母と過ごす大みそかと4日目のイライラ

2017-12-31

母へのイライラと、大人になれない中年子どもの私

2017年大みそかの夜、母と紅白歌合戦を見ながら過ごしている。大みそからしい、大みそかとも言える。

おとといは母と過ごせる年末を感謝していたはずなのに、帰省して4日目ともなるとありがたさもどこへやら、イライラが募っている。

家の中でのスリッパの履き分けや洗濯物の干し方といった細かい母ルールがあり、それを押し付けてくるたびにイラっとする。起きてから寝るまでずっと「〇〇って△△やったっけ~?」式に質問が続くことに辟易している。ネットで調べて答えるが、1つ疑問が解けるとまた新たに疑問が湧いてくるらしく次の質問へと続き、連想ゲームのように質問が拡散していくから終わりがない。年末の家事をしている時でも、時間を置かず大声で呼びかけられ、まったく思考がまとまらない。

私も元々ワガママな上に、ひとり暮らしが長く自分のパターンができているから、親とはいえ他人に合わせられる時間が限られているのだ。1日16時間ならば3日が限度だ。

イライラしては、いけない、と飲み込み、母に調子を合わせる。けれど、気づくとまたイライラしている。将来的にいっしょに暮らすことに、まったく自信が持てない。自分だけの空間と時間を確保しないと、同居はきびしいなと思う。ひとり寝床に入る時はへとへとだ。

ただ、今日母が寝ている部屋を大掃除した時、部屋の隅のほこりの多さと乱雑さにびっくりした。

几帳面できれい好きだったはずの母が、こんなほこりだらけの部屋で平気でいるとは…。上から目線と訳知り顔で世の中の改善点を指摘する母は年だけどしっかりしている人だと思っていたけれど、部屋は身の回りの手入れが自分でできないお年寄りのそれだった。

母は私が思っている以上に歳を取っていたんだと気づいた。当たり前と言えば当たり前だ。私のイライラの一因は母の質問があまりにも世間知らずだったり無知だったりすることにもあった。私は母の老いそのものにイラついていた。そして不甲斐ない自分自身にも同様にイラついていたのだ。

大人になり切れず甘えていたい私が気づきたくないだけで、母は年相応におばあちゃんになったたけだった。

母にやさしくしてやさしい時間を過ごすことこそが帰省の目的だったはずなのに、気づけばイライラの渦中にいて今にも攻撃せんばかりになっている私。

それは、昔の無力だった子どもの私が母に「はむかう」感じにも似ていた。結局、歳ばかり取って大人になれない中年の子ども。ただ母が老いただけなんだ。

「はむかう」という漢字を見たら、

「刃向かう」と「歯向かう」とがあって、どちらも攻撃性の強い言葉だった。

「愛は不満を抱かない」(ワークブックL68)とは対極にある私。

明日、元旦くらいは母にやさしく接したい。

小さなふりかえり

今年は中断していたワークを2月から再開、レッスン79からレッスン169まで90個のワークをした。

ゆるゆるのワークだったけれど、ACIMから何とか離れないで続けられてよかった。

今日の母への気持ちのとおり、私は表面的には穏やかにしているけれど、元々気が短い方で内に高い攻撃性を抱えている。その攻撃性を溶かす、赦すことが来年のテーマかなと思った。

また、親の老いと自分自身に迫ってくる老いに恐怖を感じている。その恐怖も赦していくことも。

そして、ささやかでもACIMについて学び続け、発信もできたらいいと思っている。

一年間どうもありがとうございました。

レッスン168-あなたの恩寵が私に与えられています。私は今、それを自分のものとします。

2017-12-29

冬の北陸に帰省

今年はいつもの年より早く27日の夜に帰省した。着いた日の夜は吹雪いていて、街頭に照らされたところだけ降りしきる雪が光ってみえた。しんしんと静かにずっと雪が降り続いていた。雪を踏みながら歩く感触で子どもの頃を思い出した。

11月に上京した際、杖をついてやっと歩いてきた母。その後どうかと気になっていたけれど、MRIの結果、疑いがあった脊柱管狭窄症ではないとのこと。今は家の中は杖も必要なくしゃかしゃかと歩いていて、前のような強い痛みは引いたらしくほっとした。

ただ今年はとくに雪が多くて外を歩くのは大儀そう。生協に加入して日常の食品調達には困りはしないみたいだけれど、自分の気持ちと体にギャップがあってそれにいらいらしてしまうみたいだった。

私は翌朝久しぶりに家の前の雪かきをして、「ああ、自分は元々雪国の子だったんだ」と改めて思い出した。東京の冬は晴天つづきで明るい。けど、私は山の向こうの雪国に根っこがあった。忘れていても心の芯は変わらないのかもしれない。

