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レッスン130-二つの世界を一度に見ることはできない。

2017-07-24

アートセラピー・ワークショップ

昨日は、カルチャー講座の仲間が主宰するアートセラピーのワークショップに参加させてもらった。

アートセラピーを受けたのは、久しぶりで、絵を描くのも、みんなとシェアするのも楽しかった。

ふと、いつ以来かな?と考えたら、一昨年、アートセラピーのセラピストのコースを受講しつつ、先生と相性が悪くて途中退校したとき以来だった。

セラピストと言いながら、人のトラウマや心のデリケートなところに無遠慮に入り込みコントロールするかのような先生の進め方に信頼が持てず続けられなかったのだ。先生もなぜか私に攻撃してくる。

当時は、すっかり感情的に巻き込まれてしまって、いかに先生と対峙するか、この場から自分を守るか、しか考えられなくなっていた。

今から思うと、あの“事件”はまさに自分のエゴの投影で、大きな赦しのチャンスだったと思う。

結局、赦せたのかどうか…私が止めて学校から離れてしまったから、それっきりだけれど。先生も、私から投影される役を引き受けてくださっていたのだから、今から思うと、ありがたい方なのだ。

今一度、この思い出した機会に赦そうと思う、当時の出来事と自分を。昨日のワークショップはその残滓の赦しのチャンスにもなった気がする。

レッスン130-二つの世界を一度に見ることはできない。

ここ何回かのワークでは、今見ている世界を手放して、その向こうに在る実相を見ることに力点が置かれている。

「神との分離」という起っていない勘ちがいを本気にして、「それは大変だ、こっちに逃げ隠れる場がある」とエゴの誘導によって行きついたこの世界。

そこには私たちが「世界」「人生」と呼ぶすべてのものがあるけれど、これは本当の世界ではない、自らの恐れと罪悪感が映画のように投影させて見ている世界にすぎない。

そこに「在る」と思っているから、見えるだけで、実在しない。

それを手放して実相世界に向かおう。これがここ最近のワークだと思う。

そして、レッスン130では「二つの世界を一度に見ることはできない。

私たちはついこの幻想の世界を保ったまま、神の実相世界も手にしたいと思う。しかしそれはできないのだ。神の世界を見たいなら、この世のあり方をいったん脇において手放さなくてはならない。

どのように重複することもない二つの世界が、両方とも一度に見えるということはありえない。(中略)実在か非実在か、それだけが選択できるすべてであり、それ以外に選択肢はない。

今日、私たちが学ぼうとしているのは、あなたが一度に二つの世界を見ることはできない、ということだけではない。今日のレッスンはさらに、あなたに見えている世界はその世界を見るあなたの考え方と一致するものである、ということも教えている。

この概念のシフトの練習、5分を6回する。

ワークをして

ワークを始める際に唱える言葉の中に「この世にいかなる価値も見ずにいられますように」という件があって、そこに少し抵抗感を感じた。

この世の幻想のなかの様々なものに支えられ、幻想ではあるけれどその社会の中で生きてきたから、それが非実在と心から思えるには至っていない。

やはり私はまだまだ無意識の罪悪感と怖れをこの世に映し出して見ている。

もしかしたら、ものわかりよさげな顔をしたエゴが緩めにもった鎖につながれて、自分は自由にやれているつもりでも、エゴの手のひらの中で動いているだけなのかもしれないな。

簡単には悟れない。実相がありありと感じられるということは今のところない。

でも、ACIMのない人生に戻りたいとは全く思っていない。遠くてもリアルの道がいい。

…から、自分のペースでこの道を行こう。。と思う。2017年の夏も。

アファメーション

過去のことを思い出したら、それも赦しのチャンスだ。

レッスン129-この世界を超えたところに、私の望む世界がある。

2017-07-20

日野原重明さんの大往生人生

一昨日は東京でゲリラ雷雨があり、私が住んでいる地域でも雹が降ったらしい。あんなに激しい雨を見たのは、生まれて初めて。雨に怖い、と思ったのも初めて。亜熱帯地方みたいだ。日本とは思えない。

100歳を過ぎてからも現役医師として活動しておられた日野原重明さんが18日亡くなった。105歳だった。

朝のテレビでその人生を振り返っていたが、その言葉のなかに、

「人生60歳までは午前の時間、それからが午後。午後は長いでしょ」というのがあって、びっくりした。

50代の私は欲張ってひいき目に見て、人生の午後4時くらいかな、なんて思っていたから。日野原さんによれば、まだ午前だ!

