こころに ふと秋風

2016-10-30

独り身に秋風が…

先週と先々週は、土日、店の観察調査をしていた。

有楽町や銀座のある業態のお店を何店回って外から経営や運営のしかたなどを見て調べる仕事だ。その仕事自体はきらいなことではない。

銀座はショーウィンドウのディスプレイも綺麗で、冬に向かう季節のワクワク感を感じた。独りで町に埋没しながらも店をチェックしつつiPhonで写真も撮る。

町は、カップルやご夫婦、母娘、グループでにぎわっていた。みんな楽しそうだ。

そんななか、ふっと寂しさを感じた。

わたし、何やってるんだろう。。。わたしだけひとりっぽっちだ。。

私には休みにウィンドウショッピングするような家族はいない。いつもほぼ独りだ。

これから冬にかけて、クリスマスやお正月、バレンタイン…と独り身のさみしさが沁みる季節だな。。。

人生がもし勝ち負けのゲームだとしたら、結婚もせず家族なく子どももいない、定職もない私は「大負け」だな。。。と。

いつもは自分のことを自由で楽だと思っているくせに、家族連れやカップルで笑顔でおしゃべりしながら歩いている人たちが急に羨ましくみえたのだ。

これは「不満」なのかな?

それとも、ようやく少し「まとも」な感覚になったのかな?

(不満だとしたら、今やっているレッスン72「不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である」そのままの攻撃だ。人生の勝ちや負け、「独り身が沁みる」といっている時点で、まったくACIM的ではないが、)

「ない」と「ある」

いつも思うのは、

人生、「ある」に目を向けて生きないときびしいな。。ということだ。

私をはじめ、人間というのはつい「ある」のはあたりまえで気にならず、「ない」に目が向いてしまう。

おカネがない、とか、

彼氏・彼女がいない、パートナーがいない、とか、

自分を活かせる仕事じゃない、とか。

あるいは、時間がない。

若くない。

健康じゃない。とか。。

自分以外の人についても、

理解がない、

やさしくしてくれない、

役に立たないとか。

みんな状況はちがう。それなりの事情がある。

そこで、私みたく、

普段は独りで楽していることは置いといて、「家族がなくて寂しい」にフォーカスしてしまうと、生きづらくなる。

幸せに生きるには、常に「ない」より「ある」を見ることだ。

たとえば「年齢」でも「若くない」じゃなくて「経験がある」と見る。

過去や未来について、

昔、こんな悲しいひどいことがあった、

明日が不安、どうしよう、…でなくて、

今のなかの「ある」を見る。

なかなかそうはいかないけど、なるたけ常に「ある」を見る。

私だったら、母がいる、とか、ありがたいことに、今できる仕事がある、とか。

「ある」と「ない」も二元性だし、ACIM的見方とは異なるのだと思うけど、、、

心に秋風を感じて、ふとそう思いを巡らした。

これからのイベント続きの冬に向けて、自分に言い聞かせているのかもしれない。

「ない」ではなく「ある」。

 

これからACIMの勉強がもっともっと進んだら、「ない」も「ある」もないすべてを包んだ感覚になれるのかもしれないけど、今は

「ある」を見る。

「ある」がある。

秋…冷えてきた

2016-10-28

外は雨。ずいぶん冷えてきた。

少し忙しく余裕がなくなると、パワー不足で買物に行ったり食事を作ったりしにくくなってしまう。やっとでさえリズムが崩れているからちゃんと食べなきゃと思うんだけど、それができなくて。。。

近くには、栄養士さん監修で日替わりお弁当ランチを提供しているお店があって重宝している。

今日のメニューは、

赤魚の香味焼き

卯の花

ほうれん草の胡麻和え

お味噌汁

昔ながらのお献立でほっこりする。

仕事、とうてい終わらないとパニッていたけど、さっきメールが来て、すこーし締切が伸びたらしい、ほっとした。

依頼主からは、「ここで気を抜いてはいけません」とすかさずメールが入った(笑)

「了解しました」と返事を出した。けど、いっかい、気を抜こう。

ゆっくりお風呂に入ってあったまろう。

なんかささやかながらも生きている、感。感謝。

ぜんぜんACIMダイアリーじゃないなぁ。

レッスン72-不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である。

2016-10-26

もともと更新が少ないダイアリーブログがますます少なくなっている(^_^;)

