レッスン101-神の意志が私に望むのは完全な幸せである。

2017-04-21

ワークの方は先に進みたいけど、それをブログにするのに手間どっていて、差が開いている。今日のレッスン101は4月6日にやったやつ。

あれ、なんだっけ?ってなっている。

少しワークはがまんしても、一回差を縮めたい。

「ワークをがまんする」とは、なんかよく勉強しているみたいだけど、ただ365という数が与えられたら学生時代のドリルみたいでただとりあえず終わらせたくなる感があるだけで、実際には最近のワークのどれもが理解不十分かつ不完全遂行(?)かも。でも完全な理解を待っていたら一歩も先に進めないし…。

パソコンに向かって座っていて腰が痛いな~と感じるようになった最近。区のリサイクルセンターに立ち寄った際に、ふとバランスチェアの出品があった。粗大ごみで回収したけどまだ使えるものを無料で区民に提供しているのだ。応募多数の場合が多いから抽選となる(私はここのくじ運だけは非常によく、家の家具の半分はここのだ)。

バランスチェアは、クッションが2つあって、座面が斜めに傾いていて、もう1つのクッションで膝、脛で体重を支えるしくみの椅子。腰椎カーブが自然のS字になって腰への負担が軽くなるのだとか。試しに座ってみたら、心地よかった。

それで何気に応募して帰ったら、当たってしまった。…家にバランスチェアが来た。思ったよりでかい。

机の前に置いてみると、パソコンに向かう分にはよいのだけど、文字を書くとなると座面が高すぎて机とバランスが合わない。それでは困る。ということで、本来の目的である仕事机の椅子としては却下。でも、背筋がぴんと伸びて気分がいいので瞑想的ワークをするのに使ってみたら、いい感じ。また本を読むのにも心地いい。仕事部屋から居住部屋の和室に移してとりあえずはそこが定位置になった。

ぜったいに自ら探しては買わないだろうものが、ふいに家に来て、意外な存在感を放つことになった。

レッスン101-神の意志が私に望むのは完全な幸せである。

レッスン101は引き続き幸せについて学んでいく。レッスン100では、幸せと喜びが神の子である「私」のはたらきと説明されていた。レッスン101は、それをまた別の角度から説明している。

罪が実在すると思っている私たちは、救済を勘ちがいしているのだという。すなわち神による救済とは罪に相応しい罰を受けることだと。そして、この世でどんなふうにしていても罰は履行されると。

もし罪が実在するなら、救済は苦痛でしかない。(中略)なぜなら救済は殺しにくるものだからである。しかもそうした救済は、自らの怒りがおさまるまで、ゆっくりと生贄からすべてを剥ぎ取っていき、すでに骨と皮となっている生贄に、恩恵のごとく歓迎される死を授けるのである。」という表現はおどろおどろしく、まるで地獄絵図のようだ。

だけど、罪は存在しない。「神からの分離」という「過ち」が実際には起きていない。前提がまちがっているのだから、当然罪はない、罰もない。

レッスン101では、ここにフォーカスする。何度もくりかえし教えられていることだけど、私たちの心はエゴのマインドコントロールにかかっている。しかもそれは無意識となっている深いものだ。だから、くりかえしくりかえし正しいことを再暗示させるがことく訓練する必要がある。

神の意志があなたに望むのは完全な幸せである。なぜなら、罪は存在せず、苦しみには原因がないからである。喜びこそが公正なものであり、苦痛はあなたが自分を誤解したしるしにほかならない。

この文言がレッスン101のメッセージをよく表していると思う。

ワークをして

私も頭ではこの内容は理解できるのだけど、目をつむってワークを始めたら、若い頃からのこの世での悪行の数々と、幸せになってはいけない根拠が浮かんできて、悲しくなった。

法的な罪ではないけれど…

親を憎みながら成長したこと。

親が大喜びした結婚からわずか一年で離婚してしまったこと。

父の病で母の介護がたいへんにしていても、故郷で一緒に暮らす決断ができなかったこと。

親との関係だけでなく異性との関係でも、親しくなった男性に攻撃的になってしまい責めてしまうクセ…

このゲンジツの世は幻想に過ぎないと思っても、私がこれまで住んできたのはここで、そこでの思い出がノスタルジックに悲しみとたくさんの層となって出てきて、その一番下層にある「無罪・幸せ」まではなかなかたどりつけない感じがあった。

この世に生まれ、知るかぎりの幸せもこの世で経験したものだから、罪悪感は悲しみだけじゃなくて自分が感じた幸せともマーブル状になっていて、だから、さっぱり手放すのが寂しいようにも感じる。

もちろんこれは全部エゴが見せているものなんだろうけど。ノスタルジックに思い出すというのが、エゴの罠なんだろうな~。

罪と罰はない。幸せであること。これを何度もくりかえすこと。また時間をかけて勘ちがいの薄皮を剥いでいくことが必要なんだろうと思う。

「罪はない」と心の中で唱えると、一方から「何都合のいいことほざいてんだ」という言われる気がする。

でも、神への献身とは私が完全に幸せでいること。それは神と聖霊とゆだね一体であることから感じる幸せだ。

今は、毎日揺らいでいる。自分を責めたい自分と、幸せであろうとする自分。覚えている時は幸せを選ぼう。。