ACIMレッスン210-レッスン190の復習

2018-09-29

秋風にさそわれてバスに乗る

昨日は秋風が吹くさわやかな快晴だった。翌日からはまた雨模様だという。ふっと出かけたくなった。

でも、どこへ?

心がどこかに行きたがってるだけで、具体的にここに行きたいというのはない。考えたり段取りする気力もなかった。

もうすぐ4時。出かけるなら出ないと。

…で、ない気力を集めて考えて、外出先に選んだのが、バスに乗って行ける、おいしいと評判のパン屋さん。

これだったら、ちょっとした気分転換になる。おカネも使わないし電車よりも気負わなくていい。

…と、バスに揺られて初めての街へ。

けど、そのパン屋さんの住所を訪ねるも、見当らず。ビルはがらんどう。中を覗くとコンクリートがむき出しになっていた。

あれっ、まちがえたかな?と住所を確認する。

合っている。外観写真も間違えない。

スマホで「○○(パン屋さんの名前) 閉店」と入れて検索してみたけれど、情報はない。「食べログ」にも「おいしい」のレビューだけで「閉店」の文字はなかった。

キツネにつままれたみたい。でも、わざわざ訪ねた店がなくなっているというのが、今の自分に合っているんだ、と思った。

どこか、行きたかった。そのどこかはここだった。

仕方なくうろうろしていたら、ダイソーがあった。

おー、ダイソー!

ダイソーは旧居の近くにあってよく買物していたが、今は近所になくて、ダイソーがあればなぁ、と思っていたんだ。

うれしくなって、食器洗い用スポンジやお掃除シート、ホットケーキミックス、黒糖ピーナッツなどなど15点買った。

気づくと外はまっくら。買物袋を抱えてバスに乗った。3時間足らずの旅。

また台風が来るらしい。被害がないといい。

秋のうちに、本1冊持って一日どこかに行きたい。

レッスン210―レッスン190の復習

(レッスン190)私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

レッスン190には心強さを感じる。

私はどこかしら、苦しまなくてはならないと思っているところがある。で、苦しいのはヤダな、とも思っている。

それを「苦痛とは、間違った見方である。」(L190-1-1)「苦痛は自己欺瞞の証しである。」(L190-1-2)と言ってくれるから。

もしかしたら、苦しんでこそ、その分幸せになれる(なっていい)という観念は、私だけではないかもしれない。

世間にも苦労を美化する価値観があり、学校でも苦と楽はセットだと教えられてきた気がする。

でも、

苦痛とは、罪悪の想念が形となって現れたものであり、それがあなたの神聖な心をひどく傷つけている。苦痛とは、自由にならないためにあなたが喜んで支払った代償である。」(L190-8-1,2)

とACIMは言う。

罪なき心は苦しむことはできない

この世は想念を映した結果の世界。

原因の世界で、この世の喜び、幸せを妨げているものを取り除く。

元々が神のしあわせ、喜びの中にあったものを、自らの間違った想念で苦しみを掴んでいるわけだから、

一言でいうと、「自分で自分の邪魔をしない」ということか。

無罪の心が苦しむことはありえない」(テキストV-5-1)のだから、罪悪感さえ手放すことができたら、もっともっと喜びに満ちた世界を創りだせるかもしれない。

わざわざ、“苦しさ”“痛み”の重りをつけたくはない、と思う。

その一方、そういうことを考えている私って、人から見たら、すごくわがままな甘えた人間だよなぁ、と思う(これって罪悪感かな?)。とっても人に言えないーとも、思っている(こっちは恐怖感か…)。

や~~っと、ダンベルを再開、定着なるか

2018-09-28

運動の秋?

一度途絶えた運動習慣をもう一度定着させるのは、意外と難しい。

とくに元々怠け者で運動苦手、さらに年々体を動かすこと自体がおっくうになっている、私ならばなおのこと!

それが、、、やぁ~~っと、ダンベルを再開。昨日で3日目だ(ふぅ)。

今回は定着させることができるか?

