レッスン63-世の光は、私の赦しを通して、すべての心に平安をもたらす。

2016-09-27

レッスン61では「私は世の光である」と告げられ、

レッスン62では「赦し」がそのはたらきであると学び、

このレッスン63では、その赦しが「すべての心に平安をもたらす」と、教えられる。

世の光が通る道筋が「赦し」と言っていいのかもしれない。そして「赦し」は、自分だけのものではなくこの世で共有されている。

私が見えている世界をすべて赦すことができれば、この幻のゲンジツの世は終わる。

神から分離したと思いこんだ神の子すべてが、それは勘ちがいだと気づいて赦せば、この世のゲンジツゲームは、ゲームオーバーだ。

私たちは、神と一体の神の子として今まさに愛と平和に満たされていると知ることになる。

 

私が、レッスン63でとくに好きなのが、最後の

「神の子が救いを求めてあなたに頼っているということを思い出しなさい。そして、あなたの自己をおいてほかに誰が、神の子でありえるだろうか。」という文言だ。

この言葉が、ついゲンジツに巻き込まれ感情的になりがちな私をクールダウンして、我に返してくれるからだ。

この世のゲンジツに現われる「イヤな人」「イヤなこと」は、「神からの分離」を無意識に責める自己嫌悪、自己批判の表れにすぎない。

それを、そもそもリアルではないんだ、と赦す。そうしたら、それは消える。

「イヤな人」「イヤなこと」は自分の分身だ。救いを求めて、赦され浮かばれるために、自分の元にやってくる。それを赦す―また別のものが現われる、それをまた赦す…。

つまり、すべての赦しは、自分が自分を赦すことなのだ。自分を赦せば、投影されて見える世界も変わる。

ただ、神との分離という誤解とともに生じたもう一つの誤った幻のアイデンティティ、エゴは狡猾だから、あの手この手でこの世がリアルだと信じ込ませるよう「誘惑」を仕掛けてくる。

それに引っかからないようトレーニングするのが、このACIMのワークなんだろう。

まさに心の筋トレ…。

そういえば、かつて習慣にしていた「ダンベル」気づくと完全に止まってる。。いつからやってないんだろう。。

習慣づけはなかなかむずかしい。時間がない、気力がない…と、2、3日やらないでいると、気づいた時にはすでにフェイドアウトしている。

最近、歯科衛生士さんの度重なる歯磨き指導によって、糸ようじと歯間ブラシがようやく習慣づいて、磨き残しチェックでも合格ラインがもらえるようになった。

「赦し」も歯磨き&糸ようじくらいあたりまえのことになったら、見える世界もちがうだろうな、と思う。