レッスン55-レッスン21~25の復習

2016-08-29

8月最終週。けっこう涼しくなって暑さは一息。

台風10号がリターンして戻ってくるらしい。あさってあたり東北が大荒れだとか。農家の方は気が気ではないだろう。お天気、なんかやっぱり極端だ。私は、ぎっくり腰が長引いて思うように動けずイラつき気味だった。

レッスン55。下の5つの主題概念を復習。

21)私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。

22)私が見ているのは復讐の一形態である。

23)攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる。

24)私は自分の最善の利益を知覚していない。

25)私は、何が何のためにあるかを知らない。

レッスン21~23

私たちが見ている世界は、「あらゆる者があらゆるものを攻撃する図を描いた映像」(l22)だ。そして「こうした映像を生じさせているのは、私自身の攻撃的な考えである」(l22)

したがって「攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる」(l23)

すなわち、攻撃的な考えがあるからこそ、それがゲンジツ世界に投影されているわけで、それがなければ、こうした世界が見えているはずはない。だからこそ、攻撃的な考えを手放すことによってのみ、私たちはリアルな愛の世界を見ることができる。

ここでいう攻撃的な考えは、人に対する攻撃や怒り、侮蔑といったものもそうだし、自分に向けられた過度の自責や自己嫌悪、さらに広くは過去への後悔の思いや未来への心配といったものも含まれるのだろう。

自分が攻撃的な考えを持っている時には、逆に周りに攻撃されている、と知覚してしまう。だから正当防衛せねば…とやっていると、それをどんどんゲンジツ化してしまって、ますます攻撃的な世界に住まうようになってしまう。

それが、今私たちが向かっている世の中なんだろうか。

先週はサマーランドで女性客9人が何者かに刃物でお尻を切りつけられる事件があったり、二世俳優の強姦致傷事件があったり…と、強い攻撃性が見ず知らずの女性に唐突に向かられたかのようなショッキングなニュースが続いた。

これも私の攻撃的な考えの投影なんだろうか。私が持っている攻撃性が、こうして世の中に投影されているんだろうか。

私がニュースをつい見てしまって反応しているということは、私ともちろん関係あるんだろう。

『神の使者』だったか、その次の本だったか、ゲイリー・R・レナードさんの著書で、アサンディッド・マスターのパーサが、

「これまでの前世で人を殺したことのない人なんていないのよ」と言っていたのを思い出した。

私たちは、加害者になったり被害者になったり、役どころを変えながら、いわゆるカルマをくりかえしていくという。そしてその二元性のダンスは永遠に形を変えながら続く。

もちろん、この世界でのルールに従って罪を償うことは必要だけど、この現実と呼ばれる世界が実は幻想だと認めて、それを赦すこと。それだけが、幻想に力を与えず、攻撃の世界から愛の世界へ移る道なんだ。

ただ、当事者にとって、それは計り知れないむずかしい道だろうとも思う。そして、何かしらの当事者でない人は、この世に生きていない。

レッスン24,25

私たちはいつも目標を立て頑張る。自分にとって「最善の利益」(l24)を求めて。それは仕事の成功だったりおカネだったり社会的名声だったり、受験や資格の合格だったり、恋愛だったり結婚だったり、子宝を授かることだったり…。

だけど、ACIMはそもそも「自分が誰であるかを知らないというのに、どうして自分の最善の利益が認識できるだろう」(l24)と言う。私たちが最善の利益だと思っていものは、私たちをこのゲンジツの世界につなぎとめるだけのものだと。

「私にとっては、あらゆるものの目的は、私が自分自身について抱いている幻想が実在のものだと証明することである」(l25)

つまり、私たちは、ただこの幻想のゲンジツの世を、お互いに支えあっているだけ、ということ?