毎日、調査して、まとめて、提出して…と締切に遅れつつもやっていて、ほとんどACIMから意識が遠ざかっている。

レッスン72のワークも、朝はやっても、日中と夜のワークがなかなかできず、足踏みで、実際には終えられてない。

けど、とりあえずでも、ブログ書いちゃおう。。。と。

レッスン72-不満を抱くことは神への攻撃

レッスン72では、不満を抱くことを、神への攻撃と位置づけている。

それは、一言でいうと、不満を抱くことが本来はありえない「肉体」概念を強化することであり、「幻想」を強化することだからだ。

だれかに不満を抱く時、私たちは、その人を神の子という本質を見て向き合っているのではなく、その人が何をしたかという肉体として束縛されたその人に対して、反応している。

それをワークブックは「積極的に彼を肉体につなぎとめようとしているのである。ここで神が攻撃されている。」と言っている。

また、「不満は、あなたの兄弟の本性を完全に見落としてしまう。それは、彼が肉体であるというあなたの信念を強化し、彼が肉体であることを理由に彼を咎める。」とも説明している。

私たちが神の延長である神の子であるという真理は、私たちの心の中にこそある。肉体はその外にある。肉体を自分そのものだと勘ちがいして、自分や他者の肉体を傷めつけたり、あるいは崇めたりしている間は、私たちは真理の道から外れている。その行きつく先は(肉体の)死でしかない。

「不満」―「肉体」-「幻想」

は、一直線上にある。そして、これらは、そのつもりでなくとも

 ⇒ 神への攻撃

につながる。

レッスン72は、このリンクを外すために、攻撃を受容に入れ替える。

自分が攻撃している間は、神と神の救済計画とは何かがわかっていない。なので、

レッスン72では、神と聖霊に、

父よ、救済とは何でしょうか。私にはわかりません。私が理解できるように、私に教えてください」と尋ね、

答えを受けとることを試みる。

救済とは―私が感じたこたえは…

22日の朝、このワークをして私が受け取った(感じた)こたえは、

「遊」と

「自由」だった。

ほんの5分ほどの短い瞑想ワークをしたが、

自分が人魚の姿で、海を藻を越えてすすむイメージが浮かんだ。海中には藻(これがゲンジツの雑念や不満?)が漂い、それをかき分け奥に潜る。

そして藻が消えた深い海の空間の中で、人魚の自分がくるくると廻っている。

そこで感じたこたえが「遊」であり「自由」だった。

「自由な遊び」…て?

そもそも私は今「忙しい」と思っているが、「忙しい」とは、肉体が忙しいこと。「忙しい」はエゴの概念だ。

忙しいと感じていたとしたら、神の世界の見方ができていないことの表れなんだろう。

世の中を見渡しても、オリンピックの会場問題や豊洲市場のこと、頻発している災害、テロ不安…

解決すべき課題とプロジェクトがいっぱい

なすべきことが山積

もし、救済が「自由な遊び」だとしたら、今はそれが罪のように感じられる時代だ(私がそう思っているから、そういう世の中を映して見ているのだろう)。

 

自由な遊びだって!?

「なに悠長なことを言っているんだ、こんなに困ったことがあるのに…」

「大変だ。。」

「そんなひまはない」

つかの間の癒しと息抜きは認められても、「自由な遊び」は認めがたい雰囲気

でも、そもそも遊びって何だろう?

何をもって遊びとするんだろう。。

こころをころころ遊ばせるって…?

遊ぶこと自体が生の目的…?

まだレッスン72は終わってないけど、そんなことをふと考えた22日朝のワークだった。

きょうはあったかい。明日から季節は晩秋へまっしぐらだとか…。お日様がまぶしい。なんとか ダイアリー更新できて、うれしい(^-^)

秋はころころこころを遊ばせるのに合っている季節な気がする。

レッスン71-神の救済計画だけがうまくいく。

2016-10-21

「もし、○○だったら…」というエゴの救済計画

エゴ(自我)は、「神による救済計画に対抗する救済計画を持っている」。しかし、それはうまくいくことはない、神の救済計画だけがうまくいく、というのがレッスン71の主題だ。

エゴの提案する救済計画は、私たちが持つ不満を中心としている、という。

もし、あの人があんなふうでなければ…

もし、会社がこんなんでなければ…

もし、あの時、あんなことが起きなければ…

育った環境がこうでなければ…

(もっとちがった、幸せになれたのに)

