祈りの瞑想とその二次的利益

2017-07-28

『神の使者』からの要約

『奇跡講座』(ACIM)に出会うきっかけは、ゲイリー・R・レナードさんの著書『神の使者』だった。これが私にとってACIM学習の土台になっている。

もちろんテキストやワークブック、マニュアルが根幹だし『神の使者』にはACIMの教えには含まれないアサンディッド・マスターの意見もある。だけどこちらの方が具体的で説明がわかりやすいので、少しACIMから遠ざかったかなと思うと、『神の使者』とその続編を再読している。『神の使者』はまちがいなく、私が人生で最もくりかえし読んでいる本だ。

でも、分厚い本なので、どこに何が書いてあったかどこがどう印象に残ったのかすぐ忘れる。

…、で、『神の使者』でとくに素晴らしいと思う部分や覚えておきたいことなどを要約しておこうかと思う。

読み返すたびに、アンテナに引っかかる部分が変わってきたり、感じ方が変わる。それもおもしろいと思っている。

祈りの瞑想と二次的な利益

今日は13章「真の祈りと豊かさ」の真の祈りの瞑想とその二次的な利益について、自分なりに復習をしようと思う。

世の中をどう見るか。

この世を「実在する」と見るか、実在しない「幻想」を見ているのだと見抜くか。私たちの源を神と認め神に信を置くのか、それとも、くるくる変化するこの世の何かに拠りどころを見つけるのか。

『神の使者』には、この世でのキャリアや営みなどは一時的なもの、要するに、豊かさを象徴する一時的なツールだという。そうしたものに信を置いても変化は避けられず振りまわされる。

そうではなく豊かさの源とつながることによって、常に満たされ溢れ出る状態でいることこそ、本来の私たちのあるべき姿だという。

そのためには、幻想に信を置いてそれをリアルにしてしまっている、その見方を変えなければならない。

真の祈りの秘訣とは、必要だと思っているものを忘れること。具体的な何かを願うのは、罪を座視し、それから赦すのと同じだ。同じように祈りのなかでは自分の具体的なニーズには目をつぶり、神の手に委ねること。

そして、具体的な祈りの瞑想の方法が、以下のように書かれている。

たとえば瞑想するとき、Jあるいは聖霊の手をとって神のもとへ赴く自分をイメージしたらどうかしら。それから、自分の問題や目標や偶像を贈り物として、『彼の』祭壇に捧げる自分を想像する。どれほど神を愛しているか、そして完璧に面倒をみてもらっていることを―永遠に安全で完全に満ち足りていることを―感謝しているかを神に語りかけてもいい。」(アサンディッドマスター、パーサの言葉)

私たちはこのゲンジツの世で多かれ少なかれ、問題や欠落感を感じている。でも、それをどうこうしようとするのは、幻想の世に信を置いていることになる。そうではなく、必要だと思うものはいったん意識から離して神の祭壇に捧げる。心の深みで神への感謝と愛だけを感じる。これが真の祈りのポイントだ。

二次的な利益

それには「二次的な利益(効果)」が伴うという。

二次的な利益とは、自分が抱えていた問題の答えが聖霊によってもたらされること。たとえば、サンドウィッチを食べたり仕事をしている時など思いもよらない時に、ふいにひらめきが訪れると。

ここでポイントとなるのは、特定の問題について「解決をお願いします」と頼むのではないという点。頼んだのでは、本当は幻影にすぎない問題をリアルにしてしまう。

そうではなくて、問題と思うものは自分の意識から離し、ただ神と一つになろうとする。わが家を思い出す。それによって愛と安らぎに包まれる。これが一次的な利益だ。

そして、二次的な利益として、神の祭壇に捧げた「問題」の答え、方向性が得られる。

神がこの世で行動するなんて考えないで。そんなことはありません。導きに従った、安全あるいは豊かさの象徴としてこの世界に現れるかもしれないわ。

二次的な利益を最初から求めては、幻想をリアルにしてしまうから、欲しいものは遠のく。ただ、神を信頼して自分をゆだねる。そのことが現実のニーズにも応えてくれる方法だ。

納得。だけど、目前の問題は棚上げして神とただ一つになるには修練が要りそうだ。これは霊性の声を聴く訓練にもなるから、忘れずにしばしばやりたい。

祈りの瞑想のプロセス要約

①聖霊とともに内なる神の祭壇に行く(イメージをする)

②自分の問題や目標や、偶像を、贈り物として神の祭壇に捧げる。心の外に出し、自分は忘れる。

③神に深い愛と感謝を捧げる。神とひとつになる。

④その喜びを感じる(祈りの瞑想の一次的効果)

⑤その後に、ふと、自分の問題や目標についての、解決策や方策のヒントが与えられることがある(祈りの瞑想の二次的効果)

