実家でもエゴトラップにまんまと引っ掛かる

2018-08-17

実家でワークブックを開くも…

帰省前は、家でACIMワークを進めようと、ワークブックをコピーして持ってきた。

しかし、実家では、ほとんどできなかった。

意志が脆弱なためか、実家の空気に飲まれてしまい、その気がなくなってしまう。

母は半分独り言のように、床に就くまで話しかけてくるから、自分の考え自体がまとまらなくなる、というのもある(これを私は「脳ジャック」と呼んでいる)。

今朝こそはと「仕事をするから、しばらく話しかけないでね」と、物置として使っている部屋に入ってドアを閉めたが、まもなく「ちょっと~」と声をかけられて中断。

「なぁに~?」と声を上げると、

化粧をしながら部屋に入ってきて、「日焼け止めって、化粧した後から塗ってもいいかな?」ときて、ずっこけた。

「どっちでもいいんじゃない?」

「そうやね、わかった」と部屋を出ていった。

4,5日ならいいけど、母と一緒にずっと住むのはやっぱり難しい、と思う。

赦すべきお題はちゃんと提示されていた

そうして、再びワークに戻ろうとした時、ようやく気づいた。

母の横やりは、私のエゴの横やりに他ならないと。

それに対して私はいつもイライラしてしまって、まんまとエゴトラップに引っ掛かっているのだ。

それこそが、今ここで赦すべきお題として出てきていたのだった。

実家が、私のACIM(A couese in miracles)から遠いと思っているのは、ACIMをコントロールしたい私のエゴなのだ。神は常にそばにいる。

今朝は猛暑から一転、初秋を含んだひんやりとした東風が窓から入ってきた。

その風の感覚が、生まれてから18年、この地に住んでいた記憶を呼び起こした。

体の細胞に眠っている無意識が揺り動かされる感じ。

ここにも、まだまだたくさん赦すべきことが、眠っている。

老母と老娘、水族館へ

2018-08-16

高校野球、高岡商業、第3回戦

今日は、高校野球、富山県代表の高岡商業の三回戦があった。

テレビの前で手に汗にぎって応援した。

これまで関心も持ってなかったくせに、「ベスト8に入って」と願った。

が、惜しくも3-1で、大阪桐蔭(北大阪)に敗れた。

ざんねん!

