レッスン45ー神は心であり、その心とともに私は思考する

2016-07-29

レッスン45-God is the Mind with which I think.

昨日、一昨日はレッスン45をやりました。

このワークは前の「神は光であり、その光の中で、私は見る。」の変形バージョンみたい。

私たちが見ているものと心眼(ヴィジョン)は異なるのと同様に、私たちの真の思い・考えは私たちが「自分で考えていると思っているもの」とは異なるという。真の思いとは私たちの源である神の心とともに考える思いであり、私たちそれぞれの心の中にある。

今日のワークは、そこ、私たちの心の奥にある神の心に到達するためのものだ。到達…、が無理でも、まず、そこ、それがあるということを意識する。

私たちが「見ている」「見て感じている、思っている。考えている」と思っていることは、実はすべて、実在しているものではないと、イエスはACIMの中で言っている。

変化するものは実在するものではない。変化しない神だけが実在する。移り変わる社会は、いくらその中の登場人物である私たちにとってリアルであろうとも実は幻影である。

そして私たちは忘れてしまっているけれど、私たちの中には神のかけらが眠っている。神の心は私たちの真の心だ。ワークブックには「この種の練習に必要なことは、天国において父なる神と子なる神へと捧げられた祭壇に近づくかのような気持ちで練習に臨むことである。なぜなら、あなたが到達しようとしているところは、そのような場所だからである」とある。

心ここにあらず

私は、一日3回の瞑想ワークの中で、朝と夜は比較的落ち着いてできるが、昼は、「○時までに出かけなきゃ、その前に○○しなきゃ」とか雑念がいっぱいでたいして忙しくはないくせに常に「あおられ感」がある。これは性格なのかもしれない。あるいは住まいの場所なのか(比較的都心に近く交通量の多い道沿いに住んでいるため、よく言えば賑やかで活気があるんだけど。落ち着かない)

昨日も昼「心ここにあらず」の状態だったけど、このワークをしながら、「(神の)心がここにある」「心がここにある」と心の中で唱えて心の奥に向かったら、少しずつ落ち着いてきた。

平生私は「心ここにあらず」で生きているんだな~。

いつも何かに「追われている」気がしている。具体的に追っているものがなくてもだ。心で「思う」というより、ただ「条件反応」している感じ。歳をとって自分の体内リズムが遅くなっているからか、日々のルーティーンをこなすだけでもいっぱいいっぱいになっている。

でも、これもまたACIMで言われるように「原因と結果」が逆で、慌ただしいから⇒心ここにあらず、なのではなくて、心ここにあらずだから⇒慌ただしい状況を作り出している、ということなのかもしれない。心にスペースがないんだ。なぜないかというと、不安、心配、後悔、恐れ、罪悪感などのガラクタでいっぱいだから。

ガラクタでいっぱいで、心の奥の奥に光っている真の心の在りかがわからなくなっているのだ。

だから、せめて一日3回の瞑想ワークの時くらいは、心のガラクタをやりすごして揺らぎないものを確認したい。

あ、日曜に色彩ワークショップを主催した友人からの「ポケモンGO始めたよ。やろうよ」とのメールを見つけて、ようやくだけどダウンロードして始めた。まだ家の中で1匹しか捕まえてないけど。

アハハッ、こういうことする余裕は別物か…(^_^;)

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