時間は幻想だって知っていてそういう見方はエゴの見方かなと思うけれど、つい自分の持ち時間というものを意識してしまう。

それが、まだ午前…と思えば、なんだか気持にゆとりができる。すてきだ。

日野原さんは、また

「老いてこそ、創造的に生きられる。新しいことにチャレンジする勇気を持ちたい」とおっしゃり、90歳を過ぎてからも現役医師として働く傍ら、俳句や絵本作家など新しいことに挑戦された。

私だってまだまだなのだ(^o^)丿と希望を与えてもらった。

人生のよしあしは長さではないと思うけど、生きる姿勢がすごい、見習いたいと思った。ベストセラーになった本『生きかた上手』も読んでみようかしらん。

レッスン129-この世界を超えたところに、私の望む世界がある。

このレッスンは、前回の「私が見ているこの世界には、私が望むものはないもない。」の続き。この世にはないが、「この世界を超えたところに、私の望む世界がある。

この世の価値と価値観に縛られていては、実相の世界が見えない。そもそも虚無の世界なのだから。

あなたをとらわれの身としておくためにこの世界が並べたてている卑小なものごとから自分の心を解き放つとき、それと入れ替わりに訪れる世界が、ここにある。

虚無に価値を認めないという選択をすることで、あなたがどんな損をするというのだろう。

だから、この虚無の世界を手放しそのかわりに訪れる真の世界を受け入れよう。

朝と夜とその間にもう一回それぞれ10分間、この変化を起こすための練習をする。

ワークをして

私は3回のワークのうちなぜか夜のワークをすっかり忘れてしまって、3日目にようやく3回行うことができた。これも無意識の抵抗なんだろうか。

ワークをしつつ感じた2つの気持ちがある。

ひとつは、今や私にはこれだと思える、生きる上で軸となる価値観があるのだから、四の五の言わずにその価値観をもっと素直にオープンに生きてもいい。ACIMのとおり縮こまらず自然体でもっと表現して生きよう、という気持ち。

もうひとつは、ACIMを学んでいる裏にある恐怖心で、この教えはすばらしいとは思うけれど独学だし私は解釈をまちがっているのではないか。教えを学んでいるつもりで、私はこの世への適応力を失うばかりで、ただ内向的な怠け者になっているだけれはないか、それはまずいのではないか。というもの。

この2つが対立するものなのか、あるいは似たようなことを言っているのかわからないけれど。

この形而上的な教えを軸にしながら、この世でどう生きたら…、どう自己表現したり人と関わったり、あるいは自分の居場所を作ったりするのがよいのか、というお題なのかな。

いずれにしても求められているのは、赦す、こと。そして愛すること、だと思うけど。

アファメーション

今回の人生でもっと本来の私を出していこう。

レッスン128-私が見ているこの世界には、私が望むものは何もない。

2017-07-18

レッスン128-私が見ているこの世界には、私が望むものは何もない。

7月初旬頃からずっと真夏の陽気。まだ梅雨明けはしていないみたいだけど。。今年の夏は長そうだ。暑くてしんどいけど、夏はきらいじゃない。夏には若さを感じるから。空と海の青と、ひまわりの黄色のコントラストのイメージ。長い夏を地味ながら、私なりに楽しもうと思う。

“問題”や“葛藤”“迷い”を抱えつつ、細々とだけどワークを続けている(つまびらかには書けないでいるけど)。

私が問題や葛藤を見ているのは、私がホーリースピリットが導く真の世界と、エゴが主導する偽りの世界の、その両方を手にしようとしているからだと思う。

レッスン128は次のような過激なフレーズで始まる。

あなたが見ている世界は、あなたに必要なものを何も与えてはくれない。あなたにとって何らかの使い道があるものも、喜びを満たしてくれるものも、この世界には含まれてはいない。このことを信じなさい。

またこうも。

この世界であなたが価値を置いている一つひとつのものは、あなたを世界につなぎとめる鎖にすぎず、それ以外の目的には役に立たない。(中略)これ以上、騙されてはいけない。

この世界にあなたの望む何かがあると信じたい誘惑に屈してはならない。ここには大切にすべきものは何もない。

そして、レッスン128では、私たちがこの世に見出している価値やその価値観をすべて手放す練習をする。

そうして幻想の世につながれている心の鎖を解き放つことによって、本来の自分であるホーリースピリットの声に耳を傾ける心のスペースを作る。

ただその翼を自由にしてやりさえすればよい。そうすれば、それは確信と喜びのうちに飛翔し、自らの聖なる目的につながるだろう。

ワークをして

この世のものすべてに価値がない、手放せ、…という文言にはやや抵抗を感じてしまう

これはもちろん、この世の価値観とは真逆だし、物ごころついた頃からずっとこの世で何とか「うまく」生きるために、さまざまな知識を学びノウハウを画策してきたのだから。学歴もそうだろうし、学歴がない私にとっては資格がそうだった。

この資本主義の世の中に溢れている商品やサービスの多くが、これがあればこの世でより「うまく生きて」「豊かに」「幸せに」なれますよ、とモノやサービスを提供している。

そして、みんな自分に足りないと思うものを補うべく、それらのモノやサービスを手に入れようとと頑張っている。

それをちゃぶ台返しのように全否定するこの主題概念…!

私はこの教えが突き詰めれば正しいのだと思っている。けれど、この世にいる私たちに、どこまで手放せ、と言っているのかしら?