でも、よく頑張った。とくにピッチャーの山田君が印象的だった。すっかりファンになった。

高校野球というのは、何しろ球児たちの顔がいいんだな。邪気のない前向きな表情を見ているだけで、心が洗われる。若さはピュアで美しいと感じた。

こういうふうに惹きこまれたのも、富山県勢が活躍していたからかな。

母と、水族館へ

富山市で最高気温38.1度を記録した昨日、母と小さな遠足に出かけた。

県内唯一の水族館、魚津水族館に出かけたのだ。

規模が小さな古い水族館だし、寂れているのかと思ったら大違い。お盆シーズンだけあって、小さなお子さんを連れた親子連れでずごく賑わっていた。

飼育員さんたちの手描きのPOPや心がこもった接客がいい感じ。

おしゃれじゃなくって、こういう、ふつうの、昔ながらの水族館がいいんだよな。

珍しい海の生き物に、母はいちいち驚いている。

大水槽ではダイバーさんが潜っての餌やりタイムがあった。

エイは右利きのダイバーさんが餌の小魚を口に入れやすいように、左サイドから体を傾けてダイバーさんに近づく。

それを見た母は、

「エイってなんて賢いがー、頭いいね」(ただ口を開けてやみくもに泳ぐブリとは大違い)と、しきりに感心していた。

子どもの頃、親とこういうところに行ってこういうことがしたかったんだな。当時は両親とも自営業で忙しかったし、親と出かけたよい思い出がない。

友人たちに孫ができるような年齢にもなって、私はまだ満たされなかった子ども心を埋めようとしている迷子みたいだ。

最近は、童心に帰ってはしゃぐ母に、ふと自分が親のような気持ちになっていることもある。

老母と老娘という場違いな二人連れではあるけれど、昔ながらの水族館で和やかなひと時が過ごせて、癒された。

所要時間約4時間。それで50年前に願っていた時間を拾い集め、私の内なる子どもがうれし涙を流さんばかりに喜んでいる。

ありがとう、お母さん

今朝、お墓からお花やお供えものを撤収。2018年のお盆も終わった。

母はお墓に向かって、

「お父さん、私まだそっちには行かんちゃ。まだまだ元気でこっちにおるわ」と声をかけた。

私はほっとし、心強く感じた。

今回の帰省では、母に感謝を伝えたいと思っていたけれど、なかなか口には出せない。

一回ごとの家事や、気遣いに対して、「ありがとう」と言うのが精一杯だ。

ほんとうは、もっと大きな「ありがとう」を感じている。

子どもの頃は、厳格で怖い母を嫌い憎んでいた。だからこそ、そう思えるようになったことが、なにより、ありがたい。

ACIMから最も遠い場所、実家でお盆を過ごす

2018-08-14

実家でお墓参り、高校野球

日曜夜から富山の実家に帰省している。

お墓参りをして、仏舎利塔にもお参りに行ってきた。家の仏壇に精進料理をお供えし、お寺さんの和尚さんが家に読経にも来られた。昔ながらのいろんな風習が残っている。東京とは別世界だ。

昨日は、高校野球、富山県代表の高岡商業の第二回戦で、長野県代表の佐久長聖との対戦を観た。にわかに郷土愛を刺激され、母とテレビの前で手に汗にぎって応援した。

5-4で競り勝った時は、「やったー!」と高揚した。富山県勢が二回戦突破できるのはそんなにはないことだ。第3回戦は、史上初2回目の春夏連覇を目指す大阪桐蔭(北大阪)。勝ったらすごいな。気合が入るなぁ。

普段、勝負事は二元性の最たるものだと思い、わりとクールでいるけれど、そんなことはすっかり忘れ、純粋に「勝てー」となり、それが楽しかった。

夕ご飯は、お刺身や煮物を食べながらお酒を少し。

母と二人だけではあるけれど、なんだか「真っ当なお盆の過ごし方」だな、と感じた。

実家…最もACIMから遠い場所!?

私にとって実家は、最もリアリティがあり、最もACIMから遠い場所だ。

ふだんACIMのワークブックで繰り返し唱えているようなことはすべてぶっ飛び、朝から夜まで話しかけてくる母が私の世界になる。

そして、普段遠ざけている罪悪感と恐怖が浮かび上がってくる場所でもある。

結婚もせず孫の顔を母に見せることもなく、家やお墓を継ぐ人も残せないことに対して、後ろめたさや情けなさを感じてしまうのだ。そして、もっと別の選択肢を選んでいたら、今頃もっと母を喜ばせられたのではないか、と後悔の念が湧いてくる。

高齢の母は、ここが痛い、あそこが辛いと言い、年々小さくなっていく。年の割には元気な方けど、いずれは別れがあるのだ。普段遠ざけていることを思い、そのことに不安や言い知れない恐れを感じてしまう。

いずれもエゴの大好物だ。

東京でひとり暮らしをしている時には、ワークをやって頭で理解できたつもりのことが、ここでは曖昧になりわからなくなってくる。

罪悪感も恐怖も幻想だし、「神からの分離」というお決まりのテーマの、私バージョンを見ているのだと知ってはいるつもりけれど、事が母のことになると、あっという間に複雑な感情に巻き込まれて訳がわからなくなってしまう。

家族、とくに親は、最も神様を投影して見ているのだと思う。だから、恐怖と罪悪感が近いのだ。

たとえ幻想であっても、母にはなるたけ長く元気でいてほしいし、できるなら喜ばせたいと思う。

こんなふうに実家に来たら、ふにゃふにゃになってしまうから、少しは勉強が進んだつもりでも、まだまだまったく机上だけだったな、と思う。

何しろ、いい歳をして、私の心はまだまだ甘えたりない子どものようで、年老いた母を前にしても、そういう感情が出てしまう。

やれやれ、なのだ。でも、こうやって過ごしたお盆に幸せだなと感じているのも、また正直な気持ちだ

ACIMレッスン197-私が得られる報酬は、自分自身からの感謝のみである。

2018-08-11

昔からの友人とのパフェは青春の味!?

汗かぶれは、専門の塗り薬「アセムヒEX」を塗ったら、劇的に改善、かゆみが気にならなくなった。ほーっとひと息。

昨日、20代からの友だちと3年ぶりに会った。

入ったのはフルーツパーラー。高価だから、ふだんの私の脳にはない選択肢だ。

桃のパフェとコーヒーのセットで、1,400円。フレッシュな桃がとってもおいしかった!

