レッスン143-レッスン125、126の復習

2017-08-31

雨。ぐっと涼しくなった。ベランダから入る風は秋の風になった。昨朝のウォーキングではツクツクボウシが鳴いていた。

季節は移っていく。私が育った北陸では雪がたへんだったけど、四季があるのはいいなぁ。もっと四季を丁寧に生きたいなぁ。

私のなかの「死なない部分」

最近の私のワークでは、その日のワークのお題と一緒に自分のなかに「死なない部分」を探すのが日課になっている。

目をつぶって心を鎮め自分の中に「死なない部分」を探す。

心のなかに「ここがそれだ」というような感じがあるところを探す。

ぴったりくるような感じではないけれど、何となくここかなと感じるところが見つかる。

おそらく、そこがACIMでいう聖霊(ホーリースピリット)の住みかではないか、そしてそれが本来の自分、ではないか。聖霊、本来の自分というより、「死なない部分」という方が「これが本当の自分なんだ」とイメージしやすい。

そして、それから「死なない部分」の性質を思う。言葉では言い表すことはむずかしいけれど、おそらく神さまの性質を受け継いだところだから、無限に優しく、無限に感謝に満ちて、無限に誠実で、無限に穏やかで、無限に豊かなのではないだろうか。

そうやって、本当の自分を確認する。それから、その性質に自分を浸す。そういう風が私に向かってやってくるようにイメージする。

いつもテンパリがちでささいなことで感情もアップダウンしてしまうが、こうやって朝イメージしておくと、少し落ち着けるような気がする。

その「死なない部分」という自分の芯をどんどん育てて、どんなことにも、穏やかで優しく、誠実で感謝に満ちていられたら素晴らしいと思う。そしてかぎりない豊かさを感じていられたら幸せだ。

レッスン143-レッスン125、126の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン143の2つの復習

L125)静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け取る。

L126)私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

ワークをして

一昨日と昨日、このワークをやった。とはいっても、一時間ごとのワークはできておらず、中間のワークをやったのは2、3回。

復習Ⅳを貫くテーマ「私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。」をイメージする時、気づいたらまったくその時の気がかりごとを考えていることがよくある。

仕事先へのメールの返信をどうしようかとか、打診された仕事はいつ決定するのか、納期はいつ?、バイト、良さげなのを見つけたけど、今すぐには動けない、そのうち埋まってしまうだろうか、「やる気があればどなたでも」とあったけど50代も想定されているだろうか…、面接怖い、バイトは最終的な解決策ではない、、あ゛~、いったいこの先どうやって生きていこう?…とか。ぐるぐる。

「神とともに考えている思い」では決してないことばかりだ。気づいて「もとい!」とするけど、再び気づくとまたさすらっていたりする。

これから、どう生活を支えていけばいいだろうか。そもそもあった「問題」だけど、楽観的に考えて野放しにしてきたことが8月末になって、目前に迫ってきた。

昨日の夜のワークで浮かんできたのは、日曜日に色えんぴつ画の展覧会を見に行った帰りに、一緒にお茶をした心理学のカルチャー講座仲間に見せたスケッチブックの絵だ。それは、10数年前(2003年12月だった)、私がアートセラピーの講座に参加していた時に描いたもので、今アートセラピーを学んでファシリテーターもやっている彼女の参考になるかな、と思い、持っていって見せたのだ。

まず、「不安」を表す絵を描いて、それからそれをポジティブに転換するというお題。その転換した後の絵、それに加えたメッセージが、なんとなくワーク中に浮かんだのだ。

そのメッセージは、

「自分の真の道にしたがっているとき、旅の途中で必要なものはすべて満たされる。」

どこかで見つけたメッセージかな?当時今と同様に経済的な不安を抱えていた私が、自分自身に向けて書いたものだ。

復習Ⅳのワークの序文に、「その日に復習する概念が運んでくる贈り物を、受け取りなさい。」とあるけれど、このメッセージが贈り物なのかな?

それとも、都合のいい私の思いこみか。

そうであって、いい言葉だな。

アファメーション

自分の真の道にしたがっているとき、旅の途中で必要なものはすべて満たされる。

レッスン142-レッスン123、124の復習

2017-08-30

アルバイト探そう

8月ももうすぐ終わり…

残暑はまだまだ続きそうだけど、エアコンなしでも何とか過ごせそうな位になってきた。

これまで何社かの依頼をうけてフリーランスで仕事をしてきた。ACIMワークを始めた翌年位から仕事が減ってたけれど、仕事の波が大きくワークが中断してしまうことも多かったから、これ幸い…と、時間的ゆとりを優先させ預金を切り崩しながらACIMの勉強をし幸せに生活してきた。

前にお手伝いした本の増刷印税収入などもあって働いた以上の収入があり、今年の7月位までは生活費のプールがあった。が、それがもう尽きかけている。7、8月は国民年金もスルーしてなんとかやり過ごしたけれど、さすがに明らかにまずい。