こんなことを全く思ったことがない人はいないだろう。

これは、短期的に見ればたしかにそんなふうに思える。しかし実際にはそうではない、とACIMは言う。

自分の幸せの源(救済)は実は、自分の心の中にある。それを見ようとしないで、外にばかり求めても期待した幸せや安らぎには息づかず、結局は徒労に終わる。

それが、「求めよ、されど、見つけることなかれ」という自我の基本的教義に基づいた、エゴの救済計画だという。

私自身、何度も転職しているし、結婚したけど離婚したし、店を開店してまた閉店したり占い師をしてみたり…とACIMに出会うまで、ずっといつもこれではない何か、ここではないどこかを求めてきたような気がする。

まさにエゴが描いた救済計画を着々と実行してきた。

『神の使者』に出会って、わからないながらも何度も読み、ACIMのワークを始め、ようやく「これだ」「ここだ」と思えた気がしている。つまり、神による救済計画にシフトチェンジを図っている最中なのだ。

レッスン71に含まれる2つの部分

本ワークでは、今日の主題概念には2つの部分が含まれていることを理解する。

神による救済計画はうまくいくということ

そのほかの計画はうまくいかないということ

ワークブックにも触れられていたが、この2番目に、私たちは大いに落胆したり、もっと言えば恐怖感を覚えるのではないだろうか。

今も私を含めて大多数の人が信奉しているのが、「そのほかのの計画」だから。このゲンジツの世に生きているかぎり、「そのほかのの計画」をまったく手放すのはむずかしいように思える。

この資格をとれば…

ダイエットをすれば…

この薬、サプリを飲めば…

この商品があれば…

これに参加すれば…

この大いなる幻の資本主義社会全体が「そのほかの計画」のやりとりで廻っているのだから…

そして、私もその夢を買ってひとときの満足感を得ている。

私は理解できていないかな?

「そのほかの計画はうまくいかないということ」は、「だからすべてやるな」と言っているわけではないよね。。。そうであれば、身動きが取れなくなってしまう。。。

盲信したり執着するのでなければ「そのほかの計画」は「あり」でOKだよね?

それとも、私がすべての「そのほかの計画」を完全に手放したら、見える世界もまったくちがったものになったりするのだろうか。

そこがわからないでいるから、ワーク自体に恐れを感じてしまうのかもしれない。

神への質問と、その答えを聞く怖れ

このワークの長いほうのワークでは、神に

私が何をすることをお望みですか。

私がどこにいくことをお望みですか。

私が誰に何を言うことをお望みですか。

と尋ねる。

これが私には怖かった。

突拍子もない答えが帰ってきたら、どうしよう?

そのために生活や人生を大きく変えなければならなくなったら??

これに対するワークブックの答えは、

聞くことを拒んではならない。あなたがこの演習を行っているという事実そのものが、あなたには聞きたいという意欲があることを証明している。」

なんときめ細やかな、かゆいところに手が届くワークブックの教えだろう!

私がワークから得たメッセージ

このワークは足踏み状態で何日かやった。

印象的だったのが、19日の朝のワークから感じたことだった。

今回の急ぎのプロジェクト、いろんな方からヒアリングしたり観察調査をしたりしてまとめることだが、中間発表の締め切りまでにちゃんとまとめられるか、不安に思っていた私に対して、ワークから得られたメッセージは、

「まず、気を落ち着かせること。

そして、私の使命は、ACIMとこのゲンジツの世をつなげることなのだから、今回のプロジェクトの中でも私の役割はある。

関係者みんな

じつは恐れを抱いている。

自分の無知や無能がばれること。

プライドが傷つくこと。

えらい人から嫌われること。

そして、私も(外部者だけど)その一員。同じように、自分の無能っぷりがバレることを恐れている。

まず、恐れなき気が落ち着いた状態で立つこと。

それ自体でも価値があり、

そして、恐れなき場をつくり、話すこと。

それは価値がある。

そして、もう少し前へ出ること。

出会う人々の魂のとびらをノックすること」

これが、私が受け取ったと感じたメッセージだ。

昨日のヒアリングではこれを意識した。

ますます間の抜けたおばさんっぽかったかな。。。(^_^;)

「初心者クラス」⇒「初級者クラス」へ?

この3年間は、時間もゆったりして守られた中でACIMの勉強(主にワーク)をしてきた。それは聖霊に護られてつくられた「特別な環境」だったのかもしれない、と今思う。

よく講座かなんかに「初心者クラス」「初級者クラス」「中級クラス」…とあるが、私はこの「初心者クラス」、「ビギナークラス」だった。

そして、これからは次のステップ…「初級者クラス」なのかな?

ひとり静かな護られた場だけではなく、いろんな人と交わった環境でACIMを学んでいくのかもしれない、と思った。

ともかく今は「これだ」と思えることに出会えている。そう思えることがとっても幸せだ。

あ゛…ちょっと負荷がかかるとACIMが止まる…?

