121~140

レッスン140-救済だけが治癒をもたらすものと言える。

2017-08-28

色えんぴつ画展覧会

去年から始めた月一度の色えんぴつ画講座、生徒及び先生の元からプロになった方々を含めた展覧会があって、私も下手ながら初めて二枚だけ出した。それをユング講座の仲間に付き合ってもらって、昨日一緒に見にいった。

数年前までは生徒数も少なかったらしいけど今はかなり増え、100人以上の生徒が出品していた。自由画だから、風景画あり、静物画あり、人物画あり…で、何を描くかはそれぞれ。それが、おもしろいな、と思った。

私は、家にあった猫のぬいぐるみ、二匹。

講座中、展覧会用の絵を描く時間があったのだけれど何を描くか決まっていなくて、出がけに家にあったぬいぐるみをひっつかんで行ったら、「その題材、おもしろいですね」と先生に言われ、そのままそれにした。

なりゆきで始めた色えんぴつ画だけど、色を塗っているときは無心になれる。またいつも「趣味は…?」と聞かれた時、返答に困っていたけど、この講座に通い始めてからは「色えんぴつ画です」と言えるのが、助かっている。

帰りに付き合ってくれたユング講座の仲間といろいろとおしゃべりできたのが、楽しかった。ひとりでいる時間が長く人と話すのが下手になっている…私。おしゃべりはひとりではできない。私は、人と話すことに飢えているのかもしれない。

レッスン140-救済だけが治癒をもたらすものと言える。

レッスン140は先週水曜にやったワーク。

レッスン136、137同様、病いと癒し、治癒に関連する概念を扱っている。

この世の治療法は「病気」という幻想を「治った」という幻想に変えるだけのもので、病気という幻想の原因である心を治癒するものではない。

ACIMの救済=贖罪だけが治癒をもたらすのだという。

罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」と。

なるほど。と思う。

私たちが神から分離したのだと思うがゆえに意識下に抱く罪悪感や恐怖を身体に投影したもの、それが病気だ。

もちろん、本人はそんな意識はない。だけど、今世のなかのどこかで自分が罪悪感を抱いたり恐れたりしたことが、心に認められず身体に現れたもの―それが病いなのだ。

病気は真理を見ようとしないことからもたらされる。真理の下では病気は存在しえない。

幻想を真理のもとへもっていく心だけが、真に変わることができる。これ以外に変化というものはない。

今日、私たちは病気の源について、私たちの心を変えることを目指す。」

「だから、私たちは護符や呪い、魔法の呪文や丸薬など、あらゆる形の魔術的なものを脇に置く。そして、静かにして、癒しの声が聞こえるように耳を澄ます。

ワークをして

病気が、罪悪感や恐怖、偽りの信念を身体に投影したものだという説明は、よく理解できる。今そんな気はなくても、もしかしたら生まれる時に自分で選んできたのかもしれない、そうしたことを含めて、病気はすべて自己決定なのだ。

エゴは私たちに「おまえは罪人だ、神に罰せられるだろう」とささやく。それがしごく尤もに感じる。ならば病気にくらいなるのが当然のようにと思う。

自分がだれかを攻撃したい気持ちがあるけれど、それを認めたくない時、自分が「病人」という被害者になりながら、そのだれかを巻き込むことだってある。

病気を生むのは無意識からだけど、自分の心のあり方が作っているのだから、本当に癒すには、自分の心を変えなければならない。

レッスン140の説明にあるとおり、「聖性が存在しない場所はなく、罪や病気が住みつくことのできる場所はどこにもない。」と。

ACIMを学んでよかったことの一つは、病気は必然ではない。また必要なものではない、と知ったことだ。

私は、ずっと病気になるのが怖かった。とくに、がんを恐れていた。書店や電車内でもその文字の並びに反応する。それはやはり自分は罪ある身でいずれその罰として病気を受けるのが報いだ、という思考がどこかにあったからにちがいない。

そして、実際にそのとおりの病気になった(しかし、幸いなことに症状がなく進行もほとんど見られない)。

未来は自己予言に基づくシナリオのようなものなのかもしれない。

でも、今や、病気には根拠がないことを学んだ。だから、心は晴れやかだ。

本ワークでも、私は自分自身に贖いを受け入れた。救済により、病気を治癒したいと思う。

アファメーション

病いは必要ない。私は贖われた。

レッスン139-天国は私が下すべき決断である。

2017-08-25

いま赦すべきこと

私が帰省していた時はずっと長雨が続いていたらしいけど、ここに来てまた暑い日が続いている。

8月21日と22日とレッスン139をやった。やったとは言っても、朝夜の長めのワークの間の毎時間の練習はできていない。でもこれを完璧にやろうと思うとまったく前に進めなくなりそうなので、いいことにして進む。

すでに一度やっているのだから、、という緩みもある。けど、一度やっていると自負?するわりには、習得度は低い。ACIMの理屈だけ抱えて体育座りして固まっているようではいつになっても習得できない。

この素晴らしい理が体現するものとなって、この世で生きなくちゃ!ひきこもっていないで、外に出なきゃ、と思う。

この考えが世の中の常識と言われるものとあまりに違っていて、それどころか「世界は実在しない」というのだから、一般の人には心理的テロのように世に歯向かうものと受け取られやしないかと恐れている。