「何も価値がない」を真に受けては、家も服も食べ物さえも失うのでは…、という漠然とした不安。これはエゴの不信から来るのかな。

このワークは、ゲンジツの世で生きる私たちに、どこまで要求しているのかな。

これはものの例えで心の中の姿勢だけを言っているのか。

そこまで突き詰めなくても、私には執着したいもの、手放したくないもの、この世で価値があると思いたいものがたくさんある。

そうしたキラキラして尊いものに思えるイミテーションを削いでいって、この世の原理原則からも自由になり、それでもつつましいあたりまえの生活というものが成り立たせられたら。その自信が持てたら。

さぞかし、さっぱりして、ぶれなく在り方が美しくなれるかもしれない、と思う。

アファメーション

ゆっくり手放していこう、剥ぎ取るのではなく。ひとつずつ。置いていこう。

レッスン127-神の愛のほかに愛はない。

2017-07-17

レッスン127-神の愛のほかに愛はない。

レッスン127では、真の愛とこの世で「愛」と呼ばれるものとは異なるという説明が書かれている。

この世での愛は、ある人は愛し別の人は愛さないということが当然にありうる。また、同じ人に対しても、ある時は愛するが別のある時には愛さない、という変化がありうる。

ACIMではこうした心を愛とは言わない。

この世で愛と呼ぶものは、ACIMで「特別の愛」と言われる特定の人に対する思いだったり、執着だったりする。その多くは条件つきの「愛」だ。

こうしたものはACIMでいう愛ではない。

ACIMの愛は恒常的で全方向に向けられており、次のように説明されている。

愛には裁くことはできない。それは、それ自体が一なるものなので、すべてを一なるものとして見る。愛の意味はその単一性の中にある。そしてそれを偏愛や分割された愛として思い描く心にとって、真の愛は捉えがたい。

神の愛のほかに愛はなく、愛はすべて神の愛である。

愛の意味はあなた自身の意味であり、神ご自身と共有されている。

『神の使者』にはパーサの発言として、

「でも思い出して。J(イエス)は両親を―石工のヨゼフとセッフォリスのアリアを―愛していたけど、ほかの人たちも同じように愛したのよ。特別の愛は個別、具体的だけど、聖霊はすべての人を平等に愛しているの。」(p177)とある、

こうした真の愛は、この世で探すことができるものではなく、逆にこの世の価値観から自由になることによって見えてくるという。だから、レッスン127では

あなたの真の自己を見つけようとして、この世の中を探すのはやめなさい。愛は、闇と死の中には見つからない。」とする。

そして自分の心のうちに、歪められることなく保たれている部分があり、そこを通して神との関係を結び直すことが真の愛を思い出すことだ、として、心を開きこの世の法則を抜け出すワークをする。

ここ何回かのワークは、文言やアプローチを変えながらも、この世が前提としている原理原則から離れ、内なるホーリースピリットに耳を傾ける練習をしている。

それによって、埋もれさせている真の自己を思い出そうとする。

ワークををして

私は、いまだACIMでいう「愛」がわかるようなわからないような…。

この世での「恋しい」「愛しい」「好き」「ありがとう」は経験がありわかるけど、それは愛なのかな、特別の愛やエゴの執着かもしれないと思う。

愛…がわかっているのかな。かすかにでも進歩はあるんだろうか。

私たちは、エゴというまちがった心に依拠する世界に住んでいる。そこに真の幸せにいたる道はない。この世界に敵対するのではなく、透明なシートを重ねるがごとく、ホーリースピリットに従って生きる別のレイヤーを作らなくては。それがACIMワークがくりかえし導いてくれていることだと思う。

この世で神の教えをじゃまする最もわかりやすいものは、「プライド」ではないかな。

プライド=エゴ

それは特に近代人にとってとても大事なもので、自分が傷つけられうると教え、「やられたら、やり返せ」「やられる前に、やり返せ」と教える。

その教えは一見正しく思えるけれど、偽の自己にしがみついているだけ。偽自己には正体がない。幻だ。

愛=神

その一点にすべてが集約される。

わかる。と思う。

でもむずかしい。

レベルというものはない。

でも、今の私にはすごくレベルが高く思え、はるかかなたに感じる。

ACIMは、理屈を学ぶだけで実践されなければ、無用の長物だ。私も、ACIMの理論のかげに隠れて偽自己を守るのではなく、もっとオープンマインドに平和になり、わかちあいたい。

このワークの中でも、自分のホーリースピリットを感じてみようと試みていた。心を静めると、自分の中にも、深いところに変わることのない本来の私がいると思える。

アファメーション

こころの奥の、本来の自分のかんじ。

レッスン126-私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

2017-07-14

ユング講座

一昨日は月に一度のユング心理学講座だった。

ユング講座の先生は、ACIMの学習者ではないけれど、私がACIMを勉強していることを知っておられる。そこで講座中にみんなの前で「勉強の方はどう?」と聞かれ、それに答えるかたちで少しこのワークのことを話すことができた。