「世界の真の目的」(l25)とは、この世のすべてを幻想だと認めて赦すこと、それによって実相世界へ戻るためのもの。そのための仕掛けだと認識して用いること。

それはエゴに支配され、幻想を現実と信じ込み、暗闇で手探りで歩いているかのような私たちにとっては非常にむずかしいことだ。自分だけじゃできないと認めて、「それを見つけられるよう神が私に与えてくれた導き手に喜んで」(l24)従うことが、今できる最善のことだと言う。

この「神が私に与えてくれた導き手」こそ、ホーリースピリットだ。勇気を出して、ホーリースピリットの内なる静かな声を聴き分け、それを生きること…なんだな。

気づくと、長々と解釈ともいえないワークブックの書き映しになってしまった。私には「復習」になっているけど、とてもダイアリーとは言えないなぁ。ACIMを学習していてわからない点を掘り下げたいとも思うけど、何がどうわからないのか文章化するところまでできていない。

ホーリースピリットは私に何を求めているのか。

私はちゃんと聴けているのか。

レッスン54-レッスン16~20の復習

2016-08-25

レッスン54をやりました。

主題概念は以下のとおり。

16)私に中庸な考えはない。

17)私は中庸なものを見ていない。

18)私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

19)私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

20)私はぜひとも真の見方で見たい。

私たちが考えることにはパワーがあり、それぞれの考えは偽りの世界を強めるか、真実=実相の世界を強めるか、そのどちらかで、中間はない。

そもそも、私たちは自分の考えを投影してこの世のゲンジツを見ているのだから、いわば色メガネを通して世界を見ているようなもので、見えているものはニュートラルではない。私たちがその色メガネを変えたならば、見えてくる世界も当然変化する。

そして、私たち神の子は神から分離した後、さらに個々の肉体に分裂しているけど、実際には、ひとつだ。だから、私の見方が変われば、それは伝播して他の人も変わるし、私の考えが変われば当然他の人も、周りも変わる。大きなひとつの世界だから、誰かだけが忘れられていたり、誰かが出しぬくなんてことはありえない世界なのだ。

そして、見方・考え方が変われば、当然見えてくる世界も変わる。それを体験すべく真の見方で、私は見たい。

上記5つの主題概念は、私が自分に対して平たく言うと、こんな感じか。

今は、ひとり暮らしのいわば“隠れ家”でワークをして学んでいる時は、「ACIMのごくごく基本的な考え方、見方は身についたかな~」と思っている。でも、ひとたび家族や友だちと話したり仕事関係の方とやりとりしたりするだけで、気づくと幻想世界ですったもんだしている。

これまで私がACIMについてやってきたことは、畳の上で水泳教本を片手に足をバタバタさせてみたり、顔をあげて息継ぎの練習をしてみたり…、といったことかもしれない。

そろそろ水着に着替えて、水に入らなきゃ(おそいけど)

もっと人と積極的に関わり、その中でACIM的に見る、話す、それが必要かなと思う。

私にとってのリオオリンピック

2016-08-25

二元的であり一元的であり

ACIMを主題にワークや日々のことを書いているけど、ころころと立ち位置や視点が変わってしまう(だから、読む人は書き手に合わせて立ち位置を変えることが求められてしまう)。

究極の教えは一元性であり「神はある(それ以外はない、すべて幻想もしくはメタファー)」、そして「神とは愛である」だと思うけど、それだとそこで話が終わってしまう。

そこで何かしら書こうと思うと、ある時は純粋な一元性的視点になり、またある時は日々の二元性的な視点になり、さらにそのごちゃまぜになったりしている。何より私自身もACIMの教えに魅せられてはいるけど、実践はとても難しく“修業中”の身で、揺れている。

ACIMの導きのエッセンスは、この世の二元性の幻想をリアルにすることなく、特に恐怖、不安や怒り、罪悪感、攻撃心、執着心、後悔などを赦す(手放す)ことだと言えるだろう。

ワークはそのための基礎知識と訓練だ。それによって、少しずつ薄皮が剥がれるように二元性から一元性へと見方が変わり、この世にありながら、“そもそも欠乏がなく満たされた世界”に生きることができる。結果としてこの上ない幸福感に満たされる…。

その地点―悟りともいうのかな?そこに到達できるのが、今世なのか来世なのか、来々世…いやもっともっと後になるのかはわからないけど。

オリンピックとACIM

リオオリンピックが終わり、「メダル獲得選手55名が凱旋会見」のニュースをやっていた。

正直、すごい!と思う。クラスで一番になるだけでもすごいのに、学年で一番を越え、エリアで一番を越え、日本で一番を越え…世界で競い合う、しかも四年に一度のこの時に照準を合わせ最高のパワーを発揮してメダルを獲得できる…なんて。