本来ならばフリーランスの仕事を積極的に復活させるべく努力すべきなのだろうが、その方向はどうもできそうにない。新たなクライアントを見つけるのは情熱と時間がいる。すぐ安定的に月々の生活を支えるレベルに達するとも思えない。生活できても、ACIMの勉強ができなくなってしまっては、それもまた求める方向性と違う。

高齢の母がひとり暮らしをする故郷に戻るべきか…などと思いが、東京に新たな根を生やしづらくしているのかもしれない。

いずれACIM関連のことで仕事ができたらいいなと思う。もしそれがかなうとしても、まだまだ先のことだろう。

じっくり自分の大事にしたいこと、優先する順番…これからの方向性を確認したい、、、秋のはじまり。

だけど生活費、、の方はじっくりではいけない。最低限生活を支えられるレベルのアルバイトかパートを探そうと思っている。10月の生活費を得るためには9月はすでに稼働していないと。焦る。でも、雇用されて働くというのが久しくて、なんだか怖い。歳だからかな、世間というものが怖く感じる。

もちろん、この状況と感情もまた赦すべきもの。ではあるが。。

レッスン142-レッスン123、124の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン142の2つの復習

L123)私は父が贈り物を与えてくれたことに感謝する。

L124)私は神とひとつであることを思い出せますように。

ワークをして

神そのものが大きな感謝そのものなんだ。神は感謝を包含しているのだと思う。

そして私たちはそこから延長された。

だから、私たちが神に感謝するということは、神と私たちがわかちあうこと、祝福することではないだろうか。

感謝によって、自分がほんとうは誰なのかを思い出すことができ、自ら鍵をかけてしまってたギフトを開くことができる。

私たちは、真の感謝によって、神とわかちあうことができる。そして、その感謝はさざめき波状的に広がり、どんどん自分と自分が見る世界のなかで大きくなっていく。

ACIMワークの最も重要な鍵は「赦すこと」だけど、もう一つの鍵は「感謝」なのだと思う。

感謝は神そのもので、私が真に感謝する時、神と神なるものをわかちあい、自分が神とひとつだと思いだせるから。

父の最もすばらしい贈り物とは、「感謝できるこの私」なのかもしれない。そして、それはすでに各々に与えられている。

ただ感謝しさえすれば、そのギフトが開かれ、人生のスクリーンに感謝できる私が投影され、感謝され感謝に満ちた世界が上映されるのかもしれない。

アファメーション

今日、感謝できることをたくさん数えよう。

復習Ⅳへ & レッスン141-レッスン121、122の復習

2017-08-29

復習Ⅳへ

復習Ⅳは第2部への準備らしい。レッスン121~140の復習。毎日2つずつ復習する。

復習Ⅳ全体をつらぬくテーマとして、次のようなものが掲げられている。

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

一日のはじまりにこの想念と5分によって、さまざまなかたちであらわれる赦したくない気持ちや自らを欺こうとする気持ちを一掃し、各々の復習への準備とする。

それだけで、その日が神の定めた道筋にそったものとなり、あなたがその日に受け取るすべての想念を神に一任することになる。

そうした準備の後にその日の復習課題である2つの主題概念を読み、目を閉じ、ゆっくりとそれらを自分に言い聞かせる。

そして、「その日に復習する概念が運んでくる贈り物を、受け取りなさい。」とある。

一日の終わりにも、同じように全体をつらぬくテーマとその日の2つの復習に心を向けて終える。

また、日中は「一時間ごとに、一日のはじめに抱いた概念を心に思い浮かべ、その想念とともに少しの間、静かな時を過ごす。それから、その日に復習する二つの主題概念をゆっくりと繰り返し、そこに含まれているあなたへの贈り物が見えてくるまで充分な時間をかける。

これは、どのくらい厳密にやるのだろう。

1時間に一度、全体テーマと主題概念の復習を繰り返し、そこから贈り物が見えてくるまで充分な時間をかける、というのは、いくらなんでも非現実的な気がするが…。

少なくとも私は厳密にやろうとしたら、ずっと足踏みが続きそうだったので、朝夜はやって、あとはその間できたらやる…でよし、とした。そして、中間にあまりできなかったワークは2、3日かけることとした。

北朝鮮ミサイル発射―朝のニュース

今朝、テレビをつけるや否や、北朝鮮からミサイルが発射され、日本上空、襟裳岬から1180㎞東の太平洋沖に落下した、とのニュースが飛び込んできた。襟裳岬の東1180㎞…が瞬間的にどこかイメージできなかったけれど、キャスターの方は緊迫した雰囲気だ。どの局の画面にも赤い警告みたいな掲示があって、尋常じゃなさを感じさせた。

日本列島上空を通過するなんて、失礼な話だ。いったい何考えてるんだ!やめてくれ

…と思った。かなりまずい状況なのか。ニュースに見入る。

が、その前に朝のワークをやるかと、テレビを消した。そして、復習Ⅳの序を読み返した。

その時、

まずは、真の赦しの欠如を巧みに隠している数多くの形態について理解することから、私たちの準備を始めよう。それらはすべて幻想であるから、その正体の通りに知覚されてはいない。そしてその正体とは、赦したくないというあなたの想念が見えるものとなって認識されるのを防ぐための防衛である。