2016-10-18

この世のゲンジツの仕事がとっても慌ただしくなり、それはありがたいことでもあるけど、締め切りまで“時間とのたたかい”になっている。

エゴの世界にどっぷりつかっているなぁ…と思いつつ、しのごの言わずに今はとにかく何とか終わらせなきゃ…といっぱいいっぱいだ。

この前のワークでは、

「ゲンジツの忙しさがあってもなるたけACIM(実相への道)のリズムを守ること」という(聖霊からの?)メッセージを受けた気がしたが、まったくそのメッセージどおりにできていない。瞑想中も仕事の不安がぬぐい切れず(おちおち瞑想なんてしてられないよー)という気持ちになってワークが足踏み状態だ。

仮の世(このゲンジツの世)がリアル(実相)を圧迫することはありえない。

けど、まだ私はエゴの見方が強いためか、その世界に翻弄されている。

まあ、それでもACIMのプロジェクトのお皿(いくつかのプロジェクトを皿回しのように廻しているイメージがある)をまるっきり止めてしまうと、また一から回転させるのがむずかしくなるから、なんとかゆる~くでも回転させて止めてしまわないようにしたい、と思う。

とにかくイライラしないこと、不満の矢印を人に向けないこと、だけ意識して過ごそう。

うまく聖霊さんが導いてくれているだろうから、その導きに従おう。

忙しいとは言っても、私でのレベルのこと。他の人から見たらのんびりとしたものなのだから。。

レッスン70-私の救済は私の中から訪れる。

2016-10-15

五本指くつ下デビュー

先日わが家にお泊りした友人から、五本指くつ下が送られてきてた。友人が履いていたのを、私が興味深げに見ていたからかな?

ワンポイントのアクセントが、こどものくつ下みたいでかわいい。

「五本指のくつ下は初めのうちは面倒ですが、慣れると足が気持ちよく、体にもよいそうなので、騙されたと思って使ってみてください」とのメッセージが添えられている。

ありがとう♪

 

さっそく履いてみる。妙な感覚。足の各指が独立宣言するみたいだ。

ひとり暮らし&フリーランスという、私のせま~い関心とルーティンの中で生きていると、その範囲の外にあるよいものに出会いづらくなる。

知らないものは知らないもの。意識の外にあるから見えない。

機会があってだれかから教わるか、自分の枠を自ら出て動かないと出会えないんだ…と改めて思った。とくに歳を重ねてからは、苦手や興味ないことにわざわざ出ていくことはほとんどなくなった。

それが楽で自然でいいこと、と、そうでないことと…。

レッスン70―私の救済は私の中から訪れる

さて、レッスン70の主題概念は、

私の救済は私の中から訪れる。

まちがった罪悪感が自分の心の中にあるのだから、それをとりなす救済も同じ心の中にある、とする。

これは私には、わりとわかりやすかった。

「救済」ということばの定義が理解できているわけではないけれど、怒りや不安、恨みなどの負の感情から解放されて幸せと安心、豊かさを感じることだとすると、

何からの外的環境が私たちの幸福感を約束するわけではないということになる。また何らかの外的環境が不幸をもたらすわけでもない。

すべてが自分の心次第だ。これをワークブックは

今日の概念は、あなたを宇宙の責任者の座に据える。

と表現している。

実相と自分の間の雲を払うことによって、かぎりない愛と光を受け取っていいのだ。

自らが置いた雲を払うか否かは、私次第なのだ。

過去、救済を求めたことのある外的なもの

このワークではまず過去に自分が「救済を求めたことのある外的なものごとを思い出すようにする。」とある。

私の場合は、

お店(過去に小さなお店を開店したが、1年半しか続かず)や恋愛・結婚、資格(カウンセラーや色彩他資格あり)、見た目、異性を引きつける若さ・魅力、占い(手相占いの会社に所属して占い師をしていた期間がある)、裕福さなどが浮かんだ。

そして、この主題概念を確認したあと、レッスン70でも「私たちは再びあなたの中にある光に到達しようと試みる」とある。

今回こそはまばゆい光を見たいと思ったけど、このワークをやった1回目の13日はだめ(夜はワーク自体できず)。

再び自分の中にある光へ向かうも“失敗”

昨日も朝は十分な時間がとれなかったが、夜、明かりを消してじっくりやってみることにした

前ワークと同様、光は雲を通りぬけた向こう側にあるから、雲を通り抜けるよう指示がある。

目をつむって心を静めると、その日目にしたテレビの場面やブログの記事、春に母と行ったカフェの場面だったり、もっと若い頃の人生の一こまだったり、いろんな場面(雑念)が続いた。これは未来?と思うような場面も浮かぶ。これが私と光を阻む雲のかたちだ。