レッスン132-これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。

2017-07-27

永遠の名曲「時間よ止まれ」

矢沢永吉さんの「時間よ止まれ」や岩崎宏美さんの「聖母たちのララバイ」を作詞された、作詞家山川啓介さんが24日亡くなられたとの報道を聴いた。

「時間よ止まれ」は、私が高3の夏に流行った。最も好きな曲だ。この曲を聴くと、18歳の夏の躍動感、期待感、刹那な感じを思い出す。

おととい、なんでかこの曲が頭の中でくり返され、人通りのない道を小声で歌いながら帰った。そうして帰宅したら、作詞家の方が亡くなったとのニュース。切なく、また昭和が遠くなったな、と感じた。

もちろん、形あるものすべて、今ここにある私の身体も含めて幻想だと学んでいる。でも、若い頃、大人で偉かった方が、ひとりずつ消えていかれる。それは、学習途上の私にとっては、やっぱり寂しい。

近年、とくに父が亡くなってから、人の死に敏感になっているのかもしれない。死を含め、あらゆるこの世での別れは、神との分離の再現フィルムというけれど…

矢沢永吉さんの歌う「時間よ止まれ」はひと夏の恋を歌っていて、田舎の高校生だった私にとっては都会的でセクシーで、ちょっぴり危険な大人の香りがした。

時間よ止まれ。この言葉には、今の中に永遠を見たいという、私たちの恒久の願いが込められている。この歌を聴くと、今が永遠や時を超えた何かにつながっているとかすかに思い出すような感じもある。

「夏の日の恋なんて幻と笑いながら

 この女に賭ける」

「幻でかまわない

 時間よ止まれ

 生命のめまいの中で」

幻でかまわない… 情熱的な素敵な詞だ。

レッスン132-これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。

『時間よ止まれ』が素敵だと私が感じるのと、レッスン132の主題概念は矛盾するのかもしれない。

レッスン132「これまで『世界』だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。」

世界…、この中には時間、過去と未来も含まれるから。

世界それ自体は無である。あなたの心が世界に意味を与える。あなたがそこに見るものはあなた自身の願望である。

世界は存在しない!これがこのコースが教えようとしている中心概念である。

あなたは、神が創造したままのあなたである。あなたが苦しむことが可能であるような場所はどこにも存在せず、あなたの永遠の在り方に変化をもたらすような時間というものも存在しない。

世界を自分がそう思っていた考えから解き放つということは、自分自身についての認識を改めることだ。

私たちは神が創造したままの私たちである。

神が創造するものは神から離れてはいない。

だからこそ、

世界は存在しない。世界とは、神から切り離された想念であり、父と子を分離させ、神ご自身の一部を切り取り、神の全一性を破壊するために作り出されたものだからである。このような概念から派生した世界が実在のものでありえるだろうか。

生命あるものは、そこにはありえない。私たちも同じである。私たちは父が私たちに用意した家の中に、それらとともに存在しているからである。

レッスン132は、私たちが世界と思っていたものから世界を解放する練習を15分×2回する。

ワークをして

理屈はわかっても、自分にとって圧倒的にリアルなこの世を虚無だと思うのは、なかなか…

知人に夏のギフトを送りすでに配送済みなはずなのに受け取りの連絡がないことが気になっていた。ワークの中で、このあまりに些細なことを赦した。

それから、私が不安や不満に感じていることは、全部私が自ら投影して見せているのだということを思い出し、これらもひとつずつ赦して解放した。

そして、心を静かに保ち、心の奥底に本来の自分を感じるようにした。

不平不満はすべて私がないものを見ている証拠だ。見方が間違っているという、その結果を示しているのだ。

結果ではなく原因たる私のものの見方や姿勢を変えるべきなのだ。

そして、私はやはりACIMが正しいと思うから、世間的に見たらヘンテコでも、ACIMにすがり自分なりにこれに準拠して生きたいと思う。

夜のワークをして、そう思った。

…とその瞬間、ゴキブリが部屋を横切った。

ぎゃー!!

今年初のゴキ…

一瞬見なかったことにしてふとんに潜り込もうかと思ったけれど、そういうわけにはいかない。殺虫スプレーを取ってきて、戦闘姿勢に入った。

これも幻想…だと知っている。だけど、だけど、

それはまた別の話だ(>_<)

アファメーション

ゆっくりと一枚ずつエゴの皮を脱いでいこう。

レッスン131-真理に到達しようとして、それに失敗するものはいない。

2017-07-25

感謝、大畑学さんの『 Workbook 精読』版

ACIMワークブック、せっかく英語の原書を見ることができるのだから、と、中央アート出版社の翻訳『奇跡講座 ワークブック編』と、大畑学さんのKindle版の『A Course In Miracles Workbook 精読』を脇に置きながら、英語⇔日本語を見比べながら読んでいる。

私の語学力のなさもさることながら、原文の抽象的で入り組んだ文章は、はっきり言ってちんぷんかんぷん。そこで助けになっているのが、大畑学さんのKindle精読版だ。

これはレッスン120までしか電子書籍化されておらず、困ったな、と思った。けれど、すぐこれがブログを書籍化したものだと思い出し、今は直接ブログの解説を見ている。

大畑さんの精読版が私にとって重宝するのは、その都度、ひっかかりそうな単語も逐一説明されているところ。それと、中央アート出版社の翻訳は日本語としてなめらかに整えられているけれど、大畑さんの方は原書の文法に忠実かつ意訳部分は「意訳する」と表記されているので、原文でACIMを学ぶのに優れている。