冬の北陸で母と二人でいると、そのリアリティがすごくて、『奇跡講座』の世界は遠のいてしまう。『奇跡講座』だけじゃなくて、東京生活や東京の自分もぼんやりしてくる。

ただ母の要請やニーズを聞いて、それを実行するだけ。そのために来たのだから。

今日は、母が近所の接骨院に行っている間にACIMワークをしたが、途中3度も電話がかかってその都度中断した。社交的な母には電話をかけてくれる人がたくさんいて、そのことだけでも安心できた。

レッスン168-あなたの恩寵が私に与えられています。私は今、それを自分のものとします。

レッスン168は、帰省の前一週間くらいやった(ちゃんとはできていないかもしれない)。

いつもメモをしているノートも、切り替わり時期で新しいノートを持ってきたから、何をメモしたかわからない(どうせたいしたことは書いてない)。

「神はわが子を愛している。この世界が消えてなくなるための手段を与えてほしいと、今、神に頼みなさい(L168-4-2)」とあるけれど、この故郷の家の世界はやっぱりリアルで、私は母から朝からずっと近所の知らない人の噂話や、その人のこれまでの人生を聞いたりしている。

この世をリアルに感じるというより、母の存在が圧倒的にリアルだ。それはACIMがちゃんと身についてないということなんだろう。けれど、それがダメだとかイヤだと感じているのではない。

ここにいる間、なるたけ感情的にはならず、できるだけ母にやさしくしたいと思う。あえて言うと「ビジネスライク」にそう思う。

神さまと自分との関係は、この世では親との関係が近いかもしれない。

その親との関係が昔より私の心の中でよくなっていることが、うれしい。

だから本来のACIMの学びとはずれているかもしれないけれど、今私に授けられている「恩寵」は、「母との水入らずの時間」であり、それを「今、自分のものとしている」のだと思う。

それがとてもありがたい。

自分の親にだけ固着するのはまちがっていると思う。

だけどやっぱりお母さんには幸せでいてほしいし、「よかった」「うれしい」「おいしい」「あしがとう」と言ってほしい。

これもまた(いくらリアルに見えても)幻影だと知りながらも、そのつかの間のときを愛おしみたいと思っている。

私にとってのサンタ

2017-12-27

クリスマスが過ぎると街(私にとっての街=スーパー)は一気に年末モードになる。

昨日までは、シャンパンやチキン、ケーキが主役だったところに、正月飾りやおせち材料が並ぶ。

そのたった一日での変化が鮮やかだ。日本の国民がみんなで、大縄跳びを飛んでいる感じ。

そんなクリスマスムードが一掃された昨日、ポストに赤い封筒を見つけた。

見れば、時々一緒にランチをする友人から。何かな?と見たら、クリスマスカードだった。

飛び出す絵本式にツリーが三重になっていて、小さなサンタさんがたくさん。そのサンタさん、ひとりひとりが「ありがとう」と言っている。

てっぺんのサンタは、

「なかよくしてくれてありがとう」

その下のは、

「そばにいてくれてありがとう」

それから、

「助けてくれてありがとう」

「話を聴いてくれてありがとう」

「やさしくしてくれてありがとう」

「はげましてくれてありがとう」

「見守ってくれてありがとう」

「あそんでくれてありがとう」

「ありがとう」

「ありがとう」

「ありがとう」…

 

ありがとうがいっぱいあった。

ひとり身の私はいわゆるクリぼっち。いつもクリスマスはちょっぴり心がさみしくなる季節だった。でも、今年はさみしさも感じなかった。

チキンとケーキとお寿司とピザとお酒を並べてひとりの夕ご飯。本を読んだりテレビを見たり、気楽で自由にしていられて、ハッピー♪ 強がりというのではなく本当にそんな気持ちだった。

でも、26日口々に「ありがとう」「ありがとう」と言ってやって来たたくさんのサンタさんを見て、やっぱりほっこりした。心が和んだ。

さみしかったというわけじゃない、ほっこりがたくさんになったのだ。

ありがたいな。。

サンタさんがみんな笑っていて、ピンチになったり落ち込んだ時に見たら、脱力してふっと笑ってしまいそう。

今年は、「感謝」が自分にとってのキーワードだった気がする。

感謝するということができなかった私が、ACIMワークを通して感謝することを改めて学んでいたような気がする。

だから、締めの時期になって、サンタがたくさん「ありがとう」をもって訪ねてきてくれたことが、ことのほかうれしかったのだ。

土を耕して種を植えていたことが、芽を出しちょっと育ったのかな、という気持ち。

もちろん、まだまだだけど。

でも旅の途中の一里塚としては悪くないんじゃない?と思う。

ありがとう、サンタさん。

そしてありがとう、わが友よ。ありがとう、あなた!