という文言がひっかかった。

北朝鮮のミサイル…もまた、「真の赦しの欠如を巧みに隠している数多くの形態」の一つなんだろうか。

ワークをして

今日のワークはレッスン143だったけど、今日ダイアリーに記すのはレッスン141。先週土曜日にやった。

レッスン121と122の復習

L121)赦しが幸せへの鍵である。

L122)赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

その日に復習する概念が運んでくる贈り物を、受け取りなさい。」とあるけれど、そんなわかりやすいものがあるのかな、と思いながらやった。

正しいかどうかはわからないけれど、私が受け取ったのは次のことだった。

L121をイメージした時。

「あなた自身を(ほんとうに)赦しなさい。

心の奥で「罪深い」と思っている自分を赦しなさい。

あなたがなぜ赦せていないのか。

それは目に見える他者を「赦そう」という覚悟に欠けているから。どこかであなたは「他者を責めたい」と思っている。

それは、自分を赦したくないと思っている証だ。

起きてもいない罪にしがみつくな。」

そう感じた。

L122をイメージした時は、「もし私がすべて赦されているなら、どう感じるだろう」と想像してみた。

とてもとても幸せで安心感があることだろう。

でも、赦されている状態を私は「if(もし~ならば)」をつけないと想像できないんだな、と思った。

私のエゴが、もしこのままACIMの勉強が進んだら、自分はどうなってしまうのだろう、と怯えているのを感じた。

私は分裂している。エゴが導く私と、聖霊(ホーリースピリット)が導く私。

エゴは、「よしんばACIMが素晴らしいものだとしても、この世で身体を持って自分を守って生きるにはエゴは不可欠だ」とささやく。

そうなのかな?

でも少しずつでもコツコツACIMの勉強を続けよう。

赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

アファメーション

起きてもいない罪にしがみつくな。

レッスン140-救済だけが治癒をもたらすものと言える。

2017-08-28

色えんぴつ画展覧会

去年から始めた月一度の色えんぴつ画講座、生徒及び先生の元からプロになった方々を含めた展覧会があって、私も下手ながら初めて二枚だけ出した。それをユング講座の仲間に付き合ってもらって、昨日一緒に見にいった。

数年前までは生徒数も少なかったらしいけど今はかなり増え、100人以上の生徒が出品していた。自由画だから、風景画あり、静物画あり、人物画あり…で、何を描くかはそれぞれ。それが、おもしろいな、と思った。

私は、家にあった猫のぬいぐるみ、二匹。

講座中、展覧会用の絵を描く時間があったのだけれど何を描くか決まっていなくて、出がけに家にあったぬいぐるみをひっつかんで行ったら、「その題材、おもしろいですね」と先生に言われ、そのままそれにした。

なりゆきで始めた色えんぴつ画だけど、色を塗っているときは無心になれる。またいつも「趣味は…?」と聞かれた時、返答に困っていたけど、この講座に通い始めてからは「色えんぴつ画です」と言えるのが、助かっている。

帰りに付き合ってくれたユング講座の仲間といろいろとおしゃべりできたのが、楽しかった。ひとりでいる時間が長く人と話すのが下手になっている…私。おしゃべりはひとりではできない。私は、人と話すことに飢えているのかもしれない。

レッスン140-救済だけが治癒をもたらすものと言える。

レッスン140は先週水曜にやったワーク。

レッスン136、137同様、病いと癒し、治癒に関連する概念を扱っている。

この世の治療法は「病気」という幻想を「治った」という幻想に変えるだけのもので、病気という幻想の原因である心を治癒するものではない。

ACIMの救済=贖罪だけが治癒をもたらすのだという。

罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」と。

なるほど。と思う。

私たちが神から分離したのだと思うがゆえに意識下に抱く罪悪感や恐怖を身体に投影したもの、それが病気だ。

もちろん、本人はそんな意識はない。だけど、今世のなかのどこかで自分が罪悪感を抱いたり恐れたりしたことが、心に認められず身体に現れたもの―それが病いなのだ。

病気は真理を見ようとしないことからもたらされる。真理の下では病気は存在しえない。

幻想を真理のもとへもっていく心だけが、真に変わることができる。これ以外に変化というものはない。

今日、私たちは病気の源について、私たちの心を変えることを目指す。」

「だから、私たちは護符や呪い、魔法の呪文や丸薬など、あらゆる形の魔術的なものを脇に置く。そして、静かにして、癒しの声が聞こえるように耳を澄ます。

ワークをして

病気が、罪悪感や恐怖、偽りの信念を身体に投影したものだという説明は、よく理解できる。今そんな気はなくても、もしかしたら生まれる時に自分で選んできたのかもしれない、そうしたことを含めて、病気はすべて自己決定なのだ。