そう、私は、ACIMが素晴らしいと思っている自分の考えをオープンにすることに恐怖があるのだ。

その恐怖こそが、私がいま赦すべきことなんだろうと思う。

なんたって、ACIMと出会った今、自分の人生のお題は、①ACIMをより平易にわかりやすく表現すること、と②形而上的、抽象的なACIMをこの世の日常性とつなぐこと、だと思っているのだから。

レッスン139-天国は私が下すべき決断である。

さて、レッスン139は、「自分自身に贖罪を受け入れる」がテーマだけど、その前に「自分は何なのか」について私たちが確信を持っていないことについて書かれている。

私たちの葛藤や迷いは「自分が何であるか」がわかっていないことから来る。そして、それは自分をだましていることだと言う。本当の自分を実は知っているはずなのに、その本当の自分を拒否し、自分をごまかして知らないふりをして、さらにそれ自問しているというのだ。

自分が何であるかについての確信の欠如は、あまりにも大規模な自己欺瞞であるため、その巨大さは想像を絶するほどである。

こうして彼は、自らの生命について確信がなくなる。自分の生命そのものを自ら否定したからである。あなたが贖罪を必要としているのは、この否定のためである。

私たちの心はエゴに支配され、本来の自分が感じられなくなっている。しかし、実はエゴは虚偽。存在すらしていない。存在していないものを拠りどころにしても、残るのは虚しさだけだ。

それをレッスン139で治癒する練習をする。

贖罪が治癒するのは、この奇妙な考えである。すなわち、自分自身を疑い、自分が本当は何なのかについて確信を失うことが可能だという考えである。このような考えは狂気の極みである。

このあとには、すごいことが書いてある。

世界が信じていることで真実なものは何一つない。この世界の目的は、自分自身を知らないと主張する者たちがやってきて、自分とは何かと質問していられる安住の地を提供することである。

この世を「自分とは何かと質問していられる安住の地」と表すとは…!

私たちが、「自分とは何か」と自問したとしたら、そんな自問は本当は成り立たないはずなのだから、それはまさに自分を偽っている証拠なのだ。自己欺瞞であり自己否定だ。

ACIMを学ぶ目的と使命は、この自己欺瞞と自己否定を解消することだ。

それは赦しによって、罪を購うことによってなされる。一度も犯されなかった罪を購う。それが贖罪だ。

自分を赦せば他者も赦される。他者を赦せば自分も赦される。

それが、この世に来た目的と使命でもある。

私は自分自身に贖罪を受け入れる。私は今も神に創造されたままの私なのだから。

ワークをして

自分自身に贖罪を受け入れるということが、簡単そうで実はなかなか難しく、「おまえは罪人だ」と私を責める心が無意識の根っこに在る気がする。そしてそれは根深く大きい。

レッスン101「神の意志が私に望むのは完全な幸せである」のパラグラフ5にも「自分が神の子を悪魔にしてしまったという信念をいつまでも大切にしていないで、開かれた心で贖罪を受け入れなさい。」とある。

その大畑学さんの戦士書籍の解説には「罪も罰も幻想だと知って受け入れ、受け流して赦し、幻想を消滅させていまうこと、それがACIMの贖罪である。贖罪とは、まさに罪滅ぼし、罪を滅ぼすことである。」とあって、「なるほど」と唸ったことを思い出した(どこで見たんだっけと検索して調べたらレッスン101だった)。

これは私だけではなく人間が誰しももつ「原罪」で、それが無意識の奥にあるからこそやっかいなのかもしれない。でも、これを対峙しないかぎり天国には入れないのだから、目前に現れたものをコツコツと赦していくことにしよう、と改めて思う。

赦しの機会が目前に現れることすら、チャンスとは思えず、恐れているのだ、今の私はー。

アファメーション

私に起ることはすべていいことだ。なぜなら、それ以外起りえないのだから。

レッスン138-天国は私が下すべき決断である。

2017-08-21

母との時間

土曜日、金沢の友人に会って、それから東京に戻ってきた。

故郷での在宅中、起きている間ずっと母が話しかけてくる。普段ひとり暮らしの私は、何時間かで疲れてしまう。「滞在期間は優しくしよう」と心に決めて帰省したのに、だんだんつっけんどんになり、ついいらついた返事をしてしまう。それに気づいては「やってしまった」と思う。

母は年にわりに頭がいいけれど、最近は何かにつけて「これ、おかしいね、おかしいね」と大騒ぎする。年老いた自分の能力が落ちていることを認めにくいのか、自分ではなく自分以外の物や状況が変だと言うのだ。

パソコンもお盆の少し前に、思うように動かず「初期化しますか」との問いにいらついて、「はい」と押してしまったとのことで、まっさらに!私もパソコン苦手だけど、母といると、解決すべきことやこうしたいと思うことがたくさんあって、その都度調べ、そのおかげで少しパソコンやipad miniについて知識を得る機会になる。

帰りしなに会った友人には、「うちの母ったら、こんななんだよ」とつい母のぐちを言ってしまったけれど、今から思えば、「グチりながらのろける」類の話だったんだと思う。

けっこう長い間母と過ごせて大変だと思う一方、楽しかったしありがたかったのだ。やはり母にはいつまでも元気で、今のままでいてほしいと思う。

東京に戻ってきて、自分の部屋に帰るとその静かさに、別の国に来たかのような不思議な感覚になった。今はまだ私だけのこの空間を手放したくないとも思う。いったん崩した東京のリズムを戻していこう。

