レッスン21、22

2016-06-13

ブログなかなか毎日は書けないな~

でも1日休むと次の日、また少し「敷居」が高くなっている気も。ほんの1行でもいいから、毎日ブログにアクセスした方がいいのかもしれない。

Wordpressの使い方も勉強したいのだけど、手がつけられていない。

ブログを書いておもしろいのは、これを書こうとか、こういう構成にしようとか考えることなく書き始めて、気づくと何かしら書いていることだ。その成り行きみたいなものが新鮮だ。

もっと写真とかも入れたりしたいんだけど、今は写真を入れてもトップページでは消えてしまう。どう設定したらいいんだろうか。

レッスン21-私はぜひとも別な見方でものごとを見たい

昨日は、レッスン21をやった。

これは、前ワーク「私はぜひとも真に見たい」の続きである。

自分の心に怒りの感情を見つけ出し、それについて、

私はぜひとも、別の見方で(人の名前や具体的な状況)を見たい。

と言う。激しい怒りもささやかないらだちも区別しないで対象とする。毎回約1分のワークを5回。

善意の友人のちょっとしたおせっかいな行動に対するいら立ちや、先日のセミナーで受けた「ダメだし」に対するいらだち、昔好きだった人に対して未だ思いだす腹立たしさ、いい歳をして安定収入を稼げていない自分への情けなさなど、5回もワークするといろいろ出てきた。

心の中を探索していくと、終いには、人間がいずれは死ぬ存在であること、その死の前には(たいがい)病いがあることにも、怒りというか恐怖や理不尽さを感じているのだということがわかった。

死も病いもACIMの視点から見たら幻想であり実在しないことだけど、今の私はそれに怯え腹立たしさまで感じている。

ひと昔前、「勝ち組」「負け組」なんて言葉があって、「勝ち組」はうらやましがられ持てはやされていた頃があった。だけど、私に言わせれば、どんなに「勝ち組」であっても、いずれはみんな老いて病んで苦しみいずれは死んでしまうじゃないか。オセロで買っていても最後に両端を取られて一気に逆転されるみたいに、結局みんな「負ける」んじゃないか。こう見えてしまっていた。

これはどう考えてもACIM的な見方じゃないし、学んでいるつもりで、教えが身についてないということだ。私は、とくに老い、病、死が怖いんだろうか。怖いと思うから、幻であるそれらをリアルにしてしまっている気がする。

レッスン22-私が見ているのは、復習の一形態である

私たちは、自分の怒りをこの世に投影するがために、「今にも自分に襲いかかろうとしている復習を目にする」という。そしてその「復讐」を前に「自分の攻撃が正当防衛として知覚される」のだと言う。

つまり、私たちが今見ているこの世のゲンジツは、復讐に満ちており、その復讐には怒りを持って攻撃するのが正しいかのように見える。

でもこれは大きなまちがいであり、「残酷な空想」である。

今日のワークは、その「残酷な空想」から目を覚ますための訓練の第一歩だ。

周りを見渡しながら、

私は朽ちてゆくものしか見ていない。

私は永続するものは何一つ見ていない。

私が見ているものは実在しない。

私が見ているのは、復讐の一形態である。

と言う。

そして練習の最後には、

これが、私が本当に見たい世界だろうか?

と自問する。

この短いワークを5回。

「私が見ているものは実在しない。私が見ているのは、復讐の一形態である」「これが、私が本当に見たい世界だろうか?」

これが、私が本当に見たい世界だろうか。これが、本当に見たい世界だろうか。…このフレーズが心の中でリフレインする。

ちがう。これは私が本当に見たい世界ではない。もっと別の世界があるはずだ。

そう思っているからこそワークをしているんだ。でもまだまだエゴの世界にいる。なんか心もとなくて、こわい。