エゴは私たちに「おまえは罪人だ、神に罰せられるだろう」とささやく。それがしごく尤もに感じる。ならば病気にくらいなるのが当然のようにと思う。

自分がだれかを攻撃したい気持ちがあるけれど、それを認めたくない時、自分が「病人」という被害者になりながら、そのだれかを巻き込むことだってある。

病気を生むのは無意識からだけど、自分の心のあり方が作っているのだから、本当に癒すには、自分の心を変えなければならない。

レッスン140の説明にあるとおり、「聖性が存在しない場所はなく、罪や病気が住みつくことのできる場所はどこにもない。」と。

ACIMを学んでよかったことの一つは、病気は必然ではない。また必要なものではない、と知ったことだ。

私は、ずっと病気になるのが怖かった。とくに、がんを恐れていた。書店や電車内でもその文字の並びに反応する。それはやはり自分は罪ある身でいずれその罰として病気を受けるのが報いだ、という思考がどこかにあったからにちがいない。

そして、実際にそのとおりの病気になった(しかし、幸いなことに症状がなく進行もほとんど見られない)。

未来は自己予言に基づくシナリオのようなものなのかもしれない。

でも、今や、病気には根拠がないことを学んだ。だから、心は晴れやかだ。

本ワークでも、私は自分自身に贖いを受け入れた。救済により、病気を治癒したいと思う。

アファメーション

病いは必要ない。私は贖われた。

レッスン139-天国は私が下すべき決断である。

2017-08-25

いま赦すべきこと

私が帰省していた時はずっと長雨が続いていたらしいけど、ここに来てまた暑い日が続いている。

8月21日と22日とレッスン139をやった。やったとは言っても、朝夜の長めのワークの間の毎時間の練習はできていない。でもこれを完璧にやろうと思うとまったく前に進めなくなりそうなので、いいことにして進む。

すでに一度やっているのだから、、という緩みもある。けど、一度やっていると自負?するわりには、習得度は低い。ACIMの理屈だけ抱えて体育座りして固まっているようではいつになっても習得できない。

この素晴らしい理が体現するものとなって、この世で生きなくちゃ!ひきこもっていないで、外に出なきゃ、と思う。

この考えが世の中の常識と言われるものとあまりに違っていて、それどころか「世界は実在しない」というのだから、一般の人には心理的テロのように世に歯向かうものと受け取られやしないかと恐れている。

そう、私は、ACIMが素晴らしいと思っている自分の考えをオープンにすることに恐怖があるのだ。

その恐怖こそが、私がいま赦すべきことなんだろうと思う。

なんたって、ACIMと出会った今、自分の人生のお題は、①ACIMをより平易にわかりやすく表現すること、と②形而上的、抽象的なACIMをこの世の日常性とつなぐこと、だと思っているのだから。

レッスン139-天国は私が下すべき決断である。

さて、レッスン139は、「自分自身に贖罪を受け入れる」がテーマだけど、その前に「自分は何なのか」について私たちが確信を持っていないことについて書かれている。

私たちの葛藤や迷いは「自分が何であるか」がわかっていないことから来る。そして、それは自分をだましていることだと言う。本当の自分を実は知っているはずなのに、その本当の自分を拒否し、自分をごまかして知らないふりをして、さらにそれ自問しているというのだ。

自分が何であるかについての確信の欠如は、あまりにも大規模な自己欺瞞であるため、その巨大さは想像を絶するほどである。

こうして彼は、自らの生命について確信がなくなる。自分の生命そのものを自ら否定したからである。あなたが贖罪を必要としているのは、この否定のためである。

私たちの心はエゴに支配され、本来の自分が感じられなくなっている。しかし、実はエゴは虚偽。存在すらしていない。存在していないものを拠りどころにしても、残るのは虚しさだけだ。

それをレッスン139で治癒する練習をする。

贖罪が治癒するのは、この奇妙な考えである。すなわち、自分自身を疑い、自分が本当は何なのかについて確信を失うことが可能だという考えである。このような考えは狂気の極みである。

このあとには、すごいことが書いてある。

世界が信じていることで真実なものは何一つない。この世界の目的は、自分自身を知らないと主張する者たちがやってきて、自分とは何かと質問していられる安住の地を提供することである。

この世を「自分とは何かと質問していられる安住の地」と表すとは…!

私たちが、「自分とは何か」と自問したとしたら、そんな自問は本当は成り立たないはずなのだから、それはまさに自分を偽っている証拠なのだ。自己欺瞞であり自己否定だ。

ACIMを学ぶ目的と使命は、この自己欺瞞と自己否定を解消することだ。

それは赦しによって、罪を購うことによってなされる。一度も犯されなかった罪を購う。それが贖罪だ。

自分を赦せば他者も赦される。他者を赦せば自分も赦される。

それが、この世に来た目的と使命でもある。

私は自分自身に贖罪を受け入れる。私は今も神に創造されたままの私なのだから。

ワークをして

自分自身に贖罪を受け入れるということが、簡単そうで実はなかなか難しく、「おまえは罪人だ」と私を責める心が無意識の根っこに在る気がする。そしてそれは根深く大きい。

レッスン101「神の意志が私に望むのは完全な幸せである」のパラグラフ5にも「自分が神の子を悪魔にしてしまったという信念をいつまでも大切にしていないで、開かれた心で贖罪を受け入れなさい。」とある。

