ACIMレッスン219-レッスン199の復習

2018-10-31

区の健康診断へ、たかが健康診断なのにドキドキする

昨日、区の健康診断に行ってきた。

引っ越し前の区の健康診断受診表が着ていたから、旧居と新居どっちの区でするのかな、と思いつつそのまんまにしていたのを、先週ふと思いだしたのだ。

現区に電話したら、「こちらで受診表を発行します。ただし受診期間は10月末までなので、すぐ取りに来てください。」となった。それで、昨日の受診だ。

前の区では、10年以上も同じ診療所で受けていた。風邪の時や腰痛のリハビリにも行っていたから慣れた場だった。

だけど、今、ビビリの私は、新しい医療機関に行くのさえ緊張するのだと気づいた。そして健康診断でさえ怖いんだ。

病気の発覚が怖い、老いの事実に直面するのもイヤ。

それは、とりもなおさず私が自分を肉体だと思っている証拠だろう。

去年、血圧が165と正常範囲を超えた。そして、骨密度は5年で(5年おきに測る)なんと20%も減少していた!

両方とも女性ホルモンに関係しているというから、女性ホルモンが枯れてきているんだよなぁ(>_<)

再び血圧高い事実に直面したらいよいよ対策考えねば、、。

初めての病院。ここでも血圧は初っ端自分で測るシステムだ。

呼吸を十分に整える。腕まくりして、測る。

… 上が149。高い。脈拍も110。ビビリがそのまんま脈に出てる。

「ドキドキしちゃって」

いい歳して何言ってんだか、だけど、健診担当の方にそう言うと、「全部終わって帰りにもう一回測ってみてくださいね。」と優しくおっしゃった。

で、1時間半後、深呼吸して再計測。

…上123、下66。

正常範囲に収まった。よかった。

昨晩、血液サラサラ効果がある玉ねぎ、いっぱい食べたんだ。

健診では、問診の女医さん、心電図計測やX線検査の女性、採決してくださった看護師(男性だった)など、たくさんの方にお世話になった。

皆さんきびきびと働いておられた。ぼーっとしている自分とは大違いだった。

レッスン219―レッスン199の復習

(レッスン199)私は肉体ではない。私は自由である。

自らを肉体と見なさないというのは、ACIMのもっともベーシックな概念だ。

一方で、自分が肉体だというのは、この世では至極あたりまえなことだから、この概念から自由になるのはとっても難しい、と感じる。

肉体=エゴの家、だから。

自分の体が脅かされそうになった時に、それまで意識していなかったエゴが大暴れする。

自我は肉体の中に住み、自分が作り出した家と一体化して生きているので、肉体を非常に大切にする。肉体は、自分自身が幻想だと発見されないように自我をかくまってきた幻想の一部だからである。」(L199-3-3,4)

たかだか、初病院で健診というだけでキンチョーする私は、ぼってりと肉体に匿われたエゴの持ち主だ。ワークがぜんぜん効いてないのかな、とがっくりきてしまった。

そうじゃなくって、それだけエゴが肥大しているんだろう。

このテーマは、とにかくエゴが身構えなくなるくらい何度も何度もくりかえすことが必要なんだと思う。

ある種の洗脳だ。

エゴの洗脳を同じ手段を持って解く、逆洗脳なんだ。

肉体への執着を解かなければ、自由にはなれない。

ワーク199の最後の文言、

私は肉体ではない。私は自由である。私は神から与えられた一なる声を聞き、私の心はこの声にのみ従う。」(L199-8-7,8,9)

を、くりかえそうと思う。

自分が見ている世界を赦すー安田純平さん解放で感じたこと

2018-10-29

「自己責任論」と「社会的使命論」で論争!?