そもそも、フリーランスで自宅で働いていたため、部屋Aから部屋Bへの通勤で済んでしまうため、あまりに運動不足だったのがきっかけだ。

10年位前GW帰省した際、早朝ウォーキングしていた両親に付き合ったらとても気持ちがよかった。

そこからウォーキングを始め、その後ダンベルのDVDを買い、昭和の香りがするセットを背にしたお姉さん達と一緒に毎晩約20分ダンベルをしていた。

血の巡りが良くなるからか、やると体がすっきりする。

だけど、忙しい、疲れた、ぎっくり腰になった、など何かの理由で2、3日休むと気づいた時には、習慣が消えている。そしてお腹周りにはお肉が(ということが何度か。そして今も…)。

関係するかどうかわからないけれど、去年は生まれて初めて健康診断で血圧値が引っかかってしまった。

ACIMでは肉体を重視すべきではないと言うけれど

ACIMでは、肉体は、エゴが神から分離した(と思いこんでいる)神の子に、無意識に渦まく恐怖感と罪悪感から逃げ込める場を与え、さらに個々の存在を示すことで分離をリアルに見せるための装置だとしている(解釈、大丈夫かな?)。

だから、肉体を重視すべきではない。肉体に固執することは、幻想をリアルに見せてしまい、手放すべきエゴの世界に繋ぎとめられてしまうことになる。

理屈はそうなのだけど、私は半年位前からワークをした時、ちょいちょい、「姿勢を良くすべし←そのために体幹を鍛えるべし←そのためにダンベルを再開すべし」という感じを受けていた(参考:4月17日の日記)。

このメッセージがACIMの聖霊からのものか、私のエゴなのかはわからなかった(未だに区別ができない(^_^;))。

聖霊さんが、肉体についてのそんな具体的なアドバイスをするもんかな?

でも、運動不足を自覚している者がちょこっと体を動かすことが悪いわけはない。

…、で、なんとか再開したのが、今年4月20日

しかし!あえなくその翌日にぎっくり腰になってしまい、再開二日目にして、また中断。その後慢性の腰痛持ちになってしまった。

それからはや5ヶ月…。季節は巡って秋だ。

やっぱり体幹、少しは鍛えるべきだよね。。。

そして、やぁ~~っと、再びダンベル再開。

くしくも?今は復習Ⅵの最中。復習Ⅵを貫く機軸となる概念が、

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから」(復習Ⅵ序3-3,4,5)というもの。

だけど、それとは矛盾しないよねぇ??と「私は肉体ではない、私は自由である」と声に出してリズムを取りながら、ダンベル体操をしている。

今度こそ、定着させられるか…。

自信、ない。

中秋の名月をながめて

2018-09-25

昨日は「中秋の名月」だとニュースで言ってた。

さてと、中秋の名月。よく聞くが、それは何ぞや?

中秋の名月…明治以前の日本で使われていた太陰太陽暦で8月15日の夜に見える月のことを指します。中秋の名月をめでる習慣は、平安時代に中国から伝わったと言われています。(国立天文台ウェブサイト

日本人は平安時代からこの季節にお月見をしていたんだ…

私もベランダから月を見上げた。丸くてぴかぴかしてとっても綺麗だった。スマホで撮ってみたが、輪郭がぼやけ月の独特の美しさは写せなかった。

9月は誕生日月だから、自分へのプレゼントに小さな月のライトが欲しいと思っていたけれど、必需品ではないから躊躇して結局買えないでいる。

一時期『ムーンマトリックス』という本に嵌っていた。そこには「月は人工的に作られた衛星で、人類の気分を操っている」と書かれていて、「え、まさか?」と思いながらも、それを信じていた。

その後、『奇跡講座(ACIM)』を学んで、月が人工物どころか宇宙自体が幻想ということになり、月が人工物かどうかはどうでもよくなった。

地球にぜったい裏側を見せないようにずっと廻っている月って、思えば不思議だ。

先週ZOZOTOWNを運営するスタートトゥディの前澤友作社長が、2023年民間人として初めて月旅行に行くということで、話題になった。

成功した起業家というのは、思いっきり外交的だから、関心がどんどん外側に向くんだろうか。ダイナミックな話だ。

私はZOZOTOWNで買物をしたことはないけれど、前から株を持っている。いきなりあかべこや、365日から始まるカウントダウンカレンダーなど不思議なものを送ってくる(引っ越しで全部捨ててしまった)。遊び心があってずいぶん余裕がある会社なのだなぁと思っていた。