何層にもなったフルーツとクリームがきれいで、二人とも思わずスマホを取り出して写真を撮った。

「20代の頃、インスタあったら、私たちもやったよねー」と私。

「うんうん、ぜったい。」と友人。

そして、「今のコは、仲いい友だちが自分にぜんぜん声かけないで、別の友だちといろんな所に遊びに行っているのとかも、Facebookやインスタで丸見えで、それもなかなか大変だね」という話になった。

確かに。

またSNSを通して自分を見せるのも自分活動の一環で、神経使いそうだ。私なんかも、インスタにアップするためにどこかに出かけたり何かしらのイベントに参加したりしてしまいそうだ。

今や、そんな見栄を張るエネルギーは残っていない。

暑い中出掛けて戻った後は、2時間くらい動けず横になっていた。

何年ぶりかで会っても一週間ぶりぐらいな感じで話せる。お互いの若い頃を知っている友だちって貴重だなと思う。

ACIM197-私が得られる報酬は、自分自身からの感謝のみである。

この世は、自分の想念の映し鏡のようなもの。

この世で、自分が何かしらしていること、すること、その相手は、実はすべて自分だ。

相手と自分はひとつなのだから。

リアルには神の延長である私たちしかいない。

この世という想念フィールドの中で、私たちは、それぞれの考えを投射して見ている。

レッスン197には、この世で捧げる感謝やギフトについて書かれている。

面白いと感じたのは、最初のほうの「あなたは親切になって赦そうと試みる。けれども、外側に感謝の気持や、あふれんばかりの謝意を見いださない限り、再びそれらを攻撃に変えてしまう。」(L197-1-2,3)というところ。

この世で私たちが言う「思いやり」や「ギフト」や「感謝」は、大概これだ。

気づかいや感謝に対し、同じような気づかいや感謝で応えられないと怒りだしてしまい、すぐさま撤収してしまう。

なんとも身勝手だけど、そうだ。

でも、「ほかの人があなたの贈り物に価値がないと思ったとしても、それは問題ではない。その人の心の中には、あなたに感謝してあなたの心とつながっている部分がある。」(L197-4-1,2)

すべての贈り物は唯一あなた自身に与えられるので、神に捧げられ、神はあなたが捧げるすべての贈り物を祝福する。」(L197-5-1)

相手の反応は気にかけず、結局は自分に与えているのだから、安心して与えなさい、という。

自分の幻想を赦す時、私は感謝を循環させ、その感謝は自分に返る

あなたが自分の幻想からこの世界を解放するとき、世界は必ずあなたに感謝する。しかしこの世界の解放は、あなたの解放を反映することしかできないので、あなたの感謝もあなたのものである。」(L197-3-1,2)

すごく抽象的で、説明が難しい。でも感覚的にわかる、と思う。

自分が与える贈り物を取り下げるなら、あなたは自分に与えられたものが撤回されたと思うだろう。そうではなく、自分の外側に見えていると思っている罪を、赦しに取り去ってもらうことを学びなさい。

そうすれば、神からの贈り物を、死によって取り上げられるまでのわずかな間だけ貸与されるものだとは、決して思わなくなる。」(L197-6-1,2)

心に響いたところを書きだそうとしたら、全部になってしまいそうだ。

要は実践。

この概念を決して信じてないわけじゃないけれど、いざ場面に遭遇するとまだまだ躊躇してしまう。

ACIMレッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

2018-08-08

今晩から明日にかけて台風13号が関東にも上陸するだろう、要注意とのニュース。ここ数日と打って変わって涼しい。

異常気象が続いているなかでも、今年はその異常さが際立っている。何事もなく過ぎてほしい。「無事」が有難い時代になった。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