いったいどんなメンタルでどんな厳しい練習あってのことなんだろう?銀メダルや銅メダルのメダリストは喜ぶどころか悔しがったり、金ではなかったことを詫びたりしている。オリンピックというのはやはりすごい舞台なのだな~

一方、ACIM的見方で見れば、「勝つ」と「負け」が対局をなす勝負の世界は二元性の世界そのものだから、勝ちに執着せずこれをリアルにしないことが求められるのかな?オリンピックのメダルそのものが幻想と言われてしまうのではないだろうか。おそらく、この世の他の栄誉と同様、そこに真実を求めては「神だけがある」一元性の世界からは遠ざかるのだろう。

ACIMを学んだ「成果」かどうかわからないけど、私は前より勝敗にこだわれなくなった。それでも陸上男子400mリレーで、ケンブリッジ飛鳥選手がウサイン・ボルト選手に食らいつきながら日本人特有のチームプレーで銀メダルを勝ち取った時には、ワクワクしたけれど。

オリンピックは勝敗で見れば、二元性の世界だけど、その晴れ舞台の裏にさまざまなドラマがあって、その中にはACIM的観点から見たリアル、さまざまな愛や感謝もたくさん含まれているんだろう。

卓球の愛ちゃんこと、福原愛選手が銅メダルを取った後のインタビューで涙ながら「みんなに感謝しています」と話していたけど、その言葉こそ、そうした愛の表現なのかな?と思った。

オリンピック選手と自分を比較するのはなんだけど、私はといえば、ACIMを自分の人生のテーマとしたいと思いながらも、圧倒的に練習量や真摯さに欠ける。趣味ではないのだ、私の人生としたいのだ。

せっかく超一流のアスリート、オリンピック選手のパフォーマンスを見られたのだから、爪のアカを煎じて飲む気持ちを持とうではないか…と思った。それが、私にとってのリオオリンピックだ。

レッスン53ーレッスン11~15の復習

2016-08-22

節目を越えた!?

日本には今3つの台風が来ているらしい。ここでも台風9号の影響で、外は猛烈な雨と風だ。土砂崩れや川の氾濫などの災害がないといいけど。

明日は処暑。暑かった夏も一区切り、秋に向けてまた一歩季節が進む。

天皇陛下の生前退位への「お気持ち」表明、SMAPの解散報道、オリンピックのメダルラッシュとそれぞれの感想ドラマ… 、暑くて濃かった。後々、こうしたことがごちゃまぜになって「2016年 夏」を思い出すのかな~。

何かしら大きなターニングポイントというか節目を迎えた、いや、超えたのだ…と感じるのは、私だけだろうか。

それは時代なのか、価値観なのか。これまでに潜在的に育っていたものがまだまだ表面に出てくるのだろう。新しいうねりに合わないものは存在しえないから、私たちを含めそれぞれが変化を余儀なくされるだろう。

今年55歳になる私のところには、区の「節目検診」なるものの案内が来た。通常の検診に加え、いくつが追加項目があるらしい。お盆前その中のまず骨密度測定に行ってみたら、5年前より骨密度が20%も減少していた!

骨粗鬆症なんて骨太の私には関係ないと思っていたけど、大事なのは太さではなく密度だった、このまま減り続けたらまずい。帰京後、ぎっくり腰になってしまった。これは骨密度と関係あるのか?

世の中だけでなく私もやはり節目…を越えたのだ。来月は誕生日月。55歳を車でいうところの「車検時期」と捉えて、メインテナンスや生活習慣の改善をしていこうと思うにいたった。やがて来たる高齢期に向けての準備でもある。

お盆帰省は、お墓参りの他、親戚と会ったり母と日帰り温泉に行ったり、金沢在住の友人と会ったり…と、私にしては賑やかな時間だった。母がいる故郷がある、ということがありがたい。文字どおり 有難いこと。

レッスン53-レッスン11~15の復習

さて、帰京してから、レッスン53をやった。

11)私の無意味な考えが、私に意味のない世界を見せている。

12)私が動揺しているのは、私が無意味な世界を見ているからである。

13)無意味な世界は恐れを生み出す。

14)神は無意味な世界を創造しなかった。

15)私の考えは、私が作り出した形象である。

これらの主題概念は、お盆で母と故郷での思い出にガタついた私の心に刺さるものがあった。

特にレッスン15の一人称で語られた説明文が、心の奥を揺さぶった。

「私に見えているものは何でも、私の考えを反映している。」

「苦しみや損失や死の世界が見えているという事実が、自分の狂った考えの表象だけを見ていて、私の真の想念が私の見ているものに優しい光を投げかけるのを、私自身が妨げていることを示している。」

