「人生は末広がり」ー友人の人生観

2018-10-18

友人と小石川植物園へ

きのう仲のいい友だちと会った。

いっしょにお昼を食べた後バスで小石川植物園に行った。東京ドーム3.5倍という広い都会のオアシス。平日だからか人はまばらだった。

ベンチに座って缶コーヒーを飲みながら、いろいろおしゃべりした。

いつも前向きで努力家の友人。

少し年下だけど、つい加齢や健康、老いじたくやこれからの人生の話になった。

そこで感じ入ったのは、友人の死生観だった。

人生は「末広がり」なものだと捉えているという。

そして、「死は避けられ感じられないもの」。だから、それまでコツコツとよい毎日重ねるのだと。そして末広がりだと感じられる努力をするのだと。

その口ぶりから、いわゆる死への恐怖は感じられず、あたかも死もステップの一つという感じを受けた。

その「前向きさ」は、まだ彼女が自身の死を現実的に感じることがないくらい若いからだろうか。

死とはオセロゲームで最後に逆転されるようなもの?

世の中に若さや健康を前提とした幸せや豊かさを象徴するグッズは、山ほどある。

だけど、いかに人生を豊かに生きられたかどうかは、晩年の人生観や姿勢が大きくものを言うような気がしている。

芸能人や著名人の方で、若い頃いけいけどんどんで(死語?)権勢、栄華を極めるも、最晩年に別人のようにきびしい死を迎える例がある(私の見え方)。

それは、まるでオセロゲームで、どんどん白(黒)を増やしていたのに、最後に角を取られて全部裏返されてしまってゲームオーバー!のように、私には見える。

それは、私が人生を勝ち負けや白黒といった二元論で見てしまいがちな証拠なのかもしれない。

人生を勝ち負けで見てしまうと、健康や若さは勝ちで、老いや死は負けになるだろう。

でもそう考えてしまうと、老いや死は誰にでも自然に訪れるものなので、みーんな最後は負け!になってしまう。

それでは、人生はなんとも儚いものになってしまう。浮かばれない。

そういう自分の考え方から、脱したいとどこかで思っていたから、知らず知らず『奇跡講座』に惹かれたのかもしれない。

罪悪感が少なく死への恐怖も少ない友人は、『奇跡講座』のことは知らなくても、私よりずっとコースの先を行っている感じがした。

道の行き方はいろいろ。

そういう人生のこと諸々話せる友だちの存在がありがたい。

ACIMレッスン215-レッスン195の復習

2018-10-16

レッスン214―レッスン194の復習

(レッスン195)愛は私が感謝の内に歩む道である。

レッスン195には、愛と感謝のことが書いてある(ように思う)。

私は、未だ、「愛」がわかるようなわからないような。

好き、はわかる。

大事、はわかる。

愛おしいも、わかる。

離れたくない、もわかる。

それが愛? 情ではなくて?

とか言いだすとわからなくなる。

この世で愛と言われているものはその多くが、「所有権」や「執着」なのかもしれないと思い始めると、愛という言葉を使うのにも躊躇してしまう。

そういう私にとって、レッスン195は少し難しく感じられる。

私にとっては、感謝の方がわかりやすいから、愛はさておき感謝から学ぼうかと思っている。

他の人が苦しんでいる時に、わが境遇に感謝することは、感謝ではない

愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ真摯なものでありえる。」(L195-4-2,3)

これは、私たちが「自分の方がましだ」と他人の苦難を見て「感謝」しがちなことへの諌めだ。

感謝は他者との比較から生まれるものでは、決してない。

絶対的なものなのだ。

それは、神と自分との関係を表すものだから。

私たちが、他人と比較して一喜一憂してしまうのは、神の愛や豊かさ、よいことには、一定の量があり、それをみんなで奪い合っているという妄想があるからだ。

エゴが主導する幻想の世はそうかもしれないけれど、神はゼロサムゲームではない。

感謝は神との関係において、ただすること

私たちは一つのころについてのみ、父に感謝する。すなわち、行きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)

