「あたらしい服を、さがそう。」

2016-10-07

ベッキ―さんの広告

先週、タレント、ベッキ―さんの上半身裸の“背中ヌード”の広告がちょっとした話題になっていた。29日、出版社、宝島社が日本経済新聞朝刊に掲載したもので、キャッチコピーには、

「あたらしい服を、さがそう。」

とある。わたしは、「うまい広告だなぁ」と思った。

今のベッキ―さんにぴったりな気がしたから。もちろん、それを狙ってのことだろうけど。

みずみずしい美しい背中。斜め右上を見つめる目は飾り気がなく凛としている。一方で、肩の細さがどこか、か細さも感じさせる。

これが今のベッキ―さんだ。さて、歩き出そう、ただ、まだ服が見つからないから、前が向けないでいる…

私が月1のカルチャーセンターでずっと学んでいるユング心理学では、夢分析もあって、夢の中で出てくるものは、さまざまなものの象徴で、意味を持っているとみる。

そこでは、服=ペルソナととらえる。ペルソナとは、そもそもの意味はギリシャ劇などで使われる仮面をさすが、それをユング心理学では、「社会的な仮面」の意味で使う。

たとえば、学校の先生や、銀行員、あるいは医者。あるいは、妻だったり父だったり、「やさしい人」や「やり手の人」「大御所」など、社会に向きあう場合に見せる顔や態度はすべてペルソナだ。

芸能人であれば、キャラやイメージということになるだろう。

ベッキ―さんは、あの騒動が起こるまで、明るくポジティブ、老若男女誰からも好かれる超優等生キャラだった。それが、どんどん加速してしまって、“雲の上のひと”みたいになっていた。

一連の騒動で私がいちばんに思ったのは、「芸能人ってたいへんだな」ってことだった。

芸能人はイメージが命…!?

売っているのが「イメージ」そのものだから。ベッキ―さんの優等生としての商品価値は暴落した。それが実体とどう近いとかまちがっているとかいうことより、いったん別のイメージが上描きされてしまうと、もう別の「商品」になってしまう。

そうでなくても、新しいタレントさんがどんどん出てきて、常にポジションは変化しているわけだから、ベッキ―さんが元のイメージを回復して、同じポジションにつくことはほぼ不可能なことに見える。

あの“事件”がなくても、“前向きで優秀な若い女性”としてのイメージでは極まっていたから、もう後は降りていくしかなかったような気もする。だから、次の価値あるイメージに移行するためには、逆にこの件はチャンスにすることもできるんだろう。

ただ、いろんなツールがあって広がる速度もより早くなっている世の中で、売り物が「イメージ」というタレント業はなかなかシビアなものがあるな~と思った。お相手が、ベッキ―さんほどの営業ダメージを受けていないのも「音楽コンテンツ」なるものを売っているからだろうし、むしろ知名度があがって営業的にはプラスなのかもしれない。

ベッキ―さんの「新しい服」はどんなのになるかな。元々頭の回転のよいポテンシャルの高い方のようだし、「ベッキ―も普通の人」となった上で、さまざまな可能性があるんだろうな~

…とつらつら、考えるでもなしに考えていた。けれど、ふと、この広告が目を引いて気になったのは、

「あたらしい服を、さがそう。」という状況が、自分にもあてはまるからかもしれないな、と思い当たった。

私も、あたらしい服を、さがそう。

もちろん年齢とか立場とかすべてちがうのだけれど。

そもそも、私の場合は、結婚も出産もしていないから、妻や母というペルソナもない。これまで経営関連の仕事をしているフリーランスというペルソナだけ。それも今は、フリーランスと無職を行ったり来たり、というありさまだ。

昔、モラトリアムって言葉が、「おとなだけど社会的責任を負っていない猶予の期間」みたいな意味で流行ったことがあったけど、たぶん私はそれだ。

いつも仮の服を着て社会から目立たないようにしつつ、「ここにはない何か」を探していたようなところがある。

そして、その「経営の仕事」という仮の服もほころびが目立ってきた。

そう、私も「あたらしい服」を探していたのだ。

いや、むしろ、初めて、ちゃんとした服が欲しい、と思ったのかも?

ACIMに出会って、「ここにはない何か」を探す必要がなくなった。探していたのは、これだったのか、という感じがある。

今は職業にならなくとも、ACIMに関わるしごとがしたいのだ。

それがいずれあたらしい服になるといいな、と思っている。

だから、この秋、私も、ベッキ―さんのように、ありのままでいる自分を確認してみよう。ちょっと肌寒いし、落ち着く感じではないけど。

いま ここから

あたらしい服を、さがそう。