なんとか光に到達したいと、いろんな場面が浮かぶたびに、

「消えていく姿、消えていく姿、ありがとうございます」と心の中で唱えて手放すようにして、聖霊さん(さん付けすべきか否か迷う)に「どうか光のもとに連れて行ってほしい」とお願いした。

へんな表現だけど、これまで経験したことがある時間や空間がぜんぶ、キュッとコンソメスープのキューブみたいに小さく小さく堅い物質に圧縮された気がした。

浮かんでくるいろんな場面をたくさんたくさんやり過ごしたけど、光には到達できず。

気づいたら、残っていたのは、不安とキョーフ感だった。

最近新しくいただけた月末までの急ぎの仕事、今の私にはとってもありがたい。感謝だ。一方で、どう見積もっても終えられそうにない、どうしよう?と不安に思っていたのだ。それが最終的に残って、払しょくできなかったのだ。

いろいろな場面をゲンジツではないとやり過ごし手放したあと、最後に目先の不安が残った。これもまたゲンジツではない。だけど、私の不安感がそれをリアルにしてしまっていた。

目を開けたら45分経っていた。

これが今の私なんだな~と思った。

でも得るものがなかったわけではない。

自分の心の深みに降りていくと、自分のこだわっていることや気がかりなことなど、気づくことが多い。

一巡目のワークの時は、先に進みたいという気持ちが先行していたけど、今は、急がなくていいと前よりゆったりした気持ちでできているから、その分気持ちにもゆとりが持てている気がする。

不安やいらいら、罪悪感はいっぺんには消えるものではないけれど、玉ねぎの皮むきと同じと心得て、少しずつ少しずつやっていくつもりだ。

レッスン69-私の不満が、私の中にある世の光を隠している。

2016-10-13

不満の雲のむこうへといくワーク

私たちは神の愛と光から生じた神聖な存在だが、私たちが抱く「不満」の雲がその光を見えなくしているという。

不満の向こうには、私たちの神性が今も在る。

今日は、あなたの中の光に達することを、もう一度真剣に試みてみよう

と、レッスン69では、前々回の67と同様、雑念を通り抜けて内なる神性に到達する瞑想ワークを試みる。

レッスン69のワークは10月8日と10月12日(きのう)やった。8日は少し時間をかけて瞑想していたものの、当日の晩友人が泊りにくるということで、どこか気もそぞろで、ゲンジツの時間に圧迫される感じがあり、深くまで入り込めなかった。

昨日は、しっかりやろう、と再度試みた。

自分の内なる光へ旅する

目をつむり、ワークブックの指示どおり「ふだん意識がとらわれているすべての事柄を手放そうとして」心を静め、雲を払いのけていく、そしてまとわりつく雲の中を払いながら進んでいく…

そのうち無意識のフタが少し緩んだのか、いろんなビジョンのようなもの―おそらく意識下にある雑念がかたちになったもの―が次から次へと湧いてきた。

今振り返ると、2、3しか覚えていないのだけど。

なぜか小学生の頃に父、母と行った1970年の大阪万博のイメージが出てきた。当時のことはほとんど記憶がないが、アルバムの写真のイメージが浮かんだ。不思議と母の存在感はなく、若かりしお父さんが肌もつやつやして快活にいた。

また、先月見た映画『君の名は。』で見た彗星から分かれた隕石が地球にぶつかる?ようなイメージが出てきた…

他にもいろんなイメージ(忘れた)