去年いただいた大漁旗デザインのバスタオルみたいなものは、この夏私のお腹を冷えから守ってくれて、今も活躍している。

前澤社長の月旅行は正しくは、月の周りをくるっと廻る月の周回旅行らしい。

せっかく近く?まで行くのだから、廻るだけじゃなくて、月に降り立ってほしいな。で、また英語で笑顔でスピーチして…

ACIMでは、私たちが神の子であることはくりかえし述べられるが、あくまでひとりひとりの内面からの赦しが強調されている。

それはそうだけど、私はこの世の中を眺めて、いろんな人がいておもしろいなーと思っている。

月に行きたい人、テニスがすごーく上手な人、とびっきり美しい人、歳を重ねて味が出る人…、私は昔から人の「個性」というものが大好きだったのだ。

今はその好きな「人の個性」というものを手放しつつある、と気づく。

10月も中盤をすぎると、ハロウィン商戦で慌ただしくなる。それから、クリスマス…。

あっという間だな(別に世間に合わせる必要はないのだけど、影響を受けやすい)。

もうしばらく、静かで深まる秋を楽しみたいな。

ACIMレッスン209-レッスン189の復習

2018-09-24

えー、もう年賀状!?

暑さ寒さも彼岸までというけれど、あの猛暑の日々が遠くなり、朝は肌寒く感じることも。

お盆に帰省した時、母から来年の年賀状を作ってほしいと言われた。

「このくそ暑いのに?もー年賀状!?」とのけぞった。

何でも去年私が母用に作ったのが派手派手しくて好きじゃなかったらしい。ぎりぎりになってからでは落ち着かないと言う。

スル―していたけど数日前また電話で年賀状のことを話していたので、昔ながらの絵柄のをデザイン案を2パターン作り官製はがきに印刷して出してきた(ほんとはイノシシのイラストがいいんだろうけど、母のいう昔ながらのが見つけられなかった)。

郵便屋さんは「謹賀新年」の文字を見て、何事かと思ったかな?いちいちそんな反応しないか。

母は昔からいわゆる仕事ができるタイプで、何でも前倒しで片づける。大事なことでも先延ばしして現実逃避しがちな私とは対極だ。

平成31年ー平成最後の年賀状。

平成の次の元号の時代には、年賀状なんてものが消えているかもしれない。わざわざ紙で挨拶ってー、と。

母にはそんなに生き急がないで、と言いたい。

レッスン209―レッスン189の復習

(レッスン189)私は今、自分の中に神の愛を感じる。

私たちには、幻想を通り越した心の内に、神の愛を宿している。

しかし、それは大概この世の暮らしでは忘れられている。

神の愛は、この世を愛で照らす光である。

この光を通して見れば、世界は愛で溢れたものとなるが、この光が感じられなければ、この世は攻撃や憎悪に満ちたものに見える。

あなたは何を見たいだろう。その選択はあなたに与えられている。だから、「人は自らの内に感じているものを見ることになる」という知覚の法則を学び、自分の心にそれを忘れさせてはならない。」(L189-5-1,2,3)

そして、レッスン189では、その内なる愛に到達しようと努める。愛と愛がもたらす視覚を感じようとする。

その方法は、「あなたの心が、真実だとか偽りだとか、よいとか悪いとか思っているすべてのもの、価値があると判断する想念、あるいは恥じているすべての概念を取り去り、あなたの心を空にしなさい。」(L189-7-2)

求めなさい。そして、受け取りなさい。しかし神にあれこれと要求してはならない。」(L189-8-5)

わからなくていい、心を空にする、受けとる

私はこの世を幻想と見ることには熱心だったけれど、愛する、愛の目で見る、愛を運ぶ、といった点についてはあまり意識を向けてこなかった。

私には「愛」という抽象名詞が遠い。好きだ、優しい、あったかい、愛おしい、はまだなじみがあるけど。

つまりは、愛がわからない。

でも、「あなたへの道を知っているのは神のほうではないだろうか。あなたが神への道を知っている必要はない。」(L189-8-1,2)という。だから、ただ、心を空にして自分で自分の邪魔をせずに、求めよう。

神に至る道はただ神を神のままに在らせることである。そのようにしてあなたの実相も宣言されるからである。」(L189-8-7,8)

心を空にする、秋。

これが難しいんだな~、つい過去を振りかえったり四の五の分析したくなっている。

「6月20日」

2018-09-22

自分をふりかえりたくなる秋

たまに、あれっ、なんで私ここにこうしているんだっけ?