シリアの武装勢力に拘束されていたジャーナリストの安田純平さんが、先週解放されたとのニュースがあった。

3年4ヶ月もの長い拘束。どんなにかきつく暴力と恐怖にさらされた生活だっただろう。

私は、単純に、助かってよかった、と思った。

テレビで、ネットを中心に「自己責任論」が起こっている、と知った。わざわざ政府も止めているのにそんな危ないところへ行ったのだから、自業自得、自己責任だという。

一方で、ジャーナリズムは報道しなければならないという「社会的使命論」もあり、両者の間に大論争が起こっているという。

解放時のコメントで、安田さんが「荷物がすべて奪われたのでそのことが頭にきている」「日本政府には借りを作りたくない」等と述べたらしく、「ご心配おかけしてすみません。ありがとうございました。」といったコメントを無意識のうちに期待していた私たちが裏切られたように感じたことも一因だと思う。

私はどちらかといえば、「自己責任論」には反対の方だ。

善し悪しはわからないけれど、今心身への暴力で衰弱し尋常ではないだろう人に、さらに平和な国の私たちが追い打ちをかけてどうする、と思う。

でも、「自己責任論」を唱える人も、「社会的使命論」を支持する人も、武装勢力に対する思いは同じだろう。

ACIM的観点から、ものを言ったらどうなる!?

ここで、ふっと思う。

私が、「これは実際起ったように見えるけれど、実際には起ってないんです。私たちは幻想の次元でものを見ているだけなんですよ。

だから、私たちは“起っていない”ことと、それに加わった同胞を赦しましょう。私たちは常に神とともにあり平和です。」と言ったら…、と。

私は、著名人でも見識者でもないからだれも相手にしないけれど、これをテレビに出ている立場がある人が言ったら、論争をしていた両方のエネルギーがいっせいにその人に向かい、「何、無責任なこと言ってるんだ。頭おかしいんじゃないか」ということになるだろう。

そして、あやしい宗教にハマった人のレッテルを貼られ、社会的立場を失うだろう、と想像した。

…これが、私が見ている世界だ。

そして、これが私の恐怖だ。

これこそ、私が赦すべきことなんだ。

ここに行きついた。

そして、ACIMについて考えを述べていく時には、世の中が幻想というだけでは足りない、相手がどう受け取るかは別として、この世の言葉で説明したり表現したりする力も必要だと感じた。

『奇跡講座』の考えを、理屈で考えて整合性がある、正しいにちがいない、と思っている一方で、まだまだ感情的には受け入れがたいとも思っている私。

今「踏み絵」を差しだされたら、何くわぬ顔で踏んでしまいそうだ。

ひとり鍋の季節到来

2018-10-27

だんだん肌寒くなってきて、あったかいものが恋しくなってくる季節。

ほぼ自炊の私にとっては、ひとり鍋の季節到来だ。

昨晩は皮きりにキムチ鍋を作った。

ちょっと卵、火を通し過ぎたか。

食後は体がぽかぽかした。

鍋は、

  • あったまる
  • 手間がかからない(使う食器も少なくて済む)
  • 野菜が取れる
  • 材料を使いまわせる

と、サイコー。

ひとり暮らしだとそれに胡坐をかいて?、鍋が続くことに。

和洋中と味を材料を変えながら、冷える心身をあっためてもらう。

ひとり鍋の本も、(引っ越しの後適当にしまいすぐには出てこないけど)何冊か持っている。

これを「わびしい」と思うかどうかは、人それぞれだけど。

私は、慣れっこになっているから、感じない。

気候温暖化のためか、夏がすごーく長くなった気がする。

暑さがようやく過ぎたと思ったら、ありゃ、今年も残りあと…?とかいう感覚。

12月は鼻っから煽られ感満載で、慌ただしいし。

ホントは、春と秋が長くて、夏と冬はスパイス程度にあるくらいでいいのにな。なんて、思ってしまう。

暑かろうと寒かろうと、家族があろうとなかろうと、ささやかに、自分なりに、暮らしを楽しみたいな。

 