それから、さらにいろんな場面を過ぎた後、トンネルのようなものに入ったのか、ものすごい高速で私の心がベージュっぽい世界の中を進んでいく。進む。進む。

もしかしたら、今日は光に行ける??と、思った(雑念だ、たぶん)。

そうしたら失速して、ぽとんとトンネルから出た。

けど、まばゆい光は見えなくて、そこは大きな黒にところどころ金の縁どりがある仏像の側面のお尻のあたりだった。

そして、これはACIMのいう「光」ではないんだろうな~(またダメだったんだ)。と思っておしまい。

絵に描いて「ユング講座」で見てもらう

昨日はたまたま月一回の「ユング心理学」の講座の日だった。

ユングの講座では、最近見た夢やヴィジョンのはなしをする時間がある。

夕方無性にワークで見た仏像を描いてみたくなり、インターネットからイメージが近い仏像を選んで、それをお手本に描いてみた。

そして、それを講座で先生と仲間に見せた。

夢の絵じゃなくて「瞑想のワークの時の絵」というのに多少気恥かしさがあった。

先生はユング心理学の先生であってACIMの教師というわけではないが「これがあなたの光のイメージなのよ」と言ってくださった。

見てもらったことで、宙ぶらりんだった心がすとんと着地できた気がする。

見ていただいて、ありがとうございます。

そっか。まばゆい光ではなかったけど、これが私の「光」のイメージなのか。。と、少しうれしい。私がいる。

レッスン68-愛は不満を抱かない。

2016-10-11

「愛は不満を抱かない」―シンプルなエゴの解体法

このレッスンは、私がACIMを知るきっかけになった『神の使者』で、主人公のゲイリーを導くアサンディッド・マスター、アーテンが「シンプルなエゴの解体法があるんだよ。」と、紹介していることから、印象に残っているレッスンでもある。

アーテンは、ゲイリーに「『ワークブック』のレッスンを文字通り正確に実行したら、Jがその身体の中にいたとき実行したように、その原理を毎日の生活に応用したら、どうなるだろうね?」と、レッスン68を勧めている。

不平不満を抱いているということは、すなわち実際にはありえない幻のゲンジツの方をリアルだと見ているということだ。

 幻想の世界 エゴの見方 私たちは肉体、限界ある存在 罪と恐怖恐ろしい神 
 実相の世界 聖霊の見方 私たちは神の延長、永遠の存在 愛と平和 愛し包み込む神

この2つの世界の中で、不満を見るということは幻想の世界を強めていることだ。

不満を抱く者たちは必ず罪悪感に苛まれ、赦す者たちは必ず平安を見出す。

でも不満なんて日常的なことで、私たちは「いやな雨だね」とか「ずいぶん蒸し暑いね」などと「お天気が良くないこと」を挨拶がわりにしているし、グチを言い合うことでお互いなぐさめあったりしている。それだけ日常的なものだから、簡単になくすことはむずかしいようにも思える。

だけど、ACIM、レッスン68は、

あなたは、自分が不満を手放せるとは思わないかもしれない。けれども、それは単に動機の問題である。」と言う。

わたしは、内弁慶で人からは、あたりがやわらかいと言われるけど、実際には満足できるストライクゾーンが狭く、いわゆる自己チューだと認識している。だから、ひとりで仕事をして、ひとりで暮らしているのだ、結果的に。で、それが楽で性にも合っていると思っている。

そうやって暮らしていると、日常生活でも、不満らしい不満はない。だけど、それは、私が狭い自分の快適ゾーンから出ようとしていないだけで、不満を抱かない性格になれているわけではないのだ。

不満を抱くことのデメリットをACIMからこうして理屈で学んだからには、なるたけ不満を抱かないようにしたいし、もし不満を持ったら、おいおい、まちがった見方をしているぞ、と自覚できるようになりたい。

連休中友だちが泊りに来たときの、私のキンチョー

三連休だった初日、金沢に住んでいる三十年来の友人が東京に用事があり、私の家に泊ることになった。

当日は夜遅くまでおしゃべり、次の日もゆっくり朝ごはんを食べながら、仕事のこと、健康のこと、家族のこと、芸能人や政治の話など、とりとめのない話をたくさんしたり、買物したりと、とっても楽しかった。

ただ、私って…やはり人と隔てがある人間だ…と思ったのは、彼女が泊ることになってからのキンチョー感だ。今の住まいに引っ越してから十数年、家族の他に人を泊めたことがない。つまりそれくらいの距離感のつきあいしか、したことがないのだ。

大好きな親しい友が来るのにもかかわらず、「さて、どう迎えたらいいんだろう」とテンパってしまった。ふだん、自分だけだからあまり気にしていなかったけれど、和室の畳は古くなり赤みがかっている…ということで、なんと畳の表替えから準備スタート。

同じように他人の目で見ると、ずっと使っている布のローソファも、どうも古くて汚らしい、この際、ソファも買い替えよう。

お風呂の椅子も、ここに引っ越してから買い替えてない。ならば、これも。トイレのペーパーホルダーも。スリッパも。台所のまな板置きも…と、何やら大ごとになってしまった。きれいなはずのシーツや毛布も改めて洗濯し、カーテンも洗濯して…。

私は朝は食べないが、ひとりで食べさせるわけにはいかないだろう。メニュー何にしよう?朝食用のワンプレートのお皿があったほうが盛りつけやすいんじゃ?そういえばスープストックの海老のスープ、おいしかった。あれも加えようか…

