レッスン156-私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。

2017-10-19

レッスン156-私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。

このテーマは、ワークブックの中でくりかえしくりかえし練習している、このコースそのものの宣言だ。

「想念はその源を離れない」のだから、私たちは今も神とともにある。

神は聖性と分かつことができず、私たちは神と分かつことができない。だから、私たちは元より聖らかな存在であり、罪はありえない。

罪がないなら、罪悪感には根拠がなく私たちが内心怯えている罰もあるはずがない。

私たちに必要なのは、それを思い出しただ受け入れることだけだ。そうすれば存在が輝きだす。

あなたの中には、消えることなき光がある。(L156-4-1)

その光は、この世のすべてのものを照らす。

生けるもの一切があなたの前で静かになる。なぜなら、彼らは誰があなたとともに歩いているのかを認識するからである。あなたが運ぶ光は彼ら自身の光である。そのようにして彼らはあなたの中に彼らの聖性を見て、救済者であり神であるあなたに挨拶する。(L156-5-2,3,4)

ACIMは、私たちは誰でもひとりで天国に入るわけではないという。与えて初めて得られる。与えるときが受け取るとき。だから、ACIMを学ぶことは同胞の先導役となることも自ずと含まれているようだ。

このレッスン156で最も心に響いたのが、次のフレーズだ。

「誰が私とともに歩むのか?」この問いが、問われなければならない。(L156-8-1,2)

幻想との世と学びつつ、ちょっとした出来事にいつも反応してしまう。その時に、"Who walks with me?(誰が私とともに歩むのか?)" ―力強い言葉だ。

どんな状況でも覚えていられたらいい。それはたぶんムリだろうから、ちょいちょいこれを思い出せたらいい。

ワークをして

主題概念をテーマに朝晩短い瞑想ワークをしていると、いろんな雑念というか思いが出てくる。

このワークでは晩年の父のイメージが出てきた。認知症を患って最後は寝てばかりいた。ある時父の手相を観ながら「思ったような老後じゃなかった、こんな老後を思ってなかった…って書いてある」と私が言ったら、父は「そう…」と答えた。

父は何を思って最晩年の時を過ごしていただろう、とせつなく思い出した。病気になる前は照れくさくて、面と向かって「ありがとう」も言えなかった。心の中で「ありがとうございます」と言った。

浮かんだことば

今、目の前にいない人にも、ありがとうと言ってみる。