ワンコインイングリッシュで英会話勉強中

2017-09-27

復習Ⅳを終えてレッスン151へ

『奇跡講座(ACIM)』ワークブックは、復習Ⅳを終えてレッスン151へ。

これがまた長文!で、英語読みに喘いでいる。

せっかく吟味された和訳があるんだから、何も英語で読もうとする必要はないんだけど、原文を横において和文と見比べながら読むと、ACIMを勉強したという満足度が上がる。これって、勉強というより趣味だな…。

ACIMを勉強しだしてから、英語の勉強への意欲も高まった。

何といってもACIM発祥の血はアメリカだし、全世界の学習者とコミュニケーションできるとしたらそれは英語を通してだそう。いつかワークショップにも参加してみたい。

読むのはなんとか英語と和文翻訳、あと大畑学さんの精読版でやっていくとして、話すのをなんとかしたい。

日本のこれまでの英語教育の弊害かな?文章は読んでなんとなく意味がわかるとして、しゃべる方は、まったく話せない。悲しいかな、

Hallo!

How do you do?

This is a pen.

のレベルで止まっている(>_<) 英会話スクールに行きたいけど、月謝は払う余裕はないし…。

ワンコインイングリッシュ

そういう私だったけれど、4月から英会話を習っている。地域のNPO団体が主催で月2回やっているもの。

これが素晴らしい!

先生はネイティブの美しい女性。1回1時間半でワンコインの500円。

電話、レストラン、道案内など、実践的なシチュエーションでの会話を毎回練習している。

これまでに英語の授業のほか英会話スクールでも習ったことがあるけれど、いちばんいい。何よりRとLの発音など基礎の基礎にこだわる先生だから。

「日本人の英語は土台がしっかりしていない。基礎がない上にどれだけ高い建物を立てようとしても崩れちゃう」とおっしゃって、しつこく何度も基本をくりかえしてくださる。

そして、クラスにいる全員に順番に話させるところもいい。

せっかくのいい講座。復習しないから、二週間でまた元のレベルに戻ってしまって活かしきれていないのが反省点だけど。

よいものは高い、と思い込んでいたけれど、そうとは限らないと実感。

よい英会話の講座に出会えたことに感謝!!

いつか、ACIMを学ぶ外国人と英語でと話してみたいな~。はてしなく遠く思える。密かな野望…

復習Ⅳおわり-レッスン121~140

2017-09-25

レッスン121~140を復習する「復習Ⅳ」が修了。復習Ⅳのレッスン121~140の主題概念は下記のとおり(日本語は『奇跡講座ワークブック編より』)。

レッスン121を始めたのが6月21日だった。復習Ⅳをやり始めたのが8月26日。長かったな。

緩慢ながらこのダイアリーブログは、ACIMワークとACIMから離れてしまわない、ということには役立っている。こうして、主題概念を書き移すだけでも思い出すし。

復習Ⅳは、各々のレッスンを結ぶ次のような中心テーマがあった。

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

この考えを浸透させながら、赦しという概念を深めて、神が創造したままの自分に近づく素地づくりをしていたような気がする。

復習Ⅳの序文にあった「その日に復習する概念が運んでくる贈り物を受け取りなさい」という点については、これがそうかな?と感じる日もあれば、まったく何も感じない日もあった。

それでも、朝と晩の小さな瞑想が習慣づけられると、偏った姿勢が日々正されるようで、自分が本当はだれか、思い出しやすくなって、そうすると無意味な罪悪感が少なくなり、その分幸福感を感じられるようになった気がする。

さわやかな秋…勉強を深めるのにいい季節だな。

 日本語 英語
121 赦しが幸せへの鍵である。121 Forgiveness is the key to happiness.
122 赦しは、私が望むすべてのを与えてくれる。122  Forgiveness offers everything I want.
123 私は、父が贈り物を与えてくれたことに感謝する。123 I thank my Father for His gifts to me.