当日はあるセミナーを受ける予定だったけど、そんな余裕はない、そうじが間に合わないと休み、照明器具を取り外して掃除したり…。

普通の人は、親しい友人が泊る、ということに対して、ここまでキンチョーして思いをめぐらし準備するのだろうか。…とは言っても、それだけやっても質素には変わりないんだけど(^_^;)

彼女が私のこの動きを知ったら、「そんなにタイヘンなんだったら、い~よ、無理しなくても、別のところ探すから」と言っただろうに。

当日、駅に迎えに行く頃にはへとへとになってた。

でも、私は頼ってもらえてうれしかったし、家でだらだら“女子トーク”できて楽しかった。質素なわが家、ゆったりくつろげる空間ではなかったかもしれないけど、来てもらえてよかったと思った。

ただ、人に身構える自分の性質を再認識し、隔てをなくして人とつながることが私には人一倍ハードルが高いことなのかもしれない、と改めて感じたのだった。

外界にはつい過剰反応で合わせてしまい“いい人”になってしまう。でも、元々がわがままだから疲れてしまい続かなくて、ひとりになりたがる、というパターンをずっと繰り返している気がする。

もはや性格を直そうとは思わないけど、このレッスン68「愛は不満を抱かない。」は、常に意識して、少しずつでも身につけたい。

「あたらしい服を、さがそう。」

2016-10-07

ベッキ―さんの広告

先週、タレント、ベッキ―さんの上半身裸の“背中ヌード”の広告がちょっとした話題になっていた。29日、出版社、宝島社が日本経済新聞朝刊に掲載したもので、キャッチコピーには、

「あたらしい服を、さがそう。」

とある。わたしは、「うまい広告だなぁ」と思った。

今のベッキ―さんにぴったりな気がしたから。もちろん、それを狙ってのことだろうけど。

みずみずしい美しい背中。斜め右上を見つめる目は飾り気がなく凛としている。一方で、肩の細さがどこか、か細さも感じさせる。

これが今のベッキ―さんだ。さて、歩き出そう、ただ、まだ服が見つからないから、前が向けないでいる…

私が月1のカルチャーセンターでずっと学んでいるユング心理学では、夢分析もあって、夢の中で出てくるものは、さまざまなものの象徴で、意味を持っているとみる。

そこでは、服=ペルソナととらえる。ペルソナとは、そもそもの意味はギリシャ劇などで使われる仮面をさすが、それをユング心理学では、「社会的な仮面」の意味で使う。

たとえば、学校の先生や、銀行員、あるいは医者。あるいは、妻だったり父だったり、「やさしい人」や「やり手の人」「大御所」など、社会に向きあう場合に見せる顔や態度はすべてペルソナだ。

芸能人であれば、キャラやイメージということになるだろう。

ベッキ―さんは、あの騒動が起こるまで、明るくポジティブ、老若男女誰からも好かれる超優等生キャラだった。それが、どんどん加速してしまって、“雲の上のひと”みたいになっていた。

一連の騒動で私がいちばんに思ったのは、「芸能人ってたいへんだな」ってことだった。

芸能人はイメージが命…!?

売っているのが「イメージ」そのものだから。ベッキ―さんの優等生としての商品価値は暴落した。それが実体とどう近いとかまちがっているとかいうことより、いったん別のイメージが上描きされてしまうと、もう別の「商品」になってしまう。

そうでなくても、新しいタレントさんがどんどん出てきて、常にポジションは変化しているわけだから、ベッキ―さんが元のイメージを回復して、同じポジションにつくことはほぼ不可能なことに見える。

あの“事件”がなくても、“前向きで優秀な若い女性”としてのイメージでは極まっていたから、もう後は降りていくしかなかったような気もする。だから、次の価値あるイメージに移行するためには、逆にこの件はチャンスにすることもできるんだろう。

ただ、いろんなツールがあって広がる速度もより早くなっている世の中で、売り物が「イメージ」というタレント業はなかなかシビアなものがあるな~と思った。お相手が、ベッキ―さんほどの営業ダメージを受けていないのも「音楽コンテンツ」なるものを売っているからだろうし、むしろ知名度があがって営業的にはプラスなのかもしれない。

ベッキ―さんの「新しい服」はどんなのになるかな。元々頭の回転のよいポテンシャルの高い方のようだし、「ベッキ―も普通の人」となった上で、さまざまな可能性があるんだろうな~

