1~50

レッスン40-私は神の子として祝福されている

2016-07-19

セミナーのしごと終わった~

梅雨明けはまだだというけれど、暑い。この暑さは、まぎれもなく夏のそれだ。

ずっと気がかりで不安だったセミナーの仕事、土曜日、なんとか無事に終えられた。6月の時よりは主催者の方、受講者さんとも反応がよかったようで、ほっとした。。

前の日は、準備とキンチョーでほとんど眠られなかった。終わって会場から出ると猛暑。水分不足のためか右ふくらはぎはこむら返りに。集中力が切れたため、足を引きずりながらよれよれになって、知人のグループ展に顔を出し数分だけいて、帰った。

次の日はキンチョーの揺り戻しが来て、ぼぅーとしてしまい動けなかった。年に数回とはいえもうこのセミナーの仕事7年目に入るのに、毎度毎度、この大騒ぎ、そもそも向いてないことをしているのかもしれない。でも、まあ、なんとか終えられてよかった。感謝。

レッスン40-私は神の子として祝福されている

ぼぅーっとしていた17日(日)、レッスン40をやった。

「私は神の子として祝福されている」これを一日約10分置きに唱えるというもの。14日も15日もやってはいたけど、イマイチやりきれていなかったので、もう一回やった。

何かしているとすぐ忘れてしまうが、ワークブックには「もし忘れたら、再び試みればよい」と書かれている。私は“邪道”なのかもしれないけど、iphonタイマーを10分にセットしてやった。気づいて5、6分しか経ってなくても、タイマーをリセットしてまた10分セットしてやったから、慌ただしいことこの上ない。お風呂に入る時はさすがにタイマーを止めたけど。

でもおかげで、ふとした瞬間にこのフレーズが頭をよぎるから、浸透効果はあったようだ。

このレッスンの原文は、

I am blessed as a Son of God.

短いフレーズだから、日本語と英語、交互に唱えたりしていた。ACIMに総じて言えることだが、すべて「男性形」で書かれている。これが、女子にはけっこう引っかかるところ。前は「Son」を「Daughter」や「Child」と言い換えて言っていたけど、「引っかかっるところがあるということは、そこに赦すべき何かがあるということだ」という記述が『神の使者』にあり、今回はあまり気にしないようにして進めた。

ゲイリーの新著『愛は誰も忘れていない』

この前『神の使者』をAmazonで検索した際、ゲイリー・R・レナードさんの新著が出ていることを知った。6月22日発刊。私としたことが、あやうく見逃すとこだった。で、自らの“充電”もできた日曜の夕方、池袋の書店に買いに行った。最近、本と言えばAmazonマーケットプレイスで中古本を買うことが多く、新しい本を買いに行くというだけでウキウキする。それが、もっとも愛読している『神の使者』の著者ゲイリー・R・レナードさんの新著なら、なおさらだ。

だが、Amazonのレビューには「奇跡のコースそのものからどんどんとずれていっている気がするのは、気のせいなのか?」との記述があり、ちょびっと気にはなった(私は『奇跡講座』以上に『神の使者』から学んでいて心の支えにしているところがあるから、それが揺らぐのが怖い部分がある)。ともかく買ってきた。

そして昨日、がまんしていたクーラーを解禁にして、ミニストップの黒蜜きなこハロハロを食べながら、読み始めた。

まず、ゲイリーが奥さんのカレンさんと離婚していたのが、びっくり。前作、前々作より内容が刺激的になっているような気がする。ゲイリーさん自身が、「成功」によって変わってきているのかもしれない。

何年も待ちに待った新作、一気に読んでしまうのは「もったいない」。でも、「読んでしまいたい」。

こういうのは、稀にみる「心地よい葛藤」なのかもしれない。

夕方、買物に行った際、ついポテトチップスに手を出してしまい、夜は発泡酒にポテトチップスを食べながら、ゆっくり読み進めた。久しぶりのポテチの方は止まらず、一袋一気に食べてしまった。