その大畑学さんの戦士書籍の解説には「罪も罰も幻想だと知って受け入れ、受け流して赦し、幻想を消滅させていまうこと、それがACIMの贖罪である。贖罪とは、まさに罪滅ぼし、罪を滅ぼすことである。」とあって、「なるほど」と唸ったことを思い出した(どこで見たんだっけと検索して調べたらレッスン101だった)。

これは私だけではなく人間が誰しももつ「原罪」で、それが無意識の奥にあるからこそやっかいなのかもしれない。でも、これを対峙しないかぎり天国には入れないのだから、目前に現れたものをコツコツと赦していくことにしよう、と改めて思う。

赦しの機会が目前に現れることすら、チャンスとは思えず、恐れているのだ、今の私はー。

アファメーション

私に起ることはすべていいことだ。なぜなら、それ以外起りえないのだから。

寝苦しそうな夜と無意味なブログ

2017-08-23

暑さが戻ってきて、熱帯夜だ。寝苦しそうな夜。

本当は、ACIMワークの日記を更新したいところだけど、それだけの気力なし。自分の中で大事に思っている『奇跡講座』(ACIM)なのだから、もっとダイアリーブログも頻繁に更新したいのだけど、できてないなぁ。

時々…というか、しばしば、こんなブログはだれか読む人、いるかなぁ?と思う。

いないだろうなぁ。

まったく人の目にふれないブログってー。無意味だよな。

そもそもACIMに関心ある人が少ないだろうし、

関心を持ってACIMワークを続けている人はさらに少ないだろう、

さらに、ワークをやっている人がワークのあらましっぽいことだけ書かれたものを読みたいとも思わないだろうと。

ACIMをやって感じた自分の体験談を生活や人生を掘り下げ晒しながら書いてあったらおもしろいかとも思うけど、そういうことはできてない。。

なんか意味ないことやってるなぁ、我ながら。と思う。

 

でも一方では、こんなに間延びしたくそおもしろくもないブログでも、私の『奇跡講座』の勉強の支えになっている。だから続けていきたいな、とも思う。

もっと、ACIMを平たい言葉でなるだけシンプルにすることが必要なんだ、多くの人とACIMをつなぐには。

説明しようとすると、人が読みたくなくなるものになるから、ACIMのエッセンスのカケラを含んだおはなしとかでもいいのかもしれない。

 

ともかく、自分でも、へんなこと・意味のないこと、中途半端にやってるなぁと思うけど、私の学習の杖のような存在になっているから、ブログを続けていけたらいい。と思う。

レッスン138-天国は私が下すべき決断である。

2017-08-21

母との時間

土曜日、金沢の友人に会って、それから東京に戻ってきた。

故郷での在宅中、起きている間ずっと母が話しかけてくる。普段ひとり暮らしの私は、何時間かで疲れてしまう。「滞在期間は優しくしよう」と心に決めて帰省したのに、だんだんつっけんどんになり、ついいらついた返事をしてしまう。それに気づいては「やってしまった」と思う。

母は年にわりに頭がいいけれど、最近は何かにつけて「これ、おかしいね、おかしいね」と大騒ぎする。年老いた自分の能力が落ちていることを認めにくいのか、自分ではなく自分以外の物や状況が変だと言うのだ。

パソコンもお盆の少し前に、思うように動かず「初期化しますか」との問いにいらついて、「はい」と押してしまったとのことで、まっさらに!私もパソコン苦手だけど、母といると、解決すべきことやこうしたいと思うことがたくさんあって、その都度調べ、そのおかげで少しパソコンやipad miniについて知識を得る機会になる。

帰りしなに会った友人には、「うちの母ったら、こんななんだよ」とつい母のぐちを言ってしまったけれど、今から思えば、「グチりながらのろける」類の話だったんだと思う。

けっこう長い間母と過ごせて大変だと思う一方、楽しかったしありがたかったのだ。やはり母にはいつまでも元気で、今のままでいてほしいと思う。

東京に戻ってきて、自分の部屋に帰るとその静かさに、別の国に来たかのような不思議な感覚になった。今はまだ私だけのこの空間を手放したくないとも思う。いったん崩した東京のリズムを戻していこう。

レッスン138-天国は私が下すべき決断である。

結局帰省中でやったのは、このレッスン138だけだった。これを何日もくりかえした。が、まったくまともにはできなかった気がする。説明の言葉もむずかしく、体感として十分には理解できていないように感じる。けど、先に進もう。

私たちが生きているこの世界では、対立するものが「在る」と思っているけれど、実は神(=天国=真理)だけしか実在していない。

ただ「恐れながら知覚することしかできない場所には、真理そのものは入ってこられない。

「天国という決断を下すこと」は、この世界に、真理と偽り、あるいは天国と地獄の両方があってその一方を選ぶということではなく、その選択肢があるかに見える世界から抜けるということだ。

思い出す必要のあることは、あなたが何千もの選択に直面させられると思っていても、下すべき決断は本当は一つしかないということである。そしてそれさえも、選択のように見えるだけのものである。