そして、何より解説が非二元論に忠実。また仏教や聖書との関連も説明されているので、内容が腑に落ちる。

テキスト版の精読もなさっていて、その労力と知力、読解力にはとてもとても頭が下がる。ブログの方は、まったくただだし。感謝です。

大畑さんはご自身のブログを頼りに私が日々英語と格闘しているとはつゆ知らないと思うけれど、私は非常に非常に助かっている。そして独学をする中でそうした先人がおられることも、心強く思っている。

レッスン131-真理に到達しようとして、それに失敗するものはいない。

ここ数回、このゲンジツの世界と神の実相世界を対比して、これが実際には一方は虚無の世界、他方はリアルな世界であって、リアルな世界だけが真実で私たちの幸せはリアルな世界にしかないことが強調されてきた。

そしてレッスン131では、「真理に到達しようとして、それに失敗するものはいない。」ことにフォーカスする。

あなたが世界にその力を与えない限り、どのゴールを追求すべきかを世界があなたに命じることはできない。それをさせなければ、あなたは依然として自由に、世界やその中の一切の考えを超越したゴールを選ぶことができる。

あなたは望むゴールに確実に到達する。

なぜ天国を待つのだろう。天国は今日ここにある。

私たちが、実際には存在しないこの世とこの世の価値観から、唯一の真理である、天国=神の実相世界へと意識をシフトさせる練習をする。10分×3回。

このゲンジツの世から、心の奥深くの聖なる部分へと沈んでいき、そこにある扉の向こうへ進もうと試みる。そこではすべての闇は消え去り、明るく澄みきった光の中で目にするすべてが言葉を介することなく理解できる。

ワークをして

このワーク、1日3回とシンプルなのに、なぜか夜のワークが飛んでしまい何日も足踏みした。テレビを見たり、スマホのゲームをしていたりして気づいたらそのまんま寝てしまっていた。あるいはしたのかもしれないけれどメモがなくて、したかどうか思い出せない。

私のACIMへの思い、やわなんだな、と反省。

数日前からのワークで、心の中のホーリースピリットを、自分の中の絶対死なない部分とイメージするとわかりやすかった。それがうまくイメージできると、すごく穏やかで、永遠なのか時間がないのかそういう感覚になり、すごくなつかしい感じもあった。

心の奥底のドアの向こうに行く…のは、うまくできたのかどうか…。太陽の光が降り注ぐような平原がイメージで出てきたけれど、「この世のものとは思えない」ようなものではなかったから、ちゃんとできているのではないんだろう。

感じたのは、

「幸せであってもいい」

「豊かであってもいい」

…このくりかえし。

ここに私の罪悪感のかたちがあるのかもしれない。

扉の向こうは、私が無条件で幸せであってもいいところ。神の子を証するために、無条件で幸せで豊かであるべきところだ。

ACIMの勉強の仕方が正しいのかどうかもわからないし、どれだけ進めているのかもわからないけれど、レッスン131には、「間違っていれば、彼は訂正を見出す。横道にそれたときには定められた任務へと導き戻される。」とあるので、任せてこのまま進もうと思う。

アファメーション

聖域と感じられる場所にどんどん自分の信を置いていこう。

 

レッスン130-二つの世界を一度に見ることはできない。

2017-07-24

アートセラピー・ワークショップ

昨日は、カルチャー講座の仲間が主宰するアートセラピーのワークショップに参加させてもらった。

アートセラピーを受けたのは、久しぶりで、絵を描くのも、みんなとシェアするのも楽しかった。

ふと、いつ以来かな?と考えたら、一昨年、アートセラピーのセラピストのコースを受講しつつ、先生と相性が悪くて途中退校したとき以来だった。

セラピストと言いながら、人のトラウマや心のデリケートなところに無遠慮に入り込みコントロールするかのような先生の進め方に信頼が持てず続けられなかったのだ。先生もなぜか私に攻撃してくる。

当時は、すっかり感情的に巻き込まれてしまって、いかに先生と対峙するか、この場から自分を守るか、しか考えられなくなっていた。

今から思うと、あの“事件”はまさに自分のエゴの投影で、大きな赦しのチャンスだったと思う。

結局、赦せたのかどうか…私が止めて学校から離れてしまったから、それっきりだけれど。先生も、私から投影される役を引き受けてくださっていたのだから、今から思うと、ありがたい方なのだ。