感謝とは、ただただすることだ。

それは、神への信頼を表すことだ。

そして感謝をすればするほど、副次的効果として豊かさももたらされるのだと思う。

それは、神と私たちの間を阻むかのような「雲」を取り払う行為に他ならないから。

神との関係がクリアになり、無限の豊かさ、愛、喜びに近づけるから。

なかなか抽象的で、掴みにくい話だけど。

感謝とは、愛の一つの側面にほかならない。」(L195-10-3の一部)

愛は感謝以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-6)

この二つのフレーズは心に残ったところ。

ACIMレッスン214-レッスン194の復習

2018-10-12

Wordpress講座の落選通知が来た

このブログのカスタマイズのためにぜひ受けたいと思っていた東京都主催のWordpress講座は、昨日あえなく落選の通知が来た(参考記事:2018年10月10日)。

え~!

まさか落選とは…!!

29名の募集に対して59名の応募があったらしい。2倍かぁ。。

この東京都の講習に関しては抽選でも落選になったことはほとんどなかった。Wordpress講座は受講者からの要望で新設されて人気だとは知っていたけれど、根拠なく「私は当選」と思い込んでいた。

そっか~。

一瞬残念だった。が、すぐ、これでいいんだな、と思った。なんでこれでいいかはわからないけれど。

ブログのいくつかを修正したいだけなのだから、その気になって、自分で勉強すればいいことだ。

しかし、講座が人気で抽選だろうと心の中で「私は受けられる」と思っていた自らの“強気”に気づいて、ちょっと驚いた。

そして、残念に思ったのは一瞬だけで、すぐ、これはこれでOK、と思ったことにも。

この世は自分の思いが作っているのだとしたら、本当に必要なものは必ず与えられる(自己が自分のために用意する)。そうならなかったとしたら、そっちが正解だ、という考えがかなり浸透しているのかもしれない。

この世の中の価値観と真逆な道を、手さぐりで歩いているから、実のところわけがわからない。

自分がすごーく向上心のないダメ人間になっている気がする。一方、そうではないんだ、とも思う。

レッスン214―レッスン194の復習

(レッスン194)私は未来を神の手にゆだねる。

(くりかえしブログに書いてもいるけれど)私は未来が不安だ。

不安を通りこし、時おり恐怖を感じる。

ひとつには、今おカネを稼ぐことをせず(できず)、手持ちのおカネを減らしながら生きているから。

もう一つは、善きにつけ悪しきにつけ幼い頃から私の世界に君臨し多大な影響力を持っていた母が、ここ1、2年ぐっと老いてきているから。

この二つは、まったく異なることながら、私が「神からの分離」をリアルに感じる、今この世での投影パターンなのだろう。

ここでも、やるべきことは同じ。

まず赦すこと

そして、今ある状況に感謝すること

そして、このレッスン214(194)の-未来を神の手にゆだねること

そうすれば、必要な情報やなすべき行動は与えられるはず。

そう思う。

ただ、手放したはずの不安や恐怖感は、気づくと、またそこにある。

もっとゆったり構えてもいい?

10月初めこのワークをやった時に感じたことは、意外にも、

「もっとゆったり構えていてもいいんだ。

方向は間違っていない。

不安は都度消せばよい。」

ということだった。

表面的にびびりながらも、心の奥ではOKを出しているということか。

また、何もせず過ぎていく日々に感じる焦りには、

「電車の中で走る必要はないんだ。」

「もっと肩の力を抜け。

姿勢を良くして、しゃんと立て。」

とも。

私は行き先にあった電車に乗っているということだろうか。

心奥ではけっこうな“強気”みたいなのだ、やはり。

絶賛、道楽中!?

こりゃー、えらい道楽だな、と思った。

ふと気になって「道楽」の語源を調べてみたら、

「仏教では『ドウギョウ』と読む。楽は願と同義で、仏道を楽(ねが)うのが道楽の原意である。

この『道楽(どうぎょう)』の意味が転じて、例えば『法華経』に『道を以て楽を受く』と説くように、道を修めて得られる『楽しみ』『悦び』を表すようになる。」という文を発見。(教員エッセイ 読むページ「道楽」より

へ~、そうなんだ?