124

 私が神とひとつであることを、思い出せますように。124 Let me remember I am one with God.
125 静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け入れる。125 In quiet I receive God's Word today.
126 私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。126 All that I give is given to myself.
127 神の愛のほかに愛はない。127 There is no love but God's.
128 私が見ているこの世界には、私が望むものは何もない。128 The world I see holds nothing that I want.
129 この世界を超えたところに、私の望む世界がある。129 Beyond this world there is a world I want.
130 二つの世界を一度に見ることはできない。130 It is impossible to see two worlds.
131 真理に到達しようとして、それに失敗する者はいない。131 No one can fail who seeks to reach the truth. 
132 これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。132 I loose the world from all I thought it was.
133 私は無価値なものに価値を置かない。133 I will not value what is valueless.  
134 私が赦しをありのままに知覚できますように。134 Let me perceive forgiveness as it is.
135 自分が防衛するなら、私は攻撃される。135 If I defend myself I am attacked.  
136 病気は真理に対する防衛である。136 Sickness is a defense against the truth.
137 私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。137 When I am healed I am not healed alone.  
138 天国は私が下すべき決断である。138 Heaven is the decision I must make.
139 私は自分自身に贖罪を受け入れる。139 I will accept Atonement for myself.
140 救済だけが治癒をもたらすものと言える。140Only salvation can be said to cure.

レッスン150-レッスン139、140の復習

2017-09-23

終わりとはじまりの、秋分

気づけば今週はじめての日記更新。秋分の日ともなると随分涼しく秋が深まった感がある。

政治では衆議院議員の解散が決まり、一気に選挙モードとなった。芸能界では、安室奈美恵さんの電撃引退発表に日本中が衝撃を受けた。

安室奈美恵さん、私なんかからみると、下の世代で10代で世を席巻して「カッコいい女のコ」の代表みたいなイメージのままだった。ほんとうにいつ見てもプロフェッショナルで美しい。

その彼女ももう40歳になるのか(そりゃ、こっちも歳とるわ~)、またひとつある時代が終わった…と感じた。

一方で、元smapのメンバーが新しいファンサイトを立ち上げたというニュースもあった。

「新しい地図」というそのファンサイトの動画を見て、とっても素敵だなと思った。だれが作ったんだろう、動画から空気と風のここちよさと広がりを感じた。未来もあえてポジティブにしなくても大丈夫だ、つながっている、と思えた。そして、ふと『奇跡講座』もまた「新しい地図」と言えるかもしれない、と思った。

私自身は、ある少し緊張する仕事の準備と当日で、疲れが出てへたっていた。たいしたことはしていない。だけど、あがり症と過緊張体質で、知らず知らずに身体に力が入ってしまうから疲れてしまう。

その頑張っている最中はアドレナリンやノルアドレナリンが出ていていわゆる戦闘モードになっているけど、仕事がひと段落すると、反動からか動けなくなってしまうのだ。今回は軽い膀胱炎もあった。

40代以降のこの体力の乏しさは、フリーランスでは致命的弱点だ。ここで無理をするとこじらして、回復までにまたえらい時間がかかる。何度も経験して自分のパターンがわかった。

まぁ、体質だ。というより、心の質といった方が正しいか…。

ワークをやりながら、「この過緊張の正体は恐れとその防衛反応で、それこそが私がこれから赦すべきテーマなんだな」と感じていた。心の隅にある「人が怖い」とも関係するかもしれない。

バイト探しは、体力に自信が持てないこともあってしばらく中断かな。気になるのがあるのだけど、応募するパワーがない。働ける自信もない。

レッスン150-レッスン139、140の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン150の2つの復習

