レッスン137-私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。

2017-08-15

帰省で気づく「特別な関係」

お盆で故郷に帰省した

母がまた一回り小さくなり腰が曲がっていて、また老いたと思う。切なく感じた。いつかは避けられない母親との別れに恐怖を感じてしまい、昨夜はなかなか寝付けなかった。

50代にもなって、母親から精神的に自立できていない。

お母さんが老いていくのがいやだ。母がいない世界が考えられない。ACIMでこの世での諸々について「赦す」ことを学んでいるけれど、こと母になると「まったく赦せていない」ことに改めて気づく。

これがACIMでいう「特別な関係」なのだと思う。まったく幻想に取り込まれてしまっている。

どんなことでも「赦し」は同じ。目前に赦すべきことが現れたら赦すだけなのだ。すべては、「神との別離」を表すものとして、私がまちがって人生スクリーンに映しているものなのだから。。

今は、ともかく…母が高齢まで元気でいてくれることに感謝。

レッスン137-私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。

レッスン137は136に続き、病気とそれを癒すことについて説かれている。

ここでの中心的概念は、病気とは孤立であって他者からの分離の象徴だが、癒しは再び他者とひとつになろうとする決断であり、真の自己を受け入れようとする決断であること、そして誰かが癒される時はその人ひとりが癒されるのではなく、他の者もまた癒されるということだ。

病気という本来ならば存在しない夢を、夢だとして取り消すもの、それが癒しだ。

だから癒しは、夢に対抗する夢と呼ぶことができる。それは真理そのものにおいてではなく、真理の名において、病気という夢を無効にする。なされたことのない罪を赦しが看過するのと同じように、生じたことのない幻想を赦しが取り除く。」赦しは自由そのものであり、強さである。

そして、「癒すこと、赦すこと、そして、悲嘆の世界のすべてを、悲しみが侵入できない世界と喜んで交換すること-この三つが、聖霊に従うようにとあなたに促すための聖霊の手段である。」と私たちに方向性を示している。

自分自身が癒される時、自分が認識できなくとも、自分の周りの人たちも同時に癒している。癒された者は癒しの媒体となる。罪の意識や恐怖心を持たない在り方が、周りの者に安息を与える。

レッスン137では、私たちの機能(はらたき)は自分の心が癒されるようにすることだと思い出し、癒しを受けとり与える練習をする。

ワークをして

私は普段は自分もまた病気持ちだということを忘れているのだけれど、前回と今回のレッスンで思い出した。

そもそも病気は自分が計画して強い力を加えてこの世に生じさせた自己決定だ。

そしてある種の自己処罰であり、真理からの逃げ、否認である。

そうしたことすべてを取り消すよう努めた。

私は自分を癒そう。

病気は真実をねじまげたもの。私は真実をねじまげない。

病気は小さな不安や否認をどんどん大きな恐怖や罪として、それを体に現実化したもの。

そもそもなる必要はない。本当はその原因も存在しないのだから。

すぐに治るのは無理でも癒そう。

アファメーション

ほんとうは病気になる必要はないのだから、まず私自身を癒そう。