ACIMの内容を説明することはできなかったけれど、私が大事に思って何年も勉強しているものがあること、それをこのゲンジツの世との間の葛藤はあるものの、素晴らしいと思いこれからの人生学び続けていきたいと思っていることをおしゃべりした。

たったそれだけのことだけど、少し心が軽くなり満たされたように思う。

私はACIMを究極の智恵だと思う一方で、ACIMがあまりにも世の中の考えとはかけ離れていることにどうも萎縮というか緊張しているところがあるのだ。

ACIMは実践されなければ「無用の長物」だ。私はできれば実践し、さらにわかりやすく発信もしたい。それが今後の人生のテーマ…のつもり。

レッスン126-私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

だから、私たちが赦すとき、赦しているのはこの私たちだ。なぜなら、自分の向こうには実は誰もいないから。

私たちは、私が目の前にして感情を動かすその人と別個に存在しているのではない。その人は自分の中にあるイメージを投影して見ているにすぎず、いわば自分の片われ。

与える者と受け取る者は同一である。これを理解しようというのが、レッスン126のテーマだ(と思う)。

レッスン126ではACIMワークの中心概念である「赦し」とこの世での「許し」を対比させるかたちで説明しているが、

「許し」に対する視点は以下に代表されるように、鋭くきびしい。

あなたがこのようなやり方で罪を『赦す』とき、あなた自身に直接に益となるものは何もない。あなたはただ、自分が赦す相手よりも自分のようが善良で、より高い位置にいることを示すために、慈悲に値しない相手に慈悲を与えるだけである。

この世の許しは、罪を犯した者に上からの立場で与えられる慈善的きまぐれだと言い、さまざまな言い回しでそれが、自分の赦しにはつながらないことを説明している。

ACIMの赦しはまったくことなる。

私たちが心の内に持つ無意識の罪。それを否認するがため自分以外の人に見える。その他者が自分にとって許しがたい不本意な行為をしているように見える。それを、現実ではない、それは投影にすぎないと見抜いて手放すこと。それが赦しだ。

だから赦されて解放されるのは、赦した者自身の心なのだ。

私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。これが真理であることを学ぶのに必要な助けは、今、私とともにある。私は聖霊を信頼する。

世間一般で言う許しと、ACIMの赦しの概念の別を確認し、心の中の正しい部分であるホーリースピリットの導きによって、正しい赦しを定着させるのが本ワークの目的だと思う。

ワークをして

私は、赦しの概念はだいたい理解できているのではないかと思っている。

でも、それをこのゲンジツの中でどう行動すればいいのか、あるいは幻想なのだから行動もしないのかがイマイチよくわからない。

たとえば5日北朝鮮の金正恩氏が弾道ミサイルを発射したというニュースがあったけど、こういったゲンジツに直面して「赦す」とは?

心の中でこれはリアルではない。「彼がしなかったことについて赦す」と思う。ただそれだけでOKなんだろうか。

その後はただ受身でいいのか。

そこのところがよくわからない。

たとえば震災のとき、たとえば自分が事故に巻き込まれたとき、まずは私の心の中のこと。その中で赦すとして…ゲンジツでの行動はどうしたらいいんだろう。

ゲンジツでは係争中で、心の中で赦すなんて場合もありうるんだろうか。

ともかく当面は、、私の映画のスクリーンに映るものはなるたけ赦すことに努めようと思う。

実はすごくささいなことでも、くりかえし思い出して、赦せてないことがある。まずはそういう思いが浮かんだ時、その都度、赦しを実践することかな。

アファメーション

赦しのチャンスはありがたい。

レッスン125-静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け取る。

2017-07-12

エアコン解禁~

福岡や大分など九州北部の方では豪雨による災害があった。土砂崩れで道路や家が埋められたり流されたり。泥まみれになった家を再建するのは並大抵のことではないだろう。災害で急に生活を奪われる理不尽さと辛さ。亡くなった方、現在まだ捜索中の方もおられる。

東京は連日真夏日だ。

昨日外出から帰ってなんかだるい、動けない、とぼーっとしていたけれど、2時間経ってもやっぱりだるい、動けない。夏バテかな。熱を測ってみたら37.6℃あった。

これって、もしかしたら、熱中症とかいうのの始まりかな、とようやく思いつき、手元にあったスマホで症状を見てみたら、

だるさ、眠気、頭痛、熱…など思い当たるものが書いてあった。暑い中日傘も差さずに歩き、帰宅後もエアコンは無駄、、とがまんしていたのがいけなかったみたい。暑い部屋のなかで自力では体温を下げられなくなったいたのだ。

ネットには熱中症で亡くなる人の特徴として、

・高齢者

・男性

・低所得者

・都市部居住者

・慢性疾患を持つ

などが挙げられていた。「男性」以外は当てはまっているかも(・・;)