今一度、この思い出した機会に赦そうと思う、当時の出来事と自分を。昨日のワークショップはその残滓の赦しのチャンスにもなった気がする。

レッスン130-二つの世界を一度に見ることはできない。

ここ何回かのワークでは、今見ている世界を手放して、その向こうに在る実相を見ることに力点が置かれている。

「神との分離」という起っていない勘ちがいを本気にして、「それは大変だ、こっちに逃げ隠れる場がある」とエゴの誘導によって行きついたこの世界。

そこには私たちが「世界」「人生」と呼ぶすべてのものがあるけれど、これは本当の世界ではない、自らの恐れと罪悪感が映画のように投影させて見ている世界にすぎない。

そこに「在る」と思っているから、見えるだけで、実在しない。

それを手放して実相世界に向かおう。これがここ最近のワークだと思う。

そして、レッスン130では「二つの世界を一度に見ることはできない。

私たちはついこの幻想の世界を保ったまま、神の実相世界も手にしたいと思う。しかしそれはできないのだ。神の世界を見たいなら、この世のあり方をいったん脇において手放さなくてはならない。

どのように重複することもない二つの世界が、両方とも一度に見えるということはありえない。(中略)実在か非実在か、それだけが選択できるすべてであり、それ以外に選択肢はない。

今日、私たちが学ぼうとしているのは、あなたが一度に二つの世界を見ることはできない、ということだけではない。今日のレッスンはさらに、あなたに見えている世界はその世界を見るあなたの考え方と一致するものである、ということも教えている。

この概念のシフトの練習、5分を6回する。

ワークをして

ワークを始める際に唱える言葉の中に「この世にいかなる価値も見ずにいられますように」という件があって、そこに少し抵抗感を感じた。

この世の幻想のなかの様々なものに支えられ、幻想ではあるけれどその社会の中で生きてきたから、それが非実在と心から思えるには至っていない。

やはり私はまだまだ無意識の罪悪感と怖れをこの世に映し出して見ている。

もしかしたら、ものわかりよさげな顔をしたエゴが緩めにもった鎖につながれて、自分は自由にやれているつもりでも、エゴの手のひらの中で動いているだけなのかもしれないな。

簡単には悟れない。実相がありありと感じられるということは今のところない。

でも、ACIMのない人生に戻りたいとは全く思っていない。遠くてもリアルの道がいい。

…から、自分のペースでこの道を行こう。。と思う。2017年の夏も。

アファメーション

過去のことを思い出したら、それも赦しのチャンスだ。

レッスン129-この世界を超えたところに、私の望む世界がある。

2017-07-20

日野原重明さんの大往生人生

一昨日は東京でゲリラ雷雨があり、私が住んでいる地域でも雹が降ったらしい。あんなに激しい雨を見たのは、生まれて初めて。雨に怖い、と思ったのも初めて。亜熱帯地方みたいだ。日本とは思えない。

100歳を過ぎてからも現役医師として活動しておられた日野原重明さんが18日亡くなった。105歳だった。

朝のテレビでその人生を振り返っていたが、その言葉のなかに、

「人生60歳までは午前の時間、それからが午後。午後は長いでしょ」というのがあって、びっくりした。

50代の私は欲張ってひいき目に見て、人生の午後4時くらいかな、なんて思っていたから。日野原さんによれば、まだ午前だ!

時間は幻想だって知っていてそういう見方はエゴの見方かなと思うけれど、つい自分の持ち時間というものを意識してしまう。

それが、まだ午前…と思えば、なんだか気持にゆとりができる。すてきだ。

日野原さんは、また

「老いてこそ、創造的に生きられる。新しいことにチャレンジする勇気を持ちたい」とおっしゃり、90歳を過ぎてからも現役医師として働く傍ら、俳句や絵本作家など新しいことに挑戦された。

私だってまだまだなのだ(^o^)丿と希望を与えてもらった。

人生のよしあしは長さではないと思うけど、生きる姿勢がすごい、見習いたいと思った。ベストセラーになった本『生きかた上手』も読んでみようかしらん。

レッスン129-この世界を超えたところに、私の望む世界がある。

このレッスンは、前回の「私が見ているこの世界には、私が望むものはないもない。」の続き。この世にはないが、「この世界を超えたところに、私の望む世界がある。

この世の価値と価値観に縛られていては、実相の世界が見えない。そもそも虚無の世界なのだから。

あなたをとらわれの身としておくためにこの世界が並べたてている卑小なものごとから自分の心を解き放つとき、それと入れ替わりに訪れる世界が、ここにある。

虚無に価値を認めないという選択をすることで、あなたがどんな損をするというのだろう。

だから、この虚無の世界を手放しそのかわりに訪れる真の世界を受け入れよう。

朝と夜とその間にもう一回それぞれ10分間、この変化を起こすための練習をする。

ワークをして

私は3回のワークのうちなぜか夜のワークをすっかり忘れてしまって、3日目にようやく3回行うことができた。これも無意識の抵抗なんだろうか。

ワークをしつつ感じた2つの気持ちがある。

ひとつは、今や私にはこれだと思える、生きる上で軸となる価値観があるのだから、四の五の言わずにその価値観をもっと素直にオープンに生きてもいい。ACIMのとおり縮こまらず自然体でもっと表現して生きよう、という気持ち。