甘いものと脂分、歯医者さんに止められたよくないものを一気に許した一日。こもりっきりの一日だったけど、私には極楽だった。

レッスン39-私の聖性が私の救済である。

2016-07-14

「罪悪感が地獄であるなら、その反対は何だろうか」

レッスン39はこの問いかけから始まる。これは、そのままに答えてみたら、「無辜(罪のないこと)こそは天国である」になるのかな?よくわからない。

「そもそもあなたは罪悪感が地獄であると信じているだろうか」とも、問うてくる。私は、ACIMをテキストというより『神の使者』から浸透させていて、それによれば、「神から離れてしまった」という勘違いの罪悪感からエゴが生じこの「地獄」ともいえる幻影世界を作り出したと説明があるから、私の理解が間違っていなければ、そうなんだろうと思っている。

ワークブックの説明の抽象性が増してきて、むずかしくなってくる。自分の理解も中途半端でワークをするだけで精いっぱいだから、完全な理解もしないまま。私は誰に向かって、ブログを書いているのかも定まっていないから、ワークの内容を説明した方がいいのか、感想を書いた方がいいのか…ということさえも迷走している。ACIMの概要を知らない方にとっては、ふと目にしたこの独り言はとっても奇異なものに感じるだろう。

完全に理解できているわけではない。それでもワーク中の文言

「あなたの聖性はあなたに属するというのに、どうしてあなたが聖性から除外されたりすることがあるだろう。神は神聖ならざるものを知らない。神が神の子を知らないなどということがあるだろうか」には、心に強く響くものを感じる。

このワークでもそうだけど、ACIMで特徴的なのは、不安、憂鬱感、怒り、恐れ、心配、攻撃、不安定感などをすべて「愛のない考え」としていることだ。これらの大元は、「恐れ」であり、それがさまざまな形をとって現われているとしている。

すなわち、愛の反対は恐れである。

そして、愛のない考えが私を地獄に閉じ込めている。私の聖性が私の救済である。

…と自分にしみ込ませる。何日か停滞していたけど、昨日、ようやく1日4回のワークができた。

昨日は、月1回の心理学系のカルチャー講座の日でもあり、講座の後、夜の喫茶店でみんなでハフハフしながら、熱~いドリアセットを食べた。この昔ながらの喫茶店は、「コーヒー500円」、「ドリンク、サラダ付きのドリアセット730円」というヘンテコな価格設定で、つい夜遅いにもかかわらずドリアセットを頼んでしまう。

独りすぎな私には、たわいもないおしゃべりが幸せだ。ドリアのクリーミィな感しがその幸せ感を増してくれる。

レッスン38-私の聖性にできないことは何もない。

2016-07-09

「王様の耳はロバの耳」の穴

このワークには3日もかかってしまった。1日4回というワークの最後のがなかなかできなかったのだ。

昨日は久しぶりに友だちと夕食を共にした。ひとり暮らしで基本的に仕事もひとりですることが多い私にとって、数少ない友人とのおしゃべりはとても楽しく、またありがたい。やっぱり話をするって大事だ。仕事が慌ただしくなってくると、一日中だれとも話さなかったという日が3日くらい続くこともざら。よくないなと思いながらも、それに慣れてしまっている自分がいる。

最近は思ったことを言葉にしてしゃべるのが下手になっている、と思う。使わない筋肉が衰えるのと同じ理屈だ。やっぱりよくないな。

ところで、私が友人と話していて、びっくりしたのは、「ブログ続いている?4回位見たけど」と言われたこと。

え~!! 見たの~!? (・・;)

「だって自分から言ってたじゃない」と友人。

私はブログを作りたいと言ってはいた記憶はあるけど、タイトルまで言っていたのか…。

もちろんブログとして公開している以上、世間にさらしていたんだ。でも、おそらくだれも気づかないブログだし、まして私を知っている人は目にしない…と勝手に思い込んでいたから、ぎゃあ~と顔に血が上りアワアワしてしまった。

初めはACIMのことを世の中に伝えたいという動機があったはずだけど、途中からこのブログは、私の独りごとを埋める穴のようになったいたことに気がついた。

まるで童話で「王様の耳はロバの耳~」と叫ぶ、地面に掘った穴みたいなやつだ。

「神様はこの世をほんとうは作らなかったんだってー」

「私たちが見ているこの世はじつは幻影だってよー!」

「私たちは、気づいてないけど、誤解しているらしいよ、神様からエイッて自分から離れたって」「だから、神様のことをほんとうは、すごく怖がっていて、いつか捕まって懲らしめられるって」

こういうことを一人話して閉じ込める井戸みたいな役を振り当てていたんだ。とくに近しい人に、あなたも私も実はリアルに見えるけど本当はだれも何もかもリアルじゃないんだって、という本音を知らせるのは抵抗が大きいのだと気づいた。