L139)私は自分自身に贖罪を受け入れる。

L140)救済だけが治癒をもたらすと言える。

ワークをして

このワークしたのは、9月18日と21日。

ワークをする際、ノートにその日の主題概念を書き移すが、「あがなう」という字がうろ覚えで書けなくて、ネットで調べた。

贖う。

貝へんに「士」と「買う」みたいな字を書く。

どんな成りたちかと思ったら、

「『眚(せい・あやまち・わざわい)』の省略形と『買』から成り、わざわいを貝でもって救うことで、贖罪の意味を持つ。」とあった。

「贖罪」の意味は、

1.金品を出したり、善行を積んだりして、犯した罪をつぐなうこと。また、刑罰を免れること。罪滅ぼし。

2.キリスト教で、人々の罪をあがない、人類を救うために、キリストが十字架にかかったとする教義。和解。

『奇跡講座』はキリストの声による、聖書の修正だということだから、この2の意味の意味の修正ということになる。

そして、正しい意味はレッスン139本文にある。

贖罪が治癒するのはこの奇妙な考えである。すなわち、自分自身を疑い、自分が本当は何なのかについて確信を失うことが可能だという考えである。」(L139-6-1)

つまり、罪と思ってきたことはすべて誤解であり、自分自身がだれなのか―今も神に創造されたままの私であり神の子である―について確信を持つこと。

これが贖罪を受け入れるということだ。文字どおりの「罪滅ぼし」。

私たちがワークでやっているのは、様々なかたちでの罪滅ぼしの練習だ。

そして、レッスン140の「救済だけが治癒をもたらすと言える。

私自身も40代以降身体の不具合がちょこちょこ出て50代では病気が発覚し、「歳のせい」だと思っていたけど、真の原因は「罪悪感」ということになる。

前にも引用したかもしれないけれど、

罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。業気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」(L140-4-4,5,6)

というのが、病気とその治癒の本質を表していると思う。

一つの幻想を別の幻想に変えるのではなく、その夢から覚めるのだ。思っていても、幻想のなかにいてそこでの幸せや成功を夢見ている私にはむずかしいけど。

ワークをして感じたのは、今回の復習の主題と直接関係するわけではないのかもしれないけれど、

「『頑張らなくては幸せになれない』というこの世の一般的な考え方はまちがいだ。だれでも、どんな時でも幸せであっていい。それが真のあり方だ。」ということ。

今から思うと、本当かな、とも思えるが。

アファメーション

だれかがわるいわけじゃ、ない。みんな幸せであっていい。

レッスン149-レッスン137、138の復習

2017-09-17

付いていけないながら、Webサイト講習、楽しい

自分の求人プロジェクトはしばし休止して、フリーランスの新たにいただいた仕事をしている。フリーランスの仕事が安定的にあって成り立てば、それは最もいいことなんだろうけど、それはむずかしそうだなぁと思っている。だけど、バイトとの両立にも自信がない。もうしばらくは様子見かな。

昨日と今日は一日Webサイト関連の講習だった。昨日がサイト管理ソフトDreamweaverで、今日がサイトを作るルールCSSの講習。

受講生一人ひとりにパソコン席が与えられ、リーダーの先生が操作するのを見ながら各自操作するのだが、おばちゃんでトロくさい私は、気づくと付いていけなくなってしまう。アシスタントの先生に何度もフォローしてもらった。

同じような講習に何年も通っているから、いいかげん一人でホームページが作れるようになってもよさそうなものだけど、なかなかむずかしい。

でも飽きずに何度も通っていて、ゆる~くでもわかっていくと楽しい。未経験でもOKというようなWebデザイナーのアシスタントみたいなバイトがあったら、やってみたい!と思うけど、アラ還の私ではやっぱり引かれてしまうかな。

レッスン149-レッスン137、138の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン149の2つの復習