今年初となるエアコンを付けた。涼しい!すばらしい。エアコンをつけて休んでいたら翌朝には良くなっていた。

よかった。節約より健康。今日から家のエアコン解禁だ、私は大丈夫などと侮っていてはいけないと思い知った。

レッスン125-静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け取る。

レッスン125は「静かに耳を澄ます日」とするワーク。

この世界は“雑音”に満ちている。エゴが主導するこの世は忙しく、やるべきことで溢れている。解決すべき問題、闘うべき人、催すべき行事、落とすべき体重や、直すべき症状。キャリアアップのために必要なこと…などなど。

こうしたことを脇に置いて、まず心を静めよう、そして神のメッセージを伝えるホーリースピリットの声に耳を傾けようというのが、このワークの主眼だ。

今日、神はあなたに語る。神の声はあなたが沈黙するのを待っている。なぜなら、あなたの心がしばし静まり、無意味な欲求がやむときまで神の言葉は聞こえないからである。静かに神の声を待ちなさい。

このワークでは10分×3回。まず心を落ち着ける訓練をして、ホーリースピリット=本来の自分の声を聴きやすくする。

ただ静まりなさい。今、必要なのはこの決まりだけである。

ワークをして

10分3回のワークをしていても、このワークの意図することができているかどうかがわからない(いつものことだけど)。本人は静まっているつもり、だけど心の中の雑念をリピートしているだけのような気もする。

ワークを終えて、私が感じたのは(何度も言っているかもしれないけど)大きく3つ。

まず、私はちゃんとホーリースピリットの声が聴けているのかどうか。

まったく聴けていないような気もするし、一方でこうしてACIMと出会い勉強していられるのはホーリースピリットの導きのおかげにちがいないとも思う。そもそも耳元で声がするのでなければどうやって聴けるのだろう。

ホーリースピリットからしたら、耳元でこんなに大声を出しているのに無視しやがって、となっているかもしれない。

もう少しちゃんとホーリースピリットのメッセージが受け取れるようになりたい。

そして、これもくりかえし言っていることだけど、私はACIMに関して頭でっかちだな、ということ。

ACIMを学ぶほど、この教えが世間一般の考えや価値観、世界観とまったくちがうと感じ、人と話がしづらくなっている(雑談がしにくい)。

ACIMに基づいた自分の考えを出すことで、人にヘンな人と思われたくないし、傷つきたくもないし。

…と気づけば、ACIM学習前に比べ内向性がさらに増してほぼ孤立している。

私のエゴが傷つかないように、ACIMの鎧を身につけているのかもしれない。赦しがACIMの主たる課題なのに、赦しの機会がもたらす不快感に出くわさないように、自分の安全圏だけで生きている気がする。そしてそれはものすごく狭く、さらに年々狭まっている。

こうしたことは単なるエゴ主導の「自己分析」なのかなとも思う。

そもそもワークのお題の心を静めるということができておらず、心の雑音をリピートしただけなのかな?

最後に感じたことの3つめは、ACIMを学びつつ、もっと人とコミュニケーションするようにしよう、ということ。

まあ、ぼちぼちだと思うけど。

アファメーション

自分を邪魔しているものがあるとすれば、それは自分だけ。

レッスン124-私が神とひとつであることを、思い出せますように。

2017-07-07

そもそものおはなし

ACIMのワークはさまざまな方法や言い方で、私たちのちょっとした誤解が生み出したこのゲンジツの世からめざめるさせる練習を差し出してくれている。

すべては私たちを創造した「神」から離れてみたら…という気の迷いをして、それがなされてはいないのに「した」と思いこんだことから始まっている。「たいへんなことをしてしまった」「なんと怖ろしい」「いずれ罰せられるにちがいない」との思いを、その自分たちが作った偽のアイデンティティ、エゴが「ここではない、神から見つからない場所にかくしてあげるから、大丈夫」と言って作ったのが、この宇宙であり世の中であり、私たち個々の身体だ。

これらはいずれも、エゴが作った偽創造であり本当は存在しない。どんなにリアルに見えても幻だ。

「神は在る(God is)」そしてそれ以外はない。

究極的にシンプルな真理がある。

エゴが偽創造した「生身の」身体を持ち、その脳で考えている(と思っている)私たちが、神の使者である内なるホーリースピリットとの関係を結び直し自分の誤解に気づいていくのが、このコースだ。

この宇宙も私たちの身体も私たちにとっては圧倒的にリアルだ。そもそもの発端の誤解を解くにはそこに戻らなければならないが、すさまじい恐怖心から、思考は固まってしまっている。誤ったエゴは巨大な玉ねぎを剥くように、一枚ずつゆっくりとはがしていかなくてはならない。

こうしてACIMのワークは、あの手この手で「エゴの玉ねぎ」を剥く作業を促している。

レッスン124-私が神とひとつであることを、思い出せますように。

レッスン124は、ダイレクトの「私が神とひとつであることを、思い出せますように」というお題の元に、このコースでは初めて(たぶん)30分という長めの瞑想ワークが指示されている。

