも、すべて神の子なる私たちが勝手にでっちあげてリアルに仕立て上げ見ているものだ。私たちが真実にめざめ幻想を幻想と見破れば、こうしたでっちあげられたものたちは、私たちに影響を及ぼすことはなくなるのだという。

今日のレッスンでは、これを自分の意志による選択とする。

「私たちは今日、真に謙虚になって、自分で作り出したものは自分で作り出したものとして受け入れよう。決断の力は私たちにある。宇宙の共同創造者としての自分の正当な立場をただ受け入れようと、決断しなさい。そうすれば、あなたが自分で作り出したと思っているものは、すべて消滅する。」(L152-8-1,2)

「決断の力は私たちにある。だから、私たちは、本来の私たちを神から受け入れ、謙虚に神の子を認識する。」(L152-10-1,2)

ACIMワークでは、手を変え品を変え、いろんな角度からアプローチを変えて、シンプルな真理を繰り返し練習している。

ワークをして

私が新たな企業からいただいた仕事と、その企業さんとの関わりに強い不安を持っている。それは、慣れない相手と初めての分野だからだけれど、その奥には「嫌われたくない」という気持ちがあるのだと思い当たった。

私は、この会社の社長に神を投影していて、彼ごしに見る神を恐れているんだ(おそらく)…。

すでに自分の身にある罪をどうしたら許してもらえるか、という自らを蔑んだ立場に置いている気がした。だから、正当なビジネスとしての契約がしづらい。

ビジネス自体、虚の世界のことだからと引いているのかと思っていたけれど、その奥には「権威への恐れ」「神への恐怖」があるんだ。

そして、それは誤っている。

「神への恐怖」や「罪の意識」はいろんな形で認識されるけれど、私はこのパターンなのだ。

それが表面に意識されるようになった今、それを赦すのが、私にとってのACIMワークだ。この企業さんの仕事は「過信頼(信頼しすぎるほど信頼する)」がキーワードかなと思ったりした。

アファメーション

ゲームの中でうまくいくことに頑張るより、ゲームの外に出なきゃ。

レッスン151-すべてのものごとは、神を代弁する声のこだまである。

2017-10-02

人様に見せられないブログ!?

10月。すっかり秋めいてきた。ようやくレッスン151~の新たなひと固まりへ。

きのうは、都主催のCSS講習を受講した。来週からはHTML講習が始まる。それぞれ三日間という短い講習だから初級レベルだけだけど、ドリームウィーバー、HTML、CSSとホームページづくりに必要なスキルを勉強している。機械全般が苦手な私にはかなかむずかしい。先生の操作についていけず、あわあわしている。

同じ受講者の方との雑談中「私がワードプレスでサイト(このブログ)を作っている」と話したら、「どうやったら見られる?教えて」と言われ、「『奇跡講座』で検索したらありますよ」と言いながらも、焦ってしまった。

関心をもってもらえるのは、とってもありがたい。検索してもらえることもうれしい。

けど、内容は「なんのこっちゃ」ってものだ。決して、人様にお見せできるものでは~(>_<)と思ってしまった。友だちに聞かれた時も言えなかったことがある。「いや~、マニアックなブログだから」って。

ブログはだれかに見てもらうことを想定して発信しているもので、それをはなから否定するかのような私って……。

『奇跡講座』を微々たる歩みながら学んできて、私のしごとは

1.『奇跡講座』をわかりやすくして伝えること、と

2.抽象的な『奇跡講座』の世界を日常生活とつなぐこと、

かなと思っている。残りの人生、これをやっていきたい。

ならば、もっと『奇跡講座』をわかりやすくして伝えることもしなくちゃな~と思った。『奇跡講座のおはなし』というページも手つかずのままだ。理解も不十分なのに、要約してわかりやすくできるかな、と思う。

けど、私なりのたたき台でいいんだ。少しずつやりたい。

レッスン151-すべてのものごとは、神を代弁する声のこだまである。

レッスン151は、9月22日~26日にかけてやっていた。なかなか完全にはできなくて何日もかけた。何日かけても完全にはできないけれど。

レッスン151をざっくり書くと…。

五感は自我(エゴ)の範疇のもので、あてにはならないものだ。

だから、五感に基づいて判断する私たちは、正しい「判断」というものはできない。

自我は私たちに、私たちが、

いかに無力で怯えているか、

いかに罪を恐れているか、

いかに罪悪感にさいなまれているか、

を証明しようとする。

自我は自我のうちにこそ、これらを見ている。

自我の声を聞いてはならない。

そうではなく、「神を代弁する声」(聖霊)にこそ、

自分は何者で、

自分は何を信じるべきか、

判断をゆだねるべきだ。

聖霊は、神なる性質だけを認め、自我が五感を通じて示してくるものを素通りする。

この世で自分の身に降りかかるように見えるすべてのことについても、聖霊が認めるようにしなさい。

すなわち、幻想は素通りし、神の真理だけを見る。

神に愛されているあなたには善きことだけが訪れる。

憎しみを越えたところに愛を、

変化の中に不変性を、

世界の中に天国の祝福のみを見るようになる。

これが、私たちの復活である。

だから、心に浮かぶ考えを聖霊にゆだね、その導きに従いなさい。

すべてのものごとは、聖霊のこだまである。

……というもの(まとめにしても長い)。

ワークをして

ワークをしていると、今月新しくいただいた仕事への不安や焦りが強いことを感じた。いつもはそれなりにつき合いがあるところからの仕事だけれど、新しい企業さんからのお声かけで、双方手探りだ。しかも私にとっては新しいテーマ。自信が、ない。

これらはすべてエゴ(自我)が見せてくる無意味な夢なのだ。それがどんなに今の自分にとって重要でリアルでも。

聖霊にゆだねて自分で判断しないようにしないと…。

思ったのは、わからなくなったら、とりあえず何か感謝すべき部分を見て(見つけて)、感謝だ。それが、エゴの判断から自分を遠ざけてくれる。

他の仕事が激減している状況で、新たに企業から直に仕事をいただけたのはありがたいこと。

この会社の社長さんは、10年近く前に私が同社を取材して書いた記事を元に、出版社に問い合わせ、私を探してくださった。それは、私にとって自信になった。ありがたい。

そして、新しいことを学べる機会。ありがたいことなんだ。

私は幼い頃から反抗的で感謝がなかった。今、やっと感謝を学んでいる気がする。

アファメーション

ありがとうと、心から思えたら、それが幸せだ。

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