この世は、神から造反したと思い込んでいる私たち神の子が、エゴから唆され、怖ろしい神からの隠れ家として作り出したものだ。しかし、それは勘ちがいにすぎない。

この世は、自らが上映している映画にすぎない。

一見ばらばらの身体を持っているように見える私たちは、実はひとつであり、ただ神の延長である。

神に対するすさまじい恐怖と罪悪感パニックから、本当のアイデンティティ-罪なき神の子であるという-を取り戻す訓練が、このACIMだ。

この理屈に従えば、レッスン196もすんなり理解できる。

私たちは常に、自らの罪悪感を投影できるスケープゴートを求めている

ただ頭で理解しても、水面下にある氷山のごとく私たちから知覚できない無意識には、計り知れないほど深い恐怖と罪の意識が眠っている。

私たちは、これを見たくない。

あまりに怖いから。意識の上にあげるのを拒む。

無意識にあるものは、否認するがゆえに、自分以外のものに投影される。

だから、私たちには常に「責めるべき悪い人、悪い事」を無意識のうちに求めている。

テレビのワイドショーやニュースは、次々と私たちが、私たちの恐怖と罪を投影できる対象を提供する。

それを見ている時は、私たちは、正義の味方でいられるし自分の罪を直視しなくていいから。

でも、様々な悪に見える根源は、私たちの心の中に気づかれずに在る神への恐怖心と罪悪感だ。

これが、心の表面に出てきた時、つまり嫌なことに出くわしたり、誰かに許し難いことをされた時に、「これは本当ではない」と気づき、赦すこと。

理屈を理解した上で、その機会が訪れた時に、赦すこと。

これだけが、恐怖を減らして真実に近づく方法なのだ。

過去ノートを開いてびっくり、一回目のレッスン196は修羅場の渦中だった

今日、ふと、1回目にこのワークをした時はどんなだったのかな?と、古いノートを取り出してみた。

で、びっくりした。

私は修羅場の渦中にいた。

私にとっては長い話で、端折ると、

20代の頃に結婚してすぐに別れてしまった元だんなさんが、

私が当時書いていたブログを発見して(もちろん名前も住所も書いていなかったが)、ここら辺りにいると当りをつけて会いに来た(私から一方的に別れ、未消化の感情があったのかもしれない)。

そして偶然(私はそう思っていた)、20年ぶりに再会。

その後、短いあいだ再び恋愛関係に。

その後疎遠になるも(振られた)、ある時再び現れ、私はおカネ(大金)を貸してしまう。

私は彼に未練があって、その下心もあって貸したのだ。

でも、思うように返済されず、当然のことながらそれで恋愛がうまくいくはずもない。

私には、軽んじられて利用されている感があって、その怒りの感情を彼に爆発させたのが、2015年1月末、レッスン196のワークの日だった。

その日のノート。

「大爆発してしまった。すごく責めてしまった。

ACIMと真逆のことをした。

自分で自分の首を絞めた。」

と乱暴な字で書いてある。

もっとも大きな赦しの機会

そして、

「私は赦す、だからこれは消えていく」

ともあり、マーカーで囲んでいる。

あ゛~、あの時…。

頭と感情が真っ二つだった。

あれは、ACIMを学び始めて、もっとも大きな赦しの機会だった。

今だって全部赦せているかどうかわからない。それほど感情を揺さぶられる相手であり出来事だった(おカネはその後全額返してもらった)。

でも、考えてみれば、彼は私の内なる罪悪感の投影の引き受け人で、彼がいなくては無意識はそのまんま温存される。

私にとってはソウルメイトであり、感謝すべき人なんだ。

レッスン196の最近のワークについて書くつもりが、たまたま過去ノートを見て、よみがえった感情。

これも偶然じゃないんだろう。

未だ赦すべきものがあるからだろう。

赦すべきことに気づいたら、なるたけ赦そう。

レッスン196の締めの文

あなたの心が十字架に欠ける対象とすることのできる相手は、あなたしかしない。しかし、あなたの贖いもまた、あなたから訪れる。」(L196-12-5,6)

 

背筋を伸ばし、肩を下げて胸をひらく

2018-08-07

「姿勢を正せ」というメッセージ

「聖霊の声が聴こえないと言うのはやめよう」っと決めた。聖霊からのものかどうかわからなくとも、心にアンテナを立ててそれに従ってみようと。

私がワークでくりかえし“聖霊の声”として感じていたのは、「姿勢を正せ」ということだ。

いつ頃から感じていたのか、ノートを振り返ってみたら、今年の2月にはすでに「ワーク中感じたメモ」に、「姿勢を正す」と記されている。

「私たちは肉体ではない」と教えるACIMの導き手である聖霊が、体についてのアドバイスをするかな?と思っていた私は、さほど気にも留めていなかったけれど、その後何度もくりかえし感じた。

聖霊でなくとも、私が無意識に感じていた必要性が表面化したのかもしれない。

4月には、より具体的に、「猫背を正して背筋を伸ばす←そのために体幹を鍛える←そのためにダンベルDVDを再開(そのDVDには腹筋運動も組み込まれている)」と感じ、なんとか再開したものの、なんとその翌日ぎっくり腰に。

そのまま、ダンベル再開プランは頓挫していた。

猫背は防御であり戦闘態勢!?