レッスン167-一なる生命があり、それを私は神と共有している。

2017-12-20

レッスン167-一なる生命があり、それを私は神と共有している。

このレッスンは、生命いのちについて述べられていることから、改めて「死」についても言及されている。

この世では生命があることの対極は死だが、実相では、

生命…神が創造したすべてのものが共有する一なる状態。いのち

で、その対極はない。だから、死もない。

私たちが死を通常肉体に関することだと思っているのに対し、ここでは死は「一つの概念」であり、心の中にあるものだという。

そして死には、「至高の幸福」以外のすべての感情が含まれる。すなわち、悲しみ、損失、不安、苦しみや痛み、不快感…。これらすべてが「死」という概念を根っこに持つのだという。

また死の概念を感じられることは、神との分離を真実としているからだという。

神と一体であれば、死という概念はリアリティがないはずなのだ。

「死が生命いのちから生じることはありえない。」(L167-5-1)

心が眠っているだけ、だから目覚めよ

そして、私たちにとって死がリアルなのは、たんに「心が眠っているから」だと説明されている。

「心は自分が眠っていると考えることができるが、それだけである。心は自分が目覚めている時の状態を変化させることはできない。」(L167-6-1,2)

ワークブックを通した根幹の考え「想念はその源を離れない。(L167-3-6)」が、ここでも強調されている。

心が眠っているから、寝とぼけた想念が出て私たちをかき乱しているだけ。心が目覚めさえすれば、想念は真っ当になり、至高の幸福だけがある。

だから、目覚めよ。

「時間という夢(L167-9-3)」から覚めよ。

…というのが、このレッスンのテーマだ。

やっぱりいつもと同じ、「神との分離」の幻想をあっちからこっちからとりなし、それは起ってはいないのだから、夢から覚めよ、と私たちを揺さぶっている。

こういうことは一度聞いたからといって、あたかも怖くてトラウマになっているかのような恐怖心を取り去ることはできない。だから、くりかえしくりかえし言い含めて再教育していくしかないんだろう。

何かの理由で水が怖くなってしまった人が、パシャと顔に水をつけるところからその恐怖心を克服するように、また何かの事情で高い所が怖くなってしまった人が大丈夫と思える安全な場所から少しずつ挑戦してまちがった条件付けを取り払うように、神との分離というすさまじい恐怖も、その恐怖感が出てきたたびに、「そうではない、思いこみにすぎない、それはリアルではない」と言い聞かせて恐怖の薄皮を一枚ずつ剥いでいくしかない。

それがゆっくりでも早道なんだろうと思う。

「死に対する恐怖」が少し減った気がする

9月にワークの流れとして、追加的にやっていることとして「自分の中の絶対に死なない部分」を感じ、その性質を感じるということをやっていると書いた(2017年9月7日)。

そして、そういうことをやっているのは、人以上に死(肉体の死)を怖れているからだとも書いた(2017年11月29日)。

最近前よりは死というものが怖くなくなった気がする。私は体であるという執着が薄くなり、そもそも私は霊的な時を超えた存在であるように、徐々にだけれど感じられるようになっている。

それも、肉体に新たな不具合が発見されたら、まったくそうは思えなくなってしまうのかもしれないけれど。でも、前よりは怖くなくなった。

そして、心の磁石の真北をいつも「感謝と豊かさと喜び」の方に向けていられたら、ちゃんと行くべきところに導かれるのではないか、とも思った。

まあ、言うは易く行うは難し…なんだけど(^_^;)

目に見えない恐怖を自分で培養してでかくしてそれにがんじがらめになっていた以前の自分。それよりは、言うだけ、思っているだけ…でもよしとしよう。

見た夢のはなし

2017-12-18

夢のはなしをした

「今年も残すところ二週間」とテレビのキャスター、アナウンサーさんが言っていて、「あぁ、そうなんだな~」と思う。「今年最後」の場で、「よいお年を」と挨拶を交わすことも多くなった。

今年最後のユング心理学講座では、私が見た夢を聴いてもらった。この講座では前半が秋山さと子著『ユング心理学』の読み合わせ、後半が受講者が見た夢を話す「夢分析」の時間となっている。

私は見た夢をはっきり覚えておれる質ではなく、断片的だ。

〈11月某日見た夢〉

女性(そんなに親しくはない感じ?仕事関係?)の女性とホテルに宿泊している。部屋に何か不具合があったらしくホテル側からしばらく部屋を移ってほしいと言われ、私たちは大きな荷物を置いたままで代わりの部屋に行く。

新たな部屋ではいつの間にか女性の彼氏が加わり、3人になっている。

ホテルサイドに何か事件があったらしいけれど、それが何かわからない。

なぜかその部屋にはトイレがなく、外に出たところにあるトイレを使うが、鍵が甘くて、何度か外から人に開けられてしまう。何度かめに思いっきりドアを引っ張ったら、ガチャンと音がして安心して用が足せた。

この鍵をちゃんとホテルが直すのを確認するまで帰らないぞと思う。ヘンな障害物ができていたりして元の部屋には戻れず、だったら荷物を持ってくればよかったと思っている。

カップルの方は困っていないらしく楽しそうにやっている。

先生の解釈やアドバイス

先生は私の夢を聴いて、

「自分の意志で部屋を代わっているわけじゃないのよね?」と確認し、自分の意志ではない移動が起こったというのは、私の心の中の何らかの不安要素を表すのだとおっしゃった。