「道を以て楽を受く」

course(道)を歩み、楽を受けられるまでになったら、文字どおりの「道楽」なんだ、とちょっと感心。

 

習いごとで、薄ら人とつながっている

2018-10-10

10月10日。私にとっては、やっぱり「体育の日」のイメージが強い。

もう体育の日じゃないんだけど。

義務教育時代は、100mを全速力で走ったけれど、卒業してからいっさいそういうことないな。

逆上がりも跳び箱も大人の世界には無縁だな。

運動が苦手な私にとっては、それだけでも、大人になった価値はあるかな。

 

私なりに質素に生活しているつもりだけれど、同年代のひとり暮らしの方の家計簿と比較したら、まだ差がある。(もちろん、幻想だって知ってるけど(^_^;))

食費も光熱費もさほど変わらないと思うけど。どこが違うのかと思ったら、私の場合習いごとが多かった。

備忘録というわけでもないけど、今習っていることをメモ。。

 

○ユング心理学講座(1回3,500円位)

2002年から。最初は週二回のクラスにいたけれど、今は月1回。『神の使者』を読んだ時、ユング講座のおかげで、無意識や否認、投影などの話が、比較的抵抗なく入ってきた気がする。

○色えんぴつ画(1回1,500円)

2016年から。月1回。友人の色えんぴつ絵の発表会を見に行ったことがきっかけで、同じ先生の別のサークルにまぜてもらった。今は人物画の練習中。(といっても月2,3時間しかできてない)

○英会話(1回500円)

2016年から。月に2回。『奇跡講座』が生まれたのはアメリカだし、いつかどこか英語圏のワークショップに参加してみたい。まだ会話できず。やっとRの発音ができるようになった。

○パソコン(1コース(20時間位)6,500円)

東京都主催の3日間のコースがあって、webサイトつくりに関係があるものに時たま参加。現在はCSSの講座受講中。何年も前から受けているけれど、復習時間が足りないためか、その方面のセンスがないためか、未だサイトづくりできず。

○色彩サークル(1回(0~1,000円)

月に1回。習いごとではなくて自主サークルで、持ち回りで先生役をやっている。色の世界も奥深い。12月に年間の自分のテーマを発表することになっているけど、まだな~んにも手が付けられてない。テーマ何にしようかなぁ。

習いごとは、節約という意味では「贅沢品」なのだけど、今や社会と私をつなぐものになっているから、大事。

分散してくれたらいいけど、月1回とか2回のものって、なんでか第2週に集中している。

パソコンの講座は、今年からwordpressのコースが新設されてぜひ受講したいと思っている。このブログ、テンプレートで作ったはいいけど、どう編集していいかわからず手に余っているから。

今日が応募締切日で、応募した。応募者多数の場合は抽選。結果は数日後?どうかな?

受講できたらいいな。

好きなことだけやっている今の私は、とても恵まれている。不安を口にするのはお門違いだな。感謝しています。

ACIMレッスン213-レッスン193の復習

2018-10-08

10月二度目の、夏日の再来

世間は三連休ー。

一昨日は友人とランチ、昨日はパソコン(CSS)の講座で、両日とも1時間半くらい歩いたら、帰宅後はバテバテで動けず。

夏バテの再来?

それも仕方ない、昨日は10月の最多に並ぶ、二度目の真夏日だったたらしい。10月に真夏日、三回あったことはまだないというけど…、また暑さの記録、更新なるか。

書きたいことを書いていると、ワークのダイアリーが進まなくてワーク日と日記に乖離が…^_^;

ワークのダイアリーは、最初は、その時に実際感じたことを掘り下げて書きたいと思っていたけど、実際にはなかなか…。

渦中にいる時は「書けなくなる」、というのがわかった。

まとめにもならない記録しかできないけど、それでも自分にとっては足取りのパン屑だよな~と思う。

レッスン213―レッスン193の復習

(レッスン193)すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。

神の世界には、「赦し」はない。

赦すべきことなど何一つないから、神は赦しとは無縁だ。

神の子である私たちも、本来そういうところにある。

ただ、私たちが今見ているものはそうではない。

宇宙という催眠術にかかった私たちは、本来とは異なるものを目にして、そこでやりこなすルールを見つけて、頑張っている。

でも、残念なことに、頑張っても、最終的に報われない。

この宇宙と、そこで私たちが作ってきた成功のルールは、そもそもまやかしなのだから。

この世界は「結果」にすぎず、「原因と結果の法則」はこの世で動作するものではない。カルマは今世に留まらず、過去から未来へ引き継がれるし、そもそも過去も未来も錯覚にすぎない。