ACIMレッスン218-レッスン198の復習

2018-10-26

レッスン218―レッスン198の復習

(レッスン198)私の咎めだけが私を傷つける。

とがめ」という字、ふだんあまり見ない難しい字だな~と漢字の成り立ちを検索してみたら、「処」と「口」の合体だった。

「処」には、「場所」や「身を置く」「人とつきあう」の他に「処罰する」という意味がある。なので、「咎める」は文字通り「口で罰する」か…。

傷つくということはありえないことである。しかし、幻想は幻想を作り出す。」(L198-1-1)から始まるレッスン198。

(自分が)咎めること⇔傷つくこと、はワンセットだという。

本来はどちらも在りえないものだ。

だがこの世で、「咎め」を認めるなら、「傷つく」も在りうる。

  • 咎める→幽閉、傷つく
  • 赦す→自由、幸せ

そのどちらをとるか。

これは、

  • 真理の世界住まうか
  • 幻想の世界住まうか

…の選択でもある。

赦しはすべての幻想への回答

赦しは幻想であるが、ほかのすべての幻想への回答となる幻想である。」(L198-2-10)

赦しもまた幻想の一部だけど、

赦しは幻想をとりなすはたらきをする。

したがって、赦しによって、この世の存在事由である罰も消える。

そもそも私たちは、罰せられる(自罰する)必要がない。

この世には、神の一なる子がいて、その子を自分が代表して今「自分」を感じている。

いるのは、神の一なる子だけ。

他者のように見えてはいるけれど、それは自分を鏡の中に覗きこんでいるようなもの。

心理的に誰のことも咎めてはいけない。

赦したうえで、この世でなすべきことがあればなせばいい。

たしかにそうだけど…、やじろべえのように揺れる

ACIMワークは、いつも、こうした同じロジックを視点を少しずつ変えながら、くりかえしくりかえし説明して諭してくれている。

この世で肉体と寿命を持って生きている(と思っている)私たちには、そのロジックの全体像がまったく見えないからだ。

この世は超リアルで、私たちは「自分の手」でこの世の勝利を勝ち取りたいともがく。

ここで城を築くことは、つかの間の生で素晴らしい感覚をもたらす。だけどそれは、いずれは手からこぼれおちる砂の城だ。この世と闘えば、幻想の砂の中に埋まってしまう。

それよりも、問題に対する答えを手にしていることを喜ぶほうが賢明ではないだろうか。」(L198-5-1)

私はこの一文が好きだ。

なんとなく、くすっと笑ってしまう。

たしかに、そうだけど、そうだけど、、揺らぐんだよねー。

だって、この世とそのやり方になじんでいるし、ACIMの道は前が見えない野原を歩いているようにも思えるから。

一個の自分にとっては、ACIMに従うことは、あたかも「実験」のようにも思えるのだ。

私の咎めだけが、私を傷つける。

私自身による赦しだけが、私を自由にする。」(L198-9-3,4)

神の個の中にはどんな咎めもないと宣言するこの一つの幻想を受け入れなさい。」(L198-10-1)