と、自分をふりかえりたくなるときがある。

あんなに暑かった夏が過ぎ、誕生月ということもあってか、ちょうど今がそんな気分だ。

『奇跡講座』を知る前と後では人生変わったな、と思う。

その瞬間はわからない。だけど、引きで見ると、あれはターニングポイントだったと思う、そんな出来事のひとつだ。

6月20日は節目日!?

そこで気づいたこと。

意を決してACIMワークを始めたのが、2013年の6月20。

敬愛する父が亡くなったのが、2015年6月20日。

そして、昨年末引っ越しを思いつき、ありがたいことに旧居を買ってくれるという方が見つかって、その売却契約をした日が今年(2018年)6月21日。

いろんな節目があるからこじつけとも言えるけど、どうも私は6月20日前後に自分に影響がある出来事が起きやすいパターンがあるようだ。

父の命日とマンション売却日のつながりは意識したことがあったけど、ワーク開始日までは意識したことがなかった。

あの母が上京してきて契約した日、ワーク開始から丸5年が過ぎた時だったんだな、と感慨深く思った。

今はもうMy course in Mirackeの6年生か。

少しは進んでいるのか否か。

理屈はなんとなくわかったけれど、もっとも大事な赦しの実践はまだまだだ。

水泳の理論を本で学んで、でもいざ水に入って顔に水がかかっただけでビビって結局畳の上でバタバタ手足を動かして泳ぎを習得しようとしている人みだいだ。

赦す機会があってこその学びだから、快適ゾーンに籠ってばかりいてはだめだなぁ、と。これは2年前くらいからずっと思っている。

 

ACIMレッスン208-レッスン188の復習

2018-09-21

「なぞの出荷メール」のその後

おととい来た「身に覚えのない、なぞの出荷メール」の「お荷物追跡番号」にはリンクが付いていた。

知らない所からのメールのそういうのは押しちゃいけない、と思ったけれど、実存する配送業者名のようだしどうにも気になって今朝iphonからポチっと押してみた。

実際の荷物の追跡ページに飛んだ。そして、

「Delivered(配達済み)」と。

えっ、配達済み?いつ?

てか、どこに??

配達時間は、September 20,2018 at 3:03pm

お届け先には、NEW YORKという表記と番地が…。

「Tracing History」には、日本の宅配業者と同様、出発地の場所と時間と営業所など途中の経由地の発着も記載してある。

よくわからないけれど、荷物は無事配送されたらしい。

? ? ?

私は手配した記憶がないのだから、誰かが私のメールアドレスで手配して、カリフォルニア州のビスタというところにある会社からニューヨークへ何かを送った、らしい。

(・・?

ぶきみだ。

でも、深追いしないことにしよう。

これからも送られてくるようだったら、その時に考えよう。

レッスン208―レッスン188の復習

(レッスン188)神の平安は今、私の中に輝いている。

…でしょうね。

その神の平安は記憶から遠くて、かすかに細ーいクモの糸みたいなものでつながっているかいないかくらいの、心もとなさだ。

それでも、私が『奇跡講座』に惹かれたのは、それが真実だと感じたからだ。

この世の中は不合理なことや無意味に見えることばかりだったけれど、『神の使者』や『奇跡講座』を知って、それが言うことを受け入れると、スッキリパズルのピースが嵌る。

たぶん、そうなんだろうと思う。腑に落ちる、という感覚。

悟りとは認識にほかならず、変化のことなどではない。」(L188-1-4)

これもそうか、と頷ける。

ただ、その認識がとっても難しいんだよなぁ。

いっくら、この世も自分の体も幻想だって言っても、空気も水もまた幻想で、そういうものがここに自分としている間、やっぱり要るし。

お腹だってすくし、痛いのやだし。

その認識の変化には、うんと真剣な長い訓練がいるのだ。

訓練の間には、エゴがガタつき大騒ぎする。

今は、その両方の間を行ったり来たりしている感じなのかな?

