ACIMレッスン184-神の名は、私が受け継いだ賜物である。

2018-04-20

や~っと、ダンベル、できた

レッスン183のワークについて書いた前回、ワーク中「姿勢を良くするために体幹を鍛えよ、そのためにダンベル習慣を再開せよ」というメッセージを受け取った気がしたと書いた。

「姿勢を良く、体幹をしっかり」というのは、ここ最近のワーク中毎回感じることだ。

これが、いわゆる聖霊からのメッセージかどうかは自信はないが、これだけ具体的かつ健康に良さげなこと、やってみればいいじゃないか。ここで書いてしまった以上、ダンベルを再開しなくてはブログ更新できない気がしていた。

そして、やっと、やっと…、今日できた。

あまりにもささやかなことだけど。やれやれ。

ダンベルをすると血流が良くなるのか、身体がすっきりする。

できたら、一回だけじゃなくて前のように習慣にできたらいいけど。

私が「きれいだな」と思う人は、年齢にかかわらず姿勢がいい。しゃんと背すじが伸びた、存在そのものが美しい人に憧れる。

レッスン184-神の名は、私が受け継いだ賜物である。

レッスン184は、名づけることについて書かれている(と思う)。

「あるもの」に名前を付けることで、そのものの性質が知覚され、自分との関係が定められる。そして、自分から分離したある存在として認識される。

名づけることは、意味をもたせることであり、存在理由をつくることでもある。

私たちは、このゲンジツの世で限りない名づけを行って、幻想に厚みを持たせてきた。

そして、その共通認識を身につけることを学びといい、それによってコミュニケーションを成立させてきた。

でも、ACIMを学べば、それはいかに複雑で厚みがあるように見えても、やはり幻想に拠っているのだとわかってくる。

ただ、身体を持って、この幻想の世の名づけにしたがったゲームに参加している者は、名づけからまったくフリーになることはできない。

ACIMがいかに素晴らしいと感じても、ACIMの理論だけではこの世でコミュニケーションができない。

そこに、私自身の「??」もあったように思う。

ACIMの価値観を深めつつ、この世でどう生きたらいいのか。ACIMを勉強しているつもりで、ただの「浦島太郎子」になっている私。世間話の相づちさえヘタになってる(・・;)

ACIMとゲンジツ、どう折り合いをつけたらいいのかな。

この世のルールにしたがいつつも、その下にはACIMの層をしっかり意識し、その価値観からぶれないようにすべきなのかな。は~、いつもぶれぶれだけど。

こうした思いに揺れている私に、レッスン184はひとつの指針を与えてくれる。

ゲンジツを生きつつACIMを歩むヒント

あなたはもうしばらくの間、この世界の象徴を使う必要がある。しかし、それらに騙されてはいけない。」(L184-9-2)

それらはこの世界が理解できるやり方であなたが意思疎通をするための単なる手段となるが、あなた自身がそれが真の親交が見出せる場としての一体性とは違うということを認識している。」(L184-9-5)

闇の世界を描写する卑小な名称や象徴はいくらでも使ってかまわない。しかしそれらをあなたの実相として受け入れてはならない。」(L184-11-1)

世界がそれらに与えている名前を単なる便宜のためにのみ使いなさい。ただし、それらがあなたとともに神の名を共有しているということを忘れずにいなさい。」(L184-11-4)

このあたりに、ゲンジツを生きつつACIMを歩む方法のヒントがあるように感じた。

「神に名はない。しかし、神の名はあらゆるものが一つであるという最後のレッスンとなり、このレッスンですべての学びが終わる。」(L184-12-1)

それをこの世で忘れないこと。そのために、この世のリズムから抜け出て、心を静めること。

そういうことかな。

よく言われることだけど、「忙」という字は「心を亡くす」と書く。忙しくするのは、エゴが正気を失わせる得意技だ。

やっぱり、ちょいちょい休んで心の声(聖霊の声)に耳を傾けるのが大事ということかな。

明日も、ダンベル、できるかな。

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