レッスン138-天国は私が下すべき決断である。

結局帰省中でやったのは、このレッスン138だけだった。これを何日もくりかえした。が、まったくまともにはできなかった気がする。説明の言葉もむずかしく、体感として十分には理解できていないように感じる。けど、先に進もう。

私たちが生きているこの世界では、対立するものが「在る」と思っているけれど、実は神(=天国=真理)だけしか実在していない。

ただ「恐れながら知覚することしかできない場所には、真理そのものは入ってこられない。

「天国という決断を下すこと」は、この世界に、真理と偽り、あるいは天国と地獄の両方があってその一方を選ぶということではなく、その選択肢があるかに見える世界から抜けるということだ。

思い出す必要のあることは、あなたが何千もの選択に直面させられると思っていても、下すべき決断は本当は一つしかないということである。そしてそれさえも、選択のように見えるだけのものである。

そして、この世では、生きることはすなわち数多くの葛藤を抱えて生き抜くことだと見なされているので、「救済は死ぬことだということになる。

こうした間違った信念は無意識にあるため普段意識されることなく、私たちに強い支配力を持っている。

若いうちは幻想の世の成功を追い求めるようにプログラムされ、それを喜び、興奮、挫折に置き換えて過ごす。若さが去り自分もいずれは死ぬ身だと実感しだす中年から晩年は、不安と恐怖を抱きながら時を重ね、最終的にはあらがいながらもれなく訪れる死という救済を受け入れることになる。

この間違った信念を手放して天国を決断するには、世の幻想性が認識され、幻想を意識的に選ばないことが求められる。

レッスン138はその練習だ。

朝と夜に、天国の選択をする5分のワークをして、日中も1時間ごとにその選択を確認する。

ワークをして

旅の供に、ゲイリー・R・レナードさんの第3弾の著書『愛は誰も忘れてはいない』を持っていき道中読んでいた。

そこに、パーサの発言で「とにかく、繰り返しは不可欠よ。『奇跡のコース』(ACIM)の「テキスト」は、六頁分を違う言い方で百回繰り返したものだって言われているわね。」というところがあるけれど、ワークブックもそうだと思う。ただ一つの決断のことを表現を変え、視点を変え、何度も何度も説明している。

そう、天国の決断とは、赦しと癒しを敢行すること、その決断なのだ。

私は、日々のことでいろいろ葛藤があるけれど、それもまた「天国を決断する」というただ一つのことで済む話なのだ。

この世でそう生きるための、聖霊(ホーリースピリット)の声をちゃんと受け取れているだろうか。

田舎に母といた時間は、ACIMからは遠かった気がするけれど、どんな環境にいても、ACIMと聖霊を心に置き、抽象的なACIMの教えをこの世の日常にちゃんと下ろして生きられるようになりたい、ものだ。

アファメーション

細かく分断されている私が、本来の私のもとひとつになれますように。

レッスン137-私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。

2017-08-15

帰省で気づく「特別な関係」

お盆で故郷に帰省した

母がまた一回り小さくなり腰が曲がっていて、また老いたと思う。切なく感じた。いつかは避けられない母親との別れに恐怖を感じてしまい、昨夜はなかなか寝付けなかった。

50代にもなって、母親から精神的に自立できていない。

お母さんが老いていくのがいやだ。母がいない世界が考えられない。ACIMでこの世での諸々について「赦す」ことを学んでいるけれど、こと母になると「まったく赦せていない」ことに改めて気づく。

これがACIMでいう「特別な関係」なのだと思う。まったく幻想に取り込まれてしまっている。

どんなことでも「赦し」は同じ。目前に赦すべきことが現れたら赦すだけなのだ。すべては、「神との別離」を表すものとして、私がまちがって人生スクリーンに映しているものなのだから。。

今は、ともかく…母が高齢まで元気でいてくれることに感謝。

レッスン137-私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。

レッスン137は136に続き、病気とそれを癒すことについて説かれている。

ここでの中心的概念は、病気とは孤立であって他者からの分離の象徴だが、癒しは再び他者とひとつになろうとする決断であり、真の自己を受け入れようとする決断であること、そして誰かが癒される時はその人ひとりが癒されるのではなく、他の者もまた癒されるということだ。

病気という本来ならば存在しない夢を、夢だとして取り消すもの、それが癒しだ。

だから癒しは、夢に対抗する夢と呼ぶことができる。それは真理そのものにおいてではなく、真理の名において、病気という夢を無効にする。なされたことのない罪を赦しが看過するのと同じように、生じたことのない幻想を赦しが取り除く。」赦しは自由そのものであり、強さである。

そして、「癒すこと、赦すこと、そして、悲嘆の世界のすべてを、悲しみが侵入できない世界と喜んで交換すること-この三つが、聖霊に従うようにとあなたに促すための聖霊の手段である。」と私たちに方向性を示している。

自分自身が癒される時、自分が認識できなくとも、自分の周りの人たちも同時に癒している。癒された者は癒しの媒体となる。罪の意識や恐怖心を持たない在り方が、周りの者に安息を与える。

