レッスン72-不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である。

2016-10-26

もともと更新が少ないダイアリーブログがますます少なくなっている(^_^;)

毎日、調査して、まとめて、提出して…と締切に遅れつつもやっていて、ほとんどACIMから意識が遠ざかっている。

レッスン72のワークも、朝はやっても、日中と夜のワークがなかなかできず、足踏みで、実際には終えられてない。

けど、とりあえずでも、ブログ書いちゃおう。。。と。

レッスン72-不満を抱くことは神への攻撃

レッスン72では、不満を抱くことを、神への攻撃と位置づけている。

それは、一言でいうと、不満を抱くことが本来はありえない「肉体」概念を強化することであり、「幻想」を強化することだからだ。

だれかに不満を抱く時、私たちは、その人を神の子という本質を見て向き合っているのではなく、その人が何をしたかという肉体として束縛されたその人に対して、反応している。

それをワークブックは「積極的に彼を肉体につなぎとめようとしているのである。ここで神が攻撃されている。」と言っている。

また、「不満は、あなたの兄弟の本性を完全に見落としてしまう。それは、彼が肉体であるというあなたの信念を強化し、彼が肉体であることを理由に彼を咎める。」とも説明している。

私たちが神の延長である神の子であるという真理は、私たちの心の中にこそある。肉体はその外にある。肉体を自分そのものだと勘ちがいして、自分や他者の肉体を傷めつけたり、あるいは崇めたりしている間は、私たちは真理の道から外れている。その行きつく先は(肉体の)死でしかない。

「不満」―「肉体」-「幻想」

は、一直線上にある。そして、これらは、そのつもりでなくとも

 ⇒ 神への攻撃

につながる。

レッスン72は、このリンクを外すために、攻撃を受容に入れ替える。

自分が攻撃している間は、神と神の救済計画とは何かがわかっていない。なので、

レッスン72では、神と聖霊に、

父よ、救済とは何でしょうか。私にはわかりません。私が理解できるように、私に教えてください」と尋ね、

答えを受けとることを試みる。

救済とは―私が感じたこたえは…

22日の朝、このワークをして私が受け取った(感じた)こたえは、

「遊」と

「自由」だった。

ほんの5分ほどの短い瞑想ワークをしたが、

自分が人魚の姿で、海を藻を越えてすすむイメージが浮かんだ。海中には藻(これがゲンジツの雑念や不満?)が漂い、それをかき分け奥に潜る。

そして藻が消えた深い海の空間の中で、人魚の自分がくるくると廻っている。

そこで感じたこたえが「遊」であり「自由」だった。

「自由な遊び」…て?

そもそも私は今「忙しい」と思っているが、「忙しい」とは、肉体が忙しいこと。「忙しい」はエゴの概念だ。

忙しいと感じていたとしたら、神の世界の見方ができていないことの表れなんだろう。

世の中を見渡しても、オリンピックの会場問題や豊洲市場のこと、頻発している災害、テロ不安…

解決すべき課題とプロジェクトがいっぱい

なすべきことが山積

もし、救済が「自由な遊び」だとしたら、今はそれが罪のように感じられる時代だ(私がそう思っているから、そういう世の中を映して見ているのだろう)。

 

自由な遊びだって!?

「なに悠長なことを言っているんだ、こんなに困ったことがあるのに…」

「大変だ。。」

「そんなひまはない」

つかの間の癒しと息抜きは認められても、「自由な遊び」は認めがたい雰囲気

でも、そもそも遊びって何だろう?

何をもって遊びとするんだろう。。

こころをころころ遊ばせるって…?

遊ぶこと自体が生の目的…?

まだレッスン72は終わってないけど、そんなことをふと考えた22日朝のワークだった。

きょうはあったかい。明日から季節は晩秋へまっしぐらだとか…。お日様がまぶしい。なんとか ダイアリー更新できて、うれしい(^-^)

秋はころころこころを遊ばせるのに合っている季節な気がする。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

← 戻る