レッスン139-天国は私が下すべき決断である。

2017-08-25

いま赦すべきこと

私が帰省していた時はずっと長雨が続いていたらしいけど、ここに来てまた暑い日が続いている。

8月21日と22日とレッスン139をやった。やったとは言っても、朝夜の長めのワークの間の毎時間の練習はできていない。でもこれを完璧にやろうと思うとまったく前に進めなくなりそうなので、いいことにして進む。

すでに一度やっているのだから、、という緩みもある。けど、一度やっていると自負?するわりには、習得度は低い。ACIMの理屈だけ抱えて体育座りして固まっているようではいつになっても習得できない。

この素晴らしい理が体現するものとなって、この世で生きなくちゃ!ひきこもっていないで、外に出なきゃ、と思う。

この考えが世の中の常識と言われるものとあまりに違っていて、それどころか「世界は実在しない」というのだから、一般の人には心理的テロのように世に歯向かうものと受け取られやしないかと恐れている。

そう、私は、ACIMが素晴らしいと思っている自分の考えをオープンにすることに恐怖があるのだ。

その恐怖こそが、私がいま赦すべきことなんだろうと思う。

なんたって、ACIMと出会った今、自分の人生のお題は、①ACIMをより平易にわかりやすく表現すること、と②形而上的、抽象的なACIMをこの世の日常性とつなぐこと、だと思っているのだから。

レッスン139-天国は私が下すべき決断である。

さて、レッスン139は、「自分自身に贖罪を受け入れる」がテーマだけど、その前に「自分は何なのか」について私たちが確信を持っていないことについて書かれている。

私たちの葛藤や迷いは「自分が何であるか」がわかっていないことから来る。そして、それは自分をだましていることだと言う。本当の自分を実は知っているはずなのに、その本当の自分を拒否し、自分をごまかして知らないふりをして、さらにそれ自問しているというのだ。

自分が何であるかについての確信の欠如は、あまりにも大規模な自己欺瞞であるため、その巨大さは想像を絶するほどである。

こうして彼は、自らの生命について確信がなくなる。自分の生命そのものを自ら否定したからである。あなたが贖罪を必要としているのは、この否定のためである。

私たちの心はエゴに支配され、本来の自分が感じられなくなっている。しかし、実はエゴは虚偽。存在すらしていない。存在していないものを拠りどころにしても、残るのは虚しさだけだ。

それをレッスン139で治癒する練習をする。

贖罪が治癒するのは、この奇妙な考えである。すなわち、自分自身を疑い、自分が本当は何なのかについて確信を失うことが可能だという考えである。このような考えは狂気の極みである。

このあとには、すごいことが書いてある。

世界が信じていることで真実なものは何一つない。この世界の目的は、自分自身を知らないと主張する者たちがやってきて、自分とは何かと質問していられる安住の地を提供することである。

この世を「自分とは何かと質問していられる安住の地」と表すとは…!

私たちが、「自分とは何か」と自問したとしたら、そんな自問は本当は成り立たないはずなのだから、それはまさに自分を偽っている証拠なのだ。自己欺瞞であり自己否定だ。

ACIMを学ぶ目的と使命は、この自己欺瞞と自己否定を解消することだ。

それは赦しによって、罪を購うことによってなされる。一度も犯されなかった罪を購う。それが贖罪だ。

自分を赦せば他者も赦される。他者を赦せば自分も赦される。

それが、この世に来た目的と使命でもある。

私は自分自身に贖罪を受け入れる。私は今も神に創造されたままの私なのだから。

ワークをして

自分自身に贖罪を受け入れるということが、簡単そうで実はなかなか難しく、「おまえは罪人だ」と私を責める心が無意識の根っこに在る気がする。そしてそれは根深く大きい。

レッスン101「神の意志が私に望むのは完全な幸せである」のパラグラフ5にも「自分が神の子を悪魔にしてしまったという信念をいつまでも大切にしていないで、開かれた心で贖罪を受け入れなさい。」とある。

その大畑学さんの戦士書籍の解説には「罪も罰も幻想だと知って受け入れ、受け流して赦し、幻想を消滅させていまうこと、それがACIMの贖罪である。贖罪とは、まさに罪滅ぼし、罪を滅ぼすことである。」とあって、「なるほど」と唸ったことを思い出した(どこで見たんだっけと検索して調べたらレッスン101だった)。

これは私だけではなく人間が誰しももつ「原罪」で、それが無意識の奥にあるからこそやっかいなのかもしれない。でも、これを対峙しないかぎり天国には入れないのだから、目前に現れたものをコツコツと赦していくことにしよう、と改めて思う。

赦しの機会が目前に現れることすら、チャンスとは思えず、恐れているのだ、今の私はー。

アファメーション

私に起ることはすべていいことだ。なぜなら、それ以外起りえないのだから。