毎日、ACIMの価値観と、この世の価値観の両方を、やじろべえのように、行ったり来たりしているよ。

この世の価値観の方に振れた時は、赦しのチャンス到来!なんだろうけど、何度も、何度も、見逃しているよ。

「超」整理法による私のノート

2018-10-24

またコーヒーを溢れさせてしまった

あ、またやってしまった。

コーヒーがマグカップから溢れている。

コーヒーを入れているとき無意識に溢れさせてしまうことがあるのだ。(参考:2018-9-4 コーヒーが占う心模様

自分では気がついていない感情が溢れていたり、気がかりがあったり。

これは無意識からのイエローカード。気をつけよう。

そして、少し薄めのコーヒーを飲むことになる。

1冊に何でも書く私のノート

唐突だけど、ノートや記録のはなし。

私の整理法は、25年前のベストセラー『「超」整理法』だ。

超管理法のエッセンスはシンプルで、「整理すること=分類」というそれまでの観念を脇に置き、すべてのものを時系列に並べるというもの。

分類するから分類方法に迷ったりいざという時にどう分類したかが思い出せなくなる。「時系列」というのは、意外と人の記憶に残るものだという。

だから、ヘタに分類しようとせず、何でも手元ノートに書く。

毎日ノートを書くようになったのは、2002年4月から。

その当時読んでいた『ずっとやりたかったことをやりなさい』という本に、「脳の排水を出す」ために毎朝なんでも頭に浮かんだことを書くということを推奨していた。

それは「モーニングページ」と名づけられていて、私はモーニングページを書くため「モーニングページノート①」をスタートさせたんだった。(略してMPノート!)

そのノートがそのまんま続き、今では130冊目になっている。

初めはB5の罫線入りだったけど、そのうち無地になり、今はA4の方眼と、それなりに変遷している。

ノートは心の友

ノートにはその日の行動をメモする。レコーディングダイエットじゃないけど、食べたメニューまで書いている。買物した時にはその商品詳細を貼り付けることもあるし、旅の計画や引っ越しの段取りなどもノート上でやる。

今では毎朝モーニングページを書くという習慣はなくなったけど、考えごとをするときにはまずノートを開く。

白いページを前にいろいろ書いているうちに、頭が整理されすっきりしてくる。

ノートは親友のようなものだ。

本棚の一角には、ずらーっとMPノートが並んでいる。

これだけのボリュームになると、ちょっと邪魔。だけど「あれ、あの時どうだっけ?」というのを知るのにけっこう役に立つ。

たいしたことは書いてない。人にとってはな~んの価値もないものだ。だけど、その時その時の自分が詰まっているから私にとっては大事。

誰にも見られたくない。

そういえば、最近は、何も考えずだらだら思い浮かんだことを書くモーニングページ、やってないなぁ。

だから、「脳の排水」が溜まっているかなぁ。

深まる秋はノートに向かう最高の季節かもしれないなぁ。

と思う。

ACIMレッスン217-レッスン197の復習

2018-10-23

レッスン217―レッスン197の復習

(レッスン197)私が得られる、は、自分自身からの感謝のみである。

これは、前のレッスン196の主題概念「私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。」と対になっているようにも思える。

この世が幻像であり映画のスクリーンを見ているようなものだとすれば、そこに何を映すかが重要だ。

そもそもこの世は、エゴが私たちの罪悪感と恐怖からのエスケープ場所として提供したもの。

無意識のままならば、そこに映されるのは、罪悪感と恐怖となる。もちろん人生には楽しいことや喜びもある。だけど、根っこのところで無意識に鎮座する罪悪感と恐怖感に苛まれることになる。

それに頓着せず、手放すこと。

この部分をレッスン196は言っていた(よう思う)。

一方で、感謝は、愛と同じように神なるものでリアルだから、その認知力が高まれば高まるほど、神の愛、喜び、豊かさも受け取ることができる。

空に浮かぶ雲が消えれば、その向こうには常に太陽が照っている。

それと同じで、エゴの偽りの想念が取り除かれれば、神の子なる自分が認識される(と言う)。

感謝を引っ込めてしまわない

感謝は、雲を取り除き神とつながる、この世でのもっとも近道だ。

そんな強い力を持っている感謝だけど、感謝しても相手から同じように感謝が返ってこない時、私たちは、不安に思ったり「マナーがなっていない」とすぐに引っ込めてしまいがちだ。

それは、リアルな眼で見たら、神からのせっかくの贈り物を無下に断っているようなもの。実にもったいない」と言っている。

あなたの贈り物が何の効果もなく失われたように見えたとしても問題ではない。

それらは与えられたところにおいて、受けとられている。」(L197-4-3,4)

すべての贈り物は唯一あなた自身に与えられるので、神に捧げられ、神はあなたが捧げるすべての贈り物を祝福する。」(L197-5-1)