罪をリアルにしているなら、加害と被害のループを繰り返すだけだ。

この世界と宇宙という催眠術から覚めなくては…。

私は赦す。だから、これは消えていく。

そこで、レッスン193のワークだ。

そもそもの催眠術からめざめる魔法のことば。

赦しなさい。そうすれば、あなたはこれを違った見方で見るだろう。」(L193-3-7)

「私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)

これは、ACIMのエッセンスを具体的に伝えている言葉だと思う。

とくに「私は赦す。だから、これは消えていく。(I will forgive, and this will disappear.)」は、ゲンジツにパニックになっている時に思い出せたら、正気に帰るフックになるかもしれない。

赦すべき想念が自分の内にがあれば、この世にかたちとなって現れる。

それは、この世の必然だ。

本来ないはずのものを見ているならば、それには訂正が必要なのだから。

そういう意味で、「すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。」というのはそのとおりだ。

赦すべきことが起こった時は、真実を教えるACIMの思考体系そのものが、うさんくさく感じられる。

「こんなふうになっているのだから、自分が正しい」と思いたくなる。

ACIMを学んでいるつもりでも、数日離れただけで、この世のリアル度が増す。

これから先ACIMにずっと触れていられるかわからない。

大事だと思うことも、ぼろぼろ忘れていく。

この短いおまじない「私は赦す。だから、これは消えていく。(I will forgive, and this will disappear.)」は、自分の心に刻み込んでおきたいと思う。

ACIMレッスン212-レッスン192の復習

2018-10-06

レッスン212―レッスン192の復習

(レッスン192)私には、神が私に全うさせようとする機能はたらきがある。

ACIMのワークブックの訓練を一言でいうと、この機能になる。

すなわち、赦し

許しとはちがう、赦し。

ACIMのワークはとてもシンプルで、ただ目前に現れるものを赦すこと。それによって、あるがままの神の子になっていくこと。それだけだ。

このことを、この世のいろんな言葉で表現してわからせようとしている。

 

では、赦しとは何ぞや。

私たちが見ているこの世界は強固に見えるが、それが実は投影させて見ているバーチャルリアリティである。そのことを認識し、そこへの感情的執着を手放すこと。

すべてが満たさせた愛情と感謝に溢れた状態に戻っていくこと。

本来それはそのまま私たちと在り、私たちが悪い催眠術にかかっているだけなのだから。

これは、「私」が選んで投射している「世界」なので、「世界」を救うのは、私の認識だ。

その認識を変えるためには、赦しという訓練が要る。

赦しの方法について、レッスン192は「この道は単純明快である。」(L192-9-3)として示している。

突き上げてくる怒りを感じるたびに、自らの頭上に剣を振りかざしていることを理解しなさい。

そして、罪を宣言された者となるか、自由な者となるかをあなたが選択するたびに、剣は振りかざされるか、回避されるかのどちらかである。」(L192-9-4,5)

すべて怒りは、実は自分自身への怒り。それを認められず、封じ込めるがために他の人が怒らせることをしたと見えている。

それこそが悪い催眠術だ。

まちがった認知をとりなすこと、それが赦し。

 

赦しはむずかしい。

それは、自分に対する怒りと罪悪感があまりに大きくて、直視したくないから。

悪いのは、自分ではない、これだ。気分が悪いのはあの人のせい。

そう思わせてくれるものを常に必要としている。

いつも、いつも、認知は狂う。

だから、何事もない時になるたけ理屈を勉強しておくことが、自分を律することにつながるんだろうな~。

備えあれば憂いなし!?