レッスン137では、私たちの機能(はらたき)は自分の心が癒されるようにすることだと思い出し、癒しを受けとり与える練習をする。

ワークをして

私は普段は自分もまた病気持ちだということを忘れているのだけれど、前回と今回のレッスンで思い出した。

そもそも病気は自分が計画して強い力を加えてこの世に生じさせた自己決定だ。

そしてある種の自己処罰であり、真理からの逃げ、否認である。

そうしたことすべてを取り消すよう努めた。

私は自分を癒そう。

病気は真実をねじまげたもの。私は真実をねじまげない。

病気は小さな不安や否認をどんどん大きな恐怖や罪として、それを体に現実化したもの。

そもそもなる必要はない。本当はその原因も存在しないのだから。

すぐに治るのは無理でも癒そう。

アファメーション

ほんとうは病気になる必要はないのだから、まず私自身を癒そう。

レッスン136-病気は真理に対抗する防衛である。

2017-08-12

レッスン136-病気は真理に対抗する防衛である。

ここでは、三日前最高気温37℃の猛暑日だったが、昨日は最高気温25℃。朝晩は涼しく秋のようだ。過ごしやすくてほっとひと息。猛暑日の日にギックリ腰になってしまい、よろよろ動いている。明日から帰省予定だから治さねば。。

レッスン136は「病気」の真の意味や原因について説いている。

これもまた、この世で定義されている病気とはまったく異なる。初めてACIMが病気について触れている部分を読んだ時は、その見方が厳しくてびっくりした。

病気は偶発的なものではない。すべての防衛と同じように、病気も自己欺瞞のための狂気のしくみである。そしてほかのすべての貿易の場合と同じく、病気の目的は実相を隠し、攻撃し、変化させ、無能にし、ゆがめ、捻じ曲げ、まとまりのない断片の寄せ集めへと貶めることにある。

そもそもこの世も私たちの身体も、誤った知覚により「在る」と感じているが、別のところから投影された「illusion」であり実在しない。

この宇宙も、この世も、私たちの身体も、エゴが真理から私たちを遠ざけるために作って誘った防衛のしくみだ。そして、その身体に起こる病も、また防衛であり「無意味な幻想」だという。

そして、病気を決断しているのは、私たち自身なのだという。もちろん、私たちは忘れているが。

「それは、あなたの信じたいことが、真理によって脅かされるかに見えるときに、あなたが振り回す魔法の杖である。

「それは、あなたが自分で下す選択であり、自分で立てる計画である。幻惑されているあなたの心の中で一瞬でも真理が思い出され、あなたの世界全体が揺さぶられて崩れ始めるように見えるその瞬間に、あなたが選ぶのがその計画である。

つまり、真理を見たくない、認めたくない。そのために、その心の歪みを自らの肉体に投影して気をそらしている、というのだ。

問題が実在する。そしてそれは心ではなく身体に。

というのが、病気が成果として成功させる「だまし」だ。

そして、その効果は、身体が実際に痛んだり苦しんだりする「結果」をもたらすために、ますますリアリティを持つ。「心」に比して「身体」の重要度がどんどん高まる。やっぱり身体が問題だ、この身体をどうにかしなくては、と。そして、私たちの偽りの知覚体系は温存され安泰となる。

ただ、真理が受け入れられれば、「病気」という防衛は必要がなくなり、身体は自ずと癒される。

レッスン136は、真理を認め心身に癒しを受ける練習をする。

ワークをして(病気…私の場合)

病気を患っている時は、とっても辛くそこから抜けたい、治りたいと願うものけど、それが心(エゴの部分)が高じた防衛策だとは…。

でもレッスン136のように見ると、すっきり理解しやすくなる。

ACIMワークをやり始めた翌年の2014年に私自身病が発覚したけれど、たしかにこれもまた自らの決断なのだ。思い返せばそんな気もする。

2010年頃から、占い会社と契約して手相占いをしていたが、そこに友人の紹介で鑑定に来た当時20代の女性がいた。甲状腺がんでむずかしい手術して、今も何ヶ月かに一度、東京に治療に来ているという。

友人の紹介ということでいつもよりじっくり時間をかけて話を聴いた。これから恋愛も結婚もしたい。彼女は私の目をしっかと見据えて、「この病気、治りますか」と聞いた。占いで答えるような内容じゃないと思った。

けど、私は「治ります」と答え、彼女の瞳を見つめ返した。

本当にそう感じたからだ。

でも、その日占いの仕事を終えた後、「怖い」と思った。

一つは「がん」という病気が怖かった。私は何年も前に著名な占い師さんに占ってもらって「がんになる」と言われていた。たかが占いなのだけど、それ以来、その「予言」を恐れてがんから逃げ回っていたのだ。だから、占いの場で患者であるお客様から話を聴くのも本当は避けたかった。

それと、医者でもない私が何の根拠もないのに「治ります」と言い切ったことも怖かった。不遜だ。占いでは直感で感じたことをしばしばお客様に返していたけれど「お前は何様のつもりだ」と自分を思うこともあった。

その数ヶ月後、甲状腺に腫れが見つかった。彼女と同じ病気になった。もちろん、その彼女を占ったことと因果関係があるわけではないのだけど、何か縁はあったのだと思う。彼女が治療を受けている主治医を紹介してもらって、診てもらっている。

そのお医者さんからは甲状腺の全摘手術をするように言われたけれど、自分でネットや本を調べて、今のところは「必要ない」と判断し、経過観察を続け今に至っている。大きさにはあまり変化がない。