L137)私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。

L138)天国は私が下すべき決断である。

ワークをして

9月13日と15日にこのワークをした。最近、ワーク自体があまり進んでいない。

復習Ⅳの序に書かれている「その日に復習する概念が運んでくる贈り物を、受け取りなさい」という、その贈り物はよくわからなかった。

瞑想用の幻想的な音楽を聴きながらワークをして、気分は爽やか。とても神聖で心地よい気分になった。

そして、すべて解決されている…と感じた。どういうふうにかはわからないけれど。

アファメーション

私は天国を選択し、天国に欠乏はない。

いろんなかたちの恐怖と、それを赦すこと

2017-09-15

再びのミサイル発射と恐怖心

今朝7時、北朝鮮がまたミサイルを発射した。

初秋のさわやかな風を感じながら、ウォーキング中、信号待ちでスマホのニュースを見たら、このニュース…!今度は北海道上空を通過って…。

だけど、びっくりした…と同時に慣れっこにもなりつつあった。

「日本を核爆弾で沈める」「米国を焦土化」…昨日北朝鮮が発表した声明もさらに過激になっている。どういう勝算シナリオがあって、こんなこと続けるんだろう。金正恩の心がアメリカに対する恐怖と羨望でいっぱいなのはわかる。いったい、若い指導者は北朝鮮の国民を連れてどこに向かおうとしているのだ。

そして、これは私自身の投影でもあるのだと思い出す。

私の人生に映し出されるすべてのことは、赦すためにあるという、ACIMの教えを思い出す。恐れは、その心が恐れたものをその心にとって実在化して、恐怖をさらに大きくしていく。百害あって一利なしだ。

わかっていても、恐れている心は恐れに飲み込まれる。恐れるがあまり、思考停止に陥ればもっとも愚かな行動をとってしまう。小さな不安からパニックまで対象や大きさはちがっても、恐れの本質を知ってそれを手放すというというのは、私たち人間にとって大きな普遍的テーマだ。

聴いてもらって楽になった

一昨日は、月1度のカルチャー講座、ユング心理学の日で、講座後、先生と受講者みんなで喫茶店に行き夕ご飯を食べた(みんな、といっても4人だけど)。

雑談のなかで、私はついついフリーランスの仕事が減ってこのままでは生活が回らないことや、最も難度が低そうな近所の小さな会社の在宅仕事に応募したけれど面接まで至らず落ちたことなどなどを話した。

これも不安や恐れの気持ちが根底にある、いわばグチだから、誰かに話すことは、「それを自分が認め、リアルにしてしまうこと」で、良くないこと、慎むべきことだと思っていた。だから、話すこと自体がなかなかできなかった。

だけど、話をして聴いてもらったら、なんだかスッキリ、楽になった。堅かった心がほぐれたというか…

話していくうちに、ずっと前から経済的に不安定ながら細々とでも奇跡的に回ってきたこと、必要な時には必要なものがただで手に入ったことなども思い出した。

先生は、私がずっと『奇跡講座』を勉強していることを知っておられ、「あなたケチよ、わかちあいいなさい」とおっしゃった。また私のことを「自閉ね」とも。(いろいろ言われたけど、それだけ覚えている)。

ケチ、自閉…というのは、そんなに自分が素晴らしいと思っているACIMをただ密かに内に籠って勉強していることを指しているのかな?

その日は久しぶりに自分の感情を話したので、テンションが上がってしまい、いただいたアドバイスをちゃんと聴くということができなかった。そもそも人と要件以外を話すこと自体が久しぶりでもあった。

でも、よくわからないけれど、帰りには、ゆるく甘い私の話を聴いてもらって、何だかうれしいな、ありがたいな、という気持ちになっていた。

そこに愛とかわかちあいとか、感じた。

次のお題は、自閉を脱し、自分の本音をわかちあうことかな。

私にとって手放すべき恐怖は、経済的不安というより、人と触れ合いわかちあうことへの恐怖なのかもしれない。

レッスン148-レッスン135、136の復習

2017-09-13

1つめの求人、落ちた

9月10日のダイアリーに応募したと書いた「在宅ワーク」の仕事は、面接までたどりつくことなく、あえなく落ちてしまった。

在宅で出来高制の単価が安い内職的仕事。自宅から歩いて10分位のところにある小さな会社。ネットから名前、住所、年齢で申込んだ。

「慎重に協議いたしましたが、誠に残念ながら、
今回は採用を見送らせていただくことになりました。
ご希望に添えず恐縮ですが、なにとぞご了承くださいますよう
お願い申し上げます。」