そして「自分の意志じゃなくて場所を変わらなくてはならない」ってことで、思いつくことない?予知夢ってこともあるけど」とおっしゃった。

また、トイレの鍵が甘いというのは、個人生活の境界が甘くなっている、守りが不確か、夢でトイレが落ち着かない状態というのは自分の感情がうまく流せない状況を指すのだという。

私は、母が足が痛み出して歩行困難で、最近脊柱管狭窄症と診断されたことを思い出して、そのことを話した。

父が亡くなり高齢の母がひとり暮らしとなって一段と実家のことが気がかりになっている。そして、ACIMのワークの際、聖霊のメッセージを受け取る際などに、「故郷に戻れ」とアドバイスされている気がしていた。

それが聖霊の声なのか、あるいは私の罪悪感を反映したものかはよくわからなかった。しかし何度か聖霊さんのアドバイスを受けたような気がしていた。そして「実家に行っても、それで引きこもるわけではない、そこから発信もし、いろんな場所を巡るし今以上に活動できるのだ」とも、アドバイスされた気がしていた。

ただ私は、母が朝から晩までしゃべりっぱなしで個の空間がほとんどない実家に戻る決心ができなかった。また保守的な田舎でひとり身はきつい、隣近所のつき合いが濃い地域は苦手…などとマイナス要素を挙げ、「まだお母さんひとりで大丈夫、…まだ大丈夫」と先延ばししてきた。

講座で、内なる自己からのメッセージとして「実家に戻れ」と言われているような気がすること、でもそのアドバイスは自分の意に沿うものではなく耳をふさいでいるような状態なのだということを話した。

先生いわく、一緒に泊っていた女性は、私のシャドウ(もうひとりの自分)、具体的には母を指すのだろうとおっしゃった。そして部屋を移ったということは、私が親元へ移ったということの暗示。部屋を移ってから、女性の彼氏も加わったということは、活発な母の男性性が活性化しているのだろうと。

「でも、荷物は前の部屋にあるのよ。夢は東京生活の全部を引きはらえと言っているわけではないのよ」と先生。

そして、新しい部屋にはトイレがないという夢の状況から、「感情を安心して出せる個人空間は確かに整っていないようだけど、最後にガチャンと鍵をかけられているのだし、それを直すのだと言っているから大丈夫なのよ」とおっしゃった。

解釈のポイントと私の意識

私は途中から先生がおっしゃったことをメモしたけれど、少ししか書きとれず、またどうしてそういう解釈になるのかわからないことも多かった。

けれど、おっしゃった解釈のポイントは、

・もうすでに母の介護が始まっている。

・一緒に住んでも、環境を整備しつつうまくやれる。

・母のパワーを恐れるなかれ。

・ただ母は男性と女性の2倍の心パワーと心づもりして対峙せよ。

・東京の拠点を引き払う必要はない。

ということらしかった。

おそらく大事なのは、このアドバイスをどう私が受け取るかという点なんだろう。

私にとって何より大きかったのは、聖霊さんからのメッセージなのか?と感じていたことを、講座の中で話したことだ。これまでは「いや気のせいだ」と言えたけど、「よくわからないけれど、内なる心の声はこういうんです」とみんなの前で言ってしまった。

だから、まったくそのメッセージは、私の潜在意識から意識へとはっきり移ったし、先生や講座仲間にも共有された。

かといって、母とひとつ屋根の下に住む決心は未だつかない。近くにアパート等借りて住むことは母には意味不明らしく、それも今は選択肢にはない。

来年はどうなるかな?変化が大きな年を迎えようとしているのかな?

いずれにしてもACIMの学習者であることは変わらない。ほんとならば、それが変わらないのなからば、どこにだれといようとOKのはずだけど。

『奇跡講座(ACIM)』について話すのはむずかしい

2017-12-15

ワンコインイングリッシュ、今年最終回

ACIMのワークブックを始めてから、改めて英語に興味が湧いた。できるなら原書で読みたい。それに加えていつか海外のACIMのコミュニティの方と話をしてみたいという思いがあるから。

運よくNPO法人が主催している1回500円の英会話講座を見つけ、今年の4月から月2回通っている。先生は東ヨーロッパ系の美しい女性で、幾度も丁寧に日本人の発音のくせを直してくださる。月2回ではペラペラ話すというところまではいかないけど、少しずつ英会話に対する苦手意識が少なくなっている。いい講座と出会えた、ラッキー!~と思っている。

きのうはその英会話の今年最後の回だった。たまたまある受講者の方に声をかけてもらって、先生と私を含めた受講者と4人、隠れ家風レストランに行ってランチをした。

「神さまで戦争がなくなる?」

その日の学習テーマが「自分について語る」でそれぞれ自分の関心や経験についての英作文を発表したことから、その流れで、先生に「あなたが今一番関心があることは何なの?」といった質問をされた。