というより、どうひいき目に見ても、圧倒的にエゴがまだ優勢、ほぼエゴに牛耳られている。

それでもACIM的なものから離れるとフェイドアウトしてまったく忘れてしまうから、離れないようにすることをやっている。

昔、羊毛ボウルを作るというワークショップに出たとき、ボウルの芯になる部分をしっかり作るのがコツと聞いた。

それを思い出す。

今世は芯づくりだけで終わっちゃうかもしれないな。

彼は自分の中の真理を認識したからこそ赦すのである。神の平安は、今あなたの中に、そして生きとし生けるものの中に輝く。静けさの中でそれはあらゆるところに認められる。あなたの内なる視覚が眺めるものが、すなわちあなたの宇宙についての知覚だからである。」(L188-5-4,5,6)

いつか、こういう視覚を手に入れて、この世を眺めてみたい。

神の平安は今、私の中に輝いている。

その平安の中で、すべてが私を照らしますように。

私が自分の内なる光により一切を祝福できますように。」(L188-10-6,7)

身に覚えのない、なぞの出荷メール

2018-09-19

知らないとこから、出荷メールが来た

今朝、メールチェックしたら、kateという知らない女性からメールが来ていた。

Hiに続いて、私の名前。そして、

「Your order was shipped by Priority Mail service. Here is the tracking #○○○○○○.
Thank you for the order.

Regards,」

??

自動翻訳のボタンを押してみたら、

「ご注文は、プライオリティメールサービスによって出荷されました。追跡番号は#○○○○○○です.
注文ありがとうございます。

よろしくお願いします。」

へっ???

注文!?私が?

発送地はアメリカカリフォルニア州ビスタの会社となっている。

最近とみにボケているとはいえ、まさか私、注文してないよね?

何かのいたずらとか詐欺のメール?

でも、少なくとも先方は私の名前やメールアドレスは知っているってことだ。

会社名で検索してみる。

その会社のサイトがあって、住所はメールのものと同じ。電話番号も合ってる!

追跡番号の記載した配送サービス会社も実在するみたい。。。

何か送られてくるのかな?不気味だ、まさか私が注文?

えーっ!私ー、注文?(゚o゚;) 

何を?

それはどこに送られてくるの?

おカネはどうなっているの?

もうすでにカードかなんかで支払われているの?

以前ネットバンキングで詐欺未遂にあったことがある。その時は怪しく感じた銀行の方から「中国のリさんに送金しましたか?」と確認の電話が来て、「リさん?いいえ知りません」となって、振込直前でストップされ事なきを得た。

まさか、まさか…もう、支払われているの?

慌てて今使っているカードの利用明細をそれぞれネットで調べてみたけど、了解済みのものだけだった。現段階では使われていないらしい。

代引きなのかな?

えー!

「ご注文は出荷されました」という前に、「ご注文内容」をお知らせするメールが欲しいよ。

「送りつけ商法」というやつなのかな?

||´・д・)

でも、まだ送りつけられてもないのに、誰に相談していいのかもわからない。

会社名と「送りつけ商法」を併記して検索してみたけど、ヒット数:0

このまま、何もなくファイドアウトしていくのかな?

そうだったらいいけど。

いや、よくないか?

なんか来ちゃったらどーする??

この世のすべては、実は自分がプロデュースしているのだ、と言ってみても、ここにいる生身の私はあずかり知らぬことばかり。

ちょっとしたことでも、ひとりでドギマギ。あ、これも、もちろん赦すべきことなんだろうけど。

ACIMレッスン207-レッスン187の復習

2018-09-18

レッスン207―レッスン187の復習

(レッスン187)私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

ここでは、この世での知覚と真の知覚の違いが述べられている。

・この世 ⇒ 持っているものを与えるとなくなる

・真理の世界 ⇒ 与えることは増やすこと

この理屈がなりたつのは、この世にある形あるものは、それを作り出す想念を表現しているから。

なので、

・形あるもの → いずれ、変化する、なくならない

・想念 → なくらならない。与えることで強化される

となる。

実は、与えている相手は自分である。

神の子である私たちは個々それぞれが存在しているかのように見え、そのそれぞれの角度からこの世を見ているが、本当はひとつだから。

もし、犠牲という概念があるようなら、誤っている。それは赦すべきこと。

その奥には、神からの分離という誤解と、それがもたらす恐れがある。

私たちは、自らを祝福する。

だから、その目に映る世界は祝福されたものとなる。

ACIMワークを知ることと実行することの間に乖離あり

自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それを守りなさい。」(L187-4-1)