もうひとつは、ACIMを学んでいる裏にある恐怖心で、この教えはすばらしいとは思うけれど独学だし私は解釈をまちがっているのではないか。教えを学んでいるつもりで、私はこの世への適応力を失うばかりで、ただ内向的な怠け者になっているだけれはないか、それはまずいのではないか。というもの。

この2つが対立するものなのか、あるいは似たようなことを言っているのかわからないけれど。

この形而上的な教えを軸にしながら、この世でどう生きたら…、どう自己表現したり人と関わったり、あるいは自分の居場所を作ったりするのがよいのか、というお題なのかな。

いずれにしても求められているのは、赦す、こと。そして愛すること、だと思うけど。

アファメーション

今回の人生でもっと本来の私を出していこう。

レッスン128-私が見ているこの世界には、私が望むものは何もない。

2017-07-18

レッスン128-私が見ているこの世界には、私が望むものは何もない。

7月初旬頃からずっと真夏の陽気。まだ梅雨明けはしていないみたいだけど。。今年の夏は長そうだ。暑くてしんどいけど、夏はきらいじゃない。夏には若さを感じるから。空と海の青と、ひまわりの黄色のコントラストのイメージ。長い夏を地味ながら、私なりに楽しもうと思う。

“問題”や“葛藤”“迷い”を抱えつつ、細々とだけどワークを続けている(つまびらかには書けないでいるけど)。

私が問題や葛藤を見ているのは、私がホーリースピリットが導く真の世界と、エゴが主導する偽りの世界の、その両方を手にしようとしているからだと思う。

レッスン128は次のような過激なフレーズで始まる。

あなたが見ている世界は、あなたに必要なものを何も与えてはくれない。あなたにとって何らかの使い道があるものも、喜びを満たしてくれるものも、この世界には含まれてはいない。このことを信じなさい。

またこうも。

この世界であなたが価値を置いている一つひとつのものは、あなたを世界につなぎとめる鎖にすぎず、それ以外の目的には役に立たない。(中略)これ以上、騙されてはいけない。

この世界にあなたの望む何かがあると信じたい誘惑に屈してはならない。ここには大切にすべきものは何もない。

そして、レッスン128では、私たちがこの世に見出している価値やその価値観をすべて手放す練習をする。

そうして幻想の世につながれている心の鎖を解き放つことによって、本来の自分であるホーリースピリットの声に耳を傾ける心のスペースを作る。

ただその翼を自由にしてやりさえすればよい。そうすれば、それは確信と喜びのうちに飛翔し、自らの聖なる目的につながるだろう。

ワークをして

この世のものすべてに価値がない、手放せ、…という文言にはやや抵抗を感じてしまう

これはもちろん、この世の価値観とは真逆だし、物ごころついた頃からずっとこの世で何とか「うまく」生きるために、さまざまな知識を学びノウハウを画策してきたのだから。学歴もそうだろうし、学歴がない私にとっては資格がそうだった。

この資本主義の世の中に溢れている商品やサービスの多くが、これがあればこの世でより「うまく生きて」「豊かに」「幸せに」なれますよ、とモノやサービスを提供している。

そして、みんな自分に足りないと思うものを補うべく、それらのモノやサービスを手に入れようとと頑張っている。

それをちゃぶ台返しのように全否定するこの主題概念…!

私はこの教えが突き詰めれば正しいのだと思っている。けれど、この世にいる私たちに、どこまで手放せ、と言っているのかしら?

「何も価値がない」を真に受けては、家も服も食べ物さえも失うのでは…、という漠然とした不安。これはエゴの不信から来るのかな。

このワークは、ゲンジツの世で生きる私たちに、どこまで要求しているのかな。

これはものの例えで心の中の姿勢だけを言っているのか。

そこまで突き詰めなくても、私には執着したいもの、手放したくないもの、この世で価値があると思いたいものがたくさんある。

そうしたキラキラして尊いものに思えるイミテーションを削いでいって、この世の原理原則からも自由になり、それでもつつましいあたりまえの生活というものが成り立たせられたら。その自信が持てたら。

さぞかし、さっぱりして、ぶれなく在り方が美しくなれるかもしれない、と思う。

アファメーション

ゆっくり手放していこう、剥ぎ取るのではなく。ひとつずつ。置いていこう。

レッスン127-神の愛のほかに愛はない。

2017-07-17

レッスン127-神の愛のほかに愛はない。

レッスン127では、真の愛とこの世で「愛」と呼ばれるものとは異なるという説明が書かれている。

この世での愛は、ある人は愛し別の人は愛さないということが当然にありうる。また、同じ人に対しても、ある時は愛するが別のある時には愛さない、という変化がありうる。

ACIMではこうした心を愛とは言わない。

この世で愛と呼ぶものは、ACIMで「特別の愛」と言われる特定の人に対する思いだったり、執着だったりする。その多くは条件つきの「愛」だ。

こうしたものはACIMでいう愛ではない。

ACIMの愛は恒常的で全方向に向けられており、次のように説明されている。

愛には裁くことはできない。それは、それ自体が一なるものなので、すべてを一なるものとして見る。愛の意味はその単一性の中にある。そしてそれを偏愛や分割された愛として思い描く心にとって、真の愛は捉えがたい。