先月の引っ越し後に再びぎっくり腰になりそのまま腰痛が慢性化している。やはり体幹を鍛えねば。

家でできる腹筋体操付きダンベル、そろそろ再開したい。

最近のワークでは、さらに、「肩を下ろせ、胸を開け」というようなことを感じた。

それによると、私が猫背なのは、それ自体が防御であり、戦闘モードで身構えているのだと。

そして、私は上がり症で緊張しいなのだが、それについて「身構えるから、テンパる」と指摘(されているように感じた)。

猫背になっていると気づいたら、意識的に肩を下ろして胸を開くこと、と。

そう言われてみれば、さもありなん。

その後、猫背になっているとか、テンパっていると気づいた時、意識的に肩を下げて深呼吸するようにした。

姿勢が変わると周りも変わる?

これは、効果てきめん。

一拍置くことで気が落ち着く。

驚いたのは周りの対応が変わること。少し丁寧に扱われるのだ。

おそらく肩を下げて胸を開いた姿勢が、猫背でうつむき加減より自信があるように見えるからかもしれない。

凛として静かで、涼やかであれ。

姿勢を正せというのは、姿かたちというより、在り方なんだろう。

出所はわからなくても、適用はできる。

感じてよさげと思ったことは、やっていこうと思う。

ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

2018-08-06

ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

レッスン195のテーマは、「感謝のうちに愛の道を歩むこと」。

引っ越しの直前と、引っ越し後1ヶ月余りのブランクの後にやっていたワークで、ワーク時「難しい」と感じていたが、改めて読んでも難しく感じた。

感謝と不平不満は対極にあると思う。

私は元々グチっぽく不平不満が多い質だ。気づけば、何かしらに不具合や不満を感じている。

つまり、感謝が下手だ。

ACIMと出会い、ようやく下手なりに、感謝を学び、練習している。

真の感謝は、神とひとつであることに対して捧げられる

レッスン195には、この世における一般的な感謝と、真の意味での感謝の両方が書かれている。

この世での感謝は、「せいぜい自分自身が他人よりましな状態にあると見なすこと」だという。つまり、他人の苦痛を根拠に感謝するのだと。

これは、平安や豊かさにはかぎりがあって、それを私たちが同胞と奪い合っているという見方をベースとしている。

兄弟があなたよりも不自由だからといって、それはあなたが神に感謝を捧げるべき理由にはならない。また、自分より彼のほうが自由であるように思えるという理由であなたが怒りを感じることも、正気の沙汰ではない。」(L195-4-1)

ACIMが言うところの感謝については、次のように説明されている。

私たちは一つのことについてのみ、父に感謝する。すなわち、生きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)

さもなければ無に対して感謝することになり、神から私たちへの贈り物を認識しそこなうからである。」(L195-6-2)

この一般的に言う感謝と、ACIMの「神とひとつであるということだけに感謝する」という感謝の違いが、わかるような、わかっていないような?

私は、希望する住まいがなかなか見つからなかったが、今のマンションに出会えて契約できたことをとてもありがたいと思っていたけれど、その気持ちは感謝と言えるのだろうか?

自分ではそのつもりでいても、単に物質的なものに対する満足にすぎないのかもしれない。

愛は感謝以外の道を歩くことはできず、私たちもそのように進んでいく

愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ、真摯なものでありえる。」(L195-4-2)

感謝とは、すべての被造物の源である愛の一つの側面にほかならないからである。」(L195-10-3)

「愛」も「感謝」も抽象的で、実感としてはよくわからない。

でも、こういう時思い出すのは、「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」といった文言。

『なまけ者のさとり方』という本のなかにあった。(そんな気がしていたけど、本をぺらぺらめくってみたけれど、見つけられず。勘ちがいか?)