自覚症状はいっさいない、数か月に一度の経過観察のみという、とてもありがたい状況なので、普段は自分が病気だということも忘れている。

でも、このワークで思い出した。

私もまた病気である必要はないんだ。病気になる必要もない。病気は自分を捻じ曲げているのだ。病気には真の原因も有意義な意図もない。

だから、私が自分を癒そうと決めて、治せるものなのだ。

癒そう。治そう。。。と、今、決めた。

アファメーション

必要ないものを削いでいこう。

レッスン135-自分を防衛するなら、私は攻撃される。

2017-08-09

大きなできごとと赦し

今日は台風後の影響で、都心で37度の猛暑日だ。

今日は長崎への原爆投下の日でもある。72年目の今日、原爆が投下された。先だって8月6日は広島への原爆投下の日だった。

何度ものくりかえしになるけど、ACIMでは、この世のすべてのことは、幻影であるという。

神の子である私たちが「神から離れた」という勘ちがいに対して抱く、罪悪感と恐怖を投影する映画のスクリーンのようなもの。それを、とりなし、「罪は決して起らなかった」と、その奥にある真実を見る目を取り戻すのが、ACIMの根幹である赦しであり、その習得をめざすのが、このワークブックだ。

赦しに大小や難度の差はないという。しかし、大勢の被爆者の方がおられて平均年齢は80歳を超える、その非常に辛く苦しんだ人生の話を聴いて、「それが起こらなかった」と思うのは、何年かACIMを学んできても申し訳ないような気持ちになる。

もし自分や家族に起ったことだったら、そういうことを言う人に対して、やはり強い怒りを覚えてしまうだろう。

私は、聖霊の見方とエゴの見方の中で、ここ数年揺れ動いているんだろうと思う。

レッスン135-自分を防衛するなら、私は攻撃される。

レッスン135の主題概念は「自分を防衛するなら、私は攻撃される。」

これもなかなかむずかしいお題だ。最近ニュースで、核兵器禁止条約に唯一の被爆国である日本は「反対」したのだとやっていた。それは、アメリカの「核の傘」に守られているから、とか。

「核の傘」というのは、核保有国が同盟国に核兵器の抑止力を提供し、安全を保障すること(朝日新聞)らしい。これは、実際には攻撃のための武器が抑止力を持つという前提からスタートしており、大きな傘で恐いものから守ってもらえるというイメージがある。

ACIMのレッスン135の考え方とは、真逆だ(ACIMの考えは最初っから、この世の考えとはまったくちがうけれど)。

脅威の感覚は、内にある弱さの認識である。適切な防衛をしようとさせるだけの威力のある危険が存在する、という信念である。世界はこの狂気の信念に基づいている。そしてそのあらゆる構造、そのすべての考えや疑念、その刑罰や重装備の軍隊、その法律的な規定や規約、その倫理や指導者や神々、こういった一切が、脅威の感覚を温存するために働いている。

防衛とは恐ろしいものである。防衛は恐れから生じ、それがなされるたびに恐れを増大させる。あなたは防衛が安全をもたらすと考えている。しかし防衛とは、恐れが実在化され、恐怖が正当化されたことを物語るものである。

レッスン135では、こうした防衛の真の意味に加え、私たちが肉体に対してなす様々な防衛や、計画というものが実は防衛に他ならないといったことが説かれている。今のこの世では、ほとんどのことが「計画」に基づいてなされているから、計画自体を防衛だと見て、それに頼らないことはむずかしく感じる。

防衛とは、そもそも恐怖があるところになされるもので、その恐怖は突き詰めると、神への恐怖となる。

神は恐怖を与えない。その逆で、神の子の幸せだけを願い、無限の慈愛と穏やかさ、豊かさを与える。

防衛とはその神を信じないと宣言していることだ。

防衛とは、真理に対抗してあなたが作り上げようとする計画である。

過去、現在、未来において起こるあらゆる事柄とすべての出来事が、あなたの幸福だけを目的とする一なる存在により優しく計画されているということを、もしあなたが知っていたなら、あなたに受け入れられないものなどあるだろうか。

つまり、私たちは自分で自分を邪魔して、神の愛にバリアを張っていることになる。レッスン135ではそのバリアを取り除き、「無意味な計画を立てるのをやめ、真理が心の中に入ってくるのを阻む思考のすべてから離れる。

ワークをして

20代の頃学んだ経営学では、Plan(計画)-Do(実行)-See(評価)のマネジメントサイクルを非常に基本的な概念としていてその考えが染みついているから、「計画」=「防衛」との考え方は理屈ではわかるけれども、それに委ねきれていない自分がいる。

何年もACIMを勉強しているつもりだったけれど、計画や振り返りの「害」みたいなものはストンと抜けていた気がする。

神は私に良きことだけを与える。それをエゴの考えによって邪魔しているのが今の私だ。

ずっと私は、失敗しているのかな、心配をしないということに…、と感じた。

だからインスピレーションもキャッチできずに、どんどん矢印をまちがえているのではないか。

「問題」はないのだから、それについて心配するのは、問題をリアルにすることに力を注いでいるだけだ。

ワークの終わりに、神の祭壇をイメージをして、一方には「問題」を捧げ、そして他方には愛と感謝をささげた。

ずっと自分から何かを画策しようとせずに、安心して自分の世界に現れるものに応じていけたらいいのに、、、と思った。

アファメーション

状況わるくない、見方によってはパーフェクト。

レッスン134-私が赦しをありのままに知覚できますように。

2017-08-04

レッスン134-私が赦しをありのままに知覚できますように。

ここ最近、あれ、これは秋風?と思うような風を感じるけど、勘ちがいなんだろうな。蒸し暑さはこれから、、なんだろう。暑さのスパンが長すぎて、夏がわからない。。

レッスン134では、「赦し」の概念が見直されている。「赦し」は、ACIMワークブックの練習の中核だ。「赦し」の概念は「わかった」と思っても、それをこの世で実行して習得するまでは、本当にわかったとは言えない。