私は少しためらったけれど、iphonでACIMのサイトを見せた。

A Couese In Miracle.奇跡講座。

でも、ACIMについても「奇跡」についても、まったく説明ができなかった。

先生から「それは神さまと関係ある? あなたは神さまを信じる人?」と聞かれ(先生の日本語はややカタコト)、「はい」と答えたら、

「私、神さまを信じる人きらい!あ、ごめんね。でも、神さまに祈っても何も解決しない。神さまで戦争がなくなる?すべては自分と自分の努力よ。自分の力で切り開いていくものよ」と言われた。

私は「そうですね。私も自分の中の神さまを頼みにするのでOKだと思います」と答えるばかりだった。

母国を離れ7ヶ国もの国で仕事をしてきた先生には、特別に強い自負心(と、もしかしたら神さまへのアレルギー?)があるようだった。

私もはなから議論するつもりもないのだけれど、まじめに答えようと思ったところで、「この世は実際はリアルに見えるけれど、自分を映している投影であって、私たちは個々人であるかのように見えるけれど、ひとつであり神の延長であり…赦すことが何より大事で…」なんてことを、どこからどう説明してよいかもわからない。

人と場面を選ばないとやっぱり「頭は大丈夫か」と言われてしまうだろう。

奇跡ってなんだろう?

返りに日本人の受講者の方と二人になりフォローのつもりか、「奇跡ってどういうことだろう」と振ってくださった。けれど、「奇跡」という言葉の意味も、ものの見方の変容をさすACIMのそれと、「信じられないことが起こる」といった一般の「奇跡」ではまったくちがう。

それを説明しようという意欲すら持ち合わせず、ただ「『奇跡講座』の「奇跡」の意味も一般のそれとはちがうんで…」と、もごもごとつぶやき、言葉のキャッチボールのボールをぽとんと足元に落とすだけだった。せっかく話題を振ってくださったのに申し訳ない。

やっぱり『奇跡講座』のことを世間で話すのはむずかしい、と思った。(やっぱり、というけれど、これまで一度か真剣にトライしてみたわけじゃない。友だちに『神の使者』を勧めて読んでもらうところまでいったことがあるのが一度だけ。)

先生の反応は、自分の中のもうひとりの私のACIMに対する思いで、それを見せてくれたのかもしれない。

返り際に私に「奇跡ってどういうことだろう?」と言った方が、「量の質への転換かな?」とご自身の考えを言われた。それが哲学的でおもしろかった。

量の質への転換…。10回では何の変化もない。100回でもわからない。10000回でも変化せず。だけど、10001回で変化が起きる。それって奇跡ってたしかに言うかもしれない。

そういう意味では、一般でいう奇跡も、『奇跡講座』の通じるものがあるかも。

来年2018年のお題は、「奇跡講座を自分を通していかに一般向けにもっと広く表現していくか」というところかな、とふと思う。

レッスン166-私には、神の贈り物がゆだねられている。

2017-12-13

日本海側は大雪警報、本格的な冬がきた

今日も東京は快晴だけれど、母が暮らす日本海側は大雪や猛吹雪に警戒だということで、朝母に電話してみたけど、まださほどではないらしい。これから本格的な冬が始まる。

日本列島は縦に長いし山脈も多いし海岸も多いから、同じ季節の日本といってもその気候はまったくちがうなあ、と今さらだけれど思う。もっと日本の地理のこと、地理だけじゃなくて観光や産業など知ってもいいかもしれない。半世紀以上生きてきて基本的なことを知らないことを、よく感じる。

教養というまでもいかないことだけれど、中学生くらいのレベルの知識がちゃんとあったら、もっとわかって楽しいことや感じることがたくさんあるんじゃないか、と思う。

それでも「この世は幻想」というACIMの教えで、途中からどうでもよくなってしまうのだけど。それでも、せっかくこの世に生きているのだから、この世のことももっといろいろ知りたいと思う、最近。

レッスン166-私には、神の贈り物がゆだねられている。

レッスン166本文の概要―

私たちにはすべてのものが与えられている。

だけど、私たちの意志が神とひとつでなければ、そのギフトは受け取られない。

私たちはこの世が神の意志によって創造されたものだと思っているが、この世は神の意志は無関係で、実は存在すらしていない。

ただ、神とは無関係な偽りの信念によって作りだして、幻想を見ているにすぎないが、幻想を見るものはその幻想を守ることに必死で、神のギフトを受け取ることは、自分自身への裏切りを強いられることだと信じる。

そして、私たちが恐怖におびえているのは、まさにこの幻想の世にしがみついているから。それを手放して神からのギフトに気づいて自分のものとしさえすれば、すべての悩み、悲しみ、苦しみが終わるというのに。

上記のようなことは、ACIMワークブックの中で、手を変え品を変え、何度も何度も説明されている。

レッスン166中の「(この世を実在すると思う者が)さまよい続け、彼の周りのどこにでも見える虚しさを意識しつつ、あてどもなく歩み続けながら、自分のわずかばかりの取り分が減っていくのを知覚している。」という表現は、人生の後半に入った者の多くが感じているだろう心境をうまく表現していると思う。

