レッスン138-天国は私が下すべき決断である。

2017-08-21

母との時間

IMG_1307土曜日、金沢の友人に会って、それから東京に戻ってきた。

故郷での在宅中、起きている間ずっと母が話しかけてくる。普段ひとり暮らしの私は、何時間かで疲れてしまう。「滞在期間は優しくしよう」と心に決めて帰省したのに、だんだんつっけんどんになり、ついいらついた返事をしてしまう。それに気づいては「やってしまった」と思う。

母は年にわりに頭がいいけれど、最近は何かにつけて「これ、おかしいね、おかしいね」と大騒ぎする。年老いた自分の能力が落ちていることを認めにくいのか、自分ではなく自分以外の物や状況が変だと言うのだ。

パソコンもお盆の少し前に、思うように動かず「初期化しますか」との問いにいらついて、「はい」と押してしまったとのことで、まっさらに!私もパソコン苦手だけど、母といると、解決すべきことやこうしたいと思うことがたくさんあって、その都度調べ、そのおかげで少しパソコンやipad miniについて知識を得る機会になる。

帰りしなに会った友人には、「うちの母ったら、こんななんだよ」とつい母のぐちを言ってしまったけれど、今から思えば、「グチりながらのろける」類の話だったんだと思う。

けっこう長い間母と過ごせて大変だと思う一方、楽しかったしありがたかったのだ。やはり母にはいつまでも元気で、今のままでいてほしいと思う。

東京に戻ってきて、自分の部屋に帰るとその静かさに、別の国に来たかのような不思議な感覚になった。今はまだ私だけのこの空間を手放したくないとも思う。いったん崩した東京のリズムを戻していこう。

レッスン138-天国は私が下すべき決断である。

結局帰省中でやったのは、このレッスン138だけだった。これを何日もくりかえした。が、まったくまともにはできなかった気がする。説明の言葉もむずかしく、体感として十分には理解できていないように感じる。けど、先に進もう。

私たちが生きているこの世界では、対立するものが「在る」と思っているけれど、実は神(=天国=真理)だけしか実在していない。

ただ「恐れながら知覚することしかできない場所には、真理そのものは入ってこられない。

「天国という決断を下すこと」は、この世界に、真理と偽り、あるいは天国と地獄の両方があってその一方を選ぶということではなく、その選択肢があるかに見える世界から抜けるということだ。

思い出す必要のあることは、あなたが何千もの選択に直面させられると思っていても、下すべき決断は本当は一つしかないということである。そしてそれさえも、選択のように見えるだけのものである。

そして、この世では、生きることはすなわち数多くの葛藤を抱えて生き抜くことだと見なされているので、「救済は死ぬことだということになる。

こうした間違った信念は無意識にあるため普段意識されることなく、私たちに強い支配力を持っている。

若いうちは幻想の世の成功を追い求めるようにプログラムされ、それを喜び、興奮、挫折に置き換えて過ごす。若さが去り自分もいずれは死ぬ身だと実感しだす中年から晩年は、不安と恐怖を抱きながら時を重ね、最終的にはあらがいながらもれなく訪れる死という救済を受け入れることになる。

この間違った信念を手放して天国を決断するには、世の幻想性が認識され、幻想を意識的に選ばないことが求められる。

レッスン138はその練習だ。

朝と夜に、天国の選択をする5分のワークをして、日中も1時間ごとにその選択を確認する。

ワークをして

旅の供に、ゲイリー・R・レナードさんの第3弾の著書『愛は誰も忘れてはいない』を持っていき道中読んでいた。

そこに、パーサの発言で「とにかく、繰り返しは不可欠よ。『奇跡のコース』(ACIM)の「テキスト」は、六頁分を違う言い方で百回繰り返したものだって言われているわね。」というところがあるけれど、ワークブックもそうだと思う。ただ一つの決断のことを表現を変え、視点を変え、何度も何度も説明している。

そう、天国の決断とは、赦しと癒しを敢行すること、その決断なのだ。

私は、日々のことでいろいろ葛藤があるけれど、それもまた「天国を決断する」というただ一つのことで済む話なのだ。

この世でそう生きるための、聖霊(ホーリースピリット)の声をちゃんと受け取れているだろうか。

田舎に母といた時間は、ACIMからは遠かった気がするけれど、どんな環境にいても、ACIMと聖霊を心に置き、抽象的なACIMの教えをこの世の日常にちゃんと下ろして生きられるようになりたい、ものだ。

アファメーション

細かく分断されている私が、本来の私のもとひとつになれますように。

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