人の目が怖い。これこそがまさに「私の恐怖」の正体だ。

人と共有できなくて、何がACIMの道だということになる。これから少しずつこの恐怖の幻影壊しに手をつけていくんだろうか。

レッスン38-私の聖性にできないことは何もない。

この主題概念は、実はよくわかっていない。

「あなたの聖性を通して、神の力が顕現される」というのはわかる。

「神の力にできないことは何もない。だから、あなたの聖性は一切の苦痛を取り除き、すべての悲しみを終わらせ、あらゆる問題を解決することができる。」というのは、この世のゲンジツを都合よく変えられると言っているのではないだろう。

たとえ、この世のゲンジツは変わらないとしても、苦痛や悲しみを感じることはなくなり、問題と思っていたことがクリアになるという意味だろうか。

自分の中の損失や不幸の種や困難や問題を見つけ出し「そういった状況の中に自分を見ているが、この状況において、私の聖性にできないことは何もない」と今日の概念をあてはめるのが、ワークの中心だ。

目先の問題で私が解決しなくてはならないのは、提出した資料(今週土曜日のためのセミナーレジュメ)を来週の頭に担当者の方のニーズに合わせて加筆修正して提出すること。電話でお話をしたけれど、どう修正してよいのかイマイチ掴めていないし、もしかしたら能力的に私にはむずかしいのかもと思い、不安だ。今日はともかく資料を集めようと書店や図書館に行っていた。

この卑近な、でも私にとっては「重要な問題」。その中に自分を見ているが、私の聖性にできないことは何もない、とあてはめた。

私の聖性にできないことは何もない。なぜなら、結果であるこの世のゲンジツの中であれやこれや悪戦苦闘するのではなく、この言葉が原因の世界に響いて影響を与えるからである。

今すぐにはもちろん無理だろうし、今世だけでも無理かもしれないけど、ワークを続けたら、原因の世界が少しずつ変化して、その結果としてこの世のゲンジツの感じ方も変わってくるんだろうなと思う。

今宵は雨が降って涼しく過ごしやすい。昼間、参院選挙の選挙カーがうるさかったせいか、今は雨音が心地よく感じる。

 

 

レッスン37-私の聖性が世界を祝福する。

2016-07-07

今日は七夕。昼間は暑かったけど夜になって風が出てきて少し涼しくなり、過ごしやすくなった。

今日締め切りだった資料を夕方やっと仕上げて納品。「小さなごぼうび」にミニストップでマスクメロンソフトクリームを買って気を抜いていたが、今メールを見たら「手直しの要請」が来ていた。甘かった。終わってはなかったんだ。直し方がイマイチ理解できてないところがあるけど、週末、要望に合わせて対処せねば…。

レッスン37は昨日やったワーク。今日はレッスン38をやった。ワークの日と日記がずれてきている。ワークだけどんどん先に進んでしまいそうだ。ワークの方は一度やっているし、急ぐことないんだよな。1つのワークに3日位、あるいはもっとかけてもいいような気もしている。

毎日のワークは、大まかに、主題概念、主題概念の説明、今日のワークのやり方で構成されているけど、主題概念の説明がレッスン1から少しずつ抽象度が増しむずかしくなっている気がする。

「私の聖性が世界を祝福する」この主題概念自体がそうだ。

主題概念の説明でも、「あなたの目的は世界を自らの聖性を通して見ることである。そのようにして、あなたも世界もともに祝福される」

「あなたの聖性が世界の救済である」…等とある。

主題概念を目にする具体的なものにあてはめる時には、

私の聖性がこのテレビを祝福する。

私の聖性がこの机を祝福する。

私の聖性が私自身を祝福する。…とあてはめた。

そして思い浮かんだ人にも

おとうさん、私の聖性があなたを祝福します。…とあてはめた。

短い練習ではお題をできるだけ頻繁に繰り返す、とある。

私の聖性が世界を祝福する。

My holiness blesses the world.