喜んで与えなさい。それにより、あなたはただ得るのみである。想念は残り、与えることによって強化され、さらに強力なものになる。」(L187-5-1)

とあり、これらの文言には、なるほど~と思うけれど、いざ実行を迫られると、その信念はふにゃふにゃなものだと気づく。

数年前元だんなさんに大金を貸していた時、なかなか約束通りには返されず(それができない状況にあったらしい)、「ACIMの教えによれば、これは“手放すべきもの”では?」とも考えたけど、そうは簡単には手放すことはできなかった。

その時は、その背後にある想念もまた、彼への執着だった(このレッスンの例としてはふさわしくないとも思うけど、なんとなく思い出した)。

その執着とは、彼に投影した私自身のエゴへの執着だったか。

特別の愛と、特別の憎悪と、おカネそのものへの執着と、赦すべき事柄のオンパレードだった。

今もそんなに変わってないかな?

赦して穏やかになったというより、対象が遠ざかったから反応しなくて済んでいるだけというのが、正しい気がする。

そして、今もいろんな不安や恐怖感がある。

神への恐怖をこの世に見ているんだと思う。

それでも玉ねぎの皮を剥くように、少しは落とせてきているんだろうか。

ワークブックを読んでいると、とても私にはできそうにないことばかり書かれていて、空恐ろしくなる。。。ことがある。

恐怖感がつよいタイプ

2018-09-17

秋…旅もいいかも?

秋口に入って、いろんな方の旅の話を聞くにつれ、「あ、いいな、私もどっか行きたいかも」と思った。

これまで「旅」というのが私に入ってこなかったのは、引っ越ししてこの方自分があたかも旅をしているような非日常的な気分だったからだ。そして、「旅もいいかも」と思ったということは、ここに慣れてきて、いつしか日常モードになっているんだな、と気づいた。

恐怖心がつよいタイプ

話がまったく変わるのだけど。

私は恐怖心がつよい質だ。

とくに、(怖いものが)来るぞ、来るぞ、という感覚にめっちゃ弱い。

若い頃は、お化け屋敷で入ったとたんに足がすくんで固まってしまい、おばけ役のお兄さんも呆れるなか、一緒に入った同僚に引きずられてなんとか出てきた。

「もー、おばけより、たまちゃん方がよっぽど怖いよ」(ごめん…)

歯医者さんも怖いものの一つで、恐怖のあまり途中で治療放棄して以来虫歯の進行を知りながら、10年以上歯医者さんに行けなかった。

意を決して(もうどうにもならなくなって)歯医者さんに行ったのは4年前。すでに『奇跡講座』のワークを始めていたが、その時も恐怖感はすさまじかった。

あのウイーーンと歯を削る?耳元の金属音に恐怖と緊張がMaxになっていまい、その緊張状態に耐えられない。30秒くらいで一回スイッチを切ってひと息つかせてほしいのだけど、その要望がうまく伝えられなかった。

歯医者さんは、「痛かったら、左手をあげてください」とおっしゃる。

私が恐怖でもうどうしようもなくなって、左手をあげたら、機械を止めてくれた。けど、

「あれ、でも、これ、もう神経抜いちゃってる歯だよ。痛むはずないじゃん。騙されたなぁ、もう」と言って、口を開けたままアワアワしている私ヾ(゚□゚;)ノに対して、それからは手を挙げても、騙されることなく、ガーッ、ガーッと削り込まれて失神しそうだった。