今日、あなたの上に平安あれ。神があなたとひとつであるように、あなたも創造主とひとつであると自覚する練習をして、あなたの平安を確実なものにしなさい。今日一日のうちの最適と思える時間に、自分が神とひとつであるという概念に半時間を捧げよう。

ワークをして

30分という長めのワークでは雑念がたくさん心をよぎっていく。

一つはやはり、赦しのむずかしさ。

前に知人にざわついた思いを持った時のことを思い出し、とっても些細なことなのだけど、それでさえ感情を流すことには時間がかかることを思った。

私はだいたいに自分の思うことを人に伝えるのが下手で、特にネガティブなことの場合はほとんど言えず内に飲み込む。「も~」と笑顔でユーモアを持ってツッめたりしたら、人生もっと軽やかなんだろうけど。

この世で日頃感じる心配、痛み、怒り、辛さは、ここにいる自分にとってはやはり現実でリアルだ。それを非現実として見て「だって実際には起っていないのだから」と心から思えることは、そう簡単ではないと感じる。

赦しの中でも、些細なものから大きな事故や事件に巻き込まれるようなもの、家族や自分の心身を大きく傷つけるものもある。こうしたことに直面した時、赦しはさらに相当厳しいものになるだろう。

ワークの終盤では、安らぎも感じた。いろいろ心配ごとや葛藤はあるけれど、こうしてACIMを学べていることは貴重だし有難い。

ずっと、「安心や幸せを得るために○○しよう」というような考えで来たけれど、そうではなくて、

「神に守られている今ここで、安心と幸せでいよう」と思いたいと思う。

ACIMとその周りのことをこつこつ学びたい。そういうことをゆっくり生きながらしていきたい。

そう思えている今この瞬間は幸せなんだなと思う。

アファメーション

清らかな自分に気けるように、心が鎮まりますように。

レッスン123-私は、父が与えてくれた贈り物に感謝する。

2017-07-05

レッスン123-私は、父が与えてくれた贈り物に感謝する。

ここ数日とっても蒸し暑い。

さっき「イランで東半球の観測史上最高気温に並ぶ53.7度を観測」とのニュースを見た。あわわ、これはもう暑くてやだ、と言ってるレベルじゃない。今朝、島根県には初めての大雨特別警報が出ていた。

これらも、異常気象というか温暖化の影響なのかな?家では、今年はまだエアコンを付けておらず朝に昼に夜にくるくるくるくる扇風機が大活躍している。

レッスン123はシンプルに神に感謝をささげるワークだ。

これまでに自分が受け取った贈り物に対して感謝する。

今、感謝のために捧げる一日によって、あなたがこれまでに得たすべてのもの、すなわちあなたが受け取った贈り物の、真の大きさについて、いくらなの洞察が得られるという恩恵が追加される。

私たちはひとりで進むのではない。ひとりだったときに聖なる友がやってきて、救いをもたらす神の言葉を語ってくれたことに、私たちは感謝を捧げる。

今日、あなたが神に感謝をするとき、神の感謝を受け取りなさい。神は、あなたが捧げた感謝をあなたに与える。神はあなたからの贈り物を愛に溢れた感謝のうちに受け取り、それらを何千倍にも何万倍にもして返してくれる。

感謝を捧げる15分のワークを2回。

ワークをして

ワークをして、「感謝する」というシンプルな行為が、このゲンジツの世で私たちが神の門をくぐる術なのかなと思った。

感謝することで、このゲンジツの世の影響力を小さくし、心が神の守られるその影響度を大きくするのかな、と。

だれでもいつでもどこでも「感謝する」ことで神に近づける。「感謝」ができれば幸せな気持ちになれる。感謝は魔法の杖なのだ。

私は、ACIMワークをする少し前位から、仕事関係の方や友人に前より感謝の言葉を表すようになったり、お店でお会計の時も「ありがとうございます」と言うようにしているけれど、本当の感謝のこころがわかっているかというと、かなりあやしい。

気づくと、心に不平や不満を感じているから。

人に対してというだけではなくて、自分を取り巻く状況や環境、諸々のことに心の中でグチっている。

本当に感謝できるようになったら、こうした心の中の不平不満もなくなるかな?感謝の心というのも、草花のように意識して育てていくものなのかもしれない。

正直なところ…

私は『神の使者』とACIMに出会えて感謝している。

ずっとACIMに沿って学べるかどうかはわからないけれど、今は人生に道しるべができたと喜んでいる。

幻影ではあるけれど、昔は嫌い憎しみさえ抱いていた母との関係がよくなり、産み育ててもらったことに感謝できるようになった。そのこともとてもありがたいと思っている。

ACIMの教えを学ぶにつれ、世間の競争原理や「こうあるべき」というものに振りまわされることもなくなり(人から見たら、変り者度が増しているだけかもしれないけど)、心の中の罪悪感、恐怖感が和らぎ、結果として幸福感と穏やかさが増した。それは何よりありがたく幸せなことだ。