そして、

「神の道は確かである。私が作り出した形象が神よりも優位に立つことはない。そうなることは私の意志ではないからである。私の意志は神の意志であり、私は神の前にほかの神々を置くつもりはない。」

ワーク瞑想をしていて感じたのは、

「実相からの光を、もしかしたら私は拒んでいるのではないか?」ということだった。

その光によって、人生が大きく変わってしまうのを恐れているのではないか…

ふとそう思った。

レッスン52-レッスン6~10の復習

2016-08-16

親離れできていない中高年シングル(バツあり)

まだ富山にいる。明日帰京する。

故郷や家族というのは不思議なものでわずか数日でも、独特のにおいや雰囲気に引き戻される。

早朝4時半、母の罵声で目が覚める。

「この子は本当に頭が悪い子だ。なんで下まで下げるのか」

何のこと?

私は隣の和室に敷いたふとんの中でまどろんだまま状況を推し量る。どうも昨夜居間のルーバー式電動シャッターを下まで下したのが、母の意にそぐわなかったらしい。「電気代はかかるは、風は通さないわ、いいことない」

後で確かめたところ1、2㎝開けておくのが好み(?)らしい。ゴミの捨て方、スリッパのはき方、換気扇を付けるタイミング、戸の開け閉め、実家には母が独自に決めた細かいルールがあり、私はそれがなかなか覚えられず、四六時中叱られるはめになる。

「何細かい事言って」とはいい返したりもするが、たいがいは口答えをすることもなく「はぁ」と気の抜けた返事をする。母は80歳、娘の私はすでに50半ばだというのに、その関係は私が故郷にいた高校生までの頃と大きくは変わらない。

私が自分の主張を表さず「感情のシャッター」を下すのは物心ついた頃からの性分だ。どちらかというと頑固な方で決して納得しているのではない。だが、生まれて初めて出会った人間である、若かりし母が私にとって絶大な力を持っていたから、戦うことなく自分の気持ちを内に秘めたまま黙りこくり自衛するくせがついた。

結婚して母となって母と真っ向からぶつかって覇権を勝ち取った妹とはちがって、中高年シングルの私は実家では子どものまま。下手なことをして叱られるよりは、母の判断を仰ぎその指示を実行しておく。

18歳で首都圏の短大入学のため実家を出て、24歳の時、ここ富山でお婿さんをとる形で結婚した。でもうまくいかず翌年離婚した。

保守的な土地柄、世間体を重んじる母にとって、私の離婚は忸怩たる思いだったと思う。

あれは今から覚えば、母への遅い反抗や仕返しの意味も含まれていたかもしれない。

今、実家に跡継ぎはおらず、私は孫の顔を見せることもできなかった。「あんたの子がいたら、さぞかしかわいかったろうに」と漏らす老いた母に、心のなかで「ごめん」と言う。

母と二人でお墓参りをする。このお盆の頃は私の心がもっともざわつく季節である。

でも、ふと我に返ると、ACIMに先祖や子孫という概念あったっけ?、いや先祖や子孫どころか過去や未来も実相にはなかった、と思い出す。

レッスン52-レッスン6~10の復習

13日、14日、レッスン52をやった。レッスン52はレッスン6~10の復習。

6)私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。

7)私は過去だけを見ている。

8)私の心は過去の考えにとらわれている。

9)私は何も今あるがままに見ていない。

10)私の考えには何の意味もない。

レッスン6~10がこのような主題概念だったことをすっかり忘れていた。

そして、以下のようなそれぞれのワークの説明がいちいち心に刺さった。

6)私が動揺しているとき、その理由は常に、私が自分で作り上げた幻想を代替としてしまったからである。

7)過去を理由にすべての人やものを責めて、彼らを私の敵としている。

8)私は自分の心の中に現在が姿を現すのを防ぐために過去を見ているということを、思い出せますように。自分が神に対抗して時間を使おうとしているということを理解できますように。

