あっぱれ!小林麻央さんに学ぶ生きる様

2017-06-24

生きる姿勢

昨日、小林麻央さんの訃報が届いた。

ブログをしばしば拝見し辛い状況の中でもやさしく自分らしく生きる姿に尊敬を抱いていたから、「ああ、旅立たれたか」と何とも言えない気持ちになった。

6月20日付の最後のブログではお母さんの手搾りのオレンジジュースのおいしさを記事にしておられ、

「皆様にも、今日 笑顔になれることが ありますように。」と締めくくられている。添えられた写真には穏やかな笑顔。肌にも透明感があり瑞々しささえ感じる。たいへんな闘病だったろうに最後まで日常の一場面の喜びを綴る投稿だった。

小林麻央さん2014年9月の海老蔵さんブログに掲載された着物姿の真央さんをお気に入りに登録していた。その頃はすでに病に罹られていたことになるが、その若妻らしい姿からは病魔の影はみじんも感じられない。人の運命というのはつくづくわからないものだと思う。

34歳。お子さんはまだ4歳と5歳。普通なら、人生これからいよいよ本番、という時だったのに…

2014年2月の人間ドッグで引っかかり何回かの検査後10月に病が確定したという。最後の投稿写真で見せた穏やかさに至るまでには、忸怩たる思いや葛藤、いくつものプロセスがあったろうと推察する。

それを前面に出さず凛として自分を晒す姿に、存在の美しい人だと感じ入っていた。ありのままに振舞っているように見え、その実とても抑制の身についた方だったのではないかと思う。

一読者として生きる姿勢を学ばせていただいておりました。

お悔やみ申し上げます。

与えられたいのちに、感謝して生きる

この世をエゴから投影されたロールゲームのようなものと見た時、そこにはいつも2人の自分がいるように感じる。「ゲームを外から見ている自分」と、「ゲームの中で生きている自分」。

ゲームを外から見ている自分は、このゲンジツの世がすべて投影されたものでリアルではないと知っている。

でも、ゲーム中の私は、当然そこでの出来事に一喜一憂する。

この世のあらゆる「死」というものは、「神との分離」を繰り返し再現して体験しているにすぎない。そう頭ではわかっているつもりだけれど、やっぱり今ここにいると思っている私の方は、悲しくさみしい。

私は身体ではない。身体は私ではない。

でも、今ここで身体を持って生きているのはこの私。

生きていられるのはありがたいこと。

それを改めて感じた。

ふとふりかえったら、2014年の春は、私自身の「がん」が発覚した時だった。夏は手術するのしないのすったもんだしたあげくネットでいろいろ調べ、お医者様は手術を勧めたけれど「経過観察」だけを続けるという選択をした(大きくならないタイプでリスクは小さいと判断した)。

おかげさまで無治療で経過観察のまま今に至り、元気に日常をあたりまえのように生きている。それがすごく尊いありがたいことなのだということを忘れていた。

病気で亡くなる人、事故で亡くなる人。事件に巻き込まれる人。ぽっくりと逝く人。いろんな運命がある。いずれはここにいる皆が肉体を後にする。

けれど、今ここに残されている人たち、生きていられる人たちは、この肉体を持った自分の命を生きなきゃ。

よしんばそれがかりそめの世だとしても。

自分に与えられたものがたりを生きるー。

それを改めて感じた。

小林麻央さんが見せてくれた日々の記録はずっと生き方のお手本のひとつとして、ブログを共有するみんなの心に残るものだろうと思う。

あっぱれ!

見事だ、と思う。見せてくれた在り様に感謝。

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