ACIMでいう「赦し」と世間一般でいう「許し」は、まったく違う概念だが、それはその前提になっている見方がまったく違うからだ。

  許し赦し 
世界観  世界はある 世界はない
 神との関係 神と分離 神とひとつ
 私たちの性質 罪が在る 無辜(無罪性)
 不快な、許しがたい出来事 実在 実在しない

この世でいう許しは、「あなたは本当にひどいことをしたけど、大目に見て許してしんぜよう」というものだけど、ACIMでいう赦しは、「そもそもわが同胞は何もしていないし、本当は何も起ってはいない、そこのところを見抜いて感情を水に流そう」というもの。

そもそも私たちはエゴが呈する夢を見ているのであり、これは怖い夢を手放すための絶好のチャンス。その気づきに用いて夢から覚め天国にいることに気づこう、というのが、この『奇跡講座(ACIM)』の根幹だ(と思う)。

で、レッスン134では、「兄弟をひとりを選び、心に思い浮かぶままに彼の『罪』を一つずつ並べていく。

そして、その人が行った行為を見て「『私はこれと同じことをする自分を責めたいだろうか』と自問する。

その同胞はいわば、自分自身が無意識で「罪」だと感じていることを、この世で見せてくれている鏡に映る自分だ。その人が「した」と思っていることを自分の側から見直して、彼、彼女の「罪」を自分に引き取る、というのが今回のワークだ。

ワークをして

このワークを数回したけれど、その中で対象として選んだのは「元夫」だった。何度も赦しのワークに登場させているが、思い出すとまだ切なさや悔しさが思い出された。

振り返ってみれば、彼には私の方が先にもっとひどいことをしていた。

その「仕返し」だったとしたら、ちょうど見合うか、まだ私が負っているか、という具合だ。

いやいや、そうではない。この、世界はない。だ。

したがって、実は二人の間にも何もない。ただこの世で学ぶ「ソウルメイト」というだけ。他の兄弟姉妹と同じく向けるべきは、愛と感謝だけだ。

このレッスン134の一回目のワークの時も、彼に対象となってもらった。好きな人だったから、その分いろんな出来事や執着心もあり、いろいろ赦しの材料がたくさんあったのだ。

         *       *       *

今も日常生活で赦しが必要とする場面に直面すると、この幻想の世の圧倒的なリアル感に騙されて、気づくと巻き込まれパニックになってしまう。直面しているその瞬間は、赦すのが嫌なんだ。相手やその状況を責め立てたくなる。悪いのは自分じゃない、と思いたいんだ。

でも、その状況も、相手も実はいない。そもそも諸行無常、夢の中の出来事なのだ。それをその瞬間に思い出せるか、どうか。その瞬間ではなくても、数秒後、数十分後、数時間後、あるいは数日後、思い出せるか。そして、理論、すなわち赦しの有用性はわかっているはず。

だから、赦せるかどうか。理論は知っている、と思うだけではだめなんだ。心から赦し、平和な気持ちになれなければ。

2013年からワークを始めているけど、未だ、だめだめな私。赦すどころか、こじらすことも。。。

だけど、赦さなければ進まない。少しずつでも、その機会が来たら、赦そう、と思う。

何だって、自分のため。自分が神さまと近づくためなのだから。

アファメーション

私が赦しの機会を逃しませんように。

レッスン133-私は無価値なものに価値を置かない。

2017-08-02

友人とランチ

8月。2日目。今日は涼しくて過ごしやすい。

昨日は友だちとランチをした。とりとめのない雑談ができ楽しかった。学生の頃や20代の頃はしょちゅう友だちと恋や仕事、人生のことをおしゃべりしていたものだけど、年を重ねるごとに自然とそういうことが減ってきた。

ここ数年ACIMの勉強を始めてからは、自分が世間の価値観とずれている、、、と思うようになり、ますます内向きに。でも、外向きになって新しい友だちを作ったりできたらいいのかもしれない。

そろそろ、そういう時期に来ているのかもしれない。

レッスン133-私は無価値なものに価値を置かない。

レッスン133は「私は無価値なものに価値を置かない。」という主題概念で、価値あるものを選択することについて書かれている。

冒頭の、「このコースは、あなたが持っているそのわずかなものを取り去ろうとしているのではない。世界の中で得られる満足感のかわりに、理想郷的な概念を提供しようというものでもない。」の、後半部分がおもしろく感じた。ともすれば、ACIMを世間逃避の理想郷的観念のように思っていたから。