感謝は神そのものであり、神の子そのものだから、感謝すればするほど延長し増幅し、ただただ感謝がある。

ただいま感謝を練習中

私は、元々わがままな性格で、感謝というよりグチを言ってきた。

そして、遅ればせながら今、感謝を練習している。

まずは「形から入る」というか、なるたけ「ありがとう」を言うようにしよう位からやっている。

前よりは感謝できるようになってきたけれど気づくと、些細なことに不満を感じていたり、感謝してもそれに対してどこかしら見返りを期待しているところもある。

それはやっぱり筋トレみたいに、少しずつやりながら習慣にして、負荷をかけてもできるようにしていくものなのかな、と思う。

感謝のいいところは、下手でもやっていれば本当に感謝の念がだんだん出てくるところ。

そしてそれがこの世のいたるところに入り込んで、自分に良きものが返ってくるのを実感する。

今は、実に恵まれていてありがたいと思える。そうではない場面でも感謝できるかな。

この世の感謝は、赦しとセットなのだ。

絵本作家展でいただいた言霊

2018-10-22

絵本作家の友人の『作家五人展』へ

昨日は、友人と『源氏物語』の一回講座に出た後、一緒に別の友人の絵本作家さんのグループ展を覗いた。

 今年でデビュー20年なんだという。

絵本作家だけで生活するのは難しく、他の仕事をやりながら作家業をやっている。初めは文章だけだったけど、数年前から絵も描いている。

えらいなぁ、と思う。

自分の旗をしっかりあげて自己表現し続けていること。

私はどこかしら自己表現にブロックがあるらしく、だれかに聞いたことをまとめることは数多くやってきたけど、自分の名前で発表したことはほとんどない。(このブログはそれに当たるかな?ちがうか)

だから、続けるのは厳しいと言いながら作品を出し続けている彼が、眩しく思えるのだ。

「出版社へ持ち込み」道を開く

私が彼と話しこんでいる間、友人は別の若い女性作家さんに「デビューのきっかけ」を聞いていた。

「出版社への持ち込み」なのだと言う。

ああ、そうだよね、そうやって道なきところを切り開いて、実績を積んでいくんだよね。

若い頃、世界を舞台にチャレンジしたいと思っていた、その頃の自分をふと思い出した。

最近の私は、気がつくと老い先ばかりを考えている。。。

その作家さんが描く世界は、やわらかくあったかく、明るくてまさに子どもの世界だった。

…思えば、私、自由なんだ!

私は、思いつきで惣菜店を作るなど無鉄砲なところがある一面、自分が本心で思うことを表現したり実行することには、驚くほど臆病でもある。言い訳ばかりしてきた。

自信が持てない。

まだ、キャリアが足りない。

今は…。

もう歳だ。

じゃあ、いつやるというんだろう?

そして、実のところ、何がしたいのだろう??

今、私は、自由なんだよぉーー!

「ネコの言霊」もらった、意味未だ不明

私の友人作家は、「ネコの言霊」という企画をやっていた。

ガラポンひいてその番号によって、それぞれ彼が手描きで描いた絵ハガキをくれる。「当てたカードが、今、あなたがもっとも必要としているメッセージ!」というもの。1回500円。

私は、その種のことは今はもう興味がなくなっていたけれど、彼の頑張りに1票投じるようなつもりで、やってみた。

出てきたメッセージは…、

「おとなりさん

フクローさんとミミズクさん」

ん?なんじゃ??

一緒に来た友人も引いてみたが、それは「愛されるために生まれてきた」という言葉が書かれた黒猫だった。

そういうのならわかるけど、

「おとなりさん」とは、何ぞや。

まったく思いつかない。これから起こる何かのヒント?