9)見ることができるものは、今あるものだけである。選択肢は過去を見るか、現在を見るかではなく、見るか見ないかだけである。

10)私には私的な考えというものはない。それなのに、私が自覚しているのは私的な考えだけである。(中略)それらは存在していないのだから、何も意味していない。

私は、自分ひとりのテリトリーである東京の家でワークをしている時は、「うまく」ワークできてたと思っていた。けど、ただ主題概念の表面をさらっていただけだな、と思う。それはそれで、ACIMの考え方を浸透させる上では意味があったと思うけど、私の心は過去という赦すべき幻想でいっぱいだ。

そして強大だった母が老いることに不安も感じていて、未来という幻想にも怯えている。

ACIMの世界と、このゲンジツの世界、二層を行ったり来たりしている感覚がある。

レッスン51ーレッスン1~5の復習

2016-08-14

お墓参り&浄土宗

昨日、朝早くと夜、母とお墓参りに行ってきました。

夕方には市内にある仏舎利塔にもお参りに行ってきました。

仏舎利塔がある丘から市内を見渡すと遠くに海が見えます。

日本海に沈んでいく夕日は、故郷の古い記憶を呼び起こします。

今日は門徒になっているお寺のお坊さんがお経をあげに来られました。

母は、亡父が好きだった栗きんとんを出しながら、友達の骨董屋さんに騙されては偽物ばかり買わされていたという父のことを「本当に見る目のないバカな人だった…」とグチを言います。

「お母さんは、そのお父さんのおおらかな審美眼で妻に選ばれたんだよ」と私。和尚さんはニコニコ笑っておられました。

和尚さんが帰られた後、京都在住で法事に来られなかったいとこ夫妻も、線香をあげにきてくれました。社交的な性格の母は久しぶりの来客に嬉しそうで、一人しゃべりまくっていました。

私はACIMの学習者であり、家は浄土宗。

仏壇が大きく金ぴかなことでも知られる富山。家意識と信仰心が強く先祖供養の慣習もいろいろあります。

私は東京で一人暮らしをしている時は、自分の嗜好を持ち自分で考えているかのように思っているけど、実家に戻ってくると、一気に実家の、というか母の空気に吞まれてしまい、自分が思っていたことのリアリティが薄くなってしまいます。一日中話している母の話を聴いて答えるのに精一杯で、「脳ジャック」されてしまっているのかもしれません。ダイアリーもいつもに増してまとまらない…。

レッスン51

富山に来る前日、レッスン51をしました。

レッスン51~60までは「復習Ⅰ」で、これまでの50のレッスンを、1レッスンに5つずつ復習していく。

レッスン51は以下の5つ。

1)私の見ているものには何の意味もない。

2)私に見えているあらゆるものに、私にとってそれがもつすべての意味を与えたのは私自身である。

3)私に見えているどんなものも、私は理解していない。

4)これらの考えには何の意味もない。

5)私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。

おもしろいなと思ったのは、復習Ⅰの序文に復習全体に対する留意点があり、

「できれば静かな場所でひとりになれるときに目を閉じて演習を行うようにする。今のあなたの学びの段階では、そうした状況下に練習することが重視される。」と書かれている一方で、

「すでに穏やかで静まったかに見える状況よりも、動揺させられるような状況の中でこそ、こうした学びが必要とされる。あなたの学びの目的は、あなたがいつも静けさを携えていられるようにすること、そして苦悩や混乱を癒すことができるようにすることにある。それらを避けて、自分ひとりになれる避難所を求めていたのでは、この目的は達成されない」(ワークブック編P113)とあったこと。

最後の一文に笑ってしまった。

私のフリーランスでの仕事&一人暮らしの家は、まさに「自分ひとりになれる避難所」であり、私がワークブックを一巡させた約2年半はほぼそういう環境下だった気がするから。

もしかしたら、2巡目は「避難所」を出てもっと「動揺させられるような状況」を求めた方がよいのかもしれない。

そういう意味では、この家族の距離感が近くて良くも悪くも一人になれない実家というのは、もうワークのビギナーではない私にふさわしい場なのかもしれない、と思った。

レッスン50-私は神の愛によって支えられている。

2016-08-12

お盆帰省

夕方、故郷の富山県に帰省した。昨年北陸新幹線ができて、またちょっぴり東京から近くなった。

地鉄に乗り換えて最寄り駅へ。いつの間にか無人駅になった駅には、セミの鳴き声だけが響いてた。

自販機でドリンクを買って、木のベンチに腰かけると、ふっと、昔に戻った。

毎日この駅を使っていたのは高校生の頃だから、もう35年も前か…。

今は昔、今は昔。

故郷は苦手だ。

いろんな感情が染みついているから。感情が動いてしまう。

中でも罪悪感が強い。親の期待を裏切ってばかりだった。申し訳ない。

これは、これまで勉強してきたことから「幻想」で「神との分離」を再演している「映画のシリーズ」なのだと思っている。その一方で、リアルで登場人物も濃いから気づくとすっかり入り込んで、悔んだり郷愁を感じたりしている。

