1~50

レッスン17-19

2016-06-10

水曜日深夜、東京の家に帰宅。

遠距離を動くと、ここ10年位だけど、とても疲れてしまい、なかなか動けない。なんとか既にある予定だけこなして、後はごろごろしてた。この“動けなくなる症”には慣れていて、キンチョー状態が長く続くと決まってそうなってしまう。

ただ動けないだけで動かないでじっとしていると回復するから、楽といえば楽。まるで携帯電話の充電みたい。単に怠け者なのかもしれないけど。おとなしく動かずにいたら、少しずつチャージされてきた感じがして、動ける感じがしてくる。今回も、かなりチャージできてきて、あと少しだ。

ブログの更新はできなかったけど、ACIMのワークは毎日した。

レッスン17-私は中庸なものを見ていない。

レッスン18-私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

レッスン19-私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

父の一周忌のため帰省した故郷では、こころに仕舞ってあるいろんな思いがうずいたけど、それはまた機会があれば…。

とりあえず、ブログから離れてしまわないように、更新。なんとかできた。

私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。すなわち、私の考え、心の持ちようによって、私が見るこの世のゲンジツが変わる。「原因と結果は分離しないので、思考とその結果は実は同時に起こっている」(レッスン19)

つい生前の父を思い、また父にもっと幸せを感じてもらえたはずなのに、と過去の世界に入り込んでたそがれたり、後悔を感じた週だった。故郷の町のひと気のなさに昭和時代にぎわっていた商店街の活気はどこに行ったんだろう、みんな、生まれて成長しパワーを謳歌するもそのうち老いが来てそのパワーを失いいずれ死ぬ、この人生のサイクルにどんな意味があるんだろうと思った。

この世のゲンジツは私のエゴの投影であり幻想の中にしかないと頭では知っているけど、父や母のことや故郷のことでは、すぐに幻想に浸かってしまう。執着があるんだな。

親が亡くなると、やっと子どもは精神的に大人になれると聞いたけど、私は、まだまだ子どもで、いい歳のおばさんなのに、精神的には大人になりそこね、途方に暮れて一人立っている感がある。

この世のゲンジツからは浮いているし、一方、実相を感じられるまでにも至らず。

レッスン16―私に中庸な考えはない

2016-06-07

昨日、iphonからダイアリーを更新できたつもりでいたけど、ミニ旅行から実家に帰宅してパソコンを覗いてみたら、できていなかった。今度またやってみよう。

金沢、加賀温泉の母との小さな旅は、ささやかながらもとっても楽しかった。

旅の道中、土曜日行ったセミナーについて新担当者の方とメールでやりとりし、この前のセミナーはやっぱりお客さんである主催者を満足させたものとは程遠かったんだ、と思い知ったのはピリッときたけど。

今日の主題概念は「私に中庸な考えはない」

気になったフレーズは、

「あなたが見ているすべては、あなたの考えがもたらす結果である」

「あなたの抱く考えの1つひとつが、真理か幻想かのどちらかを助長する」

「救済のためには、自分が抱く考えはどれもが平安か争いか、愛か恐れかのどちらかをもたらすと認識することが必要である」

「恐れの想念については(中略)まずは、それらが等しく破壊的であると同時に等しく実在性がないということを認識することが肝心である」等。

また1分ほど心の中を探索することからワークを始めるのだけど、私の心の中心を占めていたのは、

次回7月のセミナーに対する不安感(今度、ちゃんと満足していただけるものができるか不安だ、こわい)と、

高齢の母がさらに年老いていずれは別れを迎えることに対する恐怖、抵抗感(お母さんにはいつまでも元気でいてほしい、お父さんみたいに死んじゃったらどうしよう?)だった。

前者はこんな心根では「プロ失格」とも言えるし、後者は幼児のような気持ちだけど。

「セミナーに対する不安ついてのこの考えは中庸なものではない」

「いずれは迎えるであろう母に対する恐怖についての、この考えは中庸なものではない」…と ワークした。

いずれも「恐れ」をもたらす考えだ。破壊的で実在性のないものだ。幻想をさらに増幅させるものだ。

恐れを愛に変えたい。恐れを愛に転換する。私は実在するものを選びたい。でも、こわい、いま。

とくに母の死は恐怖から想像することもできず思考停止になってしまう。

「実在性のないこと」なのだけど。

母にはゆっくりゆっくり生きてほしい。

レッスン15ー私の考えは、私が作り出して形象である

2016-06-06

せっかく故郷に帰省したのだから…と母のお疲れさま会を兼ねて 隣県の片山津温泉に来ました。金沢でミニ観光…妙立寺、通称 忍者寺は敵の侵入を欺くための建物のからくりが見事でした。