興味ないと言っていたくせに、言霊の解釈をあれやこれや謎解きしたくなるのだった。

ACIMレッスン216-レッスン196の復習

2018-10-20

メロン色のネグリジェ

おととい会った友人が、引っ越し祝いとしてネグリジェをプレゼントしてくれた。

料理上手で手づくりのパンやリンゴジャム等々も一緒にくれた。

さっそく昨日着て寝たら、ガーゼ地が軽くてやわらかくて着心地満点だった。

初見では、えっ、寝る時に蛍光色!?と思ったけど、メロン色。。。かわいい。

友人によると「若葉色」で、私のイメージカラーなのだとか。

そういえば、母にも幼い頃から「あんたは緑色が似合う」と言われ続けていたっけ。その緑はオリーブグリーンだった。

私、みどり??二人だけの統計では精度は低いけど。

黄色みがかったグリーン。平和でニュートラルでいい。

ちなみに好きな色はマゼンタ(ピンクに紫を混ぜたような色)。女性的で華やかな色。

自分の顔色に似合わないのは知ってる(^_^;)

レッスン216―レッスン196の復習

(レッスン196)私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

攻撃というのは(誰に何に向かってする場合でも)実のところは、自分に向けられている。

私たちが他者を攻撃する時、その根底にあるのは、神への恐れである。

神は罪ある者を罰する、だから神から自ら離れた罪ある者が罰せられるべきだと考えているのだ。

その恐れが、他者に投影され、批判や攻撃につながる。

しかし、神には一切罰するという観念はない。根拠もない。

神はいっさい関知しない。

神はただ在る。

他人を攻撃することで自分自身を救いだせるというわびしく絶望的な考えが、あなたを十字架に釘づけにしてきたのである。」(L196-5-1)

それは救済のように見えたかもしれない。しかしそれは、神に対する恐れが実在するという信念を表していただけである。」(L196-5-2,3)

批判している時、実は自分を責めている

世の中には間違ったように見えることや、理不尽なことが蔓延している(ように見える)。

そして世界は様々な問題をクリアしながら成長している(ように思える)。

その中で生きる私には、批判ぐせがついている。無意識に、悪いところや欠けたところに目が行ってしまう。

テレビでも新しい“スケープゴート”が現れると、一斉に非難の矛先を向ける。

だれかの“悪事”を裁いている時は、正義感も感じて少しの間いい気分でいられるし、つい同調してしまう。

でも、その批判や攻撃が実は自分に向けられているとは!!

他者を攻撃したり非難したい気持ちが湧いた時、この心理メカニズムを思い出すことができて、「私は自分を罰したいのだ、これは誤解だ、必要ない」と気持ちを手放せたら、一歩、愛に近づける。

赦しとは“キャッチ&リリース”

けど、至難の業だな~、とも感じている。

だって、実際に・・・ ことは起こっていて、この巻き込まれたトラブルをいかに切り抜けるかという現実感でいっぱいになっているから。

無意識から、批判や非難といったネガティブな気持ちが起こってきた時こそが、投影の引きもどしのチャンスだ。

赦しは、釣りでよく使われる“キャッチ&リリース”という言葉が合うと思った。

キャッチ(認識)し、

リリース(手放す)。

なんかいつも同じこと書いている気がするけど、

赦しに向けて、

今日の一日なるだけ遠くに行こう。

「人生は末広がり」ー友人の人生観

2018-10-18

友人と小石川植物園へ

きのう仲のいい友だちと会った。

いっしょにお昼を食べた後バスで小石川植物園に行った。東京ドーム3.5倍という広い都会のオアシス。平日だからか人はまばらだった。

ベンチに座って缶コーヒーを飲みながら、いろいろおしゃべりした。

いつも前向きで努力家の友人。

少し年下だけど、つい加齢や健康、老いじたくやこれからの人生の話になった。

そこで感じ入ったのは、友人の死生観だった。

人生は「末広がり」なものだと捉えているという。

そして、「死は避けられ感じられないもの」。だから、それまで毎日よいと思える日をこつこつ重ねるのだと。そして末広がりだと感じられるよう努力するのだと。

その口ぶりから、いわゆる死への恐怖は感じられず、あたかも死もステップの一つという感じを受けた。

その「前向きさ」は、まだ彼女が自身の死を現実的に感じることがないくらい若いからだろうか。

死とはオセロゲームで最後に逆転されるようなもの?

