母と過ごす大みそかと4日目のイライラ

2017-12-31

母へのイライラと、大人になれない中年子どもの私

2017年大みそかの夜、母と紅白歌合戦を見ながら過ごしている。大みそからしい、大みそかとも言える。

おとといは母と過ごせる年末を感謝していたはずなのに、帰省して4日目ともなるとありがたさもどこへやら、イライラが募っている。

家の中でのスリッパの履き分けや洗濯物の干し方といった細かい母ルールがあり、それを押し付けてくるたびにイラっとする。起きてから寝るまでずっと「〇〇って△△やったっけ~?」式に質問が続くことに辟易している。ネットで調べて答えるが、1つ疑問が解けるとまた新たに疑問が湧いてくるらしく次の質問へと続き、連想ゲームのように質問が拡散していくから終わりがない。年末の家事をしている時でも、時間を置かず大声で呼びかけられ、まったく思考がまとまらない。

私も元々ワガママな上に、ひとり暮らしが長く自分のパターンができているから、親とはいえ他人に合わせられる時間が限られているのだ。1日16時間ならば3日が限度だ。

イライラしては、いけない、と飲み込み、母に調子を合わせる。けれど、気づくとまたイライラしている。将来的にいっしょに暮らすことに、まったく自信が持てない。自分だけの空間と時間を確保しないと、同居はきびしいなと思う。ひとり寝床に入る時はへとへとだ。

ただ、今日母が寝ている部屋を大掃除した時、部屋の隅のほこりの多さと乱雑さにびっくりした。

几帳面できれい好きだったはずの母が、こんなほこりだらけの部屋で平気でいるとは…。上から目線と訳知り顔で世の中の改善点を指摘する母は年だけどしっかりしている人だと思っていたけれど、部屋は身の回りの手入れが自分でできないお年寄りのそれだった。

母は私が思っている以上に歳を取っていたんだと気づいた。当たり前と言えば当たり前だ。私のイライラの一因は母の質問があまりにも世間知らずだったり無知だったりすることにもあった。私は母の老いそのものにイラついていた。そして不甲斐ない自分自身にも同様にイラついていたのだ。

大人になり切れず甘えていたい私が気づきたくないだけで、母は年相応におばあちゃんになったたけだった。

母にやさしくしてやさしい時間を過ごすことこそが帰省の目的だったはずなのに、気づけばイライラの渦中にいて今にも攻撃せんばかりになっている私。

それは、昔の無力だった子どもの私が母に「はむかう」感じにも似ていた。結局、歳ばかり取って大人になれない中年の子ども。ただ母が老いただけなんだ。

「はむかう」という漢字を見たら、

「刃向かう」と「歯向かう」とがあって、どちらも攻撃性の強い言葉だった。

「愛は不満を抱かない」(ワークブックL68)とは対極にある私。

明日、元旦くらいは母にやさしく接したい。

小さなふりかえり

今年は中断していたワークを2月から再開、レッスン79からレッスン169まで90個のワークをした。

ゆるゆるのワークだったけれど、ACIMから何とか離れないで続けられてよかった。

今日の母への気持ちのとおり、私は表面的には穏やかにしているけれど、元々気が短い方で内に高い攻撃性を抱えている。その攻撃性を溶かす、赦すことが来年のテーマかなと思った。

また、親の老いと自分自身に迫ってくる老いに恐怖を感じている。その恐怖も赦していくことも。

そして、ささやかでもACIMについて学び続け、発信もできたらいいと思っている。

一年間どうもありがとうございました。