続いて、「世界の中に、満足というものはないのである。」…とは、いつもながら、過激だ。

レッスン133、自分が求めるものを検証するための真の基準が挙げられている。それをまとめると次のようになる。

〈選択の前提〉

①選択肢は2つしかない。

②中間の選択肢はない。その選択はすべてをもたらすか、何ももたらさないかである。

〈選択基準〉

①永続しないものを選択するなら、それは無価値である。

②他の誰かから奪うなら、手元には何も残らない。

③選択しているものは、自分にとってどんな理由で価値があるのか、何が心を惹きつけるのか、どのような目的に役に立つのか(ここが最も欺かれやすい)。

④もし何かを選択しようとする際に、罪悪感を持つなら、それは偽りの目的が入り込んでいる。

そして、次の言葉を唱え、真に価値を持つ天国に到達するワークを行う。15分×2回。

私は無価値なものに価値を置かない。そして、価値あるものだけを見つけたいので、それだけを追い求める。」

ワークをして

この選択基準は厳しい。

第1の基準を見るだけで怯んでしまう。

この世はほぼ永続しないもので成っているから、そして私たちの身体や生命と思うものも永続しないから。

真の私たちは神の子であって永続するのかもしれないけれど、私はまだそういう見方ができていない。エゴの見方にどっぷりつかっているのだろう。この身体と生命を維持するために役に立つものを欲しいと思い、そういうものを選択している。

ACIMで求められている選択は到底できそうにない、と思ってしまった。

私の少ない趣味のひとつが株投資だ。ある銘柄急落して昨日までの3日で20万円超含み損が増えた(損切りできず)。あ゛~(>_<)

これもまた幻想の中のさらに幻想のようなこと。だけど、、、やっぱり上がるとうれしいし、下がると辛い。

これはまったく永続しないものを選択しようとしているのか。

この非現実もまた赦すことにした。

レッスン133ワークの本質をわかっていないかもしれないけど、指示どおり天国の扉を通るイメージをしたが、天国はこれがそう…とはよくわからなかった。

それでも心は穏やかになり、私は聖霊さん(ホーリースピリット)=本来の自分とともに歩みたい、と気持ちを新たにした。

ワークをして感じたことは、「いつまでエゴの見方をしているのだ。この見方を変えるために事象があり、エゴの見方を手放せるまではそれは何度も起る」というもの。そう誰かに言われた気がした。

アファメーション

今日一日ずっとホーリースピリットを意識しよう。

レッスン132-これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。

2017-07-27

永遠の名曲「時間よ止まれ」

矢沢永吉さんの「時間よ止まれ」や岩崎宏美さんの「聖母たちのララバイ」を作詞された、作詞家山川啓介さんが24日亡くなられたとの報道を聴いた。

「時間よ止まれ」は、私が高3の夏に流行った。最も好きな曲だ。この曲を聴くと、18歳の夏の躍動感、期待感、刹那な感じを思い出す。

おととい、なんでかこの曲が頭の中でくり返され、人通りのない道を小声で歌いながら帰った。そうして帰宅したら、作詞家の方が亡くなったとのニュース。切なく、また昭和が遠くなったな、と感じた。

もちろん、形あるものすべて、今ここにある私の身体も含めて幻想だと学んでいる。でも、若い頃、大人で偉かった方が、ひとりずつ消えていかれる。それは、学習途上の私にとっては、やっぱり寂しい。

近年、とくに父が亡くなってから、人の死に敏感になっているのかもしれない。死を含め、あらゆるこの世での別れは、神との分離の再現フィルムというけれど…

矢沢永吉さんの歌う「時間よ止まれ」はひと夏の恋を歌っていて、田舎の高校生だった私にとっては都会的でセクシーで、ちょっぴり危険な大人の香りがした。

時間よ止まれ。この言葉には、今の中に永遠を見たいという、私たちの恒久の願いが込められている。この歌を聴くと、今が永遠や時を超えた何かにつながっているとかすかに思い出すような感じもある。

「夏の日の恋なんて幻と笑いながら

 この女に賭ける」

「幻でかまわない

 時間よ止まれ

 生命のめまいの中で」

幻でかまわない… 情熱的な素敵な詞だ。

レッスン132-これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。

『時間よ止まれ』が素敵だと私が感じるのと、レッスン132の主題概念は矛盾するのかもしれない。

レッスン132「これまで『世界』だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。」

世界…、この中には時間、過去と未来も含まれるから。

世界それ自体は無である。あなたの心が世界に意味を与える。あなたがそこに見るものはあなた自身の願望である。

世界は存在しない!これがこのコースが教えようとしている中心概念である。

あなたは、神が創造したままのあなたである。あなたが苦しむことが可能であるような場所はどこにも存在せず、あなたの永遠の在り方に変化をもたらすような時間というものも存在しない。

世界を自分がそう思っていた考えから解き放つということは、自分自身についての認識を改めることだ。

私たちは神が創造したままの私たちである。

神が創造するものは神から離れてはいない。

だからこそ、

世界は存在しない。世界とは、神から切り離された想念であり、父と子を分離させ、神ご自身の一部を切り取り、神の全一性を破壊するために作り出されたものだからである。このような概念から派生した世界が実在のものでありえるだろうか。

生命あるものは、そこにはありえない。私たちも同じである。私たちは父が私たちに用意した家の中に、それらとともに存在しているからである。

レッスン132は、私たちが世界と思っていたものから世界を解放する練習を15分×2回する。

ワークをして

理屈はわかっても、自分にとって圧倒的にリアルなこの世を虚無だと思うのは、なかなか…

知人に夏のギフトを送りすでに配送済みなはずなのに受け取りの連絡がないことが気になっていた。ワークの中で、このあまりに些細なことを赦した。

それから、私が不安や不満に感じていることは、全部私が自ら投影して見せているのだということを思い出し、これらもひとつずつ赦して解放した。

そして、心を静かに保ち、心の奥底に本来の自分を感じるようにした。

不平不満はすべて私がないものを見ている証拠だ。見方が間違っているという、その結果を示しているのだ。

結果ではなく原因たる私のものの見方や姿勢を変えるべきなのだ。

そして、私はやはりACIMが正しいと思うから、世間的に見たらヘンテコでも、ACIMにすがり自分なりにこれに準拠して生きたいと思う。

夜のワークをして、そう思った。

…とその瞬間、ゴキブリが部屋を横切った。

ぎゃー!!