にし茶屋街のお茶屋さんは、現在も御座敷席として使われているそうです。

夜 食後、温泉ホテルでiPhoneから投稿。iPhoneからの投稿は初めて。タッチパネル 押すのヘタだ。

ワークのほうはまだそんな時間がかからないので、無事レッスン15を終えました。

母とこうして過ごせる時間、愛おしくありがたいです。

レッスン14-神は意味のない世界を創造しなかった

2016-06-05

レッスン14

「あなたの見ている世界は、実相とは何の関係もない。それはあなたが作り出したものであり、存在していない」

レッスン14のこのフレーズが、ACIMを言い表す核心のひとつではないかと思う。

これはつまり、私たちがいるこの世界を「存在していない」と、この世の実在性そのものを否定しているのだ。それを受け入れる人がごく少数派なのは当然といえば当然だし、ACIMが「万人向けではない」と言われるゆえんでもある。

私は、これを直観的にだけど、真実だと思っている。だからこそ、このフレーズには安心感を感じる。

今日のワークでは、目を閉じて思いつくままに世界のあらゆる恐怖を思い浮かべ、

「神はあの戦争を創造しなかった。だから、それは実在のものではない」

「神はあの大地震を創造しなかった。だから、それは実在のものではない」

と、それぞれの恐怖に名前を付けて、その実在性を否定する。

個人的な心配や不安についても、その「惨事」に名前をつけて、その実在性を否定する。

そして、「神は意味のない世界を創造しなかった」と繰り返し、練習を締めくくる。このわすか数分のワークを3回した。

父の一周忌

今日は父の一周忌で、朝の新幹線で故郷の富山県に帰省した。朝のワークは新幹線の中で行った。

去年北陸新幹線が開通したおかげで、前より東京と行き来がしやすくなった。

法要にはお坊さんを含め17名が参加。近況などを語り合った。

一年前までは生きていた父が、今この世にはいなくなっている。そして、一年もたつとそれはあたりまえのこととなる。法要の席でももう父のことはあまり話題にならない。月日が経つのは早いね、お天気よくてよかったね、という話。そして今のこと。

人の命ははかないな。

夜、江戸時代のドラマをやっていた。200年前江戸の人々がこんなふうにもめたり恋をしてたりしたんだ、と思う。でも、みんなもういない(あたりまえだ)。100年後には現在いる私たちもほとんどがいなくなってるだろう。それが不思議なようにも思える。みんなどこに行ったんだろう。どこ行くんだろう。でも、200年前や100年後を持ち出さなくても、今だって実在はしていないだって!!

私の中には、現世の非実在性を説くACIMを信じる私と、父が亡くなってしまったことを切なく感じ人の命をはかなく思う私が、矛盾しつつも矛盾なく同居している。

神との分離イメージの再現

ACIMをごくごく大雑把にいうと、私たちは本当は一度も神と離れてはおらず今も神とともにある。だけど、「もしここを離れたら」とふとした瞬間にふと思ったことから「神から分離した」と勘ちがいしているのだという。その誤解からきっと神は怒ってお仕置きをするだろうと、無意識に(神への)恐怖と罪悪感を感じている。そして、その「恐ろしい神」から逃げるために、分離したエゴが宇宙という隠れみのを作り上げたのだという。実際には、エゴも宇宙もない。

私たちが「ある」と思って幻想を支え続けていること、分離したエゴの視点からものごとを見ていることが、幻想を支えている。そして、「この世」の中で、この実際には起こっていない「神からの分離」のイメージを投影して何度も何度も見ているのだという。

今週末は、北海道七飯町の林道で父親に“しつけ”のため車からおきざりにされ行方不明になっていた7歳の男児が、6日ぶりに見つかったというニュースが日本だけでなく世界中を駆けめぐった。