そして、この世では、生きることはすなわち数多くの葛藤を抱えて生き抜くことだと見なされているので、「救済は死ぬことだということになる。

こうした間違った信念は無意識にあるため普段意識されることなく、私たちに強い支配力を持っている。

若いうちは幻想の世の成功を追い求めるようにプログラムされ、それを喜び、興奮、挫折に置き換えて過ごす。若さが去り自分もいずれは死ぬ身だと実感しだす中年から晩年は、不安と恐怖を抱きながら時を重ね、最終的にはあらがいながらもれなく訪れる死という救済を受け入れることになる。

この間違った信念を手放して天国を決断するには、世の幻想性が認識され、幻想を意識的に選ばないことが求められる。

レッスン138はその練習だ。

朝と夜に、天国の選択をする5分のワークをして、日中も1時間ごとにその選択を確認する。

ワークをして

旅の供に、ゲイリー・R・レナードさんの第3弾の著書『愛は誰も忘れてはいない』を持っていき道中読んでいた。

そこに、パーサの発言で「とにかく、繰り返しは不可欠よ。『奇跡のコース』(ACIM)の「テキスト」は、六頁分を違う言い方で百回繰り返したものだって言われているわね。」というところがあるけれど、ワークブックもそうだと思う。ただ一つの決断のことを表現を変え、視点を変え、何度も何度も説明している。

そう、天国の決断とは、赦しと癒しを敢行すること、その決断なのだ。

私は、日々のことでいろいろ葛藤があるけれど、それもまた「天国を決断する」というただ一つのことで済む話なのだ。

この世でそう生きるための、聖霊(ホーリースピリット)の声をちゃんと受け取れているだろうか。

田舎に母といた時間は、ACIMからは遠かった気がするけれど、どんな環境にいても、ACIMと聖霊を心に置き、抽象的なACIMの教えをこの世の日常にちゃんと下ろして生きられるようになりたい、ものだ。

アファメーション

細かく分断されている私が、本来の私のもとひとつになれますように。

レッスン137-私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。

2017-08-15

帰省で気づく「特別な関係」

お盆で故郷に帰省した

母がまた一回り小さくなり腰が曲がっていて、また老いたと思う。切なく感じた。いつかは避けられない母親との別れに恐怖を感じてしまい、昨夜はなかなか寝付けなかった。

50代にもなって、母親から精神的に自立できていない。

お母さんが老いていくのがいやだ。母がいない世界が考えられない。ACIMでこの世での諸々について「赦す」ことを学んでいるけれど、こと母になると「まったく赦せていない」ことに改めて気づく。

これがACIMでいう「特別な関係」なのだと思う。まったく幻想に取り込まれてしまっている。

どんなことでも「赦し」は同じ。目前に赦すべきことが現れたら赦すだけなのだ。すべては、「神との別離」を表すものとして、私がまちがって人生スクリーンに映しているものなのだから。。

今は、ともかく…母が高齢まで元気でいてくれることに感謝。

レッスン137-私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。

レッスン137は136に続き、病気とそれを癒すことについて説かれている。

ここでの中心的概念は、病気とは孤立であって他者からの分離の象徴だが、癒しは再び他者とひとつになろうとする決断であり、真の自己を受け入れようとする決断であること、そして誰かが癒される時はその人ひとりが癒されるのではなく、他の者もまた癒されるということだ。

病気という本来ならば存在しない夢を、夢だとして取り消すもの、それが癒しだ。

だから癒しは、夢に対抗する夢と呼ぶことができる。それは真理そのものにおいてではなく、真理の名において、病気という夢を無効にする。なされたことのない罪を赦しが看過するのと同じように、生じたことのない幻想を赦しが取り除く。」赦しは自由そのものであり、強さである。

そして、「癒すこと、赦すこと、そして、悲嘆の世界のすべてを、悲しみが侵入できない世界と喜んで交換すること-この三つが、聖霊に従うようにとあなたに促すための聖霊の手段である。」と私たちに方向性を示している。

自分自身が癒される時、自分が認識できなくとも、自分の周りの人たちも同時に癒している。癒された者は癒しの媒体となる。罪の意識や恐怖心を持たない在り方が、周りの者に安息を与える。

レッスン137では、私たちの機能(はらたき)は自分の心が癒されるようにすることだと思い出し、癒しを受けとり与える練習をする。

ワークをして

私は普段は自分もまた病気持ちだということを忘れているのだけれど、前回と今回のレッスンで思い出した。

そもそも病気は自分が計画して強い力を加えてこの世に生じさせた自己決定だ。

そしてある種の自己処罰であり、真理からの逃げ、否認である。

そうしたことすべてを取り消すよう努めた。

私は自分を癒そう。

病気は真実をねじまげたもの。私は真実をねじまげない。

病気は小さな不安や否認をどんどん大きな恐怖や罪として、それを体に現実化したもの。

そもそもなる必要はない。本当はその原因も存在しないのだから。

すぐに治るのは無理でも癒そう。

アファメーション

ほんとうは病気になる必要はないのだから、まず私自身を癒そう。

レッスン136-病気は真理に対抗する防衛である。

2017-08-12

レッスン136-病気は真理に対抗する防衛である。

ここでは、三日前最高気温37℃の猛暑日だったが、昨日は最高気温25℃。朝晩は涼しく秋のようだ。過ごしやすくてほっとひと息。猛暑日の日にギックリ腰になってしまい、よろよろ動いている。明日から帰省予定だから治さねば。。