何とかACIMのワークを続けられている。その自分の状況にも感謝している。存在をはっきり感じることはできないけれど導いてくれているだろうホーリースピリットにも感謝したい。

生きるうえでの様々な葛藤はまだまだあるけれど、

今日の一日を、今週を、今月を、、、感謝して幸せなきもちで生きよう。

アファメーション

不平不満を感じていることに気づいたら、状況のポジティブな面を見て感謝しよう。

レッスン122-赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

2017-07-03

フタを開けてみれば…「都民ファーストの会」圧勝

昨日の都議選は蓋をあけてみれば、小池百合子都知事が率いる「都民ファーストの会」が圧勝だった。公示前6議席だったのがなんと55議席も獲得。一方の自民党は告示前の57議席から23議席と半数以下となり、歴史的な大敗と言われている。

選挙前々日、駅前で公明党の候補を応援する小池さんを見かけた。生で見るのは初めて。第一印象は、色が白い、テレビで見るよりお腹周りがだいぶふくよか。声に張りと力がある。

小池さん出現にみんな足を止めて駅前はすごい人だかりになった。そして、小池さんを見上げる皆が好意的だった。その時「小池さんにはまだ“風”があるんだな」と思った。自信から来るのだろうか、オーラというかカリスマ性も感じた。

だけど、こんなに大差がつくとは思っていなかった。流れ、変わる時は変わるもんだ。

昨夜の開票速報で、キャスターの方が「小池さんの風の吹かし方もうまいけど、自民党のこけ方がひどかった」と言っていたけど、ほんとうに。

加計学園問題では直前に下村都連会長の献金疑惑が出たし、稲田防衛大臣の致命的な失言、「このハゲーッ!」でいちやく有名になった豊田真由子議員の秘書への暴言もあった。テレビは五感に訴えるから、暴言音声はかなりのマイナス宣伝になったかも。

小池さんは運がいい人なのかもしれない。

この風がこれからの東京都と都民、私の生活にどう関わってくるだろうか。

政治に関心があるわけではないけれど、人とその人が紡ぐものがたりには興味がある。

小池さんは一部では総理の椅子をめざしているとか言われるけど、そうかな?政治と選挙のゲームの達人は最終ゴールまで行きつくのだろうか。大勢生まれた「小池チルドレン」やがて自民党の「自民党 魔の二回生」と言われる人たちみたいに、話題を提供する時もやってくるかな。

見守っていこうと思う。

レッスン122-赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

昨夜の都議選にはびっくりしたけど、私はともかく自分を生きていかねばならない。自分の心の中がすべてだ。

ACIMワークをやっている時は、穏やかにもなるし豊かな気持ちにもなれるけど、心にはさまざまな葛藤があり生活に余裕はない。

これに対するワークブックのレッスン122は、

赦しは、私が望むすべてを与えてくれる

赦すことが、私たちが手に入れたいと努力している、すべてのもの―幸福や静かな心、確かな目的、おもりやり、守られている安心感、やさしさ、慰め―と、それ以上のものを与えてくれる、と説く。

答えはここにある!

赦して、赦されなさい。

…朝と夜15分「地獄の終わりを保証する探索」のワークをする。

ワークをして

赦しが、私たちにすべてのものをもたらすという理屈はわかっているつもりだ。そもそも私たちは神なる性質のすべてをもっている。

それが認識できないのは、エゴが私たちに目くらましにかけ、宇宙のこの世という“バーチャルリアリティゲーム”に誘ったことで、私たちはそちらを本当の世界だと思うようになっているから。

赦すというのは、ゲームの中の自分の視点から、外からゲームを見ている自分の視点へと視座を移すことと同じだろう。

私たちが住んでいるのは、私たちの観念が見せる世界だ。観念にぴったりの現実感を感じさせるしくみがある。1つの判断、結果を赦すことでで、幻想が一つ取り除かれる。そして赦しが完璧になれば、神と私たちを阻んでいた雲が取り払われその向こうに輝いていた太陽の日差しを感じるがごとく、神なる質をすべて自分のうちに感じることができるのだろう。

