ACIMレッスン177-レッスン163、164の復習

2018-03-05

ひな祭りの差し入れ

おととい土曜日は、おひなさまだった。

そんなことはすっかり忘れて、朝東京都のパソコン講習に出かけ夕方に帰ってきた。

ドアノブにレジ袋みたいなものが引っかけてある。何かと中と見たら、ちらし寿司みたいなものと煮物、お漬物が入っていた。

メモはない。だけど、おそらく下の階のおばあちゃまかな、と思い、電話したら、案の定そうだった。

「おひなさまだからね」と。「朝ピンポン押したけど出なかったから、まだ寝てるかと思って置いてった」

寝てはいなかったけど(^_^;) 日本の季節行事をすっかり忘れていた。ありがたい。

ハート型に盛りつけようとしたけど、かえってぐしゃぐしゃになった。数の子の食感がこりこり歯ごたえがいい。奮発して買ってきた大きな牡蠣も蒸し焼きに。ぷりっとしてクリーミィだ。おいしい。

ひとり暮らしの個食ながら、ほっこり、気分も華やいだ。

こんなやさしい心くばりをしてもらえるところなのに、老朽化と管理組合の面倒さを理由にここを去ろうとしている私。それもすごく大きなコストをかけて(仲介手数料や登記料て高い)。

それってほんとうに必要なことなのかな?このままいてもいいんじゃ?いやいや、今が売るラストチャンスだ…

と、頭はまたぐるぐる「マンション売却問題」のほうに向かうのだった。

レッスン177-レッスン163、164の復習

レッスン177は、レッスン163とレッスン164の復習。

L163)死は存在しない。神の子は自由である。

L164)私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

ACIMの死とこの世でいう死

「死」の概念が、私たちのそれとは大きく異なっている。

私たちは、「肉体の死」を死と捉えているが、ACIMは死とは肉体に関することではなく、一つの想念だと捉えている。

その想念とは、「神の不在」「神の欠如」だ。

私たちが今、「自分」だと思っている肉体のかたちをそもそも存在しない…としている。個々の私たち自体が幻想だし。

その上での、死=神の不在。

それが、結果としてあらゆる不安、恐怖、悲しみ、苦しみ、嫉妬、罪悪感、絶望…といった感情に現れているという。

私たちは神のかわりに擬似神を崇拝している。死もまた擬似神だ。

ACIMの中心概念は、

「神はある(それ以外はない)」

幸福、喜び、感謝などに代表される神の質と合わないものを感じているのに気づいたら、ただ赦し、手放すだけ。

なんてシンプルなんだ!

人であろうと、状況であろうと、それを赦し、手放す。

『神の使者』には、コース(ACIM)はシンプルだけど易しいとは言っていないとあるけど、それは本当にそうだと思う。

自分が渦中にいるときに、赦して手放すとは?そこにどういうふうにいたらいいんだろう。まだわからない。

ただ「死はない」というのは強力なメッセージだ。この世の恐怖感の根っこは「死」だと思うから。

「神は死を作らなかった。だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。」(L63-8-6,7)

私たちが正しくACIMの考えを習得できたとき、肉体の死は恐怖心を伴わないものになっているんだろう。

今回の人生でその境地まで達することができたら、最高だと思う。

ACIMは猫背なおし!?

ACIMというのは姿勢なおしみたいなもんだな。

私は猫背でパソコンを見たりスマホを覗いたりしていて気づくと、背中が丸まり首が出てる。一回矯正ベルトみたいなのを買った気がするけど、あれはどうしたかな?

猫背をなおすには、

あ、猫背だ、と思ったら、首を引いて背筋を伸ばす。

それが習慣になってよい姿勢があたりまえになるまではそのくりかえし。

ACIMも赦しが習慣になって必要なくなるまではそのくりかえし。

春近し。まず背筋から意識しようか。