ACIMレッスン192-私には、神が私に全うさせようとする機能がある。

2018-06-06

15年分の垢落とし

昨日、新居に洗面台設置のためリフォーム屋さんが下見に来られた。

リフォーム屋さんが帰った後は、念願の!?そうじを開始。管理人さんに脚立を借りて、レンジフードやエアコンを掃除した。

初夏何もない空間で、音楽アプリから流れる知らない曲を聞きながら、汗だくで掃除をしていると、昔むかしの若い頃の何かが始まる予感…を思い出した。

何もない…

新しい…

ということは素晴らしいことかもしれない。

若ければ…?

今朝は身体が筋肉痛だ。ウォーキング以外からだを使っていないから鈍っているんだ。歳を重ねてこそ体を動かさねば。引っ越ししたら、区のジムが近くなるから、通おう。

今回の引っ越しでは、歴代のノートパソコンや、長年愛用したブラウン管テレビも処分する。

なんでこんなもの持っているんだというものも多い。むかーし取材したカセットテープも大量処分した。

気づけば半年をかけての、人生のクリーニングのようだ。15年分の垢落とし。

新たなものを入れるには、古いものの処分が不可欠だということかな?

あるいは、老い支度だろうか。

ACIM192-私には、神が私に全うさせようとする 機能はたらきが在る。

レッスン192。やっていたのは先月だ。

ここでは、赦しについて、その位置づけと 機能はたらき についてより深い言及がされている。

赦しは、この世での私たち神の子のはたらきであり、真理でないものが取り消されるための手段である。

私たちは肉体を有しているが、肉体こそ攻撃の対象であり恐れの居場所だ。肉体を自らの家だと考えている心がこれらを生み出すのだという。

肉体は、学びが完了すれば横たえられるだけの単なる学習手段であり、学ぶ者を変化させはしない」(L192-4-3)とあるが、ここが私にとっては難しい(なかなかそうは思いづらい)。

ライザップのCMとか見ていても、肉体が変わればまるで別人のように見えるし。

この見方を変換させるのが、赦しだ。

肉体を自らの家だと考えている心を、そうした考えから解放できるのは、赦しだけである。」(L192-5-5)

私…。頭でっかちで、赦しの実践が圧倒的に少ない。

むしろ、赦しの機会から逃げている気がする。

怒らせる出来事をもたらした人に感謝をする

レッスン192でもっとも大事だと思うのは、9節の以下の部分だ。

「この道は単純明快である。突き上げてくる怒りを感じるたびに、自らの頭上に剣を振りかざしていることを理解しなさい。そして、罪を宣告された者となるか、自由な者となるかをあなたが選択するたびに、剣は振り下ろされるか、回避されるかのどちらかである。」(L192-9-3,4,5)

だから、あなたを怒らせるかに見える人々は、あなたを死の牢獄から助け出す救助者を象徴している。だから、あなたが彼らに返すべきものは、苦痛ではなく感謝である。」(L192-9-6,7)

私は、私を怒らせるように見える人に果たして感謝できるだろうか。

ACIMでは繰り返し、繰り返しこれを説いている。

とにかく、この世ではすべての人や、できごとが、赦しに集約されていく。

ここで体験したことを、自分の心の中に引き戻して、そして赦す。今日の出来事はなるたけ今日赦す。

これだけ、赦しについて聞いていても、いざそのチャンスの時には、この理屈がわからなくなってしまう。だからこその繰り返しの実践なんだ。

私にはまだこの世にいながら、この世を赦すという、その正解の感じがいまいち掴めていない。

赦すことが苦手だから、厭世しているような…。そんな気すらする。