幸運が重なって、自衛隊の駐屯地内の宿泊施設で見つかったとのこと。ほんとうによかった。

不謹慎かもしれないけど、これもまた神からの分離というイメージの再現であるかのように感じた。

その子は父から見捨てられたと感じ暗闇の中ですごい恐怖だったことだろう。

その恐怖感は、無意識の深い層にあってふだんはそう意識はしていないかもしれないけど、私たち一人ひとりの中にある原初的恐怖でもある。

でも、それは、私たちが分離した見方で見ているからで、本来の見方で見ることができれば、恐怖はありえず無限の愛しか感じられない。

ACIMは幻想から目を覚まさせ、本来の見方を回復させるための解説&実践書である。

私はそれがしっかり身についているわけではなく、今回の人生でどれだけ身につけられるかわからないけど、「三歩進んで二歩下がる」式で精進したいと思っている。

 

 

レッスン13ー意味のない世界は恐れを生み出す

2016-06-04

レッスン13

私たちは「意味のない世界」「じっさいには存在していない世界」を実在するかのごとく知覚している、と思っている。

無意味だと感じることは、神から分離している者にとっては強烈な不安を引き起こす。

自我は実在しないがゆえに、自分の無能さと非実在性を証明されてしまうことを恐れ、空白に何らかを書きこもうとする。私たちはその書きこまれたものに、意味を見出している。そして、その意味を手放すことができないでいる。

「きわめて重要なことは、あなたが意味のないものを認識して、それを恐れずに受け入れられるようになることである」と記されている。

私は2年半かけてワークをやってきたけど、まだまったく「意味のないものを認識して恐れずに受け入れられるようにはなっていない」と、改めて思う。

世界がなくて、私が自分と思い見えているものが、本当はないのだということは、やっぱり心もとなく思う。私は、この私、見える私にしがみついているんだ。たとえ、どんどん変わっていく一時の存在だとしても。

2分位のワークを何とか3回やった。

キンチョーしていたセミナーの仕事当日

今日の午後は、ずっと前からキンチョーしていたセミナー講師の仕事だった。

時間をかけて準備したし、真摯に務めたとは思う。

だけど、内容を詰め込みすぎて、受講者の方々がワークをしたり意見を交わしあったりといった時間があまり取れず、私ひとりがしゃべっているかたちになってしまった。レジュメに盛り込んだ内容を終えるのに一生懸命で最後の質問の時間さえ取れなかった。

こんなに盛り込みすぎたのは、セミナーで空白の時間が生まれてしまうのが、怖かったからだと思う。

この1冊でテーマ全体を網羅して理解しやすいものを作ろう、と思ってレジュメを作ったことは本当なのだけど、全体で3時間半という時間の中ではやっぱり盛り込みすぎだった。

まるで今日のレッスンの中に書かれている「自我は、その空白が自分の無能さと非実在性を実証するために使われるかもしれないと恐れて、大急ぎで自らの考えをそこに確立しようと躍起になる」を地でいっているようではないか。

私なりにまじめにやったけど、また受講者さんにも真剣に聴いていただけたけど、帰り道「やっぱりだめだ」「私はこの役に十分な力を持っていない」とがっくり重い足をひきずって帰った。ひどく疲れた。こういう知覚も「分離している者」の感じ方なんだろうな。

明日、早朝、父の一周忌で故郷に帰省する。

ちゃんと起きなきゃ。

2度目のワークが意味があると思う。「やっぱり分離しまくっている私」はかなり残念だけど、それとわかるのもワークを通してなのだから。

 

 

レッスン12-私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである

2016-06-03

レッスン12

この主題概念は、昨日のワークと同様に、外の世界が私たちに何らかを感じさせるのではなく、その逆で、私たちの考えが外に見えるものを決めるという事実がベースになっている。

周囲を見渡しながら、私たちがいるこの世界にふさわしいと思う形容詞を付して、

「私は自分が恐ろしい世界、危険な世界、狂った世界を見ていると思っている」

といったように表現する。形容詞には「楽しい」「成功者としての」などポジティブなものも含める。そして、その後で

「けれども、私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである」とつけ加える。

このわずか1分位のワークを3回やった。

私たちがこの世界を意味のないものとして受け入れることができたら、私たちが自分たちで覆っている偽りの雲を払うことができたら、「それは言葉に尽くせないほどあなたを幸せにすることだろう」と記されている。