神の愛のほかに愛はなく、愛はすべて神の愛である。

愛の意味はあなた自身の意味であり、神ご自身と共有されている。

『神の使者』にはパーサの発言として、

「でも思い出して。J(イエス)は両親を―石工のヨゼフとセッフォリスのアリアを―愛していたけど、ほかの人たちも同じように愛したのよ。特別の愛は個別、具体的だけど、聖霊はすべての人を平等に愛しているの。」(p177)とある、

こうした真の愛は、この世で探すことができるものではなく、逆にこの世の価値観から自由になることによって見えてくるという。だから、レッスン127では

あなたの真の自己を見つけようとして、この世の中を探すのはやめなさい。愛は、闇と死の中には見つからない。」とする。

そして自分の心のうちに、歪められることなく保たれている部分があり、そこを通して神との関係を結び直すことが真の愛を思い出すことだ、として、心を開きこの世の法則を抜け出すワークをする。

ここ何回かのワークは、文言やアプローチを変えながらも、この世が前提としている原理原則から離れ、内なるホーリースピリットに耳を傾ける練習をしている。

それによって、埋もれさせている真の自己を思い出そうとする。

ワークををして

私は、いまだACIMでいう「愛」がわかるようなわからないような…。

この世での「恋しい」「愛しい」「好き」「ありがとう」は経験がありわかるけど、それは愛なのかな、特別の愛やエゴの執着かもしれないと思う。

愛…がわかっているのかな。かすかにでも進歩はあるんだろうか。

私たちは、エゴというまちがった心に依拠する世界に住んでいる。そこに真の幸せにいたる道はない。この世界に敵対するのではなく、透明なシートを重ねるがごとく、ホーリースピリットに従って生きる別のレイヤーを作らなくては。それがACIMワークがくりかえし導いてくれていることだと思う。

この世で神の教えをじゃまする最もわかりやすいものは、「プライド」ではないかな。

プライド=エゴ

それは特に近代人にとってとても大事なもので、自分が傷つけられうると教え、「やられたら、やり返せ」「やられる前に、やり返せ」と教える。

その教えは一見正しく思えるけれど、偽の自己にしがみついているだけ。偽自己には正体がない。幻だ。

愛=神

その一点にすべてが集約される。

わかる。と思う。

でもむずかしい。

レベルというものはない。

でも、今の私にはすごくレベルが高く思え、はるかかなたに感じる。

ACIMは、理屈を学ぶだけで実践されなければ、無用の長物だ。私も、ACIMの理論のかげに隠れて偽自己を守るのではなく、もっとオープンマインドに平和になり、わかちあいたい。

このワークの中でも、自分のホーリースピリットを感じてみようと試みていた。心を静めると、自分の中にも、深いところに変わることのない本来の私がいると思える。

アファメーション

こころの奥の、本来の自分のかんじ。

レッスン126-私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

2017-07-14

ユング講座

一昨日は月に一度のユング心理学講座だった。

ユング講座の先生は、ACIMの学習者ではないけれど、私がACIMを勉強していることを知っておられる。そこで講座中にみんなの前で「勉強の方はどう?」と聞かれ、それに答えるかたちで少しこのワークのことを話すことができた。

ACIMの内容を説明することはできなかったけれど、私が大事に思って何年も勉強しているものがあること、それをこのゲンジツの世との間の葛藤はあるものの、素晴らしいと思いこれからの人生学び続けていきたいと思っていることをおしゃべりした。

たったそれだけのことだけど、少し心が軽くなり満たされたように思う。

私はACIMを究極の智恵だと思う一方で、ACIMがあまりにも世の中の考えとはかけ離れていることにどうも萎縮というか緊張しているところがあるのだ。

ACIMは実践されなければ「無用の長物」だ。私はできれば実践し、さらにわかりやすく発信もしたい。それが今後の人生のテーマ…のつもり。

レッスン126-私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

だから、私たちが赦すとき、赦しているのはこの私たちだ。なぜなら、自分の向こうには実は誰もいないから。

私たちは、私が目の前にして感情を動かすその人と別個に存在しているのではない。その人は自分の中にあるイメージを投影して見ているにすぎず、いわば自分の片われ。

与える者と受け取る者は同一である。これを理解しようというのが、レッスン126のテーマだ(と思う)。

レッスン126ではACIMワークの中心概念である「赦し」とこの世での「許し」を対比させるかたちで説明しているが、

「許し」に対する視点は以下に代表されるように、鋭くきびしい。

あなたがこのようなやり方で罪を『赦す』とき、あなた自身に直接に益となるものは何もない。あなたはただ、自分が赦す相手よりも自分のようが善良で、より高い位置にいることを示すために、慈悲に値しない相手に慈悲を与えるだけである。

