レッスン41-私がどこへ行こうとも、神が私とともにいく。

2016-07-21

今朝、先週12日に82歳で亡くなられた大橋巨泉さんのニュースをやっていた。7日に83歳で旅立たれた永六輔さんといい大橋巨泉さんといい、私が社会に出た20代の頃、もっとも輝いていた「成功したえらい大人」たちが、年老いて病に伏し、ついに亡くなったと知るのは、ひどく寂しい。去年84歳で旅立った父のことがよぎるのもある。希望が先導していた昭和の時代がまた遠くなったなぁとの思いもある。

どんなに社会的に「成功」して「勝ち組」になったとしても、人間、最晩年は、オセロゲームで最後に両端を取られてワーッと裏返しにされるように、衰え、嘆き、怯え、人生に「負けてしまう」ように見える。

そう感じるのは、私が未だ「分離している者」だからだろう。私は二元論的な見方で人生を見ていて、神と離れ、身体や死を実在するものと見ているからこそ、老いや死が忌むべきもので敗北のように見えてしまうんだろう。

「私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。」

この今日の主題概念は、「最終的には、分離している者たちのだれもが味わう孤独感や見捨てられた感覚を完全に克服する」とある。

「分離している者たちは、『この世の悪』だと自分で信じているものに対して多くの『解決策』を発案してきた。けれども、一つだけ彼らがしていないことが、その問題の実在性を問うことである。しかし、問題が実在のものではないのだから、その結果が解決されるということはありえない」

とてもシンプルに非二元論を語っている、この部分が好きだ。

私たちの奥深くには、「完璧なものの一切がある」といい、その「聖性の源」が備わっているという。

そして、今日のワークは、その源に達する瞑想である。自分の「内へ内へ向かう感じをつかみようにする」、「何よりもまず、世界から、そして世界の愚かな考えのすべてから離れて、内側へ、より深いところへ沈んでいくように試みる」のだという。

ワークは朝一度のみ。わずか数分の瞑想ワークだったけど、自分の深い深いところに、湧き出る泉があるかのような感覚だった。

私が、人生の大先輩の死を悼むのは、50代も半ばになった今、若かった頃より死が身近に感じられるようになったためでもある。自分の番に近づきつつある、というー。

そして、私は、正直、死が怖い。

この死への恐怖もまた、分離した者の感じ方である。

今日のワークは、「あなたがどこへ行こうとも、神があなたとともに行くということを思い出すなら、あなたは本当に、恐れの感覚を笑い飛ばすこともできるのである」と締められている。

私が、憧れているのが、この「恐れの感覚を笑い飛ばす」という境地だ。私は実は、人一倍体への執着が強い。エゴも強いんだろう。ACIMを字面で学んでいるだけでは、物の見方はさほど変わっていないのかもしれない。

できることなら、歳を重ね、死を迎えるときに、最高に幸福感を感じたい。これが私のひそかな野望だ。残りの人生の時間でACIMを学び続け、少しずつでも聖霊の見方に近づくことができるだろうか。