今日のワークも、私たちが空虚を恐れて自分で自分を邪魔している偽りの知覚を、それと認識するためのものだ。

明日はキンチョーしていたセミナーの仕事だ

明日、たま~にあるセミナーの仕事。多くの人の前で話すことに自信が持てず緊張感があり、かなり前から文字どおり「動揺」している。

かなり前から意識していたけど、前日になって、やっぱり準備のための時間が「足りない」と思い、「なんでもっと早く手をつけなかったのか」と後悔の念が湧いている。

朝、瞑想した際、こうした動揺を自分より大きなものに預けた。

私は『神の使者』やACIMで説明されている聖霊の声が聴こえるわけではないしうまくキャッチすることもできないのだけど、そこで、なんとなく感じたのは、

『自分が信じている世界を信じろ』ということだった。そして、「そろそろ『ない世界』から『ある世界』に来てもいいのでは?」と。

私は、いつも「(時間やお金や能力やその他いろんなものが)足りない世界」に自分を追いやっている。これは私に似つかわしい「足りない」という思いが投影されて見えている世界だ。そして、いつも「だから(完璧には)できない。つらい」という世界の「住人」でいる。

それについて、もう私はそのからくりを知っているのだから、それを手放しでもいいのでは?と感じたのだ。

いつも、足りない、不足している、できない、と感じ、同じパターンをくりかえしているけど、そこに「安住」している必要はないのだ。

瞑想では、ただ「鎮まって立つこと」だけを意識するよう求められた気がした。もちろん、これはちゃんと準備ができて可能なことなんだろうと思うけど。

実際に、どうなるかはわからないけど、「足りない」状況に追い込んでから、それを言い訳にして、「だめだ、だめだ、やっぱり」のゾーンに後悔や自信のなさとともにいるのは、卒業してもいいのかな。

もう、よる11時過ぎだけど、今ここから、真摯につとめようと思う。

 

レッスン11-私の無意味な考えが、意味のない世界を私に見せている

2016-06-02

私たちは、外のできごとが自分の感じ方に影響を与えている、何からのできごとが自分を喜ばせたり、不快にさせたりしていると思っているが、ACIMはそれは逆さまだという。

「自分の考えが自分に見せる世界を決定する」のだ。

今日は、思考を逆転して真の世界に近づく訓練の第一歩だ。

目をつぶり、心の中でこの主題概念を唱えたのちに、目を開き目にするすべてのものに視線を向けながら、この概念を自分に向かって繰り返す。約1分程度を3回。

「この主題概念の中に赦しへの鍵がある」と記されている。

とりあえず、今日もワークができた。

仕事がなかなか進まず焦りあり。

これも外のできごとじゃなくて、私の心が見せているんだけど(^_^;)

 

レッスン10-私の考えには何の意味もない

2016-06-01

今日の主題概念は、レッスン4の「これらの考えには何の意味もない。それらは、この部屋に見えているものと同様である」をさらに進めたものである。

ワークは、今日の主題概念をゆっくり繰り返すところから始める。次に、

「この概念が、私が今信じているすべてのことから、私を解放してくれる」と付け加える。

そして、約1分間、心の中に浮かんでくる考えを見つけ、それにこの主題概念を当てはめる。それを1日5回。

朝いちばんのワークでは、昨日やりとりした友人の家族の病気がなんとなく気になっていたらしく、内観時にそのことが浮かんできた。

また週末にあるセミナー講師の仕事が緊張しいの私にはどうも気がかりで、それも心に浮かんだ。

そしてこれらを主題概念にあてはめた。

―Aさんの家族の病気についての私の考えには何の意味もない。

―土曜日のセミナーについての私の考えには何の意味もない。

自分が考えていることはふつう「意味がある」「考える価値と必要があることを考えている」と思っているから、このワークにはちょっとした抵抗感を感じる。

ワークブックには、

「あなたが自覚している考えは無意味」⇒「こうした『考え』の存在は、あなたが真に思考していないことを意味する」と書かれている。「そして、これは以前に述べた、あなたの心は本当は空白であるということを、別の言い方で繰り返しているにすぎない」とも。