私たちは、神のギフトが与えられており私たちを導く聖霊(ホーリースピリット)が耳元でその開き方を教えてくれているのに、「今、映画を見ている最中だから。」と耳を貸さないでいる。もちろんそれはホラー映画だ。

「彼は自分で選んだ道を進んでいるのであり、自由になりたければただ、誰が自分とともに歩んでいるかを認識し、自分の宝庫を開きさえすればよいのである。(L166-6-3)」

それを認めるのは、気づいた今だ。「惨めな自分こそ自分だと思ってきたが、それは自分の真のアイデンティティーではないのかもしれないとすら思えてくる。(L166-9-3)」

神からのギフトを次の誰かにつなげる役割

そして、後半にはこんな文章がある。

「あなたがどんなに恐れを抱こうとも、ただ一言「そうではない」と慈悲深く、やさしく答える存在が、あなたとともに歩いている。(L166-11-3)」

この文がレッスン166の中で最も私に響いた。

さらにレッスン166は、自分一人が神からのギフトに気づいてそれを受け入れるだけではなく、次にそれを他の誰かにつなげる役割を担うべきことが書かれている。

「しかしその存在は、さらにもう一つ、あなたが忘れていたことを思い出させる。(L166-12-1)」

「彼がやってきてあなたに差し出したものを、今度はあなたが与えることを学ばなければならない。これこそ彼が与えることを通して教えている学びである。(L166-12-3)」

次の誰かに与えてこそ、本当に受け取ることになる。

ハッピーでいることと感謝

そして、これを実践するには、受け取った者はハッピーでいること。

「もしあなたが病気であれば、あなたが彼らに癒しを与えずにおくことになる。あなたが何かを恐れるなら、それが彼かに自分たちの恐れは当然だと教えることになる。(L166-14-3,4)」

つい、復習もかねて、自分が響いたところを書きだすかたちになってしまった。

自分も身近な家族や友人も含め、この世は「問題」に溢れている。年齢のせいか、とくに「健康問題」が多い。

昨日「近くまで来たから会わない?」と電話があり夕ご飯をご一緒した年上の友人は、不整脈の治療でカテーテルアブレーションという手術を三度して、もう大丈夫と気持ちが前向きになった矢先の先月末に、また症状が出て救急車を呼んだという話だった。

同じひとり暮らし。しかも私より10こ上。不安な気持ちが伝わってきた。

でも、ACIMの教えは不安をやり過ごし(その幻想性を見てリアルにせずなるべく流すこと)、常にハッピーでいること、を教えている。

むずかしいことはできないけれど、シンプルに常にハッピーでいることは心がけられる。

いや、実はこれが一番むずかしいのだけれど…、

常にハッピーでいることを心がけよう。

ワークをして感じたこと(聖霊さんのメッセージ?)は、「感謝、感謝、感謝!」だった。

感謝を表すことと、感謝のきもちを受け取ること。これもまたこれまでの人生で苦手なことだけど、覚えている間は心がけようと思う。

 

レッスン165-私の心が、神の想念を拒否しませんように。

2017-12-11

東京のそらと故郷のそら

とてもよい冬晴れだ。寒いけど澄んだ青空がさわやかで気持ちがいい。

私が育った北陸は日本海側だから、冬は雪や雨が多い。また降らない時でも晴天というのはめったにない。いつも冬はどんよりした空だった。

帰省の列車ではいつも川端康成の『雪国』そのまんま、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」。トンネルの入り口と出口での、青空から銀世界への変化をすごく不思議に思ったものだ。

最初に東京の冬晴れに驚いたのは、18歳で父と東京に大学受験に来た時だった、と空を見てふと思い出す。その父も今はもういない。

あれからずいぶん遠くに来たんだな。窓から青空を見上げ、一瞬感慨にふける。

けど、生きているかぎり変化はある。

歳を重ねるにつれ平穏になるとわけではなく、変化は常にあって、年齢が上にいけばいくほど、ところてんのように押し出されていくから、世の中が馴染みのない新しいものになるのだと、最近知った。

レッスン165-私の心が、神の想念を拒否しませんように。

レッスン165は、「この世が実在するように見えているとすれば、それには、あなた自身が世界を超えたところにある真理を否定しているということ以外にそんな理由があるだろうか。(L165-1-1)」で始まる。

今、私には、かなりリアルに見えている。

田舎でひとり暮らしをする高齢の母が歩行困難になっていたのは脊柱狭窄症になっていたからだと知ったことや、理事長を務めるマンションの大型修繕工事とそれに伴う借入のこと、自分が月々の生活費をちゃんと稼げておらず預金から引き下ろして生活していること、これからどうやって稼いでいったらいいか見当もついていないこと…

どれもかなりリアルに見えている。

自分のことだけではなく、すもうで貴乃花部屋の貴ノ岩関が横綱・日馬富士に暴行された一連の騒動や、富岡八幡宮の宮司の富岡長子さんが弟に殺害された事件、さらにトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と正式に認め、大使館を当地に移転させるとして国際問題になっていることなど最近のニュースも、けっこうリアルに見えている。