赦しはチャンス。

本来の自己にまた少し近づけるチャンス。

「樋田容疑者、逃走旅行を満喫」に不謹慎にも感心してしまう

2018-10-05

ここで取り上げるのはどうかと思ったけど、、、

8月12日に大阪府警富田林署の接見室から逃走していた樋田淳也容疑者が、9月29日ようやく捕まった。場所は山口県周南市の道の駅、万引き容疑だった。

驚いたのは、その風貌の違いと、逃走の過程。

漠然と大阪府内で逃走時とたがわない姿で潜伏しているのかと思いこんでいたけど、実際には、すっかり日焼けして「自転車で日本一周旅行している人」になっていた。

スポーツタイプの自転車には、たくさんの荷物が積まれていて、大きなリュックには「日本一周中」。サイクリングウェアも板についてそのものに見える。

いったいどうやってここまでの“装備”を手に入れたのかな?

大半は盗品らしいけれど、それにしても…、と思っていたら、リュックの「日本一周中」の紙は、なんと愛媛県庁で職員に作ってもらったものらしい。瀬戸内ではグルメ三昧の記事も。

すごい…

おいおい、楽しみすぎだろ。

隠れるのではなく、「自転車で日本一周」に目を向けさせて目くらましさせるとは。

逃走を許してしまった大阪府警は、このやりたい放題に忸怩たる思いだろう。

それにしても…。

やっていることは悪いことだけど、その厚顔さと行動力たるや…

悪事を働いたわけでなくとも、引きこもり気味なため社会に気後れしている私とは、大ちがいだ。

感心するのは良くないことなんだろうけど。

いや~、すごい。

せっかくのその力をよいことに使えばいいのに、と思うけれど、そうしないから犯罪者なんだよなー

この「すご~い」は、むか~し、ショーン・Kさんの経歴詐称騒動の時に感じた「すご~い」でもある(蒸し返してしまったショーン・Kさんすみません)。

不謹慎かもしれないけど、48日であそこまで印象がちがう人になれるなら、私の自己イメージだって変えられるってことかな、とヘンに「希望」をもらった私。。。

「自分を愛してあげて」 最初のdoは自分を愛すること

2018-10-03

最近は少し意識して聖霊の声を聞こうと思っている。

そんな今朝のワーク。

聖霊さんが私に何か伝えたいことは?…と心の内に耳を澄ますと…

自分を愛してあげてください」と小さな声を感じた(聴こえてはいない)。

「わからなくても、

ただ愛してあげてください。

私は神の子なる私を愛します』と心の中で、自分に伝えるだけでいい。

 

あなたは自己否定しながら、

何かをやらなくては(do)と焦っているけれど、

doの最初の一歩はこれですよ

 

自己否定しながら行うdoと、

自分を愛して行うdoは、

その行き先がまったくちがう。

まず落ち着いて、

自分を愛すると、意識したらどうですか。

 

そうなふうなことを言われた気がした。

働けていない現状に焦りがある。

おカネは不労所得もあって、今すぐ困るというわけではない。

過去の私のパターンからも、勤務するのが正解とも思えない(雇ってもらえるかというのがその前にあるが)。

できれば、在宅で収入を得られる小さなしくみを作れないか、などと甘いことを考えながら、そのスキルも身に付けられないまま時間が経っている。

体力気力ともに乏しく、めまぐるしく変化する世の中に付いていく能力も、コミュニケーション力もない、と思っている。

一方そういった自分を赦そうともしている。

その私に向けてのメッセージだろうか。

 

今朝のウォーキング途中、道の真ん中で70代と思しき男性が、乗っていた自転車に挟まるように倒れていた。

通行人の男性が車によけるよう合図を出しながら助け起こしているが、足が挟まってか男性はまだ立てない。

通勤の人は足早に駅に向かう。

私は足を止めた。大丈夫かな。

…と、その時、私の後ろから、自転車に乗ってきた女性が、自転車を降りてすっと助けに加わった。二人がかりで男性を起こそうとする。さらに別の方向から来た女性が駆け寄って加わった。

三人でおじいさんを持ちあげ、その下の自転車を取り除いている。

私は強い恥ずかしさを感じながら、その場を去った。

私、大丈夫かと思っていただけで、まったく動けなかった。

歩きながら、心配したけど非力な私なんかが近づいてはいけない、逆に足手まといになるという思いがあったのだと、気づいた。

助けに加わったのは、二人とも女性だ。判断はとても素早かった。

私ってば…、この世は幻想…と思う習性が身についたというのもあるのか、何でも一歩引いて見るようになっている。

それもあって動けなかったんだ、と反省した。

 