う~む。考えている(と思っている)⇒しかし真には思考していない⇒心は空白。

考え=自分、と思っているようなところがあるから、それを意味がない、とするのは、かなりむずかしい。

とりあえずは今日のワークも終了。

でもだんだん難易度が上がってくることを知っているから、ワーク、いつまで順調にいくかな。

また、ブログには、今はなんとなくワークの要約めいたことを書いているけど、しばらくすれば、ボリュームと深さがありすぎて、要約しきれなくなるだろう。中途半端な要約に意味があるかどうかもわからないけど。

まあ、とりあえず今は、ブログを書くこととワークをすること対になっていて、私にとっては促進力になっているから、しばらく続けてみようと思っている。

 

レッスン9-私は、何も今あるがままに見ていない

2016-05-31

レッスン9

今日の主題概念は、前の2つから導き出される結果である。

私は過去だけを見ている。(レッスン7)

私の心は過去の考えにとらわれている。(レッスン8)

⇒だから、私は、何も今あるがままに見ていない。(レッスン9)

この主題概念については、現時点では理解は求められていない。ただ、練習することが求められている。

私は、この本を、今あるままに見ていない。

私は、この扇風機を、今あるままに見ていない。

私は、このカレンダーを、今あるままに見ていない。

目についたもの全部を対象としようとはしない一方で、特定の何かを除くことも避けることという注意がある。

iphonのストップウォッチで2分に設定して、4回やった。

主演 兼 監督・脚本家

最近は何か心をかき乱すものがあると、「これは現実ではない。私の一部が見せている幻影にすぎない。これは私自身が見せているのだ」と心の中で唱える。

いらいらしたり不安になったりした際に唱えると、そのゲンジツに巻き込まれずにすむ。

私は大丈夫なのだ。なぜならこれは私が作っているのだから。真の世界には私を脅かすものはありえない。私が不安に思ったりいらだっているのは、私が幻影を見ているからだ。そう言い聞かせる。

私がひとりでいる時には、これはたいがいうまくいく。困った時でも、対象を客観視できるくらい心理的距離感がある時はOKだ。

だけど、病気の家族を憂う友だちから何度もメールを受けて、「私だったら、こうするけど…」と返信してしまった。アドバイスをすることは悪くはないだろうけど、繰り返しの泣き言に「私にどうしろと言うの?」とつい反応してしまったのだ。友人はおそらくただグチを聴いて心を慰めてもらいたかったのだろう。翌日気になり「ごめんね、余計なこと言っちゃったかも」とメールを入れた。

自分だけのことならば、これは現実ではない、と思い出すことは比較的しやすくなってきた。けど、人と関わるとすぐ巻き込まれてしまう。

もちろん友人がとっても悩んでいる時に、「それは現実じゃないんだよ」なんて言ったら、「こいつは何を言っているんだ?」となるだろう。もちろん共感することは大事だけど、それと、私自身が感情的にリアルでないものに反応して、それをリアルすることは別だ。それはエゴのものの見方だ。

厳密にいえば、この世界に、見えるままの「私」もいないし、「友人」もいない。友人もその悩みもまた私の中の「映画」の一部だ。

私は、この映画の主演俳優であり、かつ本映画の監督・脚本家でもある。映画の中の主人公はそれが映画と知らされた。でも物語は進みささやかながらもいろんな出来事に遭遇する。

起こってくることに主人公として対処しながら、ときに、これは映画、映画…、リアルじゃない、私が監督・脚本を描いた結果を中に入り込んで体験しているのだ、と思いだす毎日だ。すべてはゆるすために。

こういう生活している人、他にもいるかな~

独学だから、学び方、まちがったりしているのかな。

 

 

 

レッスン8ー私の心は過去の考えにとらわれている

2016-05-30

今日は昨日より気温が10℃位低くて、肌寒さを感じた日だった。ずっと雨が降っていて、起きた瞬間から疲れていた。そう、私は疲れやすいのだ。更年期ってやつの影響かな。

レッスン8をやった。

この主題概念は、前回の主題概念「私は過去だけを見ている」の続きであり、これまでレッスン1からの概念の続きでもある。

人は自分の想念が外に投影されたものを見ているだけで、その想念は過去の考えにとらわれている。過去はここには存在しない、つまり過去について考えること自体が幻想について考えること=何も真に思考していないのだ、という。