私の聖性が世界を祝福する。

意味がちゃんと理解できているかどうかはわからないけど、この短いフレーズを唱えていると、気持ちが穏やかになる気がする。

私のいる世界はだいじょうぶだ、と思えてくる。とても抽象的なACIMだけど、この世のゲンジツに即効性もあるのだ。

レッスン36ー私の聖性は私が見るものすべてを包み込んでいる。

2016-07-06

朝のウォーキング

今朝は少し涼しかった。1時間ちょっとの朝のウォーキングをしてきたら、気分がさっぱりした。紫陽花の季節が終わりかけていた。

朝のウォーキングの習慣は9年位前から。フリーランスの仕事で家での作業中心だから、通勤は部屋A(居室)から部屋B(仕事部屋)に数歩歩くだけ。仕事中はパソコンに向かっていることが中心なので、そのままでは運動不足、かつ精神衛生上も好ましくない。2007年のゴールデンウィーク帰省時、実家の両親が早朝ウォーキングをしていて付きあって歩いたら、思いのほか気持ちよくて、それから習慣となった。

…はずだけど、最初は毎日歩いていたものが、年々減ってきていて、最近は週2回位になっている。次ウォーキングした際に、写真でも撮って載せてみよう。このブログ、われながら、あまりに殺風景だ。

レッスン36

昨日の主題概念「私の聖性は私が見るものすべてを包み込んでいる。」は、「私の心は神の心の一部である。私はとても神聖だ。」の続き。説明には「あなたは神聖なのだから、あなたの視覚も神聖なはずである。」とある。

そして、「あなたの心が神の一部であるならば、あなたには罪がないはずである。」とも。そう、私たちは罪がない。無罪である。これが、ACIMの根幹のメッセージだ。

ワークでは今日の主題を目にとまるものすべてにあてはめるということをする。

私の聖性は、このパソコンを包み込んでいる。

私の聖性は、このエアコンを包み込んでいる。

あ、家電ばかり包み込んでいるな。

私の聖性は、この本棚と本を包み込んでいる。

私の聖性は、このラジオを包み込んでいる。

仕事場の机から見える景色は代わり映えがしない。

立って窓から外を見てみる。

私の聖性は、あの犬を連れて歩いている女の人を包み込んでいる。

私の聖性は、あの赤い車を包み込んでいる。

ワークの数は、ちょこっとずつ増えて、4回。こうやってちょこっとずつワークの数が増えていくと、必要な時間は数分であっても、8時間勤務をしていたりすると意識を向けるのがなかなかたいへんなんじゃないかな。時間がかなり自由な私でも、あ、やんなきゃ、って感じで何とかやっている感じ。

 

レッスン35-私の心は神の心の一部である。私はとても神聖だ。

2016-07-05

ちょこっとふりかえり

今日は昨日まで2、3日続いた暑さから一転、涼しい。過ごしやすい。暑さで頭がまったく回らずまとまったことを考えられなかったけど、ここでなんとか態勢を立て直したい。

ラーニングジャーナル(学習日誌)として、なんとかブログを続けたいと思っているけど、書く時間も決められたおらず、今は、何とか止めてはいない、っていう感じ。

テキストを読んだり、関係本も読んだり、他の方のACIMブログを覗いてみたりしてブログに書きたいと思っていたけど、まだそこまでもいっていない。

何とかワークの2巡目に付いていってる、という感じだ。

それでも、2巡目はワークがどんなものかも知ってはいるし、これからの流れもわかってはいるから、少し余裕があるように感じる。とりあえずは、ブログのリズムはつかめていないものの、このまま続けてみようと思う。

レッスン35

今日のお題は、今の見え方ではなく、「心眼(ヴィジョン)があなたに見せてくれることになるものについて描写している。」

これは、「真理においてあなたがそうであるはずの存在として、あなたを描写する。」

まず、「私は自分が○○だと見ている」と自己イメージを無作為に思い浮かべ、それを今日のお題で描き変える。

私だったら、

 私は、自分が人より怠け者だと見ている。

 私は、自分が体力気力に乏しいと見ている。

 私は、自分が自己中心的だと見ている。

 私は、自分がそれでも、人にはみんな幸せであってほしい人間だと見ている。

 私は、自分が人に嫌われるのがこわい人間だと見ている。

 私は、実は自分が恵まれていると見ている。

 私は、人生の残り時間に対して感じていると見ている…などなど。

ふと思っただけでいろいろ出てくる。

これを本当の自己「神の一部であり、とても神聖である」に置き換える。これらのイメージはすべて私がこの世のゲンジツを見るさい、私が用いているフィルターであり“色めがね”。真の見え方を曇らせているものだ。今日のワークは、これを矯正するというか、偽りのフィルター膜をこすって落とすというようなイメージだろうか。