レッスン136は「病気」の真の意味や原因について説いている。

これもまた、この世で定義されている病気とはまったく異なる。初めてACIMが病気について触れている部分を読んだ時は、その見方が厳しくてびっくりした。

病気は偶発的なものではない。すべての防衛と同じように、病気も自己欺瞞のための狂気のしくみである。そしてほかのすべての貿易の場合と同じく、病気の目的は実相を隠し、攻撃し、変化させ、無能にし、ゆがめ、捻じ曲げ、まとまりのない断片の寄せ集めへと貶めることにある。

そもそもこの世も私たちの身体も、誤った知覚により「在る」と感じているが、別のところから投影された「illusion」であり実在しない。

この宇宙も、この世も、私たちの身体も、エゴが真理から私たちを遠ざけるために作って誘った防衛のしくみだ。そして、その身体に起こる病も、また防衛であり「無意味な幻想」だという。

そして、病気を決断しているのは、私たち自身なのだという。もちろん、私たちは忘れているが。

「それは、あなたの信じたいことが、真理によって脅かされるかに見えるときに、あなたが振り回す魔法の杖である。

「それは、あなたが自分で下す選択であり、自分で立てる計画である。幻惑されているあなたの心の中で一瞬でも真理が思い出され、あなたの世界全体が揺さぶられて崩れ始めるように見えるその瞬間に、あなたが選ぶのがその計画である。

つまり、真理を見たくない、認めたくない。そのために、その心の歪みを自らの肉体に投影して気をそらしている、というのだ。

問題が実在する。そしてそれは心ではなく身体に。

というのが、病気が成果として成功させる「だまし」だ。

そして、その効果は、身体が実際に痛んだり苦しんだりする「結果」をもたらすために、ますますリアリティを持つ。「心」に比して「身体」の重要度がどんどん高まる。やっぱり身体が問題だ、この身体をどうにかしなくては、と。そして、私たちの偽りの知覚体系は温存され安泰となる。

ただ、真理が受け入れられれば、「病気」という防衛は必要がなくなり、身体は自ずと癒される。

レッスン136は、真理を認め心身に癒しを受ける練習をする。

ワークをして(病気…私の場合)

病気を患っている時は、とっても辛くそこから抜けたい、治りたいと願うものけど、それが心(エゴの部分)が高じた防衛策だとは…。

でもレッスン136のように見ると、すっきり理解しやすくなる。

ACIMワークをやり始めた翌年の2014年に私自身病が発覚したけれど、たしかにこれもまた自らの決断なのだ。思い返せばそんな気もする。

2010年頃から、占い会社と契約して手相占いをしていたが、そこに友人の紹介で鑑定に来た当時20代の女性がいた。甲状腺がんでむずかしい手術して、今も何ヶ月かに一度、東京に治療に来ているという。

友人の紹介ということでいつもよりじっくり時間をかけて話を聴いた。これから恋愛も結婚もしたい。彼女は私の目をしっかと見据えて、「この病気、治りますか」と聞いた。占いで答えるような内容じゃないと思った。

けど、私は「治ります」と答え、彼女の瞳を見つめ返した。

本当にそう感じたからだ。

でも、その日占いの仕事を終えた後、「怖い」と思った。

一つは「がん」という病気が怖かった。私は何年も前に著名な占い師さんに占ってもらって「がんになる」と言われていた。たかが占いなのだけど、それ以来、その「予言」を恐れてがんから逃げ回っていたのだ。だから、占いの場で患者であるお客様から話を聴くのも本当は避けたかった。

それと、医者でもない私が何の根拠もないのに「治ります」と言い切ったことも怖かった。不遜だ。占いでは直感で感じたことをしばしばお客様に返していたけれど「お前は何様のつもりだ」と自分を思うこともあった。

その数ヶ月後、甲状腺に腫れが見つかった。彼女と同じ病気になった。もちろん、その彼女を占ったことと因果関係があるわけではないのだけど、何か縁はあったのだと思う。彼女が治療を受けている主治医を紹介してもらって、診てもらっている。

そのお医者さんからは甲状腺の全摘手術をするように言われたけれど、自分でネットや本を調べて、今のところは「必要ない」と判断し、経過観察を続け今に至っている。大きさにはあまり変化がない。