ワークを続けていけば、恐怖を感じなくなるかな

心の拠りどころは、若くてチャーミングな歯科衛生士さんで、いつも膝かけをお願いしてた(それがあると、すこーしだけ安心できる)。

ある時、歯石を取ってくれていた歯科衛生士さんが、

「あれ、たまさんて、痛みに弱いのかと思ってたけど、そうじゃないんですね。むしろ強いかも、これ、絶対痛いと思うけど?」とおっしゃった。

痛いといえば痛いけど、平気だよ。怖くはないから。

痛いのと怖いのがごっちゃになっていたけど、そういえば、「金属音が耳に響いて、鋭い痛みが来る、来る~」というがだめだけど、鈍い痛みには意外と強いのかもしれない。

どっちにしても、こういう私は、「神との分離」と「その神による罰」という幻想が無意識にしっかと根付いているだろう、と思う。

一方で、ワークを始めたおかげで、無意識のなかの恐怖心がすこーし減ったからこそ歯医者さんに通い出すことができたんだよなぁ、とも思っている。

いつか精進して精進していけば、怖いという感覚も減っていって、歯医者さんやお化け屋敷も平気になるかな?

できるなら、もう二度と歯医者さんには行きたくないと思っているくらいだから、まだまだ道は果てしない…

ACIMレッスン206-レッスン186の復習

2018-09-14

攻撃を感謝で交した大坂なおみさんって、すごいな

テニスの全米オープン女子シングルスで優勝した大坂なおみさんが、帰国された(いつもはどこに住んでおられるんだろ?帰国でいいのかな?)。

 
 
 
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一躍時の人になって大人気だ。

日本人(だけじゃないだろうけど)の心の刺さるのは、やっぱり決勝でセリーナ・ウィリアムズさんに勝った後のコメントだ。

I know that everyone was cheering for her and I’m sorry it had to end like this.....

I just wanna say thank you for watching the match. Thank you.

(みんながセリーナを応援していたことは知ってます。こんな終わり方ですみません。ただ、試合を見てくださって、ありがとうございます。)」

あれだけ大きな会場で大勢の人の不満(攻撃性)が渦巻くなか、そのフックには引っかかることなく、感謝だけを述べられた。

その対応にふいを突かれ、瞬間みな正気を取り戻した気がする。振りかざされた剣は下ろされた。

なかなかできることじゃない、と思う。

およそ邪気がない。

飾り気もなく、これがこの人の質なんだろう。

すごいな。尊敬する。

ワークで始終「赦し、赦し」と唱えながらも、電車で人に押されただけでも一瞬えっ!?と反応してしまう私。見習わなくては。

人は歳を重ねて成長する、っていうけど、そうとは限らないな。

いくら努めても、私はあの精神性には届きそうにない。

トップレベルでの勝負の世界にいながらも、そこから一歩離れれば謙虚でシャイ、無邪気。

それってやっぱりすごいことだなぁと思う。

トップになってもそのまま変わらないでいてほしいな、なんていうのは、まったく余計な杞憂だよね。

レッスン206―レッスン186の復習

ワークのダイアリーを書くつもりが、前段が長くなってしまった。

(レッスン186)世界の救済は私にかかっている。

えらく大げさな言い回しだけど、この理屈は、私には信じられる。

私自身の想念が映しだして見せてくれる世界なのだから、と思えば。

ただそう覚えていられるのは、自分が何かの渦中に入るまで。

渦中に入ったら、それが小さな渦でもたちまち飲まれてわからなくなってしまう。

あなたはあなたの自己像のように弱くはない。」(L186-6-3)

今回改めて、レッスン186を読んで印象に残ったところ。

そうかな?

私は、学習し出した頃よりACIMの理解度は深まっているとは思う反面、仕事もしておらず社会的な立場がなく、逆に(社会的には)自信がなくなり萎縮している。だから、これが気になったのかな。

自信が持てず萎縮している自分というのは、ACIMでは「傲慢さ」となるんだろうか。

聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。それが消え去るままにしておきなさい。」(L186-7-2,3)

聖霊の考えとエゴの考えはあまりにも違うから、私は今や両方のマーブル状だ(それとも、どちらでもなくまったく間違えたところに入りこんでいるのか…)。

どういう価値判断が正しいのかわからない(判断がエゴのものだとしても、それなくしてはここでやっていけない)。

秋口のせいか、揺ぐ。考えがまとまらないけれど、ともかく目先のマイプロジェクトを進めようと思う。

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