今年初のゴキ…

一瞬見なかったことにしてふとんに潜り込もうかと思ったけれど、そういうわけにはいかない。殺虫スプレーを取ってきて、戦闘姿勢に入った。

これも幻想…だと知っている。だけど、だけど、

それはまた別の話だ(>_<)

アファメーション

ゆっくりと一枚ずつエゴの皮を脱いでいこう。

レッスン131-真理に到達しようとして、それに失敗するものはいない。

2017-07-25

感謝、大畑学さんの『 Workbook 精読』版

ACIMワークブック、せっかく英語の原書を見ることができるのだから、と、中央アート出版社の翻訳『奇跡講座 ワークブック編』と、大畑学さんのKindle版の『A Course In Miracles Workbook 精読』を脇に置きながら、英語⇔日本語を見比べながら読んでいる。

私の語学力のなさもさることながら、原文の抽象的で入り組んだ文章は、はっきり言ってちんぷんかんぷん。そこで助けになっているのが、大畑学さんのKindle精読版だ。

これはレッスン120までしか電子書籍化されておらず、困ったな、と思った。けれど、すぐこれがブログを書籍化したものだと思い出し、今は直接ブログの解説を見ている。

大畑さんの精読版が私にとって重宝するのは、その都度、ひっかかりそうな単語も逐一説明されているところ。それと、中央アート出版社の翻訳は日本語としてなめらかに整えられているけれど、大畑さんの方は原書の文法に忠実かつ意訳部分は「意訳する」と表記されているので、原文でACIMを学ぶのに優れている。

そして、何より解説が非二元論に忠実。また仏教や聖書との関連も説明されているので、内容が腑に落ちる。

テキスト版の精読もなさっていて、その労力と知力、読解力にはとてもとても頭が下がる。ブログの方は、まったくただだし。感謝です。

大畑さんはご自身のブログを頼りに私が日々英語と格闘しているとはつゆ知らないと思うけれど、私は非常に非常に助かっている。そして独学をする中でそうした先人がおられることも、心強く思っている。

レッスン131-真理に到達しようとして、それに失敗するものはいない。

ここ数回、このゲンジツの世界と神の実相世界を対比して、これが実際には一方は虚無の世界、他方はリアルな世界であって、リアルな世界だけが真実で私たちの幸せはリアルな世界にしかないことが強調されてきた。

そしてレッスン131では、「真理に到達しようとして、それに失敗するものはいない。」ことにフォーカスする。

あなたが世界にその力を与えない限り、どのゴールを追求すべきかを世界があなたに命じることはできない。それをさせなければ、あなたは依然として自由に、世界やその中の一切の考えを超越したゴールを選ぶことができる。

あなたは望むゴールに確実に到達する。

なぜ天国を待つのだろう。天国は今日ここにある。

私たちが、実際には存在しないこの世とこの世の価値観から、唯一の真理である、天国=神の実相世界へと意識をシフトさせる練習をする。10分×3回。

このゲンジツの世から、心の奥深くの聖なる部分へと沈んでいき、そこにある扉の向こうへ進もうと試みる。そこではすべての闇は消え去り、明るく澄みきった光の中で目にするすべてが言葉を介することなく理解できる。

ワークをして

このワーク、1日3回とシンプルなのに、なぜか夜のワークが飛んでしまい何日も足踏みした。テレビを見たり、スマホのゲームをしていたりして気づいたらそのまんま寝てしまっていた。あるいはしたのかもしれないけれどメモがなくて、したかどうか思い出せない。

私のACIMへの思い、やわなんだな、と反省。

数日前からのワークで、心の中のホーリースピリットを、自分の中の絶対死なない部分とイメージするとわかりやすかった。それがうまくイメージできると、すごく穏やかで、永遠なのか時間がないのかそういう感覚になり、すごくなつかしい感じもあった。

心の奥底のドアの向こうに行く…のは、うまくできたのかどうか…。太陽の光が降り注ぐような平原がイメージで出てきたけれど、「この世のものとは思えない」ようなものではなかったから、ちゃんとできているのではないんだろう。

感じたのは、

「幸せであってもいい」

「豊かであってもいい」

…このくりかえし。

ここに私の罪悪感のかたちがあるのかもしれない。

扉の向こうは、私が無条件で幸せであってもいいところ。神の子を証するために、無条件で幸せで豊かであるべきところだ。

ACIMの勉強の仕方が正しいのかどうかもわからないし、どれだけ進めているのかもわからないけれど、レッスン131には、「間違っていれば、彼は訂正を見出す。横道にそれたときには定められた任務へと導き戻される。」とあるので、任せてこのまま進もうと思う。

アファメーション

聖域と感じられる場所にどんどん自分の信を置いていこう。

 

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