つまり私たちが「考えている」と思っているときでも、真には考えていない。このことを認識するための訓練の第一歩が、このワークだ。

心の中を約1分位目をつぶって探索してから、浮かんできた考えに名前をつけて、

「私は、今週末のセミナーの仕事について考えているようだ。私は法事のための帰省について考えているようだ…」と唱えた後で、

「しかし、私の心は過去の考えにとらわれている」と締めくくった。

数分のワークを4回行った。

なんとなくワークの概要を書いているけど、中盤にさしかかるとワークの内容が濃くボリュームも大きくなるから、この概要を書くということがどれだけ続けられるか、わからない。

とりあえず、形式にこだわらず、ワークとブログを続けることを目標にしようと思う。

レッスン7-私は過去だけを見ている

2016-05-29

5月最後の日曜日。今日も何とかワークを終了。

今日のお題は、「私は過去だけを見ている。」

たとえば、コップひとつを見ている時でも、私たちはコップにまつわる過去の体験や過去学んだ観念を反芻しているにすぎない、という。すべての目にするものは、過去からのつながりで存在し、知らず知らずのうちに過去のフィルターをかけて見ている。

今日のワークでは、目にしたものすべてにランダムに、

このパソコンの中に、私は過去だけを見ている。

この服の中に、私は過去だけを見ている。

この体の中に、私は過去だけを見ている。

と今日のお題を適用する。まだ数分のワークを1日3回なので、ついていけている。

今日の午後は、友人と風月堂の甘味処で落ち合った。

奥まった直線が喫茶室は、美しい和モダンな空間。薄暗く間接照明を活かした作りは洞窟のようで外に面した大きな窓には水が循環して滝のように落ちていた。ほっこり落ち着けるいいところだった。

メニューをう~む、と見て、煎茶とか抹茶にしようかな、と思っていたけど、最後に写真入りのあんみつの誘惑に負けた。

余計なものが入ってない自然なあんこの甘みと黒蜜が絡んだ寒天。おいしかった。

甘いものって理屈抜きにしあわせ気分になれるなぁ。

このあんみつの中に、私は過去だけを見ている。

食べてるときは、そんなこともすっかり忘れてた。

ゲンキンなものだ。しばしこの幻想を楽しもう。

 

レッスン6ー私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである

2016-05-28

「私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。」

これまでのワーク同様、まず心の中に怒りや恐れ、心配ごと、憂鬱といったかたちで表れる「動揺」とその「原因」と思うものを探索する。

その後、それに主題概念を、

私が      について腹を立てているのは、存在しない何かを見ているからである。

私が      について心配しているのは、存在しない何かを見ているからである。

といったようにあてはめる。

これを1回数回、1日3~4回やる。

今日は、このワークに3回意識を向けるのが、やっとだった。

最初の十数個のワークは、時間もかからず生活への「負荷」も小さい。進むにつれ、次第にワークの内容が深くなりボリュームも大きくなり、ACIMを生活の中心に据えなければならなくなっていく。

今回はもう、やっとこさ、ワークをやっているという感じだ。この先、大丈夫か。

3年前のレッスン6のワークでは

ふと思いついて、2013年6月の初回ワークのレッスン6のメモを見てみた。

「私がおカネを稼げないことを不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」('_')…なんか、今と変わんない。逆に言えば、同じような状態で生き延びていることが奇跡的にも思えてくる。

「私が高齢になった故郷の両親のことについて心配しているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについては、父は昨年亡くなり、状況は3年前とは大きく変わった。父との別れは私が存在しない何かを見ているからにせよ、私には大きな動揺であり出来事だった。それは今も続いている。

「私が今の生活が前進なのかそれとも退化なのか不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについても、今と変わらないというか…「前進」と「退化」が対義語になっていない気がするけど、この感覚そのものは、わかるような気がする。こつこつとACIMのワークをやっていても、それがゲンジツの誰かに役に立つことではないし、おカネにつながることでもないし、人には理解されないだろうし、私は、もしかしたら、現実逃避の言いわけにワークを使っているだけなのではないのか、という気持ちになることがある。

3年前の自分に比べたら、感情的に穏やかになったように思うけど、目に見えて変わったとも思わない。だけど、やっぱり進化している、自分にとっては前進だ、と思っているからこそ、また改めてやろうとしているんだろうな~