レッスン165によれば、この世が実在するように見えている⇒ということは、すなわち、私が神の想念を拒否しているから、ということになる。

自分の意志で拒否しているから、本当は命の源であり自分とひとつてある、神の想念を感じることができず、神のヴィジョンが見えない。

ACIMを学ぶ一方で、強いエゴへの執着

細々とだけれどワークを続けてきて、「この世はリアルではない」「私たちは自分の想念をスクリーンに映し出して、4D映画をはるかに超えた完璧なバーチャルリアリティの世界を体験しているだけ」と、頭ではわかっているつもりだけど、その世界に何かしらのイベントが起こった時には、いつしかそれが幻想だということを忘れて、すっかり巻き込まれてしまっている。

神の想念をエゴのそれと取り換えたい。

だけど、神を頼り切るのは怖いと思う。

そして、自分が自分だと思ってきたもの(=エゴ)を手放すのも、怖いんだと思う。

ACIMの考えには惹かれる。そしてワークもやる。

でも、それはエゴが許可した柵のなかでだけ…というのが、今の私の状態なのかもしれない。ある一定のところまでワークが進むと、聖霊からのアドバイスを求めつつも、「それを聴きたくない」「聴いてしまって何かを変えなければならなくなるのがいやだ」と思っている自分がいる。と気づく。

これじゃあ、だめだよな~

エゴが傷つかない範囲で、ワークの上っ面をなでているだけだ、たぶん。

それでも、玉ねぎの皮をむくように、少しずつでも、エゴが小さくなっていっていたらいいけど。

レッスン165は次の言葉で締めくくられている。

「確信を得るためには、私たちは自分に頼らず、神を頼りにする。そして神の名において、私たちは神の言葉が指示する通りに練習をする。神の確かさは、私たちのあらゆる疑いを超えている。神の愛は、私たちのあらゆる恐れを超えたところにあり続ける。神の想念は、今もすべての夢を超えて、神の意志の通りに私たちの心の中にある。」

私は、ACIMの素晴らしさに惹かれた一方、エゴへの執着も人一倍強い。だから学習に時間がかかるのだと思う。

ゆっくりでいいから、離れず続けよう。

レッスン164-私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

2017-12-08

お赤飯ときんぴら

昨日、マンションの理事会と修繕委員会(大型修繕工事のための会)があり、いろいろと紛糾したいへんだった。

…がそれとは別に、ちょっとしたサプライズが…!

それは役員でもある私の階下に住むおばあちゃまが、手づくりの赤飯ときんぴらごぼうを下さったこと。

理事会でもまったく発言することなく、私とも、10数年前引っ越してきてからほとんど話したことがない。一昨年、私のユニットバス下の配管からの水漏れで大迷惑をかけたし、目が合うと逸らされるからてっきり嫌われているのだろうと思っていた。

だから、理事会終了後に「赤飯炊いたから、あげる」と、パックが入った袋を差し出された時は、びっくり。

え、私に?

嫌われてたわけじゃ、なかったんだ…

そして、そのお赤飯はほのかに塩味が効いてとってもおいしかった。

冷蔵庫には、先日他の年上の友人にいただいた栗ご飯ときんぴらがまだ、ある。そして、お赤飯と新たなきんぴら…と、手づくりがいっぱい。

なんだか、寒夜にまた、ほっこりした。Thanks!

レッスン164-私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

ワークの日記がなかなか更新できなかった。もともと未だに何を書いていいかわからなくて、気合いがいる。

レッスン164をやったのが、母が上京する前の11月16、17日と、ちょっと飛んで帰った後の11月28~30日。どんなワークだったっけ、とワークブックとメモを見て思い出すところから。

私たちの源である神とひとつになり、私たちの五感に頼るものの見方ではなくて、キリストの見方を習得するのが、このレッスンの目標であり、ワークブック全体を通しての目標でもある。

このレッスンには「キリスト」という文言が何度も出てくるが、これはイエスキリスト個人ではなく、聖霊と一体化したわたしたち自身の神性をさしている。

この世界をキリストのまなざしで見ることによって、この世界の無意味な騒音をスルーすることができる。その神性、聖性はすでに自分の自分の中にある。この世の雑事、雑音に囚われず、静かに心を開くことによって、自らの内なるキリストを開きさえすれば、この世で感じている悲嘆や苦しみは天国と交換できる…というようなことが書いてある(と思う)。

キリストの四角の前では、この世界はたやすく消えていく。(L164-2-1)

この日、悲嘆は捨て去られる。なぜなら、キリストが与える時間を今日、受け入れるあなたには、外の世界よりもはるかに身近な内界から生じる光景や物音が明確になるからである。(L164-3-4)

あなたの中には、罪の想念が一度も触れたことのない聖性の感覚がある。このすべてを、あなたは今日思い出す。(L164-4-3)