自己肯定的なイメージがよいわけではなく、自己否定的なものも自己肯定的なものも、すべて心眼ではない。頑張って見つけて直すのではなく、リラックスしたなかで溶かしていくみたい。

レッスン35の主題概念は、よくわからなくても、日中、心のなかで唱えているだけで、穏やかな気分になる。

「私の心は神の心の一部である。私はとても神聖だ」

お~!そうだったか。

やはり、そうだったか。

そうだよね…。そこに帰っていいんだ。

と、なんだかなつかしいような。無力だけど最強の乳飲み子だったあの頃を、ふと思い出すような感覚がある。

 

 

レッスン34-私はこれを見るかわりに平安を見ることもできる

2016-07-03

レッスン34

おとといときのうはレッスン34をやった。でも1日朝夜と間にもう一回、計3回の瞑想ワークが提唱されているのに、夜のワークができていなかったことに気づき、今になってやった。

このワークは、セミナーの仕事にキンチョーして大騒ぎしていた私には、ゲンジツ的な面でも大いに役にたった。私がこの経営セミナー講師の仕事をやらせてもらったのは2010年でビギナーというわけではないのだから、毎度毎度大騒ぎするのはヘンだとは思うのだけど、人前で話すということ、とくに自分で成功しているわけではない経営的なことを話すのは、どうも気後れがしてしまう。でも自ら断ることはしない。

今回はとくに、主催者の方から「前回は講義中心だったけどもう少しワークやディスカッションなどを入れてください」と「ダメ出し」を受けて、セミナーというよりワークショップに近いかたちにプログラムを最初から見直さなければならなかった。私は、どうも仕切りが下手だ。ふだん、こもりがちで人とも話さない者がいきなり本番で何十人もの人をうまくファシリテートできるのか、できはしなくてもなんとか無事進められるか、と不安が大きかった。

レッスン34の瞑想ワークをやってみると、私がすでにキンチョーでかちこちになっていることがよくわかった。

勉強のため読んだ『ワークショップ入門』という本には、ファシリテーターのキンチョーや思いが参加者の方に伝わり、ワークショップの成否を決める、とあって、プログラムをどう構成するかばかりに気を取られていたけど、それ以上にゆったりとした気持ちでその場にいること、それこそが私の役目なのだと気づいた。

そして、キンチョーとドキドキする心臓に対して「私はこれを見るかわりに、平安を見ることもできる。私はこれを見るかわりに、平安を見ることもできる」と繰り返しているうちに、少しずつ平安を感じることができるようになった。平安こそがしごとである。

そして、これをなんとか無事終えられたことに、心から感謝の念が湧いてきたのだ。再来週もあって、そちらはまた別の内容だからどうなるかわからないけど、とりあえずいったんほっとした。

バングラデシュのテロ事件

バングラデシュの首都ダッカで武装グループが飲食店を襲撃して日本人7人が死亡したテロ事件のニュースをやっている。

善意の日本人が巻き込まれ死亡した事件に日本中の人が理不尽さと悲しみを感じたと思う。だれがどこで恐怖の事件に巻き込まれるかわからない時代になったともいえる。

こうしたテロ事件を目にすると、ACIMの見方をとることが揺らぐ。私自身の体も、この世のゲンジツも実は、私たちはエゴを選んだがために見えている幻影にすぎない、と思っている。だけど、巻き込まれたのが、自分の家族や自分自身だったらそう思えるだろうか。怒りと憎しみに狂うのではないだろうか。

移ろいゆくこの世は現実ではないけど、その「ゲーム」の中に入っている私にとっては、正しくリアルだ。私はACIMを学んでいるとはいってもまったく進歩していないのかもしれない。

テロは恐怖玉、憎悪玉を投げつけることによって、その恐怖、憎しみが伝播し、さらに不安、不信をくっつけてどんどん膨らんでいく。

私は「結果」の世界にいて、私に、神から離れたという無意識の罪悪感、恐怖感という「原因」があるから、テロ事件がこのように見えているのだと思う。だけど、こういう事件が起こった時ACIMの見方を堅持することにまだ脆弱さがある。