4日後に来たメールにはこう書いてあった。「慎重に協議」といっても、名前と住所と年齢だけでの申込み。やはり50代という年齢で、会うに及ばずとなったのかな。

ここ10年位、フリーランスで活動していて会社自体が敷居が高い私にとって、最も低い「敷居」だと思ったけど、それすら超えられなかった…

まあ、会ってから断られるより、楽といえば楽だ。

一方で、フリーランスの仕事のほうで、ある会社から「相談したいことがある」という依頼メールが来た。たった一回の相談で生計が成り立つものではないけれど、ありがたい。下請け、孫請けで仕事をすることが主な私にとっては、直接会社からの依頼はレアケースだ。

ただ、その「相談」内容は私がとくに強い分野ではないので、約束日時までに勉強が必要。「専門ではないですが」と断りを入れることもできたけど、そうはしない。

来るものは拒まず。受ける。

レッスン148-レッスン135、136の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン148の2つの復習

L135)自分を防衛するなら、私は攻撃される。

L136)病気は真理に対抗する防衛である。

ワークをして

9月11日、12日にした。復習課題の本文を読んでみると、改めて、すごいことが書いてあるな~と思った。特に今の私のアンテナに引っかかったのは、レッスン135。

未来の計画、過去のふりかえり、現在を整えようとすること、これらすべてを防衛だと指摘しているからだ。

癒された心は計画を立てない。自分のものではない叡智に耳を傾け、そこから受け取る計画を実行する。」(L135-11-1,2)

現在の信頼だけを防衛とし、それに未来の方向を決めさせなさい。」(L135-19-2)

今後の生活費をどうしよう、貯金を食いつぶしている、このままではいられない、と求人サイトを見て、世に溢れる、だけど私は求められていない求人情報を前に「とにかく何とかしなくっちゃ」と気が動転していた。

いったん不安のスイッチが入ると、パニックになり考えがまとめられなくなってしまう。そもそもどうしたくて、どういう仕事ならば私でも先方に受け入れられるか、どういう働き方だったら続けられそうか、という前提さえ、落ち着いて考えられなくなっていた。

しかし、レッスン135の言うとおり「現在の信頼だけを防衛とし、それに未来の方向を決めてもらう」姿勢を選ぶべきなんだよなと、ワークをして少しだけど、我に返った。

「何らか計画を立てて、ちゃんと対処しなきゃ」と思っていたけれど、落ち着いて聖霊に委ね、その導きを待てばいいのかと思えてくる。

ちょうど在宅ワークの求人に申し込んだその日に、フリーランスの方の「相談依頼」が入った。それは聖霊さんが与えてくださった仕事なのか?

そう考えるのは調子がよすぎるか。

最近ひとり暮らしの人の「貧乏・節約ブログ」をよく見ている。それが、中高年以上のシングル女性だとよけいに親近感がわく。みんな、よく頑張っているな~、と思う。私は、甘々だ。

昨日の夜のワークでは、終わりに

「自信をもて」と感じた。

その自信は、これまで細々とだけれどACIMを続けてきたことと、特別な専門分野があるわけではない私が経営がらみの仕事にフリーランスでずっと関わってきたこと、その両方に対する自信を含んでいるようだった。

そう、私に必要なのは、「自信」なんだ。そして、本物の自信は、自分を導く聖霊への信頼、なんだと思う。

アファメーション

自分を邪魔をしているのは自分だ。本当の自分に委ねよう。

レッスン147-レッスン133、134の復習

2017-09-11

レッスン147-レッスン133、134の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン147の2つの復習

L133)私は無価値なものに価値を置かない。

L134)私が赦しをありのままに知覚できますように。

 

ワークをするにあたって改めて、該当する復習の本文を読むとむずかしい。そして意味深い。。とくにレッスン133に反応した。

無価値なものに価値を置かない。

私たちは肉体とその寿命を持ってこの幻想の世に生きていて(と思っている)、その維持のために必要なことはやっぱり「価値がある」と思うから。たとえばACIMは「食べ物」まで無価値だから手放せと言っているわけではないだろう。食べ物が必要なら、それを得るためのおカネや仕事も必要…となる。