…とつらつら、考えるでもなしに考えていた。けれど、ふと、この広告が目を引いて気になったのは、

「あたらしい服を、さがそう。」という状況が、自分にもあてはまるからかもしれないな、と思い当たった。

私も、あたらしい服を、さがそう。

もちろん年齢とか立場とかすべてちがうのだけれど。

そもそも、私の場合は、結婚も出産もしていないから、妻や母というペルソナもない。これまで経営関連の仕事をしているフリーランスというペルソナだけ。それも今は、フリーランスと無職を行ったり来たり、というありさまだ。

昔、モラトリアムって言葉が、「おとなだけど社会的責任を負っていない猶予の期間」みたいな意味で流行ったことがあったけど、たぶん私はそれだ。

いつも仮の服を着て社会から目立たないようにしつつ、「ここにはない何か」を探していたようなところがある。

そして、その「経営の仕事」という仮の服もほころびが目立ってきた。

そう、私も「あたらしい服」を探していたのだ。

いや、むしろ、初めて、ちゃんとした服が欲しい、と思ったのかも?

ACIMに出会って、「ここにはない何か」を探す必要がなくなった。探していたのは、これだったのか、という感じがある。

今は職業にならなくとも、ACIMに関わるしごとがしたいのだ。

それがいずれあたらしい服になるといいな、と思っている。

だから、この秋、私も、ベッキ―さんのように、ありのままでいる自分を確認してみよう。ちょっと肌寒いし、落ち着く感じではないけど。

いま ここから

あたらしい服を、さがそう。

レッスン67-愛が私を、愛と同じに創造した。

2016-10-06

私たちは何者か、本性を再確認

レッスン67では、私たちの本性についての確認して、瞑想ワークでその心の真理に到達するよう試みる。

まず、私たちの本性について。

これは私たちが神をどう捉えているかによって、その見え方も変わってくる。

神を愛であるとそのままに捉えるか、愛であると同時に罰するものや懲らしめるものとして捉えるか…。

今日は神が定義するとおりの神に、私たちのイメージを書き変え、その神の延長の神の子として、自分自身を捉えなおす。

愛が私を、愛と同じに創造した(Love created me like itself. )。

すなわち、愛なる神がその延長として私たちを愛なる神と同じに創造した。

レッスン67の主題概念はワークブックの中でも私が好きなフレーズだ。とくに五語からなる英語のリズムが覚えやすくてしっくりくる。

今ここで、こういうフレーズを抵抗なく感じることができることを、ありがたく、感慨深く感じる。

というのも、若かりし世を拗ねていた自分ならば、このフレーズにも反反発を感じ、とうてい受け入れられなかっただろうから。

齢五十にして(正しくは55歳)、こういう気持ちになれたか…としみじみするのだ。

この世の人にはさまざまな運命や宿命といったようなものがあるが、人を恨んでいたり、憎んだりしていでは、ぜったいに幸せにはなれない。それがどんなに「正当」に思えても。

そう、やっと半世紀生きてきて、思える。

ましてや、ACIMを学び、それがエゴが見せている幻なのだと知った今、「正当」でないのはなおさらのことだ。

恨み、憎しみ、怒り、悲しみ、絶望感、罪悪感…すべて、リアルなものではない。神の実相世界にはないものだ。

それが見えているということは、神と自分自身をエゴが定義づけするままに、まちがえて捉えているということ。修正が必要なのである。

そして、今、私はその修正トレーニングをしている。

神と自分を信じてよいと知って、人生が途方もなく広がったような感じがする。それが幸せだ。

瞑想ワークで「自らの内なる真理」への到達を試みる

このワークでは、実際に雑念を越えて、さらに「無念無想の時間を通り抜け、まばゆい光を自覚し、その光の中で愛に創造されたままの自分を認識する」とある。

だけど、ワークブックを初めて三年以上経つというのに、昨日ワークをやった時、その「まばゆい光」を見ることはできなかった。

どうも私は、瞑想ワーク、とくにその中でビジュアル化するということが苦手のようだ。

夢というのも、「見る」というのがよくわからない。夢は「感じる」けど、それを見ているというのかな?他の人にはどう見えているのかな。

この後にあるACIMのワークのヴィジュアライゼーションでも、あまりうまく「見る」ことができなかったけど、それはおいおいに…。

今はまぁ、いいことにしよう。

問題なのは、肝心な時に

愛が私を、愛と同じに創造した(Love created me like itself. )。

を思い出せないこと。

日常生活のささいなことでも、「も~。いやになる」とため息つくこと多し。

その時にすかさず、このフレーズが頭をよぎるようになればなぁ。。。

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