「赦す」べきことは、まだまだたくさんある。

レッスン50-私は神の愛によって支えられている

おととい、レッスン50をやった。

「私は神の愛によって支えられている」という、ストレートな主題。

私もようやく素直にそう思えるようになった。

私にはまだ支えとするものが他にたくさんある、、ただただ神の愛を頼みにできたら、

それくらい強くなれたら、、、。

 

帰省の友にお気に入りの本『アナスタシア』を持ってきた。

アナスタシアの神への信頼、純粋さが好きだ。

久しぶりにこの夏、このシリーズを読んでみたいと思っている。

テキストを読もう

2016-08-10

テキストを読み始めた

「立秋」を過ぎたけど、猛暑の勢いはまったく衰えていないかのよう。朝のウォーキング中、蝉の鳴き声がすごい。今まさに生きん、という感じ。

敬愛するゲイリー・R・レナードさんの第3弾の著書『愛は誰も忘れていない』にはためになる点がたくさんあるが、テキストの読み方について書かれているのも、その一つだ。

ACIMの学習者はたいがいワークブックばかり熱心にやりテキストはおろそかになっている、という(『神の使者』にそう書いてあった)。実際のところ私もそうで、ワークを進めるだけでキャパオーバーになりテキストまではなかなか手が回らない。一昨年26章あたりまではガーッと読み進めたことがあったが、最近は触ってもいなかった。

『愛は誰も忘れていない』には、アサンティッドマスター、アーテンのテキストの読み方についてのアドバイスがある。

「『テキスト』の最良の読み方は、ゆっくり読むことだ。1日に2頁くらい読むのがちょうどいい。急がないことだ。1日に2頁読めなくても、一年以内には『テキスト』を全部読み終えることができるし、ときどき何日か休んだって問題ないくらいだよ。そうするとよく理解できて「ワークブック」のような実用性を身につけられる」(P254)

この言葉になるほど…と思った私は、日曜からテキスト読みを再開した。まず、まえがきの「教義」のところを(マーカーだと裏映りするから)色鉛筆で線を引きながら読みだした。すぐに、ここも、そこもと線を引きまくり、ラインだらけになった。

素晴らしい!まえがきの「教義」にはACIMのエッセンスが書かれていたんだ。ここだけくりかえし、くりかえし読んでもいいくらいだ、と思った。

さて、本文に入ると…う~、やはり抽象的で易しくはない。ACIMの書かれ方の特徴として、受講者がすでに「知っているもの」として完成形で提示されているので、完全に理解してから進もうとすると、すぐに詰まってしまう。感覚的になんとなくはわかるけど、これでいいのか…

大畑学さんの『A Course in Miracles Text精読

そのうちに「どうせ時間をかけて読むつもりなら、原文の英語で読んではどうか」と思った。で、英語でチャレンジしてみることにした…といっても強い味方付きで…(私は短大の英語科卒だけど、英語力は高くない(・・;))

英語の精読版というのが、電子書籍で出ているのだ。全部はまだ発刊されておらず、章ごとに少しずつ更新されている。私はこの大畑さんのACIM精読版を読みたくてipadを買ったのだった(そういえば、最近ipadもまったく触っていなかった)。

前にこの英語精読版でテキストに取りくんだ時は、やっぱりワーク中心になり(精読版にはワーク編もあり)、第2章でとぎれてしまっていた。

しかし、この著者の大畑学さんという方はものすごい人だな~。

1975年に発刊されたアメリカ版のテキストを、誰に頼まれたわけでもなく自ら、2008年1月からブログ上で一文ずつ訳した上で解釈を加えるということをしてきたらしい。それを編集してまとめたのが、Amazonで売っているKindle版ということだ。