自覚症状はいっさいない、数か月に一度の経過観察のみという、とてもありがたい状況なので、普段は自分が病気だということも忘れている。

でも、このワークで思い出した。

私もまた病気である必要はないんだ。病気になる必要もない。病気は自分を捻じ曲げているのだ。病気には真の原因も有意義な意図もない。

だから、私が自分を癒そうと決めて、治せるものなのだ。

癒そう。治そう。。。と、今、決めた。

アファメーション

必要ないものを削いでいこう。

レッスン135-自分を防衛するなら、私は攻撃される。

2017-08-09

大きなできごとと赦し

今日は台風後の影響で、都心で37度の猛暑日だ。

今日は長崎への原爆投下の日でもある。72年目の今日、原爆が投下された。先だって8月6日は広島への原爆投下の日だった。

何度ものくりかえしになるけど、ACIMでは、この世のすべてのことは、幻影であるという。

神の子である私たちが「神から離れた」という勘ちがいに対して抱く、罪悪感と恐怖を投影する映画のスクリーンのようなもの。それを、とりなし、「罪は決して起らなかった」と、その奥にある真実を見る目を取り戻すのが、ACIMの根幹である赦しであり、その習得をめざすのが、このワークブックだ。

赦しに大小や難度の差はないという。しかし、大勢の被爆者の方がおられて平均年齢は80歳を超える、その非常に辛く苦しんだ人生の話を聴いて、「それが起こらなかった」と思うのは、何年かACIMを学んできても申し訳ないような気持ちになる。

もし自分や家族に起ったことだったら、そういうことを言う人に対して、やはり強い怒りを覚えてしまうだろう。

私は、聖霊の見方とエゴの見方の中で、ここ数年揺れ動いているんだろうと思う。

レッスン135-自分を防衛するなら、私は攻撃される。

レッスン135の主題概念は「自分を防衛するなら、私は攻撃される。」

これもなかなかむずかしいお題だ。最近ニュースで、核兵器禁止条約に唯一の被爆国である日本は「反対」したのだとやっていた。それは、アメリカの「核の傘」に守られているから、とか。

「核の傘」というのは、核保有国が同盟国に核兵器の抑止力を提供し、安全を保障すること(朝日新聞)らしい。これは、実際には攻撃のための武器が抑止力を持つという前提からスタートしており、大きな傘で恐いものから守ってもらえるというイメージがある。

ACIMのレッスン135の考え方とは、真逆だ(ACIMの考えは最初っから、この世の考えとはまったくちがうけれど)。

脅威の感覚は、内にある弱さの認識である。適切な防衛をしようとさせるだけの威力のある危険が存在する、という信念である。世界はこの狂気の信念に基づいている。そしてそのあらゆる構造、そのすべての考えや疑念、その刑罰や重装備の軍隊、その法律的な規定や規約、その倫理や指導者や神々、こういった一切が、脅威の感覚を温存するために働いている。

防衛とは恐ろしいものである。防衛は恐れから生じ、それがなされるたびに恐れを増大させる。あなたは防衛が安全をもたらすと考えている。しかし防衛とは、恐れが実在化され、恐怖が正当化されたことを物語るものである。

レッスン135では、こうした防衛の真の意味に加え、私たちが肉体に対してなす様々な防衛や、計画というものが実は防衛に他ならないといったことが説かれている。今のこの世では、ほとんどのことが「計画」に基づいてなされているから、計画自体を防衛だと見て、それに頼らないことはむずかしく感じる。

防衛とは、そもそも恐怖があるところになされるもので、その恐怖は突き詰めると、神への恐怖となる。

神は恐怖を与えない。その逆で、神の子の幸せだけを願い、無限の慈愛と穏やかさ、豊かさを与える。

防衛とはその神を信じないと宣言していることだ。

防衛とは、真理に対抗してあなたが作り上げようとする計画である。

過去、現在、未来において起こるあらゆる事柄とすべての出来事が、あなたの幸福だけを目的とする一なる存在により優しく計画されているということを、もしあなたが知っていたなら、あなたに受け入れられないものなどあるだろうか。

つまり、私たちは自分で自分を邪魔して、神の愛にバリアを張っていることになる。レッスン135ではそのバリアを取り除き、「無意味な計画を立てるのをやめ、真理が心の中に入ってくるのを阻む思考のすべてから離れる。

ワークをして

20代の頃学んだ経営学では、Plan(計画)-Do(実行)-See(評価)のマネジメントサイクルを非常に基本的な概念としていてその考えが染みついているから、「計画」=「防衛」との考え方は理屈ではわかるけれども、それに委ねきれていない自分がいる。

何年もACIMを勉強しているつもりだったけれど、計画や振り返りの「害」みたいなものはストンと抜けていた気がする。

神は私に良きことだけを与える。それをエゴの考えによって邪魔しているのが今の私だ。

ずっと私は、失敗しているのかな、心配をしないということに…、と感じた。

だからインスピレーションもキャッチできずに、どんどん矢印をまちがえているのではないか。

「問題」はないのだから、それについて心配するのは、問題をリアルにすることに力を注いでいるだけだ。

ワークの終わりに、神の祭壇をイメージをして、一方には「問題」を捧げ、そして他方には愛と感謝をささげた。

ずっと自分から何かを画策しようとせずに、安心して自分の世界に現れるものに応じていけたらいいのに、、、と思った。

アファメーション

状況わるくない、見方によってはパーフェクト。

←古い記事を見る