それらを幻想だと見抜き、ただ必要だけ満たし、そこに頓着しないこと。ACIMが言っているのはそういうことなんだろうと思うけど、ワークブックの言葉をどの程度「文字どおり」に受け止めたらいいのかわからない。

この世の永続しないものすべてを「無価値」だと思うと、経営支援がらみの仕事なんて、その幻想世界でいかに勝つかみたいなゲームに思えてきて、心はどんどん遠ざかるばかりだ。

いや、もしかしたら、私の解釈がまちがっているのかな。私の仕事に対する関わり方や思いが変わったら、それは価値あることに変えることができるのだろうか。

自我(エゴ)のゴールは「探せ、しかし見つけるな」だから、この世のどんな成功や栄誉を追求しようとしても、決して「満足」という知覚で終えられることはない。そういうものだ。

自我のゴールには、求めた結果が得られないだけれなく、傷みが伴う。それを追求者は自我の性質ではなく「自分がだめだから」と自分の罪と見なす。

そうではなく、自我のゴールを実在のものと勘ちがいして求めたところにまちがいがあるのだけど、まちがいとは捉えず罪と捉え、自己処罰の思いが残る。自我のワナだ。この世の人生という道のりは、頑張れば頑張るほど自我のワナに落ちるようにできている。

ワークをして

8日と10日にレッスン147をやった。ここ最近おカネの不安から求人サイトを見て、そこから「世間」を覗き見ていた。

ワークをして浮かび上がったのは、私が仕事に応募すること自体にすごく強い恐怖があるということ。それが何に対する恐怖なのかと感じてみたら、

・もうその仕事の募集が終わってしまっていること

・年齢が高いこと他で会う前に落とされてしまうこと

・履歴書を書くこと(過去の自分に直面)

・面接で人と会うこと

・落とさせること

・決まったとして、仕事や人になじめず嫌な思いをするリスク

・自分の貴重な時間を取られてしまう、その割に大したおカネにならないリスク

などなど諸々あった。が、その奥に根幹となる「自分のエゴが傷つくのが怖い」があるのがわかった。エゴはプライドと読みかえることもできる。

これこそ、私が動けていない元凶であり、私がいま赦すべきことなんだとわかった。

おカネの心配、仕事の応募に対する不安…。もう使えるおカネない、仕事探さなきゃ。これできる?これはどう?…でも応募するのも怖い。アクセルとブレーキを同時に押す→固まる。。。

そうして気ばかり急いて目の血管を切って、文字どおりの「血まなこ」になっていた。

赦すということは、存在しないことを認め手放すことなんだよね。渦中にいる時にはすっかり忘れてしまう。

赦しは、この世の幻想性の中で真理を象徴する唯一のものである。」(L134より)

赦しさえすれば、そして聖霊に委ねさえすれば、道は開かれる。そう思ったら、少し心安らかになった。

アファメーション

思い出したら、そこで赦そう

2017-09-10

あこがれはネットビジネス!?

土曜日は前週、昨日とパソコンのウェブサイト管理ソフト「Dreanweaver」の講習だった。3日間コースだから来週で終わりだ。

引きこもり傾向のある人ならだれでも一度はインターネット経由で収入を得ることを考えたことがあるんじゃないだろうか。こもる傾向のない人でもいるかもしれない。

私は十年位前から「ネットでビジネス」に関心があり、何をやるかのアイディアはないけれど、ホームページをさっくり作れるくらいにはなりたいな、と、HTMLやCSS、Dreanweaverなど東京都の安い講習を受けている。

今回の講座、実は去年もおととしもこの講習を受けた。でも全然使いこなせるようにはなっていない。同じ講習を何度も受けるのは恥ずかしいと思ったけれど、身についていないのだから「講習の恥はかき捨て」とばかり、また紛れこんだ。