思えば、「この世は幻想だ」と言いつつ、逆に、私が今在るなかでは、私の方が幽霊みたいに幻想になってしまっているんじゃないか、と思った。

『奇跡講座』が意図するのは、こういうことじゃないだろう。

 

そんなこんながあって、今朝の“メッセージ”なのかな?とも思う。

稼いでいないのは不安ではあるけど、手元にあるおカネを使っているのだから、大目に見てもいいと思っている。

せっかくのこの時間とスペースを、好きに使えていて感謝もしている。

だけどだけど、やっぱり、自己否定があるかな?

それは、幼い頃からの自分のくせでもある。

 

最初のdoは自分を愛すること、かぁ…

まぁ、定番ちゃ~定番だけど、だからこそ、今の自分が意識すべきことなのかもなぁ

 

 

 

 

本庶佑さんノーベル賞受賞に、あるACIM学習者が思ったこと

2018-10-02

本庶佑さんがノーベル賞を受賞

[caption id="attachment_4528" align="alignright" width="300"] 本庶佑さん NHK NEWS WEBより[/caption]

昨日のニュース速報で、京都大特別教授の本庶佑(ほんじょ・たすく)さんがノーベル医学・生理学賞を受賞されたとの一報が入った。

なんでも、本庶先生は、免疫の働きにブレーキをかけるたんぱく質「PD-1」を発見。このブレーキを取り除くことでがん細胞を攻撃する「がん免疫療法」の開発に結びつけられたとのこと。

「がん免疫療法」は、手術、放射線治療、抗がん剤治療に続く、第4のがん治療法で、研究成果を基にした治療薬オブジーボは副作用が少なく大きな成果をあげているらしい。

今朝の番組ではそのお人柄も紹介され、

「一生をかけるなら、リスクが高くても、やりたいことをやるべきだ」

「誰も見向きもしない石ころを磨き上げ、ダイヤモンドに仕上げていく。混沌とした状態の中から立ち上げるところに、大きな魅力を感じる」

といった言葉も紹介されていた。

詳しいことは理解できないが、先の見えない、地道な根気がいる研究だと想像できる。

すごーい、素晴らしい。

病気の原因は罪悪感と捉える『奇跡講座』の考え

一方で、私は『奇跡講座(ACIM)』の学習者の端くれだから、病気や治癒について、ACIMがどういうスタンスをとっているかも、ある程度知っているつもり。

とくにワークブックの以下の文言にはインパクトを感じた。

「あなたは、山積みにした紙切れの束と大量の円形の金属がない限り餓死してしまうと、本気で思っている。小さな粒状の固体や、鋭い針で血管に注ぎ込まれる液体が、病気や死を寄せつけずにいられると、本気で思っている。

このようなことを考えるのは狂気である。」(L76-3-2,3、4-1)

罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。

病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」(L140-4-3,4,5)

ACIMによれば、病気の原因は罪悪感であり、薬が病気を治すのではなく、その基となる罪悪感を取り除くことこそが治癒をもたらすという。

それでも、この世のあるものには薬効が認められ、それで病が治るのだから、そこには因果があるように見える。

もし根底の罪悪感がそのままならば、ある幻想をもう1つの幻想に取り換えただけということになるかもしれない。

そうであっても、取り除きたかった最初の幻想が取り除かれることは、大きな望みをもたらす。

『奇跡講座』の教えをこの世でどう適用するか

要するに、私は、『奇跡講座』のこの世への適用(方法、程度)がよくわかっていないのだ。

この世はエゴが神に対抗して見せている幻想…、そして、その幻想からめざめることが、『奇跡講座』。その訓練がワークブック。

だけど、その幻想は私たちに多大な影響力があるから、幻想であってもよりよい幻想がいい、と思う。

幻想だからといって、ご飯を食べない、骨折しても幻想だからそのまんま、お医者さんも薬も投げ出す、というわけにはいかない。

どの部分を幻想と受け流し、どの部分はここでの仮の自分を維持するために大事、と捉えるかの塩梅がわからないのだ。

こんなことを考えている私は、ばかなのかな。

ACIMは正しいと思う。だけど、肉体を持ってこの星にいる私は、どう適用したらいいんだろう。

そうこうしているうちに、この世で生きるスキルらしきものの低下が著しいことに気づく。あ゛…(・・;)