私の見方が心眼のそれになった場合には見えてくるものは違うのだろうか。

レッスン34をくりかえそう。

私はこれを見るかわりに平安を見ることもできる。

レッスン33-世界について別の見方がある

2016-07-02

7月に入ってとても蒸し暑い。夏の暑さというものを思い出した。

6月29日、30日と、レッスン33をやりました。

でもブログ更新できなかった。

このブログというのは、私にとって「だれも目にふれないだろう秘密の洞穴」みたくなっている。内気で人見知りの私にはちょうどよいのかもしれない。

だったら、ブログでなくとも自分のノートにでも書けばいいんだけど、それでは面倒になって「書いてまとめる」ということ自体ができない。その気になればだれでも行くことができるけどだれも知らない「秘密の洞穴」があってそこに訪れる…という感覚。それは奇妙かつ、悪くない感じ。ちょっと病んでいるか…

「世界について別の見方がある」

おとといこのお題で瞑想ワークをしていて思ったのは、

「私は、フリーランスの仕事が減って生活に困っている、と思っていたけど、『別の見方』をすれば、「質素なシンプルライフをすることで、からだの贅肉や脂肪を落とすみたく『贅』を削いでいるのかな?」ということ。どうしても必要なものを意識することで、自分の生活の「芯」をしっかり作っているのかな?と。

前に知人宅で羊毛を針でチクチクして羊毛ボールというのを作るワークショップに参加した際、作り方を教えてくれた知人が「最初のボールの芯になるところをしっかり作るんだよ」と教えてくれた。それを思い出したのだ。

こうした考えはACIMの教えに沿ったものかどうかはわからない。そもそも「欠乏」がない世界にいるはずなのに「貧しさ」を映しているのは、私のエゴなんだと思う。だから貧しさもそれについて嘆いたり論評したりしてそれをリアルにするんじゃなくて、本来であれば、ただ手放せばいいんだろう。

だけど、この「贅を削ぐ」という感じや、きわめてシンプルに生きるという感じは、きらいじゃない。

「贅を削ぐ」ことがなんだか豊かにも感じられる。神社で感じるような清涼感というか…。削いだからこそある美しさ、というか。

御託を並べたけど、今日、土曜日は、たまにある「セミナー」の仕事の日だった。それがなんとか「無事」終えられてほっとしている。何日も前からキンチョーして胸が締め付けられるような感じだったから、帰宅後、発泡酒を飲みつつお笑いの録画で気を緩めていた。孤独ではあるけど、そこはかとなく幸せを感じた。

人前で話すのはとてもキンチョーしいの私には負荷がかかることなんだけど、これもきらいじゃないところがあるんだな。

いつか、いつかのいつか、ACIMについてのワークショップとかセミナーもできる日が来たらいいな、と思う。ACIMの世界をちゃんと説明できるかわからないけど、そういうことができたら、いいな。

レッスン32-私が、自分の見ている世界を作り上げた

 

2016-06-29

疲れやすい…

6月26日(日)レッスン32のワークに入ったが、先週からずっと出かけていたためか疲れがあり、どうも夜の瞑想ワークができず、停滞していた。ここ数年「疲れ」が私のウィックポイントになっている。フリーランスで体力・気力が乏しいなんて致命傷だ。

たいした用事でなくても誰かと会ったり○○講座に出たり、といったことが私にとって「オン」の日で、それが何日か続くとへたってしまって、回復するために誰とも会わない「オフ」の日が必要になる。こんなことを言っているオトナは周りにいないし、およそ人には理解できない感覚だ。たんに怠けグセがついてしまっているのかもしれない。私と同年代で週5日勤務している人や自営で店をやっている人などは、ほんとうにえらいと思う。

月曜日、数年ぶりに「会いませんか」と連絡が入った知人と会った。以前同じくフリーランスで経営関係の仕事に携わっていた男性だ。以前も久しぶりの面会の後ある学校の入学説明会に誘われたことがあり、今度はどんな「用事」なんだろ?とちょっぴりキンチョーして出かけた。60代も半ばになるが変化の波にうまく乗っかりながら頑張っておられる様子。

新宿駅の駅ビルでランチをしたが45分経つか経たないかといったところで「仕事がありますからそろそろ…」と言われ、「お元気で」と別れた。いったい何で呼び出されたのか。実に不可解だった。が、なんでもなくてよかったとヘンにほっとしたりした。