この世の許しは、罪を犯した者に上からの立場で与えられる慈善的きまぐれだと言い、さまざまな言い回しでそれが、自分の赦しにはつながらないことを説明している。

ACIMの赦しはまったくことなる。

私たちが心の内に持つ無意識の罪。それを否認するがため自分以外の人に見える。その他者が自分にとって許しがたい不本意な行為をしているように見える。それを、現実ではない、それは投影にすぎないと見抜いて手放すこと。それが赦しだ。

だから赦されて解放されるのは、赦した者自身の心なのだ。

私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。これが真理であることを学ぶのに必要な助けは、今、私とともにある。私は聖霊を信頼する。

世間一般で言う許しと、ACIMの赦しの概念の別を確認し、心の中の正しい部分であるホーリースピリットの導きによって、正しい赦しを定着させるのが本ワークの目的だと思う。

ワークをして

私は、赦しの概念はだいたい理解できているのではないかと思っている。

でも、それをこのゲンジツの中でどう行動すればいいのか、あるいは幻想なのだから行動もしないのかがイマイチよくわからない。

たとえば5日北朝鮮の金正恩氏が弾道ミサイルを発射したというニュースがあったけど、こういったゲンジツに直面して「赦す」とは?

心の中でこれはリアルではない。「彼がしなかったことについて赦す」と思う。ただそれだけでOKなんだろうか。

その後はただ受身でいいのか。

そこのところがよくわからない。

たとえば震災のとき、たとえば自分が事故に巻き込まれたとき、まずは私の心の中のこと。その中で赦すとして…ゲンジツでの行動はどうしたらいいんだろう。

ゲンジツでは係争中で、心の中で赦すなんて場合もありうるんだろうか。

ともかく当面は、、私の映画のスクリーンに映るものはなるたけ赦すことに努めようと思う。

実はすごくささいなことでも、くりかえし思い出して、赦せてないことがある。まずはそういう思いが浮かんだ時、その都度、赦しを実践することかな。

アファメーション

赦しのチャンスはありがたい。

レッスン125-静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け取る。

2017-07-12

エアコン解禁~

福岡や大分など九州北部の方では豪雨による災害があった。土砂崩れで道路や家が埋められたり流されたり。泥まみれになった家を再建するのは並大抵のことではないだろう。災害で急に生活を奪われる理不尽さと辛さ。亡くなった方、現在まだ捜索中の方もおられる。

東京は連日真夏日だ。

昨日外出から帰ってなんかだるい、動けない、とぼーっとしていたけれど、2時間経ってもやっぱりだるい、動けない。夏バテかな。熱を測ってみたら37.6℃あった。

これって、もしかしたら、熱中症とかいうのの始まりかな、とようやく思いつき、手元にあったスマホで症状を見てみたら、

だるさ、眠気、頭痛、熱…など思い当たるものが書いてあった。暑い中日傘も差さずに歩き、帰宅後もエアコンは無駄、、とがまんしていたのがいけなかったみたい。暑い部屋のなかで自力では体温を下げられなくなったいたのだ。

ネットには熱中症で亡くなる人の特徴として、

・高齢者

・男性

・低所得者

・都市部居住者

・慢性疾患を持つ

などが挙げられていた。「男性」以外は当てはまっているかも(・・;)

今年初となるエアコンを付けた。涼しい!すばらしい。エアコンをつけて休んでいたら翌朝には良くなっていた。

よかった。節約より健康。今日から家のエアコン解禁だ、私は大丈夫などと侮っていてはいけないと思い知った。

レッスン125-静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け取る。

レッスン125は「静かに耳を澄ます日」とするワーク。

この世界は“雑音”に満ちている。エゴが主導するこの世は忙しく、やるべきことで溢れている。解決すべき問題、闘うべき人、催すべき行事、落とすべき体重や、直すべき症状。キャリアアップのために必要なこと…などなど。

こうしたことを脇に置いて、まず心を静めよう、そして神のメッセージを伝えるホーリースピリットの声に耳を傾けようというのが、このワークの主眼だ。

今日、神はあなたに語る。神の声はあなたが沈黙するのを待っている。なぜなら、あなたの心がしばし静まり、無意味な欲求がやむときまで神の言葉は聞こえないからである。静かに神の声を待ちなさい。

このワークでは10分×3回。まず心を落ち着ける訓練をして、ホーリースピリット=本来の自分の声を聴きやすくする。

ただ静まりなさい。今、必要なのはこの決まりだけである。

ワークをして

10分3回のワークをしていても、このワークの意図することができているかどうかがわからない(いつものことだけど)。本人は静まっているつもり、だけど心の中の雑念をリピートしているだけのような気もする。

ワークを終えて、私が感じたのは(何度も言っているかもしれないけど)大きく3つ。

まず、私はちゃんとホーリースピリットの声が聴けているのかどうか。

まったく聴けていないような気もするし、一方でこうしてACIMと出会い勉強していられるのはホーリースピリットの導きのおかげにちがいないとも思う。そもそも耳元で声がするのでなければどうやって聴けるのだろう。