ブログの自己紹介で見たところ、盛岡市に住んでおられる数学の先生のようだ。「4年8ヶ月、1256回の投稿でした。」とは、また頭が下がる。

ACIMテキストは表現も抽象的でむずかしいし、日本語訳で読んでもぴんとこないことも。それがこの大畑学さんの書籍で読むとわかるのだ。「しかも仏教でいうところの…」といった解釈が付いているのもありがたい。

大畑学さんは、ACIMの解釈という点においても、英語の読解という点においても、とにもかくにも素晴らしい。日本にこんな方がおられたのか、と敬服していたことも、今回思い出した。

今回はゆ~っくりでいいから、テキスト読みも少しずつ長~く進めていきたい。…と、2016年立秋に思う。。

レッスン49-神の声は、一日中、私に語りかける。

2016-08-08

レッスン49―神の声は、一日中、私に語りかける。

私たちの心の奥底には、誰しも神とのつながりをもった聖なる部分があり、神とのチャネルになっている。そこに宿っているホーリースピリット(昨日読んだ本で『聖霊』というとキリスト教的な表現だから『ホーリースピリット』の方が適切…というような記述があったから、私も『ホーリースピリット』と書こう)は神の使者であり、自分が気づこうが気づくまいが、常に私たちに語りかけている。

その声に意識的に耳を傾けようというのが、レッスン49だ。ふだん、私たちはエゴの大きな声に遮られてちゃんとホーリースピリットの声がキャッチできているとは言いがたい。

「この新商品を買えば、より幸せになれますよ」「こんなスイーツが流行りだって」「やっぱりダイエットしなきゃ」「こうすればモテる」「この夏ぜったいこのスポットに行かなきゃ」…世間は刺激を与えて煽ろうとする情報に溢れている。

もういい歳になったから、こうしたものに振り回されることはなくなったけど、今度は「気をつけろ、これが重病のサインだ」「○○を食べてお肌の若返り」といった健康、アンチエイジング系の情報にくぎ付けになったりしている。

こうしたエゴの声を超えて、心の中の真理に耳を傾ける。

「あなたに愛を込めて呼びかける神の声を聞こうとしてみなさい。」「深い静寂の中で耳を傾けよう。じっと静まり、心を聞きなさい。」「耳障りな叫びや病んだ想像をすべて通り越して進みなさい。」

「あなたはこの世界に生きているのではない。私たちはあなたの真の故郷に戻ろうとしている。」

「感謝の表現が足りない」というメッセージを受け取る!?

こうした声を聞くワークでは、自分がちゃんと聞けているのかそうでないのか、よくわからない。未だによくわかっていない。声が聞けるといっても、耳元でささやきが聞こえるというわけではないだろうから。

ただ瞑想ワークをやった後に、ふと感じることや思うことがあって、それがメッセージなのかな、と思っている。

昨日このワークをやった際(初回)には、

「私には感謝の表現が足りないんだ」と感じた。

ホーリースピリットの視点で言えば「もっともっと感謝のきもちを表現しなさい」ということになるのだろうか。

神とは愛であり、その愛はこの世で使われる「愛」より「感謝」の感じに近いのでは、と思っている。日々感謝の気持ちで満たされていることは、ホーリースピリットの視点で見ることそのものと言ってもいいだろう。

感謝の気持ちが大事なのはわかっているつもりだったけど、「(あなたは)思い出した時にスポット的に感謝するだけ、しかもあまり表現していない。感謝の流れがない」と(伝えられているように)感じた。

「とかく不平不満や欠けていて不安な部分に意識が行きがちだけど、そうではなく、常に今あるもの、与えれているものに感謝し、それを表わす。それを表し続けること」と。

私はいろいろ不安に思っているけど、それは幻のゲンジツを判断することでそれをリアルにしてしまっているだけ。そうではなく神の世界に溢れるものに目を向けるべきなんだ。

2回目の瞑想ワークでは、

「何かに対して不安に思ったら(たいがい思っている)」、それを逆転して「今あるものに感謝して、やるべき行動を進めること」と感じた。さらに「指針はすでに与えられている」と。

そうなのかな…。そうかもしれない。

ふと思い出したが、お仕事をいただいている会社からの暑中見舞い、返事も出さないうちに立秋を過ぎた。感謝を表すどころか不義理をしているのが私なのだ。「残暑見舞い」を出そう、今から。