…と帰りにふらっと寄ったブックオフで『神の使者』を見つけた。新装版でなくグリーンの古い方だ。私はこの本を幾度となく節目ごとに読み返している。腰湯でお風呂にも持って入るからぼろぼろだ。家には「予備」もあったけど、さらにその予備も欲しくなり、また買った。とても新しい。1,260円也。これで家には『神の使者』(古いバージョン)が3冊になった。

そして、これをきっかけに『神の使者』を再読し始めた。疲れた時は、家にこもって『神の使者』を読む。これが私にとって一番の「自分たてなおし法」かもしれない。

レッスン32

さて、レッスン32―私が、自分の見ている世界を作り上げた。

これは前レッスン31の続きである。

私は自分が見ている世界の被害者ではない(レッスン31)。(なぜなら)私が、自分の見ている世界を作り上げた(のだから)(レッスン32)

私たちは「結果」の世界にいる。この世は「原因」から投射された「結果」の世界だ。もちろん、この世の中でも「原因―結果」があるように見えるが、本当の「原因」はこの世にはない。私たちの内側も、外側も結果の世界である。

そして本ワークでは「どちらの世界も自分の想像の中に存在しているという考えを導入するよう努める」。持って回った言いまわしだけど、世界は想像の中以外にはない、つまり“バーチャルリアリティ”だと言っているのだ。

自分を悩ます状況に出くわしたら

「私が、自分の見ているとおりのこの状況を作り上げた」と言う、とある。

これをいつも思い出していられたらいいんだけど、つい忘れてしまう。これを覚えていることをマスターできたら、けっこう強いんじゃないかと思う。自分が作り上げたと知れば、それを「容易に手放すことができる」ことも信じられるから。

いつもは深夜にブログを書いていたけど、夜なかなか書けず、今日は日中(今am 12:25)に書いた。やるべき仕事に手が付けられておらず焦る気持ちもあるけど、「私が、自分の見ているとおりのこの状況を作り上げた」

今日の残りの時間、いい日にしよう!

レッスン31ー私は自分が見ている世界の被害者ではない

2016-06-25

レッスン31

昨日と今日はこのワークをしました、いや、したというほどはできてないか…

このお題をテーマとした朝と晩の短い瞑想だけはした。そして日中思いだした時に、文言を心の中で唱えた。

「私は自分が見ている世界の被害者ではない。」

私が外側に見ている世界だけでなく、心の内側に見ている世界の被害者でもない。内界と外界はつながっている。

私たちは外界のできごとが自分に「ふりかかってくる」と思っているけど、エゴが否認した「恐怖」と「罪悪感」の映画を見ているだけだ。それは「私」と思っている者がプロデュースして見せているに過ぎない。被害者であるはずがない。

イギリスEU離脱!?

昨日、イギリスが国民投票でEUからの離脱派が勝利した。

まさか…!

本当に離脱派が勝つとは思わなかった。

自分のことを、ACIMの勉強が大事な世捨て人のように書いているけど、私の数少ない“趣味”は、株投資である。頻繁に売買するでもないけど、株を見るのはけっこう好き。決算などを見ていい会社だなと選んで買った株が上がると楽しい。

昨日は、「離脱なんて、あり得ない。せめぎ合いながらもぎりぎりで残留派が勝つのでは…」と思っていたから、びっくりしてしまった。もちろんかなり含み損を増やした。

『神の使者』『不死というあなたの現実』には、この外界での様々なできごとを「神からの分離という状況の象徴」だとしたうえで、「だけど、神からの分離なんてあり得ません。神だけが存在し、ほかのすべては偽りです」(『不死というあなたの現実』p71パーサの言葉、他にももっとベターな箇所があると思うけど、すぐ出せない…)と書いてあるが、ふとイギリスのEUからの離脱も「神からの分離」の夢の別バージョンなんだろうかと思った。私は、ここでも分離という幻想を見ているのだろうか。

EUからの離脱はこれからの世界、日本にどんな影響があるだろう。そして私には株価暴落のほかにどういうふうに影響が出るのか。世界は絡み合って動いていくからよくわからない。ただ、「起こらない」と思っていたようなことが「起こる」ようになった時代なんだな。これからも、どんどん変化の降り幅が大きくなるのか。

いやいや。あれこれ言っているけど、根っこは「私は自分が見ている世界の被害者ではない。」私が選んで見ているのだ。

私は自分が見ている世界の被害者ではないはずだ。

← 戻る

←古い記事を見る 新しい記事を見る→