世の中に若さや健康を前提とした幸せや豊かさを象徴するグッズは、山ほどある。

だけど、いかに人生を豊かに生きられたかどうかは、晩年の人生観や姿勢が大きくものを言うような気がしている。

芸能人や著名人の方で、若い頃いけいけどんどんで(死語?)権勢、栄華を極めるも、最晩年に別人のようにきびしい死を迎える例がある(私の見え方)。

それは、まるでオセロゲームで、どんどん白(黒)を増やしていたのに、最後に角を取られて全部裏返されてしまってゲームオーバー!のように、私には見える。

それは、私が人生を勝ち負けや白黒といった二元論で見てしまいがちな証拠なのかもしれない。

人生を勝ち負けで見てしまうと、健康や若さは勝ちで、老いや死は負けになるだろう。

でもそう考えてしまうと、老いや死は誰にでも自然に訪れるものなので、みーんな最後は負け!になってしまう。

それでは、人生はなんとも儚いものになってしまう。浮かばれない。

そういう自分の考え方から、脱したいとどこかで思っていたから、知らず知らず『奇跡講座』に惹かれたのかもしれない。

罪悪感が少なく死への恐怖も少ない友人は、『奇跡講座』のことは知らなくても、私よりずっとコース(A Course in Miracle)の先を行っている感じがした。

道の行き方はいろいろ。

人生のこと諸々話せる友だちの存在がありがたい。

ACIMレッスン215-レッスン195の復習

2018-10-16

レッスン215―レッスン195の復習

(レッスン195)愛は私が感謝の内に歩む道である。

レッスン195には、愛と感謝のことが書いてある(ように思う)。

私は、未だ、「愛」がわかるようなわからないような。

好き、はわかる。

大事、はわかる。

愛おしいも、わかる。

離れたくない、もわかる。

それが愛? 情ではなくて?

とか言いだすとわからなくなる。

この世で愛と言われているものはその多くが、「所有権」や「執着」なのかもしれないと思い始めると、愛という言葉を使うのにも躊躇してしまう。

そういう私にとって、レッスン195は少し難しく感じられる。

私にとっては、感謝の方がわかりやすいから、愛はさておき感謝から学ぼうかと思っている。

他の人が苦しんでいる時に、わが境遇に感謝することは、感謝ではない

愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ真摯なものでありえる。」(L195-4-2,3)

これは、私たちが「自分の方がましだ」と他人の苦難を見て「感謝」しがちなことへの諌めだ。

感謝は他者との比較から生まれるものでは、決してない。

絶対的なものなのだ。

それは、神と自分との関係を表すものだから。

私たちが、他人と比較して一喜一憂してしまうのは、神の愛や豊かさ、よいことには、一定の量があり、それをみんなで奪い合っているという妄想があるからだ。

エゴが主導する幻想の世はそうかもしれないけれど、神はゼロサムゲームではない。

感謝は神との関係において、ただすること

私たちは一つのころについてのみ、父に感謝する。すなわち、行きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)

感謝とは、ただただすることだ。

それは、神への信頼を表すことだ。

そして感謝をすればするほど、副次的効果として豊かさももたらされるのだと思う。

それは、神と私たちの間を阻むかのような「雲」を取り払う行為に他ならないから。

神との関係がクリアになり、無限の豊かさ、愛、喜びに近づけるから。

なかなか抽象的で、掴みにくい話だけど。

感謝とは、愛の一つの側面にほかならない。」(L195-10-3の一部)

愛は感謝以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-6)

この二つのフレーズは心に残ったところ。

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