だから、レッスン122の文言どおり、赦しは私が望むすべてを与えてくれる。

それは頭でわかったつもりでも、なかなか一度では身につかない。徐々に徐々に目覚めていくには、時間という幻想が必要だ。

私の中には、さまざまな観念があって、その中には「○○のための時間がない(足りない)」というのもありそう…。

だから、やるべきことがあってそのための時間があっても、そこになかなか立つことができず、いつも「あれもしなくちゃ、これもしなくっちゃ」と心が上滑りする。

こう、言っているのもエゴなんだろうな。

赦しを学んでいるものの、どこかしら観念的で「わかったつもり」で留まっていて、本当に赦しをベースに生きるところには至っていない。

7月のじかん。大事なじかん。不平、不満、欠如、心配…などに費やさず、赦しと感謝をベースに生きたい。

アファメーション

本来の私には神の記憶がある。私が神の子のかけらだ。

レッスン121-赦しが幸せへの鍵である。

2017-06-30

都議選直前

6月最後の日。外は梅雨らしく雨がしとしと。

都議選が明後日に迫り、外の選挙カーは必死に名前を連呼して「お願い」「よろしく」と通っていく。

これって騒音っぽくてみんなの生産性を落としているだけのようにも感じるけれど、名前連呼の効果っていうのもやっぱりあるのかな。

築地市場の問題はこの都議選にどの程度関係しているかな。小池さん率いる都民ファーストの会は、どの程度議席を獲得するだろうか。

都議選については、友人知人から自民党、公明党2候補に投票を頼まれた。けれど私自身は本当は「だれ」が望ましいと思っているのか、よくわからない。投票するつもりではあるけど、未だ定まらず。

レッスン121-赦しが幸せへの鍵である。

また新しいフェイズに入る。レッスン121ではACIMの最も基本的な概念である「赦し」について、「赦しが幸せへの鍵である」という概念を深める。

これは、「赦しこそが幸せへの鍵である」と言い換えた方がわかりやすい気もする。

赦し…

すわなち、この世の幻想性を認めて、手放すこと。

この世のゲンジツはここにいる私にとってはもちろん現実的なことだけど、実は映画のように幻影を見ているだけ、それも神からの分離という幻影。それは実際には「起ってはいない」。自分の罪悪感と恐怖がときに無意識から浮かび上がって、怖く辛い映像を見せる。

その時、現実ではないのだと認めゆるす。それによって、神と私たちを隔てていたかに見える雲が取り払われて、ずっと在った神が見えてくる。

レッスン121には、「赦しは習得されるものである。」とある。車の運転や料理や水泳のように身につけるものだ。

それを内なる教師であり、本来の自分であるホーリースピリットの導きによって学んでいく。

レッスン121は赦す練習で、長いほうの練習は、

①自分が嫌ったりネガティブな感情を抱いている「敵」と「友」を選び、

②敵視している人のどこかに光を感じる

③光を広げる

④友にその光を移し、その人に友以上の存在を感じる

⑤光を自分に与えてもらう

⑥「敵」と「友」を一つにする

⑦彼らに祝福してもらい彼らと一つになる

⑧これにより自分自身によって赦された

…大まかにいえばこのようなプロセスによってワークをする。

レッスン121は一日を通して赦しが果たす役割を忘れないため「1時間ごとに、次のように自分に教えなさい。」と次のような文言で締めくくられている。

赦しこそが幸せへの道である。私は、自分が死にゆく者、誤りを免れない者、罪深い者だという夢から目覚め、自分が完璧な神の子であるとわかるようになるだろう。

ワークをして

2日間何回かワークをした。対象を決めずにワークをしたなかで「敵」の役に「妹」のイメージが出てきた。

妹は7歳も年下ということもあって、ずっと「かわいい」としか思ってこなかった。もちろん今もかわいい、愛おしい唯一のきょうだいだ。

だけど何年か前たまたま帰省のタイミングが一緒になった時、母親に激しく怒りをぶつけている姿を見て、怖ろしくなり、それから妙にキンチョーするようになってしまった。それでこのワークの対象となった。

ワークをしてみて気づいたのは、妹が母に怒りをぶつけている姿は、

強大な母に怒り憎しみを抱いていた過去の自分を呼び起こしていたのだということに気づいた。

幼かった私は怖ろしいと思っていた母に反発しながらもただ感情を閉ざすばかりで怒りを表現することができなかった。次女の妹はそれができる。

だから大人になった今、まだ反抗心をむき出しにしている妹に、何を甘えているんだ、老いた母に…と思う反面うらやましくもあったのだ。

そして、母を攻撃する妹の姿は、もう一つ、妹や妹に代表される年下の者から非難され攻撃される自分というイメージを呼び起こしていた。母にぶつけるその怒りは私に対してもあるだろう、と。

だから、大人になった妹は葛藤を呼び起こす存在であり、だからどこかしらキンチョーがあるのだと思い当たった。

つまり、私は妹に表現されなかった自分を見ていた。親を責める子と子から責められる親の両方を見ていた。

彼女は私だ。

ワークをしてその正体がわかった。

このイメージはとりもなおさず、「親なる神との分離」のイメージではないのか。自分が親から離れたのを、親がダメだからだと責める「結果」をこの世に作っていたのではないか。

イメージは、まだ手放せていない感情のしこりというだけであって、本当のことではないから、そこにしがみついてその感情を育ててリアルにしてさらに大きくしてしまうのは望まないことだ。

それで手放すようにした。

このイメージは私にとっては深いものだと思うから、何度も赦すことが必要かもしれない。

アファメーション

私が出会うすべての人は、私。その私を赦して慈しむことを思いだそう。

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