講習を受けている時は、操作についていくのが精いっぱい。ついみんなから遅れ、手を挙げて補助の講師の先生を呼ぶ。反応が人一倍遅い。

スキルはあとで自分のサイトを作るなどして復習しないと一生身につきそうにない。できる人は独学でもどんどんやっていくから、単にセンスがないのだろう。

働く場所や時間に制約されない収入のしくみが欲しいな、と思いながら、そのための試行錯誤もせずに、もう何年も経ってしまっている。

毎年のように受けている講習でも説明される内容が変わってきていて、ネット社会もどんどん変化していると感じる。

もしも技術が身についたとしても、ネットを使ってそこから収益を得られるようになるまでにだどり着けるかな。収益を得るのは無理でもホームページだけは作れるようになりたいな。

求人の方は先週住んでいる町内の「在宅ワーク」の募集を見つけ、とりあえず申し込んでみた。時給でなく出来高で働く仕事。もしかしたら、年齢で落とされ、面接までもたどり着けないかな。

中高年のひとり暮らしの方々のブログを読んでいると、「みんな頑張っているな~、えらいな~」と思う。私はこれまで恵まれていたとも気づく。

常に欠けた部分を見て不安や心配を感じてしまうけれど、こうしたことを赦し、今を喜びたいと思う。

レッスン146-レッスン131、132の復習

2017-09-08

「戦闘モード」で赤目に!?

おととい夜、歯磨きの際鏡を見たら、白目が真っ赤。充血とかではないレベル。ネットで見たら「結膜下出血」というらしい。

昨日会った人には「私もなったことある。お医者さん行ったら、老化現象だって言われた」と。動脈硬化や高血圧、糖尿病などが隠れている場合もあるとか。

ここ数日、自分の中では、新たに収入源を見つけねば…と頭に気が上り「戦闘モード」になっていたから、血圧が高くなっていて、ブチっと眼の血管が切れたとしても不思議はない。

バイト探し→面接を急ごうと思っていたけれど、この赤目は怖い。第一印象が大事な面接では避けるべきだろう。具体的に動くのは来週か。

困ったと思う一方、ほっとしている自分もいる。見栄えが良くない。早めに治したい。

そもそも戦えるスペックがないのに戦闘モードとは…!疲れるだけだ。戦う対象はない、まったくACIM的ではない。

この世を作っているのは、実は自分自身だ、神の子が困るはずはないと鷹揚に日々感謝して構えていればよいのだ。

だが、そこまで身についていない。いつまで経ってもACIMビギナーだ。

レッスン146―レッスン131、132の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン146の2つの復習

L131)真理に到達しようとして、それに失敗する者はいない。

L132)これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。

ワークをして

9月6日と7日にやった。朝と夜のワークはできたけれど、毎時間のワークはほとんどできていない。でも、それにこだわるとまったく前進できそうになかったので、「二回目だし、いっか」と自分に甘く、よしとした。

復習Ⅳの序に書かれている「その日に復習する概念が運んでくる贈り物を、受け取りなさい」という、その「贈り物」がよくわからない。

受け取ることができているのか、いないのか…。はっきりとしたメッセージ等はわからず。

ワークをすると、上がっていたテンションが下がり穏やかな気持ちになれる。だから、本当は日中もちゃんとできればいいのだけれど、時間がなく、ざわざわしてワークに向かえない。

昨夜のワークで感じたのは、この世界自体が生け贄だということ。

何の?

私(私たち)がエゴに捧げた生け贄。エゴという偽神にささげた生け贄。

そして、私たちはその生け贄のおこぼれをいただいているというわけだ。(ほんとかな)

でも、それもまた幻。

昔ばなしで、たぬきからおまんじゅうをもらった、と思ったけれど、後で見たら枯れ葉になったいた、…みたいな。

これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、世界を解き放つとは、自分サイドからみたら、世界的な位置づけをスルーするということだ。

楽しむのはかまわない。だけど、捉われてはいけない。

それは、たぬきの葉っぱだ。

だまされるゲームに興じることができるのは、若さのゆらぎであり、人生の午後には幻を見通すことが必要だ。

…そう感じた。(なんかえらそうに書いているけど)

私はたぬきの葉っぱをたくさん集めている(^_^;)