他の道はないし、無視して生きることはできないし。

これからもたびたび3年前の私のメモを見返して、変わったところ、変わらないところを見つけたい気がしている。3年ひと昔だな~

 

レッスン6

2016-05-28

「私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。」

またこれまでのように、心の中に、怒りや恐れ、心配ごと、憂鬱感などとして感じられる「動揺」とその「原因」を探索する。

それから、それらについて今日の主題概念を、

私が、      について腹を立てているのは、存在しない何かを見ているからである。

私が、      について心配しているのは、存在しない何かを見ているからである。

といったふうに、当てはめる。

今日は、このワークに3回意識を向けるのが、やっとだった。

最初の十数個のワークは、時間もかからず生活への「負荷」も小さい。進むにつれ、次第にワークの内容が深くなりボリュームも大きくなり、ACIMを生活の中心に据えなければならなくなっていく。

今回はもう、やっとこさ、ワークをやっているという感じだ。この先、大丈夫か。

3年前のレッスン6では

ふと思いついて、2013年6月の初回ワークのレッスン6のメモを見てみた。

「私がおカネを稼げないことを不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」('_')…なんか、今と変わんない。逆に言えば、同じような状態で生き延びていることが奇跡的にも思えてくる。

「私が高齢になった故郷の両親のことについて心配しているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについては、父は昨年亡くなり、状況は3年前とは大きく変わった。父との別れは私が存在しない何かを見ているからにせよ、私には大きな動揺であり出来事だった。それは今も続いている。

「私が今の生活が前進なのかそれとも退化なのか不安に思っているのは、存在しない何かを見ているからである」…これについても、今と変わらないというか…「前進」と「退化」が対義語になっていない気がするけど、この感覚そのものは、わかるような気がする。こつこつとACIMのワークをやっていても、それがゲンジツの誰かに役に立つことではないし、おカネにつながることでもないし、人には理解されないだろうし、私は、もしかしたら、現実逃避の言いわけにワークを使っているだけなのではないのか、という気持ちになることがある。

3年前の自分に比べたら、感情的に穏やかになったように思うけど、目に見えて変わったとも思わない。だけど、やっぱり進化している、自分にとっては前進だ、と思っているからこそ、また改めてやろうとしているんだろうな~

他の道はないし、無視して生きることはできないし。

これからもたびたび3年前の私のメモを見返して、変わったところ、変わらないところを見つけたい気がしている。3年ひと昔だな~

レッスン4

2016-05-26

「これらの考えには何の意味もない。それはこの部屋に見えているものと同様である」

約1分間心の中をよぎる考えを注視して、上記の主題概念をそれらの考えにあてはめる。その際、その考えの「よい」「わるい」は区別しない、というワーク。

これは、「無意味なものを自分の外側に見て、意味あるものを自分の内側に見ることを学ぶという長期目標における最初の試み」だと記されている。

私は、明日締め切りの仕事がちゃんと納期を守ってしっかり仕上げられるか不安でならない。今週ずっとやっているけど、なかなかまとまらないのだ。

…で、ワークで心の中をよぎる考えを覗いてみたら、

「仕事間に合うか、時間ない…!」「ちゃんとやりたい、わかりやすく、なるたけシンプルで美しく」「明日中に送らなきゃ」が、渦巻いていた。

「仕事のレジュメづくりについてのこれらの考えには何の意味もない、それは私がこの部屋の中に見ているものと同様である」

とワークをした後、やっぱり今の私には意味ある、というか、今は何とかこれをクリアしなくては…と仕事に戻っていった。

今日3回このワークをしたけど、やっぱり今は、仮初めのゲンジツであっても、仕事をクリアすることが大事。

何とか今日中に目処をつけたい。

レッスン2

2016-05-24

昨日スタートしたワークブック2日目。今、目にしているゲンジツの見方の「解体」の続き。

昨日のテーマは、

「このテーブルには何の意味もない」「この手には何の意味もない」「このパソコンには何の意味もない」…

だったが、今日はそれを進め、

「このテーブルに、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である」「この本に、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である」「この足に、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である」と目にしたものすべてにランダムに適用する。

これも、あっという間に終わった。

ワークはだんだん心理的に時間的に負荷がかかるものになっていく。

せっかく始めたのだから、最後までやりたい。あまり頑張りすぎず、だけど、止めてしまうことなく、ぼちぼちいこう。

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