しかし、「暦の上では秋」なんて感じじゃない。温暖化?で、昔の暦と合わなくなってきているのかな?今週はとくに猛暑注意らしい。

できたら、短くてもいいから、毎日ダイアリーを更新したい。毎日は無理でも週4、5回は更新したい、と思う。

 

レッスン48-恐れるべきものは何もない。

2016-08-05

レッスン48-恐れるべきものは何もない(There is nothing to fear. )

レッスン48は、この「恐れるべきものは何もない。」という主題概念を一日の中でできる限りたびたび繰り返す。それだけ。

そして、特に重要なことは、「何かがあなたの心の平安を乱すならば、ただちにこの概念を使うということである。」とある。

「真理においては、恐れるべきものは何もない。」「しかし、幻想が真実であってほしいと思っている者にとっては、これを認識することは非常に難しい。」

確かに…。

私が一回めのワークで、このレッスン48をやったのはいつだったかな?とノートを見てみたら、2013年8月21日だった。3年前の夏だったんだ。

「恐れは幻想だ」と頭の中で知っていても恐れは小さくはならない。ワークブックを実践することで少しずつ訓練されていく。自分自身少しは変わっているのかな?と改めて思い返してみたら、心の中の「恐れ」は少しだけど小さくなっている気がした。

というのは、一昨年から歯医者に通い始めることができたから。そして今年の1月にようやく治療を終えることができたから。

怖~かった歯医者に行けた!

歯医者さんが好きという人はほとんどいないと思うけど、私は“前世”なのか幼い頃のトラウマなのか、歯医者さんがものすごく苦手で、とくに神経的なピッとした痛みが「今来るか、来るか…」と思う恐怖、そのことに精神的に耐えられなくなってしまう。ようするにパニックなのか…。

2003年、新橋の歯医者さんで何の説明もなくペンチみたいな道具で歯をもぎ取られ(女医さんだった、たぶん、もうだめな歯を抜糸の前に上部だけ取るつもりだったか)、そこから途中で逃げ出して(次の予約をすっぽかした)から、まともに歯医者さんにかかっていない。

10年間、毎年「新年の目標」に「歯を治す」と挙げつつも、どうにも予約ができなかったのだ。

それが、虫歯の痛みがでて、意を決して歯医者さんをネットで探して行ったのが、2014年の8月。長年の放置の上ようやく門を叩いた私に、院長先生は厳かな声で「(嫌だから怖いからと先延ばしにする)あなたの考え方では、何本歯があっても足りないよ。今日を境に考え方そのものを変えよう」と言われた。私は、そうしよう、と思った。

それから1年半、抜糸から始まり、昔の治療の詰め物をとって治療、新しい人工歯を作って詰め、助けることができなかった上の奥歯はインプラントの手術をして…という私にとっては長い道のりを終えることができた。

もちろん、とっても怖かった。耳元でキーンという歯科独特の金属音を聞いただけで心臓がバクバクしたが、「これは幻想だ、幻想だ、恐れるべきものは何もない、幻想だ」と言って耐えた…、が、この“呪文”に即効性はなく、やっぱり怖くて、「アーテン、助けて」(『神の使者』内のアサンディッドマスター(聖霊)のうち男性の方の名前)を唱えながら、こぶしをにぎって固まっていた。

恐れが小さくなるとゲンジツも変わる

現場の恐怖感は大きかったけど、その大元の恐れは少し小さくなっていたからこそ、最後まで通い切れたように思う。…というより、恐れが小さくなったからこそ、自分の幻想の中で「虫歯の痛み」というきっかけを作り、自分を歯科医に向かわせたような気がしている。

長かった一年半だけど、歯が治療され口の中が健康なことは、なんて気持ちがいいことなんだろう。それだけで自分に自信がついた(正確には、自信のなさが小さくなった)。

ACIMは、この世は現実ではない、幻影を映し出した「結果」の世界だというが、ACIMのワークをやることで「原因」の世界が変わる。その結果、この幻想の世(私はゲンジツと呼んでいる)も変わるのだ。少しずつ「生きやすく」なってきている気がする。

私は、人一倍恐れが強く、またエゴへの執着も強い。でも、これからも少しずつゆっくりやっていこうと、ふりかえって思う。

←古い記事を見る