おそらく答えは「聖霊の導きに従う」ということだと思う。(←今思いついた。なんて、自己完結的なんだ)

そうそう、いつも言われている。聖霊に聞く、だ。

聞いて、塩梅も打診しながら進むんだよなー。その練習かー。

ACIMレッスン211-レッスン191の復習

2018-10-01

台風24号通過

昨夜は、台風24号が関東を通過、マンションごと吹き飛ばされそうな、ものすごい風音だった。

家の中は安全なはずと思っても、怖くてなかなか寝付けなかった(参考:2018.7.4記事。ふとんをすっぽりかぶって縮こまり、今やっているレッスン(L213=L193の復習)の文言、

私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)と何度も唱えた。恐いのは収まらなかったけど、いつの間にか眠っていたらしい。

翌朝の散歩でも、店のテントが落ちてしまっていたり、ショールームの植木が倒れて植木鉢が壊れたり、といった台風の爪痕があった。

沖縄では高さ25mの巨大観音が倒れて損壊したとか。「非常に強い」台風は昔からこんなに多かったっけ?

これも、地球温暖化の影響なのかな?

「経済発展」のつけを環境に払わせてきた、その代償なのか?これは、、いったい、、発展していると言えるのかな?

それとも、これもやはり赦すべきことなんだろうか(たぶん、そうだ)。

レッスン211―レッスン191の復習

(レッスン191)私は神ご自身の聖なる子である。

私たちの真のアイデンティティは、「神の子」(the holy Son of God)だ。

罪と恐怖を司る神ではなく、愛と感謝そのものの神の子だ。

これを受け入れること。

そして、神がこの世を創ったのではないと知り、神以外のものを手放すことで、この世から解放されること。

これがACIMの道のりだ。

いつも思う。とってもシンプルだ。

だけど、この世はあまりにリアルだし馴染みがある(ここしか知らない)から、私たちは自分が本当は誰なのかを忘れたまま、ここでの出来事に大忙しだ。

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

私は、この文章がとても好きだ。

これを話したイエスはとてもユーモアのあると思う。

この世は「自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム」…かぁ。

あなたは死のゲームに興じ、自分に対し無慈悲な世界で、哀れにも破滅に向かう無力な者を演じている。」(L191-9-3)

なるほど。

たしかに。

どんなに栄華を極めても、結局は何十年後かに必ず衰えて死ぬという人の運命。

だけど、だけど、

「神の子」だと心から受け入れそのように振舞えば、「死のゲーム」は終わる。「神の子」は永遠だ。

不思議なのはこの世で渦中に入ったとたん、ACIMの教えが信じにくくなったり、あるいは後から考えると自分に都合がいいように歪曲してしまうことだ。

次に渦中にあるとき覚えていられたらいいと思う。

「削ぎ落せ」

このワークをやっていて感じたことは、「削ぎ落せ」ということ。

引っ越しでけっこう断捨離できたつもりだけど、まだまだいらないものをたくさんくっつけているんだ、と思う。

そして、隙あらば、さらに「いらないもの」を増やそうともしている。

自分でないものを削いで、削いで、自分になっていく。

それと、このワークに直接関係ないけれど、私には根深いところでおカネに対するブロックがあることが思い浮かんだ。

最近、新たな収入の源を祈りの祭壇に捧げているのだ(新たな自分の収入源を求めていて、祭壇に捧げ、日中はそのことを忘れる…)。

おカネはおカネという金額ではなく、豊かさの映しだ。豊かであってもいっこうに構わない(構わないどころか、とても求めている)。

そしてまず、今ここでこうして過ごせていられることは、とてもありがたいこと。そのことに感謝。

まず、そこからだ、と感じた。