「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」

「感謝することがわからなければ、そのわからない自分に感謝しなさい」

感覚としては間違っていないと思う。

レッスン195の最後の文、「神に対するあなたの感謝は、あなたに対する神の感謝とひとつのものである。愛は感謝の道以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-5,6)

とても深い。

あまりに崇高で、恐れ多い。

 

「聖霊の声が聴こえない」と言うのはやめよう、っと

2018-08-04

今朝、散歩して帰ってシャワーを浴びていた時、ふと気づいた。

私、ここに聖霊さんの導きで来たんだった…

今住んでいる家を見つけたのは「父が私の家を作ってくれている夢」を見た日。

夢の中の父は亡き父であり聖霊の象徴でもあると感じた私は、現住まいを聖霊の導きによるものだと感じていたのだった。その思いはこのブログでも書いていた。

昨日「聖霊の声を聴けているかよくわからない」と書いたけど、少なくともここへの引っ越しはメッセージがキャッチしてのことじゃぁ?

せっかく聖霊さんが私でもわかりやすいように夢のメッセージを送ってきてくれて、それで満足できる転居が実現したというのに、「聴けているかわからない」じゃあ、失礼ではないか。

実際、聖霊のメッセージを受け取るぞ、と心に耳を澄ましても、よくわからないのは事実だけど、一刀両断で「わからない」では恩知らずだと思った(「罰あたり」ともいうが、これはACIM的ではない)。

この引っ越しPが私にとってすごくラッキーだったのは、旧居が築40年になる古い物件だったにもかかわらず東京五輪決定後、土地代が上がったらしく、買った時よりもかなり高く売れたこと。

仲介料や登記料など諸々の諸経費を引いても「利益」が出たので、感じていたおカネの不安(パニック)が治まっている。

仕事と収入が不透明で先が見えない私に、いろんな意味で猶予が与えられたのだ。

「私は未来を神の手にゆだねる。」

このレッスン194に身をゆだねる絶好の機会ではないか。

聖霊のメッセージがわからない、は織り込み済みで。

聖霊の声が普通に会話するように聴けたら、それはまた別のはなしだ。

聴けなくても、聖霊はさまざまな方法で私に呼びかけてくれている。

そのことを信頼して耳をふさごうとするのではなくて、真摯にキャッチする気持ちで心にその場を作っていたら、どうだろう。

少なくとも「聖霊の声が聴こえない」と声高に訴えるのはやめよう、と思った。

ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

2018-08-03

ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

これも6月中旬の引っ越し前にやっていたワーク。引っ越しが差し迫ってばたついていた頃で、ワークもどこか流していた。

改めて本文を読んでみたら、シンプルだけどとても重要な概念だと感じた。

ACIMは表現や視点をさまざまに変えながら同じ原理原則を説明しているが、誰にでも、響きやすく、とくに真実を思い起こさせてくれる表現があると思う。

私は未来を神の手にゆだねる。

私にはこれが響く。

そうすれば、あなたはあらゆる不安や地獄や絶望の間も、罪の想念も、罪悪感がもたらす荒廃も。すべて通り抜けたことになる。」(L194-2-1)

ただ未来を手放し、神の手にゆだねることだけが求められている。」(L194-4-5)

頭ではわかってもなかなかできない。

考えただけで、不安になってしまう。

頑張らないと、身構えていないと、疑わないと、とんでもないことになってしまう、という“常識”もある。

そして、やっぱり私の場合、根っこに罪悪感と恐怖があって、「そんなお気楽でいいのか(神の手にゆだねることが、お気楽とは言えないが)」「何バカなこと言っているの?」「自分が頑張らないことの言い訳でしょ」という、内なるエゴの声がする。

エゴの声だけを聞いて従うには、ACIMの考えも浸透してきており、宙ぶらりん。どっちつかずだ。

「未来を神の手にゆだねる」のに、聖霊の声を聴きわけること

引っ越しを済ませ新居に移り、物もたくさん処分してきた。引っ越し後の家も片づいてきた。

仕事もしていない。

今私には、空きスペースができつつある。

この空きスペースに何が入るのか。何を入れるのか。

空いていること=不安定、でもあるけれど、せっかく空けたのだからへたなもので満たしたくないとも思う。

「未来を神の手にゆだねる」には、聖霊のメッセージを聴いてこれに従うことが不可欠だと思うけど、自信がない。

ちゃんと聴けているのか。

あるいは、聖霊の声と思いつつ、実のところ聴いているのは、エゴの声ということはないんだろうか。

基本的なことだと思うけれど、未だによくわかっていない。。

聖霊の声を聴いてしまったら、それに従わなくちゃいけなくなって困る(←エゴが)、メッセージを聴こうとしながらも、手で耳をふさいだり開いたりしながら、「あー」と声を出しているようなところがある。