私たちは、この世には辛く悲しく厳しいことが多いと思っているけれど、それは単に私たちが内なるキリストを開いていないからだという。それさえしっかり身につけれれば、この世の辛く悲しく厳しいことはかすかに聞こえる雑音のように感じられるのだろう。

私たちが見るもののすべては、その聖性の内に私たち自身の聖性を反映するので、ただ私たちの喜びを増すばかりである。(L164-7-4)

練習の間、自分が欲していると思っているものをすべて手放すことによって、カーテンを開きなさい。あなたのとるに足らない宝物を片づけ、清浄で開かれた空間を、心の中に空けておきなさい。そうすれば、キリストが訪れて、救済という宝を差し出してくれる場所となる。(L164-8-1,2,3)

ワークをして

大事なのは、自分の今の見方を一回捨てて心に清浄な空間を作ることだ。

だけど、ちょうどこのワークをやっていた前後は、母を迎える準備と滞在中母に合わせることで、いっぱいいっぱいでまったく心の空きスペースが持てなかった。また、帰省後もあることで心がざわついていた。

そういう特別なタイミングでなくとも、一般の大人にとってこの世は「目標(やりたいこと)」や「問題(解決すべきこと)」で溢れていて、何もないスペースを作る余裕はほとんどないだろう。「本当の我に返る」ということなく、目先のお題に追われてあっという間に一年過ぎてしまう気がする。

むしろ、逆で自分を麻痺させて大事なことに気づかないために、あれやこれや「問題」と「目標」を創り出しているのかもしれない。

本当に大事なことに気づいたら、自分を変えなくてはいけない。それに抵抗があるから。

毎日の地道なワークは急速な変革というわけではなく、薄皮を剥ぐように自分を変えてくれるといいと思う。それにしても、もっと毎日まじめにワークしないと。

このワーク時のメモ(感想)には、

「神さまの正体は感謝である。」

とある。神さまに対して「正体」とは失礼な書き方だけれど、本質やエッセンスという書くより真に迫っている気もする。

「神さまの正体は感謝である。

だから、神とつながるには感謝すること。

神に。そして神を映すすべてのものに。

記絵とは、すべてのものの中に神を見ること。

その目をやしなう。」とある。

また別の日には

「自分の好きなことと仕事を一致させてもいい。

好きなことではたらき、おカネを得てもいい。

神の子は、そのままで愛されて、満たされていい。

神が私に感謝している。

私がここにいることに。

私が神に思いを巡らして、神と通じたことに。

神さまは誤解されている。

その誤解を解くというのもしごとだ。」

とある。

神さまと感謝との関係?にこのところずっと関心がある。

いいことがあった時に感謝するのはたやすい。

自分にとって良くないことがあって、そこでも感謝するのが大事なんだと思う。「良くないこと」=幻想、であり、そこを見破りスル―して、感謝することこそ神さまと通じることだと思うから。

早めのクリスマスギフト !?

2017-12-04

昨日、少し早目のクリスマスシャンソンショ―に行ってきた。

風邪気味でおまけに膀胱炎も併発したらしくトイレがやたらに近く、体調面はイマイチだったけれど、おいしいお弁当とケーキ(高級弁当、ケーキ&コーヒー付き!)をいただき、美しい生歌でぜいたくなひとときを過ごせた。

メンバーは、あるカルチャー講座の先生と受講生仲間。前回から一年ぶりにお目にかかって、「一年ってあっという間だね、年々短くなるね」と話した。歌い手のひとりの方も、肺炎にかかって1ヶ月も入院されていたとかで酸素チューブを手にしながらの熱唱。時の流れとそれぞれの変化を感じた。

去年は参加されたけど今年は都合で参加できなかった方とコンサートの前日にメッセージのやりとりをしていたら、「買い置きしておいた栗で栗ごはん作ったから、少しですが送りますね」と言ってくださった。

その宅配便が今朝届いた。

栗ごはん、きんぴらごぼう、かぼちゃ煮、八宝菜風の煮物、焼きそばなどなど。なぜかくまモンのおせんべいも入っている。テレビドラマの「田舎のお母さんの宅急便」みたいだ。

さっそく夕ご飯にお惣菜をいただいた。

栗ご飯も、きんぴらも、かぼちゃ煮も、お店の味とはちがう、家庭のぽっこりする味だった。

ほんとにおいしい。

風邪で自分で自分の世話のが面倒だと思っていたタイミングで届いたごはん。体にも心にも栄養が与えられ、ありがたかった。

ひとり身に冬の寒さと寂しさが染みると思っていたけれど、そうじゃないな。

人の優しさが染みる… だ。

クリスマスコンサートをご一緒した方からは、入浴剤やハンドクリーム・ヘアワックスといったプチギフトもいただいた。気が効かない私は、いただくばかりだった。

今年は、ひとり身の12月は苦手だとは言わないようにしよう。せっかく与えられている時間を楽しもう。

私もなにかお返しができるといいな。

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