アファメーション

この世界は私がつくって見せているのだ。脚本を書いたのは私だ。

日々のワークの追加版

2017-09-07

最近、日々のワークの際に一緒にやっているのが、

1.自分の中に「絶対死なない部分」を見つけること、と、

2.祈りの瞑想、

3.プロセス

だ。長い時間をかけるわけではなく合わせても数分。順番はこのとおりではなく、3→1→2とでやって、それから日々のワークへと移ることが多い。

1.自分の中に「絶対死なない部分」を見つける

自分の中に「死なない自分」を見つけるとは、へんな言い方だけど、7月ごろから私が勝手にやっているワーク(?)だ。心の中のホーリースピリットの住みかをイメージしようとしてやりだした。

レッスン143のダイアリーにも書いていたけど、やっているのは次のとおり。

目をつぶって自分はそもそも身体ではないんだ、死なない、身体はいずれ滅びても自分の中には「絶対死なない部分」がある、と考える。

そして、その部分を自分の内に探す。ぴったりそうかなと思えなくても、ここがそうかな、と思うところを見つける。

それから、その部分の性質を考える。それは、神の子である私の本当の性質だから、神と同じようだろう。

私の場合は、①無限にやさしく、②無限に感謝に満ちて、③無限に誠実で、④無限に穏やかで、⑤無限に喜びに溢れ、⑥無限に豊かだ、と感じる。最近、⑤の「無限に喜びに溢れ」が加わった。これ以上長くならないようにしようと思う。

この性質は今の私の性質とはちがっていてもお構いなし。神の子、私の理想形であり、本質なのだから。

それから、この性質を十分感じ、それとはそぐわない今の自分の部分を削ぐ、流す、手放すイメージをする。言葉はいろいろ、それぞれみんな自分が腑に落ちる言葉があるのかもしれない。

これを今の復習Ⅳは朝と夜にワークがあるから、その時に一緒にやる。そうすると、気持ちが落ち着く。

おそらく私が「自分の中の絶対死なない部分」を探すきっかけは、私が死を恐れているからだと思う。だからこそ、私は身体ではない、肉体の死は服を脱ぐようなもので死はないのだ、と思いたいのだ。

いつかホーリースピリットの見方がしっかり身につけば、こういう考え方は必要なくなるのかもしれないけれど、今は自分が何者か、どういう者か思い出すのに役立っている。

2.祈りの瞑想

2の「祈りの瞑想」は『神の使者』で紹介されていたものだ。検索してみたら、今年の7月28日のダイアリーに書いていた。

今、自分が「困った」「問題」だと思っていることに囚われてそれをこじらせてリアルにしないように、それを神の祭壇に委ねてしまう方法だ。その「問題」の答えはある時、ホーリースピリットの導きによって直感や目にする本や人からの情報、ネットなどからもたらされるという。

繰り返しになるけれど、やり方はざっとこんな感じ。

①ホーリースピリットとともに内なる神の祭壇に行く(イメージをする)

②自分の問題や目標や、偶像を、贈り物として神の祭壇に捧げる。心の外に出し、自分は忘れる。

③神に深い愛と感謝を捧げる。神とひとつになる。

④その喜びを感じる(祈りの瞑想の一次的効果)

⑤その後に、ふと、自分の問題や目標についての、解決策や方策のヒントが与えられることがある(祈りの瞑想の二次的効果)。

3.プロセス

3の「プロセス」は「ザ・マネーゲーム」から脱出する法で紹介されている方法。

この本は『奇跡講座』関連書籍ではないのだけれど、私はこの本を副読本としている。すばらしい本だと思う。

考え方がACIMとすべて一致しているわKではないけれど、この世が実は現実ではない、そこから抜け出すことで自分が作っている制約から自由になれるという考えは共通するものがある。

そして、この世界の幻想性を破る手法の一つとして「プロセス」を紹介している。私は「赦しの実践」に、この本のやり方をアレンジしてやっている。

「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』については、また別の機会に書きたいと思う。

以上、日々の瞑想ワークのアレンジでした。やり方なんて自分でも意識しないうちにしょうっちゅう変わっちゃうから、とりあえず「今」を記録。。。

←古い記事を見る