そういえば、引っ越し前のワークでずっと感じてきた「姿勢を良く、体幹を鍛えろ」というのは、そのとおりだった。

今回の引っ越し後のぎっくり腰は、いつもとちがって治るのに1ヶ月以上かかったから。

聖霊が、そんな体のことをアドバイスしたりするのかな?と思っていたけど、聖霊の声かどうかはともかく、「姿勢」と「体幹」は私にとって大事なことにはかわりない。

いつでもどこでも、今・ここから

まぁ、ともかく、今・ここから、しかない。

自分にとってメッセージと思えることを聴きながら、自分のゲームを進もうと思う。

彼は、自分の知覚は間違うかもしれないが、それらは必ず訂正されると確信している。」(L194-7-7)

攻撃したくなるときは、私たちの休息を護る聖霊に助けを求め、私たちにかわって誘惑をはるか後ろに遠ざける選択をしてもらう。」(L194-9-5)

本文のこの2ヶ所が救いかな。

暑さと、汗かぶれと、塗りぐすり

2018-08-02

30年に一度の異常な暑さに「自分は体」だと感じてしまう

昨日、気象庁が7月の暑さについて「30年に1度以下の頻度で起こる現象で、異常気象に該当する」と総括した。

「異常気象」という言葉は、この10年位頻繁に聞くような気がするが、それでもやはり7月の暑さは尋常じゃなかった。

8月も続くんだろう、この暑さ。

日中の日差しは、暑いというより痛い。

この日差し、日傘を差すとだいぶ和らぐ。男性で日傘をさしている人はあまり見かけないけれど、この異常の下では体裁より実を取ったほうがいい。体力が温存される。

ACIMでは、体を「エゴの偶像」とし、私たちが神から離れたと思い込んだ罪の意識が肉体を生み出して、それが外部に投影したものだと位置づけている。

そして、自分を肉体だと思うことは止めてそれに対する執着やこだわりは手放すように促されている(おそらく)。

しかしー

この尋常じゃない暑さの下では、逆に自分が肉体であることをまざまざと感じさせられる。

ACIMの理解がもっと深くなったら、暑さに対する耐性も高まるんだろうか。

汗かぶれで、負のスパイラル

今夏、生まれて初めて、「汗かぶれ」というのになった。

首から胸にかけて、痛痒ーい(>_<)

汗もかな?と思ったけど、それとはちがうらしい。

汗も」… 汗をかき続けたりした時に、汗を出す管が詰まり、肌の内部に溜まった汗によって水ぶくれや炎症を起こす症状。

汗かぶれ」… 汗をかいた後に、汗に含まれる塩分やアンモニア成分が肌の表面を刺激して起こる炎症。

汗かぶれは、結局、自分の汗が自分の肌を攻撃することで引き起こされるらしい。肌が乾燥しバリア機能が損なわれるとなりやすいのだとか。

まさに、私が体をリアルに感じるために、外に投影した攻撃性によって引き起こしているのだと言える。

いったん痒いのが気になると何も手に付かない。掻いちゃいけないとわかっているけれど、つい誘惑に負けて掻いてしまう。

ふひゃ~、気持ちいぃ~。

しかし、次の瞬間にはさらなる痛みと痒さが襲ってくる。そして肌はまた荒れる。

“負のスパイラル”だ。

あ゛~、手放さねば…。

私は体じゃない。体じゃない…

自分と同胞を分けている(と思っている)肌を、自らが攻撃して一人のたうっているとは、ひとり相撲も極まれり。

母の塗り薬に癒される

母が上京した際に、ある塗り薬を置いていってくれたことを思い出した。

亜塩華軟膏(あえんかなんこう)。

実家では万能の塗り薬みたいになんにでも使っていたが、名前がおどろおどろしい気がして使ったことはなかった。

おそるおそる塗ってみたら、猛烈に痒かったのが少し治まった。

当たり前にみんなが知っている薬なのか。

母が手書きで名前を書いて貼り付けてくれた軟膏。

それを丁寧に塗りこめていくと、母の愛に癒されていく気がする。

これ、感じているのは「特別の愛」かな?

汗かぶれの専門治療薬「アセムヒ EX」も今年発売されたらしいから、少し様子見して買ってみようかな。

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