ホーリースピリットからしたら、耳元でこんなに大声を出しているのに無視しやがって、となっているかもしれない。

もう少しちゃんとホーリースピリットのメッセージが受け取れるようになりたい。

そして、これもくりかえし言っていることだけど、私はACIMに関して頭でっかちだな、ということ。

ACIMを学ぶほど、この教えが世間一般の考えや価値観、世界観とまったくちがうと感じ、人と話がしづらくなっている(雑談がしにくい)。

ACIMに基づいた自分の考えを出すことで、人にヘンな人と思われたくないし、傷つきたくもないし。

…と気づけば、ACIM学習前に比べ内向性がさらに増してほぼ孤立している。

私のエゴが傷つかないように、ACIMの鎧を身につけているのかもしれない。赦しがACIMの主たる課題なのに、赦しの機会がもたらす不快感に出くわさないように、自分の安全圏だけで生きている気がする。そしてそれはものすごく狭く、さらに年々狭まっている。

こうしたことは単なるエゴ主導の「自己分析」なのかなとも思う。

そもそもワークのお題の心を静めるということができておらず、心の雑音をリピートしただけなのかな?

最後に感じたことの3つめは、ACIMを学びつつ、もっと人とコミュニケーションするようにしよう、ということ。

まあ、ぼちぼちだと思うけど。

アファメーション

自分を邪魔しているものがあるとすれば、それは自分だけ。

レッスン124-私が神とひとつであることを、思い出せますように。

2017-07-07

そもそものおはなし

ACIMのワークはさまざまな方法や言い方で、私たちのちょっとした誤解が生み出したこのゲンジツの世からめざめるさせる練習を差し出してくれている。

すべては私たちを創造した「神」から離れてみたら…という気の迷いをして、それがなされてはいないのに「した」と思いこんだことから始まっている。「たいへんなことをしてしまった」「なんと怖ろしい」「いずれ罰せられるにちがいない」との思いを、その自分たちが作った偽のアイデンティティ、エゴが「ここではない、神から見つからない場所にかくしてあげるから、大丈夫」と言って作ったのが、この宇宙であり世の中であり、私たち個々の身体だ。

これらはいずれも、エゴが作った偽創造であり本当は存在しない。どんなにリアルに見えても幻だ。

「神は在る(God is)」そしてそれ以外はない。

究極的にシンプルな真理がある。

エゴが偽創造した「生身の」身体を持ち、その脳で考えている(と思っている)私たちが、神の使者である内なるホーリースピリットとの関係を結び直し自分の誤解に気づいていくのが、このコースだ。

この宇宙も私たちの身体も私たちにとっては圧倒的にリアルだ。そもそもの発端の誤解を解くにはそこに戻らなければならないが、すさまじい恐怖心から、思考は固まってしまっている。誤ったエゴは巨大な玉ねぎを剥くように、一枚ずつゆっくりとはがしていかなくてはならない。

こうしてACIMのワークは、あの手この手で「エゴの玉ねぎ」を剥く作業を促している。

レッスン124-私が神とひとつであることを、思い出せますように。

レッスン124は、ダイレクトの「私が神とひとつであることを、思い出せますように」というお題の元に、このコースでは初めて(たぶん)30分という長めの瞑想ワークが指示されている。

今日、あなたの上に平安あれ。神があなたとひとつであるように、あなたも創造主とひとつであると自覚する練習をして、あなたの平安を確実なものにしなさい。今日一日のうちの最適と思える時間に、自分が神とひとつであるという概念に半時間を捧げよう。

ワークをして

30分という長めのワークでは雑念がたくさん心をよぎっていく。

一つはやはり、赦しのむずかしさ。

前に知人にざわついた思いを持った時のことを思い出し、とっても些細なことなのだけど、それでさえ感情を流すことには時間がかかることを思った。

私はだいたいに自分の思うことを人に伝えるのが下手で、特にネガティブなことの場合はほとんど言えず内に飲み込む。「も~」と笑顔でユーモアを持ってツッめたりしたら、人生もっと軽やかなんだろうけど。

この世で日頃感じる心配、痛み、怒り、辛さは、ここにいる自分にとってはやはり現実でリアルだ。それを非現実として見て「だって実際には起っていないのだから」と心から思えることは、そう簡単ではないと感じる。

赦しの中でも、些細なものから大きな事故や事件に巻き込まれるようなもの、家族や自分の心身を大きく傷つけるものもある。こうしたことに直面した時、赦しはさらに相当厳しいものになるだろう。

ワークの終盤では、安らぎも感じた。いろいろ心配ごとや葛藤はあるけれど、こうしてACIMを学べていることは貴重だし有難い。

ずっと、「安心や幸せを得るために○○しよう」というような考えで来たけれど、そうではなくて、

「神に守られている今ここで、安心と幸せでいよう」と思いたいと思う。

ACIMとその周りのことをこつこつ学びたい。そういうことをゆっくり生きながらしていきたい。

そう思えている今この瞬間は幸せなんだなと思う。

アファメーション

清らかな自分に気けるように、心が鎮まりますように。

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